よくわからない焦り。
よくわからない、呼ばれている感覚。
でもこれだけはわかる。オレは多分、もう。
「せーんせ」
「公子殿…何度も言っているが玄関から入ってこないのか?」
鍵のかかっていない窓を勝手に開け放ち、入り込む姿に驚く様子は微塵も見せずに、ため息交じりにそう問われる。
「でもそのために鍵かけてないんだろ?」
窓を締め、イジワルく問い返すと、またため息を軽くついて視線を本に戻した。その口元が綻んでるのは見逃さない。
そしてその本の装丁が普段と違い華やかに彩られている事に気付いた。
「何読んでんの?」
「あぁ…今度詩歌大会なるものに呼ばれたんだ。モンドとの合同と言われたからそちらの詩について学んでおこうと思ってな」
先生の両肩に手を置いて覗き込んだが、何がいいのかさっぱりだ。
「あれ、先生風神のことニガテじゃなかったっけ?」
「苦手ではない。嫌いなんだ」
「あっははそっかそっか。なんでそんな誘いにのったのさ」
今度は目の前にある来客用の椅子に座る。…落ち着かないんだ。
「堂主からの誘いなんだ。上司だからな、断るわけにもいかないだろう」
今度のため息は負の感情。先生はわかりやすい。
「ねぇ、せんせ」
…もっと、見ていたいんだその姿を。
「本読んでていいからさ。見てていい?」
「何も面白くないぞ?」
「ん、いいの」
「そうか」
そう言って、ちゃら、とかけていたメガネを外す
「え、なんで取るの?」
「邪魔になるだろう?」
「なっ人の事何だと思ってんの?襲わないよ」
「ははっそうか」
もう、と膨れてみせるが、そんなやり取りがとても楽しくて。…楽しくて。
しばらく、先生がページを捲る音と、時計の音だけが聞こえる。
…あと自分の心臓の音。
「あのね、先生」
「なんだ?」
「あっそのまま聞いて」
顔をあげないで。揺らぎそうだ。
「オレ、さ。ちょっとフォンテーヌに行ってくるんだ。…任務とは関係ないんだけど…」
「そうか」
「それで、その…『終わる』のが、いつになるかわかんないんだよね」
「…そうか」
少し遅れた返事。わかってる。オレだって本当は。
「ヌヴィレット殿に会ったらよろしく伝えておいてくれ」
「ぬび…誰?」
「最高審判官だ」
「会いたくないな…」
「会えそうだがな」
「うるさいな」
そんなやり取りをしながら。
チャリ、と自分の神の目を触る。
…ウソはつきたくない。
オレは家族以外にウソをついたことがない。
だってウソついて見繕って寄ってきたヤツなんてなんの意味がある?ウソをつくのは任務の時だけ。どうせ血に塗れる関係。
先生との出会いだってそう。ファデュイであることを隠さずに接してた。それを知ってても先生は相手してくれた。
『勝手に騙されたオレが悪いさ、あーそうだよでもオレの企み知ってて、言ってくれても良かったんじゃねぇの』
自分は神で、亡骸まで自作して。
騙されて、ここまでイラついたことなんて始めてで、自分がこんなにもこの人を信用してしまっていた事にイラついて。
『…聞かれなかったからな』
の一言で済まされた。…後々、他の近しい知人にですらはっきりとは言わなかったと知って。誰にでもそうなんだとわかった。
…なんだ、騙されたんじゃなかったのか。そう思った時ふっと軽くなって、バカみたいに笑えてきて。
あぁオレはこの人が気になるんだ。知っていきたいんだ。って自覚した。
こんなありのままのオレを、受け入れてくれるこの人が、どんどん大切な人になっていった。…甘えていた。
…いつか来る、こんな日が来なければいいと思ってた。
口の中が血の味がする。知らずに唇を噛んでいたようだ。
何て言う?『さようなら』?『バイバイ』?そんな言葉使いたくない。
じゃあどうする?『またね』?『また来るよ』?…それはウソになる。…ウソになるんだ、きっと。なら使いたくない。
「公子殿?」
頭の上から降るその声にはっとする。これ以上長く居られない。
「あっえと…もう行くわ。これから向かうからさ」
顔も見ずに別れを告げる?出来るわけ無い。でも、そうしないといけない。
「次はいつ会える?」
やめてよ。ウソはつきたくないんだ。
「…わかんない」
これで許して。頼むから。
『もう会えないと思うから別れを告げに来ました』なんて、ウソでも言いたくないのにウソじゃないんだ。
何も言わないと心に決めて、窓辺に足をかけ力を入れる。
「アヤックス」
ビクリと反応し、身体を止めてしまった。
「っ何…勝手に人の事知らないでくれる?」
振り向いた、振り向いてしまったオレがバカだった。
「神だからな」
「…そんなんじゃいつまでも凡人になれないってば」
なんだよその顔。わかってるような顔、するな。
「3ヶ月後、必ずここにまた来い」
…なにそれ?なんで?わかんないって言ったじゃん。何聞いてたの?
なんで…そんな辛そうな顔するんだ。何も言ってないだろ。やめてくれ。やめてくれよ頼むから。
「わか、ないって…言って…」
「駄目だ」
窓枠が壊れそうなほど握っていた手から力が抜ける。
ムリだ。先生。ごめん。
もう見ない。見れない。大好きな人。
「…次、に会ったらさ…めちゃくちゃに抱かせてね…?」
「あぁ、喜んでこの身を捧げよう」
大好き、だった人。
「…っ楽しみにしてるよ。じゃあ…またね」
星の海、駆け抜ける。
初めて他人についた嘘は、とても辛くて、少ししょっぱくて
懐かしい冬の風を感じた。