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    kubodayohaha

    @kubodayohaha

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    kubodayohaha

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    全年齢ネロ晶♀
    巡る季節の中で、積み重なるものと近付いてくることに気づいていくネロのお話。
    付き合ってないネロ晶♀・切なめブレンド

    ##ネロ晶♀

    春を呪う 背後から呼びかけると、その人物は目を見開いて振り返った。
    「ネロ」
    「……災難だったな」
     恐らく数分前には壁の一部だった砂を、晶の頭から払い退ける。
     爆風に含まれていたであろうサラサラとしたそれは、恐らく晶が気が付かぬうちに被ってしまったのだろう。
     戸惑いながらも礼を述べた晶は、苦笑しながら頬を掻いた。
    「怪我しなくてラッキーだったなって考えようと思います」
    「すげえプラス思考」
    「スノウとホワイトに実際言われたので」
     場所を考えず殺し合いをしていた北の魔法使いは、夜の空に消えた。
     時折何かが壊れたような音が響くのは、十中八九彼奴等の仕業だろう。
    「今日、ここで寝んの?」
     不用意に踏み込みたくはない。
     けれど聞かずにはいられなかった。
     友達になってはくれないかと、不器用に差し出された右手を思い返せば、無下には出来ない。
     夜の闇に包まれる中、洋燈の光だけを頼りに座る寂しそうな背中を、放ってはおけない。
     晶の肩から毛布がずり落ちる。半壊した部屋から此処まで持ってきたのだろう。
     がらんどうの食堂を、晶はネロと共に見回し、やがて息を吐いた。
    「他に寝るところがないので、やむ無しと」
    「……あんた、潔いな」
    「まあ、寝る場所がないので……物理的な意味で」
     躊躇なく破壊された自身の部屋を思い浮かべたのか、晶は遠い目をする。
    「談話室は? ソファもあるし、此処よりまだマシだろ」
     春の夜は穏やかで、凍えるような寒さとは程遠い。
     しかし、だからといってここが快適か否かは、また別の話だ。
    「満点の星空が見えるような仕様になってます」
     悟ったような晶の語り口調に、ネロは全てを察した。
    「悪い」
    「ネロが謝ることじゃないです、すみません……私も止められれば良かったんですけど」
    「いや、その気持ちだけで十分だろ」
     半壊した魔法舎は、朝まで修復されない。オズの手に力が戻るまで、晶の部屋は吹き晒しだ。
     居場所を追いやられ、此処まで辿り着いたのだろう。
     ネロは仕方ないといったように笑い、腕をまくった。
    「……なんか口に入れられるもの、作る?」
    「いいんですか?」
     ぱっと顔を綻ばせるその態度は分かりやすく、好ましい。
     予想通りの反応が返ってきたことに、ネロは苦笑した。
    「いいよ。目、冴えちまっただろ」
    「あはは、そうなんですよ」
     お陰で捗ります、と晶はテーブルの上に置いていた賢者の書を開いた。
     洋紙にペンを走らせる、その手は時折悩みつつも、丁寧に文字を記していく。晶がいなくなったときを考えて作られる書は、まだ頁が数枚使われただけだ。
     ——皆さんが心地良く過ごせるように、と言っていたか。
     何とまあ生真面目なもんだと、ネロは晶を一瞥した後、夜食を作るためキッチンへと足を進めた。


    「賢者さん」
     机に突っ伏していた人物は、まさか誰かに呼ばれるとは思っていなかったのか、慌てて椅子から立ち上がった。
    「ネ、ネロ」
    「悪い。部屋の扉、開いてたからさ」
    「ああ、すみません……」
     任務でへろへろになった身体に鞭を打ちつつ自室まで帰って来たのだろう、その表情からは疲労が見える。
     しかしそれを隠すように、晶は笑みを見せた。
    「何かありましたか?」
     ネロを見据えるその瞳は誠実だ。
     対峙する相手のことを、出来うる限り解ろうとする姿勢が見える。
    「外、暑かっただろうなと思って」
     用意したアイスティーを入れたコップを持ち上げて見せれば、晶は顔を綻ばせた。
     飲んでもいいのかと許可を求める瞳が、一心に見つめてくるのが微笑ましい。
     頷けば、晶はネロへと近寄り、嬉しそうにアイスティーを受け取った。
    「冷たくて美味しいです!」
     からん、と、氷がコップの中で擦れ合い、音を奏でる。茹だるような夏に、涼を落としていく音だ。
    「なら良かったよ」
    「ありがとうございます、ネロ、本当に生き返ります、五臓六腑に沁み渡る美味しさ」
     ふは、とネロは思わず吹き出した。前々から思っていたが、目の前の人物は少々、大袈裟な言い回しをするきらいがある。
    「あんた、いいリアクションするよな」
    「それ、前にシノにも言われました」
    「はは、ああ、あんときなあ。森に行ったときの」
     シャーウッドの森を案内してやると、シノに連れられた日の記憶が蘇る。驚かせられたときの晶は、悪戯を仕掛けた側からすれば非常に小気味いい反応をするのだ。
     確か、ブランシェット城でシノと共に驚かせた際も、大声で悲鳴を上げていた。それはそれは見事な悲鳴だった。
    「まあ、そこはさ、あんたの美徳だから」
    「うう、鋼のメンタルが欲しいです……」
    「や、それはもう、持ってると思うけど」
     北の魔法使いに対峙する晶の姿を脳裏に思い浮かべ、ネロは苦笑した。あれを鋼のメンタルと言わずして、何と言おうか。
     徐々にではあるが、あのミスラが晶の言うことを聞き始めている。北の国で出会えば死を意味する男を懐柔することが出来る人間が、果たして今までこの地上に存在しただろうか。いや、ネロの記憶の許す限り、そのような噂は一度たりとも耳にしたことがない。
    「本当にありがとうございます、ネロ。疲れがばっちり取れました」
     空になったコップを持つ晶に、ネロは笑って片手を差し出した。
     片付けるという意味を込めたそれに、晶はきょとんとして、やがてネロの言いたいことが分かったのか、遠慮がちに手にしていたコップを渡してきた。
     発露した水が指に触れる。
     ふと、机の上にある物が目についた。
    「……あんた、真面目だな」
    「え?」
    「それ、今でも書いてんのか」
     ネロが指差した先を理解して、晶は笑みを浮かべた。
     快活なそれではないが、優しくて柔らかい笑みだ。
    「はい。皆さんが協力してくれるおかげです」
     手に取られた書は、春に見かけた時よりも随分と頁が進んでいた。
     晶は栞を外して、書き溜めた頁を指で摘んでみせる。
    「図書室にある膨大な量の賢者の書にはまだまだ及ばないんですけど。でも、大事に書いてます」
     摘まれた頁の厚さは彼女の真摯さの表れだ。
     記されたものの中に、自分もいるというのが、何とも言えずこそばゆい。
    「ネロ」
     鳶色の瞳が、優しげな眼差しでネロを見つめてくる。
    「もし嫌じゃなければ、これからも私に、ネロのことを教えてくださいね」
    「……賢者の書に残す必要があるような、そんな大層なもん、俺は何にもないよ」
    「大層なものじゃなくていいんです」
     ゆるゆると晶が頭を振れば、長い髪が揺れた。
     自分とは違う、女らしい柔らかな髪だと思った。
    「些細なことで全然、良いんです。ネロは何が好きで、何が苦手なのか、とか」
     力任せに掴めば欠けてしまいそうな心の端を、この人物は丁寧に掬おうとする。
    「好きなお酒の銘柄とかでも良いですよ」
    「酒」
    「はい。ネロ、たまに一人酒してるので」
     そういえば、中庭で飲んでいるところを、晶には何度か見られている。
     ネロは諦めたように苦笑して、肩を竦めた。
    「……書いとけば買ってくれんのかな」
    「あはは、そうですね。書かないより書いていた方が、そういうラッキーも起こるかもしれません」
     部屋から退くつもりだった身体が、自然と机に向かっていく。
     そんなネロに気付いた晶は、椅子に座り直してペンを握った。
     後ろから覗き込む形で、ネロは晶の手元を見下ろす。
    「値段、高いやつから上に書いといて」
    「ふふ、はい、わかりました」
     

     元より、目敏い部分があるとネロは自覚している。
     出店に並べられた商品の中から、掘り出し物を見つけるのは得意だ。安値で売られている物を買い取り、正しい価値で売れば少しの金になる。
     秋の市場は一段と彩り豊かだ。実った物が運び込まれ、人から人へ渡っていく。
     買い出しの道すがら、ネロはふと足を止めた。
    「おいネロ、急に止まるな」
    「いや、悪い……」
     背中に投げかけられた文句を右から左へと流す。
     ちょうど真横を通り過ぎようとしていた出店の品が、目に留まってしまった。
    「万年筆だね。すごい、細かい細工」
    「ヒース、ブランシェット城にある物の細工の方が細かくてすごいんだぞ」
    「今それ関係ないだろ……」
    「大いにある。おまえはすごいものをたくさん持ってる。物だけじゃない。美貌も才覚も、何もかもだ」
    「だから、今関係ないだろって!」
     もうすっかり聞き慣れた二人の口喧嘩を余所に、ネロは食い入るように一本の万年筆を見つめた。
     控えめな装飾が施されている。けれど上品だ。女性が手にするのに丁度いい大きさなのも有難い。
     物が持ち主を大事に思うような、不思議な空気を纏っている万年筆は、一本のインク瓶と共にぽつんと置かれている。
    「なあ、あんた」
     店主に声を掛ければ、無言で値札を見せられた。
     なるほど、高くはない。しかし、安くもない。
    「ネロ。それ、買うのか」
     シノが覗き込んできた。ヒースクリフもまた、遠慮がちに視線を投げてくる。
     ネロが店の前で品を見ることに対しても、迷うことに対しても、二人は一切の不満を漏らさない。恐らく、不満とすら思っていないのだろう。
    「……いや」
     特定の人物に贈る光景を思い浮かべ、ネロは苦笑した。
     買ってどうする。渡してどうする。
     感謝でもされたいのかと、己が問いかけてくる。
     薄く笑って首を横に振ろうとすれば、ヒースクリフはそっと口を開いた。
    「ネロ、こういうのは、出会いだから」
    「出会い……ねえ」
    「うん。ネロが、素敵だなと思ったり、これが良いなと思うなら、その気持ちに応えてあげるのも良いんじゃないかな」
     控えめに微笑む貴公子は、もしかしたらネロの心の奥が少し、見えたのかもしれない。
     けれど明確な部分までは言わずに、ヒースクリフは一歩踏み留まる。
     利発で、誠実な子だ。己を誠実と思ったことはないが、こういう、他人をよく見てしまう部分は、やはり少し似ているような気がする。
    「ヒースの言う通りだ。ネロ、買いたいなら買え。賢者に送るんだろ」
    「……」
    「おいこらシノ……!」
     手を顔に当てたネロに気付き、ヒースクリフは慌ててシノの口を手で塞いだ。もがもがとシノの抗議の声がヒースクリフの掌の中に篭っている。
     僅かに赤くなる頬を隠しながら、ネロは店主に再度、声をかけた。

     きょとん。
     或いは、ぽかん。
     予想通りの反応ではあるのだが、どうにも気まずいとネロは視線を泳がせた。
    「これ、私に……?」
     おずおずと見上げてくるその目を、見ることが出来ない。
    「あー、うん」
     頭を掻きながらネロは明後日の方向に目を逸らした。
    「あんた、律儀に書いてるからさ、それ」
     顎でしゃくった先には、開かれた賢者の書が机の上に置かれた洋燈の明かりに照らされている。
     ネロは視野の端で、確かにその人物の姿を捉えていた。
     呆けた意識が、一つに凝縮されていく気配がする。
     驚きが喜びに変わっていく空気が、場を満たしていく。
     嬉しいと思うことを、嬉しいと表現する晶の素直さが、ネロには少々、くすぐったい。
    「……ありがとうございます、ネロ」
    「や、大層なもんじゃねえし、んな目を輝かせなくても」
    「そんなことないです、とっても素敵です……!」
     大事に使います、と万年筆とインク瓶を握りしめて、晶は心底嬉しそうに微笑んだ。
     恐る恐る視線を晶へと向ければ、ぱちりと目が合った。
     鳶色の瞳は、更なる優しさを含み、細められていく。
    「……結構、進んだな」
     むず痒さに視線を逸らせば、意識は自ずと、机の上に置かれた賢者の書に吸い込まれる。
     厚い書物の、丁度真ん中あたりに挿された栞は確か、リケとミチルが彼女に贈った物だと聞いた。
     大事にされてきたのだろう。大事にされていくのだろう。 
    「はい、結構、分厚くなってきたんです」
     インク瓶と万年筆を大事そうに机に置いた晶は、賢者の書を手に取った。
     細い指がぱらぱらと、紙をめくっていく。
     向けられる信頼に、ぎこちなく応えていった軌跡の一部が記されている書だ。
     頁をめくる度に、交わした言葉と心が、記録として積み重なっていく。
     ——皆さんが心地よく過ごせるように。
     記憶から零れ出たものが、耳奥に響いた気がした。
     

     冬が訪れたと気付いたのは、朝市の帰りに肌寒さを感じたからだろう。
     防寒の魔法をかけずに箒で空を飛ぶには、些か寒い季節だ。
    「はいよ」
    「わあ」
     湯気が立つホットティーを前に、晶は顔を綻ばせた。
     夜でなければ、おやつとしてトレスレチェスも出してやりたかった。
    「あったかい……美味しい」
     覗かせていた疲労の色が、ゆっくりと消えていく。
     今の今まで、中央の国の、重役が集まる会議に参加していたのだ。ただでさえ気を遣うこの人物が、疲弊しない筈がない。
     ふらふらと茶を求めて食堂まで降りてきた晶を、ネロは呼び止めた。
     せめてもの労いを、日付が変わらないうちに与えたかった。
    「どうだった、中央のお偉いさんたちは」
    「はい、今回は脳内で北の魔法使いが窓を割ることはありませんでした……」
    「え?」
    「あ、ええと、滞りなく終わりました!」
     詰まっていた空気を大きく吐き出すかのように息を吐く晶に、ネロは笑いかけた。
    「……何か食べるか?」
    「この時刻のご飯は太りますね……」
    「肉まんくらいなら作れるけど」
    「多少肉付きが良い方が健康に良いですよね」
     食欲に抗わない晶の態度に、ネロは声を出して笑った。
    「あんた、そういうとこほんと、良いよなあ」
    「な、何だか恥ずかしくなってきました。でも食べたいです、ネロの作る美味しい肉まん……」
    「良いよ、二個でも三個でも」
    「一個にしておきます……」
     夜が深まれば、より寒くなる。
     冷めてしまった手を摩り、晶は紅茶をゆっくりと口に運んでいった。
    「それ」
     椅子の横に置かれた賢者の書を、ネロは見やる。
     胸ポケットから万年筆を取り出して、晶は椅子の横に置いていた賢者の書を机の上に置いた。
    「最近、書けていなかったので」
     へにゃりと眉を下げ、申し訳なさそうに晶は笑った。
     〈大いなる厄災〉が近付いてきているのか、調査依頼が以前よりも多く届くようになった。
     自由な時間が削られては、出来ていたことも出来なくなる。
    ——私がいなくなった後も、皆さんに心地良く過ごしてほしいから。
     言われた当初は、寂しさなんて抱きはしなかった。
     律儀なものだと、一瞥しただけだった。
     今もし、同じ言葉を言われたら、自分は何と返すのだろうか。
    「……ネロ?」
    「ちょっと、一口飲んでからでいい? 作るの」
    「はい、全然大丈夫です」
     いつまでも待ちます、と細められる笑みに、ネロは僅かに眉尻を下げる。
     空のカップに紅茶を入れ、晶と向き合う形で椅子に腰掛けた。
     いつまでも紅茶を口にしないネロに、晶は首を傾げる。
     頬杖をついて、ネロは唇を動かした。
    「あんたが、いなくなった後も」
     向き合う人物の肩が、僅かに震えた気がした。
    「あんたがいなくなった後も、ここにいる魔法使いが心地良く過ごせるようにって思って、それ、書いてるんだよな」
    「……はい」
     浮かべられた笑みは、少し寂しげだ。
     生まれた感情を掻き消すように、晶は紅茶を飲み干して笑って見せた。
    「本当に美味しいです、このホットティー。すごく良い香りがしました、味も美味しいし」
    「はは、だろ?」
    ——あんた、こういう味、好きだもんな。
     そう言いかけて、ネロは口を噤む。
     気まずそうに首に手を当て、視線を逸らした。
     懐に入れないつもりだったのに、気が付けば細かい好みすら、分かってしまっている。
     誤魔化すように、ネロはカップに口をつけて、紅茶を一口飲んだ。
    「あんま待たせると、あんた、寝そうだから」
     徐ろに椅子を引いて、ネロは立ち上がる。
    「なあ、本当に肉まん一個で良いのか?」
    「じゃ、じゃあ、一個半でお願いします」
     どこまでも素直なその姿勢に、ネロは小さく吹き出した。
     挟まれた栞は、もうすぐ、役目を終える。
     めくられていく頁は、思い出と共に、積み重なっていく。
     

     連なる綺麗な文字は、愛情と誠実の表れだ。
     記されていくほどに、離れがたく思う気持ちが強まる。


     風が吹けば、互いの髪が靡く。
     魔法舎を守るように覆う森は、眠りから目覚め始める気配で溢れていた。
    「このクッキー、サクっとしてるのに、中はほろほろしてます!」
    「美味いだろ」
    「……ネロ、やっぱり中央の街でお店をやった方がいいですよ」
     絶対売れるのに、と晶は二枚目に手を伸ばした。
    「いや、中央の国ってのは、ちょっとなあ……」
     快活ではあるが、如何せん気安い態度を取る者が多い。
     東の国で店を出していたからか、中央の国の気質が、ネロには合わない。
     布巾で指を拭き、晶はすっかり使い慣れた、万年筆を胸ポケットから取り出した。
     手元に開いた賢者の書は、あと少しで空白がなくなる。
    「何書いてんの」
    「ネロの作るお菓子はとっても美味しいんですよ、カッコ、この書には再三書きましたが、カッコ閉じ、と書いてます」
    「何だそれ」
    「追記、自国の料理に飢えたら、相談すると叶えてくれます、とも書きました」
    「ハードル上げてくるな……」
     おかしそうに笑うその笑顔が眩しい。
     木々が風に揺られて騒めく中で、晶の笑い声は一等大きく響いた。
     不快ではない。心地良さすら感じる。
     ひとりで良いと思っていたのに、今は、ふたりでいることを求めている。
    「……あんた、字綺麗だよな」
    「本当ですか?」
    「ん」
     書かれている文の全てを、読み解くことは出来ない。
     けれど、一文字一文字大事に書いているその姿を、ネロは何度も目にしてきた。
     初めて見たときと変わらず、晶は丁寧に、丁寧に書に文字を認めていく。
     インクが洋紙に滲めば、それは文字という形を得る。
     ただの記録ではない。
     誰一人取りこぼさず掬い上げようとする、彼女の誠実さの結晶だ。
    「……なあ」
     記憶が重なり、やがて変え難い想いを宿していく。
     その指が頁をめくる度に、離別が近くなる。
    「あんたさ」
     言いかけた言葉を、ネロは飲み込んだ。
    ——ここに残ってほしい。
     そんなこと言えるわけがないのにと、ネロは頭を振る。
    「ネロ」
     緑蔭の中で、気がつけば、顔を覗き込まれていた。
    「どこか、痛いですか」
     気が付かぬうちに顔を歪めていたのだろう。晶は心配そうにネロを見上げてくる。
     自分へと伸びてくるその手を柔く握り、ネロは苦く笑った。
    「痛いよ」
     静かに、ただ静かに呟く。
     呪いとも祝福とも言える言葉だ。
    「……あんたといると、すげえ、痛い」
     晶は驚き、そして眉尻を下げて悲しそうにネロを見上げた。
    「違う。ごめんな、そうじゃない」
     必要なのは境界線だ。
     線を引き、飛び越えない。
     膜の内側から外を見つめる。
     けれど相反して、握る手には力が篭る。
     まるで、離したくないと主張するかのように。
    「……」
    「……」
     互いが互いを見つめ、逸らし、また見つめあう。
     沈黙に溶ける溜息の音は、やけに大きく、鼓膜に響いた。
    「……痛くていいからさ」
     かつて盗賊であった頃に覚えた、腹の内が読めない笑みでもない。
     かつて店主だった頃に学んだ、距離を保つ笑みでもない。
    「ネロ……?」
     ただのネロとして、ネロは弱々しい笑みを浮かべた。
     鳶色の瞳には、見るも哀れな自分が映っている。
     情けない顔だ。
     時の経過に喜びと憂いを感じ、それでも訪れる日々を祝福することをやめられない、愚かな男だ。
    「ネロ」
    「ごめん、ちょっとだけ」
     自分よりも華奢なその身体を抱きしめて、その柔さを享受する。
     季節は巡る。
     緑は芽吹き始めた。
     雪解けはすぐそこだ。
    ——春を呪えば、いつか来る離別を拒めるだろうか。
     明日すら呪えないくせに。
     心の内で悪態を吐き、ネロはきつく瞼を閉じた。



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