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    kiryuin0401

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    kiryuin0401

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    ダショが恋愛メインのショーをやるのが見たい!でできた類司です

    #🎈🌟

    12000%スター 未来のスター、天馬司は悩んでいた。それはもう、大いに悩んでいた。

     腕を組み歩く男女を横目に見ては呻き声を上げ、クラスメイトの恋バナに耳をそばだて、古典の授業で指名され朗読した恋歌は「いや、違うな。読み直しさせてください!」と繰り返し教師を困惑させていた。ちなみに、その朗読の声は学年全員に聞こえるほど響き渡っていたので、司の学年でこの短歌を知らぬ者はいなくなった。
     家でもその様子は変わらず、「お兄ちゃん、どうしたの?」と聞いた咲希は、返ってきた答えに引っくり返った。

     恋の悩みだ、という答えに。


       ◆


     ことの起こりは一週間ほど前。ワンダーランズ×ショウタイムは次のショーを決めるため、いつものように話し合いをしていた。
    「はいはーい! あのね、穂波ちゃんがこの前、映画見に行ったらしくて! 恋愛映画で、胸がきゅーってして、でも最後はぽかぽかってする映画だったって」
    「ああ、そういえば咲希も、皆で映画を見に行ったと言っていたな」
     と、えむの発言に始まり、結果として決まったのは、恋をテーマに劇をすることだった。今までのワンダーランズ×ショウタイムの演目に全くなかったわけではないが、恋愛がメインに据えられることはなかったので、また新しい経験を得られるだろうという考えもあってのことだ。
     そしてその目論見は正しく、今回のショーにおいて、またも司は自身の知らなかった弱点に当たった。ピアノ弾きのトルペのときのように、その人物の気持ちが理解しきれない、そんな状態になったのだ。
     その理解できない気持ちというのが、今回のショーにおける主題。つまり。

    「その男の子の、恋する気持ちが理解できない……?」
     咲希は首を傾げ、兄の告げた悩みを繰り返した。
    「そうだ。類曰く、オレが演じるその少年は、恋をしているようには見えないそうだ」
     恋をする、その心の動きが見えない。寧々演じる相手役の少女に対する感情が、恋情というよりも、深い親愛や信頼の情であるように感じられる。と。
     今回のテーマは恋。だというのに、主人公が恋をしていない。由々しき問題である。
    「そっかぁ……。うーん、恋……」
     むむむ、と眉間に皺を寄せて考え込んだ咲希は、少しして残念そうに項垂れた。
     思い浮かぶようなアドバイスといえば、恋愛を描いた映画や小説、漫画、ショーなどを見て学ぶことだが、こうしてパッと浮かぶようなアイデアは当然、司は既に試していることだろう。事実、司は咲希たちの観に行ったという恋愛映画も観たし、恋愛ものばかりを図書室で借りて読み耽っていた。
    「ごめんね、お兄ちゃん……。アタシも恋ってしたことないから、せっかく話してもらったのに、良い考えが浮かばなくて」
     大切な兄の相談に乗れず表情を暗くした咲希に、慌てた司は大仰なポーズを取って自信満々といった風に告げた。
    「なに、問題ない! 話を聞いてもらうだけでも、自分が何に困っているのか整理がついたからな。それに、オレは未来のスターになる男。この程度の壁、本番までに必ずや越えて見せよう!」


     司は恋を理解するため、奔走した。
     古今東西、恋をテーマに扱うものは溢れていて、当然ながら司が今まで見てきたショーや小説にもそれが扱われたものは少なくなかった。感受性も高く、人の気持ちを思うことのできる司にそれら全てが微塵も理解できなかったかというと、そんなはずもなく。ただ、誰かを大切に想う気持ち、大切な人が傍にいなくて寂しいと感じる心、そういったものがよく理解できるのに、それが”恋”に結びつかない。

     ――そのただ一人を見るだけでふわふわと浮足立つような心地がして、脈拍が上がり、近づけば自身の心臓の音が聞こえるほどにどきどきとする。触れたい、触れられたいと願う。他の誰かでなく、自分を見てほしいと思う。

     様々な媒体から掻き集めて思い描いた”恋”の状態は、わかりそうで、わからない。どう演じても、ただ形をなぞっているだけで、中身が伴わない。絶対的に何かが足りない。

    「くっ……、どうしたらいいんだ」
    「司くん、調子はどうだい? ……良くはなさそうだね」
    「類?」
     ふ、と我に返った司が周りを見回せば、帰りのHRも終わり、放課後となっていた。つい先ほどまで昼休みだったはず、と司は目を瞬かせる。思い返せば授業が始まって終わった覚えが、ないわけでもない。午後の曖昧な記憶に、随分と考え耽っていたのだと気づかされた。
    「僕はこれからステージに向かうけれど、君はどうする?」
     ピアノ弾きのトルペの際、自分のトルペがなかなか完成せずにいた司は、他の演者への悪影響を避けるため一時的に練習には不参加となっていた。今回も同様に、まだ”恋をする少年”を演じられない司は、悪影響を考えて自ら不参加を表明していた。トルペのときは時間をかけてしまったから、今回は早く練習に復帰できるよう努めよう……と考えていたが、事はそう易々とは運ばず、頭を悩ませる日々が続いている。
     特に、今回やるのは恋愛ものである。二人の人物が心を通わせる、そこが主軸になる以上、相手役の寧々と合わせての練習は前にも増して重要となる。ギリギリになってようやく掴めました、では遅いのだ。
    「……オレも行こう。寧々も、ずっと相手役のオレがいないのでは練習に困るだろう。とはいえ、あまり回数を重ねるのは、以前お前が言っていたように演技に良くない影響を与えてしまうかもしれんが」
    「うん。そこはちょっと、調節してやっていきたいね。ひとまず、問題があるのは恋愛描写の濃いシーンだけだから、それが薄いシーンを重点的にやろう。それなら特に影響もないだろうしね」
    「そうだな。しかし、改めて寧々と演ることで得られるものもあるかもしれない。主人公がどう恋をするのか流れとしても確認したいから、一度は通しておきたいな」
     話しながら靴を履き替えた司は、おもむろに隣のクラスの下駄箱へと目を向けた。既に履き替えたものかと思っていた類は、何やら下駄箱の前で棒立ちしたままだ。上履きから履き替えた様子もない。
    「類?」
    「ああ……、ごめんね、司くん。ちょっと用事ができてしまって。悪いけど、先に向かっていてもらえるかい?」
     突然できた用事とは何かと首を傾げた司は、類の手にある一通の手紙に目を留めた。

     下駄箱。手紙。用事。

     この数日、とにかく様々な恋物語に触れ続けた司の脳は、一瞬でその解答を導き出した。
    「こッ、告白の呼び出し、というやつかーー!?」
     校舎を揺らすような大声に、周りの生徒たちがギョッとして司を振り向く。声の主を確認すると、いつものか、という顔をした。変人ワンツーじゃん、と零した生徒もいたが、今の司の耳には入らなかった。
    「それはまだわからないけど、とりあえず来てほしいみたいだから。早く済ませて向かうよ」
    「な、な、おま、おまえ、慣れているのか!?」
     類のあっさりとした様子に、司は動揺する。
    「慣れてはいないよ、こういう呼び出しも初めてだ。ほら、僕たちが何て呼ばれているか、君も知ってるだろう?」
     司と類は間違いなく顔が良いとされる部類であったが、同時に、変人奇人として知られすぎていた。奇行が目立つだけで善良な人物ではあるので、全くそういった好意を持たれていないわけではない。が、少なくともあからさまにモテるという事実もない。
     恋心がわからず悩みに悩んでいるところに、ラブレター(暫定)の出現。司は気になるという態度を露わに、そわそわと落ち着かない動きを見せた。
    「……ええと、ついてくるかい? 一人で来てください、とは書かれていないし」
    「いいのか!? ……って、いや、そういうわけにもいかないだろう」
     提案に飛び付きそうになった司は、自制心を強くして耐えた。
    「まだわからんが、もし本当に告白だったら、オレがついていっては邪魔者でしかないだろう。じゃあ、類。オレは先にステージに向かっているぞ」
    「うん、わかった。また後でね、司くん」


     類と別れてフェニックスワンダーランドへの道を歩き始めた司は、やはり気になる呼び出しの手紙へと再び思考を巡らせた。
     やはり、告白のための呼び出しだろうか。当然、そうだった場合無関係の司が場に居合わせるわけにはいかない。が、叶うことならその呼び出した者に、詳細を聞きたい気持ちだ。
     恋愛感情を探るにあたって、司は周りの者にも聞いてみたのだ。恋をしたことがあるか、と。冬弥や彰人にも聞いたが、残念ながら経験がなく、いいアドバイスはできそうにないとのことだった。彰人は少し素直でないところがあるので、もしかしたら誤魔化されたのかもしれないが。そういうこともあって、経験のある人に話が聞ける機会は、非常に貴重であった。
     そういえば、自分たちは青春真っ盛りの高校生だというのに、司の周りでは全く浮いた話の一つや二つも聞かない。まあ、浮いた話もないほどに熱中していることがあるというのは、良いことだとも思うが。しかし今このときに限っては、浮きも浮いていてほしいものだった。
     ああ、でも、もし今回の呼び出しが告白で、類もその相手を憎からず思っていたなら、そういう話を聞くことができるかもしれない。
    「……ん?」
     不意に、胃の底が重く感じた。石でも詰められたような。司は何か悪いものでも食べただろうかと思案するが、今日食べたものといえば、母の手作り弁当、それと、類に押し付けられた野菜サンドである。当然、食事前には手を清潔にすることも忘れない。
     もしや風邪か。いまいち風邪のような感覚はないが、僅かでも不調があるなら用心に越したことはない。今日はあまり咲希に近づきすぎないようにして、暖かくして寝るとしよう。司は心にそう書き留めて、足早にフェニックスワンダーランドへと向かった。


    「司くーーん!」
    「ぐはッ」
     油断していた司は、突進してくる桃色の影に気づかずダイレクトに衝撃を受けた。
    「えむ! 危ないから突撃するのはやめろと言っただろう!」
    「司、類は一緒じゃないの?」
    「お、お前、こうして倒れたオレに心配の一つもしないのか……?」
    「えむ、倒れたけど大丈夫だった?」
    「うん! へーきだよ!」
    「オレの!! 心配は!!」
     耳を塞ぎ司が張り上げた声をやり過ごした寧々は、きょろきょろと辺りを見回した。
    「類は……呼び出しがあってな、少し遅れるそうだ」
    「そう。で、どうなの? 恋の演技、少しは掴めそう?」
     気まずそうに口を噤んだ司に察した寧々は、咎めるでもなく話を進める。
    「そっか……、まあ、正直わたしだって、まだ手探りだから。焦らなくていいとは言えないけど、そんなに思い詰めすぎることもないでしょ」
     珍しく気遣わしい様子で告げられた言葉に、司は目を瞬く。
    「……オレはそんな思い詰めた顏をしていたか?」
    「してたよ! 司くん、すっごくむむむーってなってた」
    「自覚なかったの?」
     呆れた顔をした寧々にたじろぎ、同時に自身を省みる。確かに困り果ててはいたが、未来のスターとして、不安を仲間に伝染させるわけにはいかないだろう。一刻も早く、何かを掴まなくてはならない。
    「寧々、えむ。早速で悪いが、改めて流れを確認したい。頼めるか?」


      ◆


     恋愛ものとは言うが、今回の舞台もまた、本筋の恋物語と同時に、ワクワクするファンタジーも取り入れた物語になっている。ワンダーランズ×ショウタイムの目玉は、やはり皆が笑顔になれるハッピーエンドのショー。そして類の手掛ける、目が離せない派手な演出だろう。飛んで跳ねて、雷が落ちて、爆発して、打ち上がる。他諸々。非日常のセカイへと一気に引き込まれる、驚きの連続。それを楽しみにリピートしてくれる観客も多いのだ。
     よって今回演じる物語も、そんな魅力的な演出をふんだんに盛り込める、ファンタジックな世界観のストーリーだ。

     ――傲慢で自信家の魔法使い・デルが、司演じる物語の主人公である。
     その少年は、あまりにも強い魔法の力を持っていて、全てのことが思い通りになる。食べたいと思ったものはポンと現れるし、面倒な部屋の片付けも一瞬で終わる。魔法を使えば何でもできてしまうので、誰かと一緒にいる必要もなく、森の奥に一人で暮らしていた。
     あるとき、デルの家に泥棒が入って、魔法の力を使うための大切な杖を盗まれてしまう。デルは、杖を取り返そうとその男を追いかける。しかし、杖がなくては上手に魔法を使えないデルは、泥棒がどこに逃げたのかもわからず、すっかり困ってしまう。
     そこで出会うのが、寧々演じる、デルと同じく泥棒を追いかけている少女・イベリスだ。
     イベリスとデルは、泥棒を捕まえるという共通の目的のために協力することになる。
     気が強く口のよく回るイベリスと、傲慢で自分勝手なデルが、互いの大切なものを泥棒から取り戻すために冒険する。それがこの物語の大筋である。
     最初は性格が合わず喧嘩ばかりしていた二人も、苦難を共に乗り越え、お互いのことを認めていく。特に、今まで人と関わらずに生きてきたデルは、対等な口喧嘩というのも初めてなら、誰かと協力するというのも初めてのことだった。初めてだらけの経験の中で、デルはイベリスに惹かれていく。
    「この落ち着かない気持ちは何なんだ」
    「魔法使いさんは、恋をしてるんですね」
    「……恋?」
     自分の中で膨らむ気持ちを持て余していたデルは、泥棒を追いかける途中の町で助けた女の子に、そう指摘される。これが、恋という感情なのか!
     初めての恋に浮足立ちながら、デルはイベリスともっと話そうとした。
    「そうだ。君が泥棒に取られた大切なものとは、いったい何なんだ?」
    「えっ、突然どうしたの?」
    「あの泥棒は、沢山のものを盗んでいるだろう。何が盗まれたのか知らなければ、キミが盗まれたというものを一緒に探してやることができないからな」
    「たしかに、そうかもね。私が盗まれたのは、ペンダントよ」
    「ペンダント?」
    「ええ。昔、とても……とても大切な人に貰った、ペンダントなの」
     イベリスの瞳は、デルを見ていない。デルは、初恋を自覚したその日に、失恋を知った。
     イベリスの気持ちが自らに向いていないことを知ったデルは、考えた。もし、杖を取り戻したら。魔法が使えたなら、彼に叶わない願いなどない。そうしたら、イベリスの気持ちだって思いのままだ……、と。
     デルがイベリスへの想いを燻ぶらせたまま、とうとう二人は泥棒を追い詰める。
    「デル! ありがとう、あなたのおかげよ! このペンダントが戻ってこなかったら、私……」
    「……ああ、そうだな」
    「デル?」
     取り戻した杖を握り締めて、デルはイベリスを見つめる。果たして魔法使いは、少女の心を自身へ振り向かせるため、魔法を使ってしまうのか。


      ◆


     途中で合流した類も混じえて、最後まで通した司は眉間に皺を寄せた。口を開こうとした類も、それを見て言葉を止める。言うまでもなく、司は理解している。
     司の演じる魔法使いは、少女に恋をしていないのだ。
     魔法使い・デルは、最初は人の気持ちなど顧みない、自己中心的な人物だ。しかし、少女・イベリスとの旅の中で、他者の気持ちを思える人物へと成長していく。魔法で人の気持ちを操るなど、してはいけない。そう理解したデルが、それでも、イベリスの気持ちを手に入れたくて葛藤する。彼の恋心に説得力がないままでは、この物語はぐだついてしまうだろう。
    「く……わからん。寧々。聞きたいんだが、イベリスとしては、デルへの気持ちはどう演じている?」
    「うーん……、さっきも言ったけど、わたしもまだ手探りだから。でも……強いて言うなら、親愛や友情、みたいな。イベリスの一番は昔ペンダントをくれた人だから、中盤までのデルへの気持ちは恋とは違うし……。だから、司の参考にはならないかも」
     寧々は眉を下げ、申し訳なさそうに述べた。
    「やはり、これはオレ自身で答えを見つけないといけないということだな。……未来のスターとして、恋の演技ができないというのは致命的だ。恋の経験の一つや二つでもあれば……」
    「僕は、恋をしたことがないと恋の演技ができない、とは思わないけれどね」
     類の言葉に、悩み込んでいた司は顏を上げる。その横では、えむがこてりと首を傾げた。
    「類くん、それってどういうこと?」
    「例えば、殺人犯の役を演る際、人を殺した経験がなければその役ができない……なんてことはないだろう?」
    「まあ……そんなことがあっては、大問題だろうな」
    「みんな意識的でも無意識的でもやっているだろうけれど、殺人犯の役を演るとき、殺人犯の動機が怨恨なら、今までにあった憎い、恨めしい、という経験を思い起こし、その感情を膨らませて”殺したいほどの憎しみ”を投影する。もちろん、実際の経験に基づいた演技にはリアリティがあるけれど、経験の有無が必ずしもできる・できないに繋がるわけじゃない」
     類は続ける。
    「デルの行動をかみ砕いて、何か似た経験への感情を膨らませてみるのも、一つの手段だと思うよ」


     一足先に帰路についた司は、フェニックスワンダーランド内を歩く。
     類の言うことは理解できた。今回に当てはめるなら、手に入らないはずの欲しいものが、正しくない手段でなら手に入る。そういう体験を膨らませることになるだろうか。
     司は、自身の欲しいものを考えた。が、今欲しいものが咄嗟に浮かばない。
     頭を振り絞って、そういえば使っている消しゴムが小さくなってきていたことを思い出す。……新品の消しゴムを手に入れることに、正道も邪道もあるだろうか。人道に背く手段となると、例えば万引きだろうか。それは良くない。……万引きしてでも消しゴムが欲しい状況とは何だろうか。
     具体的な物から考えるのは上手くいかないので、少し広げて、抽象的な望みや夢を考える。
     まず、スターとなり世界中を笑顔に……、これには正道も邪道もないだろう。次にぱっと浮かんだのは咲希や冬弥の笑顔だが、これは咲希の幼馴染たちや彰人が叶えてくれている。本当に、感謝してもしきれない。
     他に望むことを考えるが、いまいちピンとくるものが浮かんでこない。
    「む。もしかしなくとも、オレはとても豊かな人生をおくっているんじゃないか?」
    「天馬さん、あなた、いつもそんな大きな独り言を?」
     背後からの、凛とした声には聞き覚えがある。この声はたしか、と振り返れば、想像通りの人物が呆れ顔をしてそこにいた。
    「お前は、青龍院櫻子!」
    「その通り、フェニックスステージの歌姫、青龍院櫻子よ。そしてフルネームでなくてけっこう」
     何故ここに……と言うこともない。お互いにフェニックスワンダーランドのキャストなのだから、むしろランド内に居るのは自然である。
    「離れたところからも、あなたの大きな声が聞こえていたわよ。何か悩んでいる様子に見えたけれど、解決はしたの?」
    「それは……」
     表情で察したのか、櫻子はふうと溜め息を吐いた。
    「悩んでいるのは、ショーのこと?」
    「ああ、そうだ。ちょっと……演技で、上手くいかないところがあってな」
     弱みを晒すようで抵抗はあったが、相手はあのフェニックスステージの歌姫である。長く舞台に立っていて、経験も豊富だ。もしかしたら、何か現状を打破するきっかけが得られるかもしれない、という考えもあり、司は素直に現状を伝えた。
    「そう。恋の演技、ね」
     櫻子は存外にも、真剣に司の悩みを聞いてくれた。助言を期待したのは自分だが、あの櫻子にこうも親身に聞いてもらえるとは思わず、司は意外に思う。
    「……勘違いしないでちょうだい。あなたたちワンダーランズ×ショウタイムは、もう充分、フェニランのショーキャストとして知名度があるのよ。そんなあなたたちのショーの出来が残念なものになったら、同じランド内のキャストとして恥ずかしいし、観に来てくれた観客にも申し訳ないでしょう」
     じっとりと睨みつけて言うが、本心半分、素直に協力することへの照れ隠し半分といったところだった。
    「それで、天馬さん。ちょっと演ってみてくれるかしら」

     重要なシーンをいくつかピックアップし、そのうち数ヵ所、説明を交えつつデルを演じる。指摘を受け、デルが恋を自覚する。そして、イベリスに想う人がいると知り、きらきらと新鮮な感情に輝いていた気持ちが曇る。魔法の杖を取り戻し、イベリスの心を求め葛藤する。
    「……」
    「こういう状態でな。どうしても、何かが欠けているんだ。オレのデルは、恋をしていないと」
    「……私が感じたことは、そうね。きっと、目が違うわ」
    「目?」
     どういうことだ、と司が疑問符を浮かべる。
    「あなたのデルの瞳が、恋をしていないのよ。例えば……恋焦がれる、なんて表現があるでしょう。恋愛感情は、よく熱を持ったものとして表現されるわ。そういう、焦がれるような熱を持っていない……と言えばいいかしら」
    「なるほど。目が、恋をしていない……か。今まで貰えなかった意見だ」
     焦がれる、燃える、燻ぶる。恋に用いられる比喩表現は、全く意識していなかった新しい着眼点である。それに、視線に情を込める、というのも。
    「何か、掴めそうな気がする」
    「参考になったなら何よりだわ。……私もね、似たようなことがあったのよ」
    「似たようなこと?」
    「そう。私が演じたヒロインが、自分の恋心を歌うのだけれど。何かが足りないって言われたわ」
     しかし櫻子はそれを乗り越えて、見事舞台を成功させた。観客の心を揺さぶる恋の歌を歌いあげた。
    「あなたたち。この私のライバルなら、ちゃんと成功させてくれないと困るわよ」
    「当然だ。なにせ、オレたちだからな! 青龍院、とても参考になった。感謝する!」
     助言と激励をくれた櫻子への感謝を述べて、司は再び帰路へついた。


      ◆


     翌日の昼休み。司は優雅なランチタイムのため、弁当を手に校舎の外へと出ていた。見上げれば晴れ晴れとした青く高い空が広がっている。
     生姜焼きをゆっくりと味わい、ランチタイムの後は図書室で少し調べものをしよう。恋愛小説には多く目を通したが、今日は違う視点から恋を調べてみたい。恋に関わる比喩表現に興味が湧いたので、例えば、辞書から当たってみるのも良いだろう。昨夜も家の辞書や国語辞典を引いてみたが、辞書は一種類ではない。図書室で家にない辞書も引いてみよう。
     ランチにふさわしい場所を探しながら昼休みの活用方法を思案していた、そんなときだった。
    「神代先輩! 昨日のこと……」
     風に乗って微かに聞こえた女子の声。そして、神山高校で神代という苗字を持つのは、司の知る限り一人しかいない。
    (……類?)
     辺りを見渡すが、類の姿は見えない。声が聞こえたのは、物陰の方だっただろうか。緑化委員の仕事……いや、この方向には花壇などはなかったはずだ。
     壁越しに覗き込めば、やはり類と、類の陰になってわかりづらいが、女子生徒らしき姿があった。
    (こんなところで何をしているんだ? とりあえず、声をかけて――)
    「僕でよければ、付き合うよ」
    「本当ですか!?」
     司は咄嗟に自身の口を押さえた。今出て行ってはいけない気がする。それに。
    (――付き合う、とは)
     少し前までの司ならば、「何に付き合うんだ?」などと考えていたかもしれない。しかし、今は違う。恋愛ごとに対し過敏とも言える状態の司は、即座に頭の中で答えに行き当たった。
    (そうだ、昨日の、呼び出しの手紙。彼女が、その手紙の主で。付き合うというのは、類と、彼女が、交際するということか)
     ドクドクと心臓がうるさい。嫌な汗が滲む。指先が冷たい。呼吸が苦しくなって、自分が息を止めていたことに気づいた。
     二人はまだ何か話しているが、頭が意味を呑み込めない。ただノイズを流されているようだった。とにかく、ここを離れないといけない。司は足音を殺して、その場を立ち去った。


    「げっ、司センパイ」
     冬弥が図書委員の仕事でいないため、彰人は一人、購買で買ったパンを食べようと外に出ていた。適当に静かなところを探そうとして目に留まったのが、ベンチに座っている司である。
     ここは避けるかと考えるが、思い直す。どうせ今日の昼休みは暇なので、司センパイをからかって時間を潰すのもいいかもしれない。それに、以前貰った弁当のチーズケーキも美味しかったから、あわよくば。そうと決めて、司への距離を詰めてから、様子がおかしいことに気づく。
     司までの距離は大股二歩というところだが、この距離まできて司は気づく様子がない。心ここに在らずという目で、虚空を見つめている。司の座るすぐ横には、布に包まれた状態の弁当箱が置かれている。これは、もう食べ終わっているのだろうか。細かなところで行儀の良い司は、食事の際はよく噛んで食べる。昼休みになってからの時間を考えると、既に食べ終わっているにしては、少し早い気もした。
    「司センパイ?」
     返事がない。益々おかしい。
    「司センパイ、聞こえてます? 司センパイ!」
    「……え、ああ、彰人か」
    「もう食い終わったんですか? アンタにしちゃ早いっすね」
     僅かなタイムラグを経て、司は自身の横にある弁当箱を見る。
    「そういえば、食べていないな」
    「はあ?」
     のろのろとした動きで弁当を膝に広げようとした司だが、不意に弁当箱が膝の上を滑る。
    「うわっ、あぶね」
     咄嗟に伸ばされた彰人の手が届き、惨事は免れた。が、その状況でもなお、司は慌てることもなく、一連の動きを目で追うばかりだ。
    「本当に今日はおかしいなアンタ、いやいつもおかしいけど」
    「そうか」
    「いや、そうかじゃなくて。熱でもあるんですか?」
    「熱。熱は、ないな。そうだ、図書室に……ああ、まだ弁当を食べていなかった」
     いまいち、会話が成り立っていない。
    「何かあったんすか?」
     焦点の定まらなかった司の瞳が揺らいだ。
    「……わからない」
     わからなかった。何かが内側で、不安定にぐるぐると渦巻いている。その正体が掴めない。頭にモヤがかかっている。振り払おうと手を伸ばしても、そのモヤはすり抜けてしまう。
    「……熱はないって言うけど、やっぱおかしいですよ。体調悪いんじゃないすか」
    「……」
     困り果てた彰人は、放置して去ろうかと考える。しかし、もし本当に体調が悪いのなら、ここで放置して倒れられでもしたら後味が悪い。それなら、誰か任せられる者にバトンタッチでもするか、と思いつく。
    「めんどくせーけど、神代センパイあたりを呼んでくるか」
    「それはダメだ!」
     突然張り上げられた声に、彰人は驚いて動きを止めた。類の名前を出した途端にこの反応。ということは、類と何かあったのだろう、と当たりをつける。
    「えっと……喧嘩でもしました?」
    「……違う」
     明らかに、何かがあったのは確信した。気にならないというわけではないが、しかしこれ以上できることも浮かばない。
    「とにかく、体調悪いわけじゃないんですね? じゃ、オレは行きますよ?」
    「ああ……」
     いつもの調子で絡まれても鬱陶しいが、これはこれで調子が狂う。この人のために、自分が何かする必要はないが。司に背を向けた彰人の足が向かう先は、相棒のいる図書室だった。


     放課後。どこか惚けたまま帰り支度を済ませていた司は、クラスメイトに呼ばれて我に返った。
    「おーい、司! なんか後輩が呼んでるぜ」
    「後輩?」
     教室の出入り口へと視線を向ければ、そこには冬弥の姿があった。司の表情はパッと明るく変わる。
    「おお、冬弥じゃないか。どうしたんだ?」
    「司先輩。今日お時間があるなら、よければ一緒に帰りませんか? 少し話したいことがありまして」
     恋の演技のため冬弥に相談した際、この数日、司が練習への参加を控えていることは話していた。事実、今日も司は一人で演技のための研究をするつもりでいた。
    「今日なら問題ないぞ!」
     快く誘いを受け、司と冬弥は帰路につく。
    「冬弥、練習は休みなのか?」
    「いえ。ただ、今日は少し遅くからやることになっているので」
     話しながら、冬弥は司の様子を注意深く観察する。
     昼休み、図書室へやって来た彰人は、司のことをよく知る冬弥に事情を話した。先日何やらショーのことで悩んでいたようではあったが、今日の司はそれだけとは思えないほど様子がおかしかったこと。類の名前に反応していたことから、類と何かあったのではないかということ。
    (彰人に聞いたよりは、いつも通りの司先輩に思えるが……)
     彰人の口ぶりでは、まともに帰れるかもわからないほど参っているとすら感じられた。司への尊敬が些か欠けている素振りの多い彰人が言うのだから、よほどのことと冬弥は心配していたのだ。
    (……ん?)
     確かに、いつも通りの司だ。明るく、皆を笑顔にしてくれて、自信に満ちた、敬愛する先輩である。しかし、冬弥は言い知れない違和感を覚えた。
    「司先輩。変なことを聞くようですが、今日、何かありましたか?」
    「――何か? 心当たりはないが……どうかしたのか?」
     注意深く観察していなければ気づかないような、一瞬の間だった。だがそこから、違和感が膨らむ。
    (そうか、この感じは、舞台の上の司先輩を見ているときのような)
     冬弥にとって司はいつだって尊敬する人であり、勇気をくれる存在だ。それは常に変わらないが、今の司は、意識的にそう在ろうとしているように感じられた。
    「……その、司先輩。俺では、力になれないことかもしれません。でも、司先輩がもし誰かに話したいと思ったときは、いつでも話を聞きます。なので――」
    「あー……、すまん、冬弥。そんなにオレは、わかりやすかったか?」
     無理に聞き出すわけにもいかないと、拙くも司を案ずる冬弥に、とうとう司は観念した。
    「彰人から何も聞いていなければ、気づけなかったかもしれません。流石、司先輩です」
     いつも通りを演じていたが見破られ、少し気にした風の司に素直な賛辞をおくる。司のファン第二号とも言える冬弥は幼少期から司の演じるショーを見てきたが、素人目にも、ワンダーステージでバイトを始めてからの司の演技力の向上は凄まじい。
    「彰人から?」
    「はい。昼休みに教えてくれました。司先輩のこと、すごく心配してましたよ」
     本人がこの場にいたなら全力で否定しただろうが、不在である。
    「昼休み……、そういえば、彰人に話しかけられた気がするが……。あまり覚えていないな。良くない態度を取ってしまった上、心配もかけたようだし、次に会ったら謝らなくては」
     司は昼休みのことを思い返す。アレを見かけてからの記憶は曖昧だった。隣を歩く冬弥は、司を気遣わしげに見つめている。既にここまで心配をかけているのだから、何も言わない方が冬弥に心労をかけてしまうだろう。
    「冬弥。正直、自分でもよくわからないんだが……もしよければ、話を聞いてもらってもいいか?」
    「勿論です」
     司には、返しても返しきれぬ大恩がある。ほんの僅かでも力になれるのならと、冬弥は迷いなく頷いた。
     さて、どこから説明したものかと司は迷う。自分が何にこうも心を乱されているのか、それを理解できていないのだから。少し考えて、とにかく昼の出来事をそのままに話すしかないだろうと決める。
    「昼休みに、外でランチをする場所を探していたんだ」
     ぽつりぽつりと、昼の出来事を話す。校舎の陰で聞いた声、類と女子生徒との会話。
     改めて言葉にすると、本当に短い話だ。ただ、神代類が女子生徒に告白され、それを受け入れていた。まとめてしまえば一言二言で済む。
    「神代先輩が、その女性とお付き合いを?」
    「……ああ。友として、喜び、祝福するべきだ」
    「でも、司先輩は、それを喜べない。ということですか?」
     大事な仲間であり、友人である類に恋人ができる。祝福して然るべきだろうに、司の心には暗く濁ったような感情が渦を巻いていた。
    「オレは、笑顔が好きだ。はじめは、咲希に笑ってほしいと思っていた。今は、世界中の人を笑顔にできるスターになりたいと思っている。なのに、一番傍に立つ仲間の幸せを祝福できないなど、情けない」
    「どうして神代先輩に恋人ができることが嫌なのか、聞いてもいいですか?」
     沈んだ面持ちの司に問えば、困った顏で首を振った。
    「わからないんだ。どうして類のことを祝えないのかも、こんな苦しい気持ちになるのかも」
     司は、自身の感情がわからず苦しんでいる。それを解く一助になれないかと、冬弥は頭を回した。
     司にとっての類は、自分の身近な人物で例えると、彰人のような存在だろうか。自分の身に置き換えるなら、彰人に恋人ができたとき、どう感じるのか。
    「……司先輩。これは俺がふと思ったことなので、もしかしたら、見当違いのことかもしれませんが」
     冬弥は思い浮かんだ一つの答えを、前置きをしてから告げる。
    「嫉妬、じゃないでしょうか」
    「嫉妬?」
     ぱちくりと瞬きをする司に、言葉を続けた。
    「俺も考えてみました。共に夢を追う相棒に……彰人に、恋人ができたら、と。多分、俺はそれを喜ぶし、祝福します。でも、もっと具体的に考えたんです。彰人は、練習時間を削って恋人と会うなんてしない。夢のための努力を怠ることなんてしない。大部分の時間をVivid BAD SQUADの活動に使います」
     司は頷いた。類もそうだ。類のショーに対する想いは、彼に出会ってからずっと傍で見てきた。そのための時間を削って恋人を優先する類は、司には想像ができなかった。
    「でも、恋人がいるんだから、二人の時間も必要になります。そうなると、きっと……例えば昼休みとか、登下校とか、活動の無い日とか、そういう時間を恋人のために使うと思います」
     重くどろりとした何かが、腹の底に溜まるような気がした。ああ、そういうことか、と司は理解する。
    「俺は彰人と歌う時間が好きです。でも、それ以外の時間も大切で。そんなことを考えたら、ちょっと……素直に、喜べない気がしました」
     ワンダーランズ×ショウタイムでの活動以外でも、司が類と過ごす時間は長い。クラスは違えど、ショーの相談や、類の実験、忘れた教科書を借りる、昼食の野菜を押し付けられるなど、学校では毎日会っている。学校のない日も、買い物に付き合ったり、広い公園でないと難しい実験をされたり、互いの好きなショーの映像の鑑賞会をしたり。司は、いつの間にか類が傍にいることが当たり前のようになっていたと気づく。
     なのに、自分の知らない誰かが、これから先は類の隣に立つのか、と。
    「そうか、こういう気持ちが、嫉妬なんだな」
     司とて、他者を羨むことが全くなかったわけではない。それこそ最後の宣伝公演の際には、アークランドと共に練習を重ねる中、旭の演技力に羨望も焦燥感も覚えた。しかし、そのときは今のように、どろりとした重苦しいものを感じなかった。悔しくはあったが、未来のスターとして負けていられないと、前に進もうと思えた。
     何が違うのかと考えるなら、きっと、”演技力”という自身の努力で身につける力と違い、”類の一番傍にいる権利”はただ一人にしか与えられないということだろう。
    「自分の感情の正体がわかって、すっきり……とは、言えんが。少し、整理がついた。感謝する、冬弥」
     根本的な解決ではないが、それでも司の表情が僅かに明るくなったことに、冬弥は胸を撫でおろす。そして残念ながら、司の落ち込んだ感情の理由が類にある以上、自分にできることはもうないのだろう。
    「司先輩は夢に真っ直ぐな方ですが、昔からそれ以外への執着が強くなかったので……、だから、気づきにくかったのかもしれませんね」
    「む、そうだったか?」
    「はい。例えば、おやつに出されたクッキーが二枚余ったときは、いつも俺と咲希さんに譲ってくれていましたし」
     自身のことより他者の笑顔のために動くのが司であり、それも冬弥が尊敬する点の一つである。
    「なので、司先輩が嫉妬というのは、少し意外でした」
    「……」
     ふと、司が黙り込んだことに気づく。冬弥の隣を歩いていた司は立ち止まり、顎に手をあて何かを考え込むような仕草をしていた。
    「司先輩?」
    「わかった! わかったぞ!!」
     耳に飛び込んだ大声に、離れた通行人がびくりと飛び上がって振り返った。冬弥は驚きながらも、司の瞳に輝きが戻ったことに気づく。
    「冬弥、本当に感謝してもしきれん!」
    「ええと……俺は、何もできていないと思いますが」
    「いや。お前と話したおかげで気持ちの整理ができたし、何より、大切なヒントをもらえた」
    「ヒント?」
    「ああ! 今のオレならきっと――デルを演じられる!」
     司は、何かに執着するということがなかった。咲希や冬弥を笑顔にしたい、という想いは強かったが、大切な二人が笑顔になってくれるのならそれをするのが自分でなくとも良かったし、だからこそ咲希の幼馴染たちや彰人には深い感謝と恩を感じている。
     大切な人の隣に立つのが自分でなくては嫌だ、などと、思ったことがなかったのだ。それゆえに、デルの”どんな手を使ってでもイベリスに自分を見てもらいたい”という葛藤が、理解しきれなかった。
     しかし今、司は、焦がれるような強い執着を理解した。この感情が、追い求めていた感情であると。
    「冬弥、すまない。オレは今からワンダーステージに行ってくる!」
    「わかりました。上手くいくよう応援しています」
     颯爽と去る司を見送る。ショーのことも、類のことも、どうか司が笑顔でいられる結果になってほしいと冬弥は願った。


      ◆


     じりじりと、焦げ付くような想いが胸に燻ぶる。決して心地よいとは思えないそれが、司が知りたかった感情だった。
     昼休み、類が告白を承諾するのを見たとき、司は衝撃を受けた。そのときは、自身が何に心を乱されたのか、理解できなかった。でも今はわかる。類の一番傍に立つのが自分ではなくなる、なんて、司は想像もしていなかったのだ。
     これが恋かはわからない。でも、類の視線を奪うのは、昼に見た彼女ではなく、自分でありたい。類の最高の笑顔を引き出すのも、自分でありたい。ならばどうしたらいいのか?
     簡単だ。類の隣に立てるのは、恋人だけではない。天馬司は、スターになる男である。演出家・神代類の最高の演出に、誰よりも完璧に応えて、最高のショーを作り続けてみせる。そう、今まで通り……いや、今まで以上に!
     そして、彼が天馬司というスターから、離れられなくなってしまえばいい。
    「類!!」
     ステージに到着してすぐ、目に入ったその後ろ姿に呼びかけた。司は朝の時点で今日は不参加と告げていたため、類は不思議そうな顔をする。
    「司くん?」
    「通し稽古をしよう」
     その言葉と表情に、類は司が演技を掴んだことを察した。喜色を浮かべて、準備に取り掛かる。司の大声に気づいた寧々やえむも、司の合流を喜び、通し稽古の用意を始めた。
    「今回は早かったね」
    「ああ。青龍院や冬弥にかなり助けられたがな」
    「青龍院くんと青柳くん?」
     舞台の準備は整った。司の胸にはまだ暗い感情が重く居座っていたが、今はこれでいい。昼に見た女子生徒のことを直接類に聞きたいが、それも後だ。
    「類。見ていろ」
     不敵に笑った司の瞳に、類の心臓が跳ねた。まだ司の演技を見ていないにも関わらず、確信した。司は、デルの恋情を演じられると。
     そして、その予感は正しかった。
     舞台の上で、デルはイベリスに恋をしていた。


    「司くん、とーっても! わんだほいだったよ~!」
     通しが終わってすぐ、えむは瞳をきらきらと輝かせて司に駆け寄った。イベリスを演じた寧々もハッと我に返る。
    「一日でこんなに変わるなんて、本当にびっくりした」
    「ハッハッハ! そうだろう、そうだろう!」
     高々と笑う司に普段ならば冷たく一言投げる寧々だが、今回ばかりは何も言わなかった。まだ司の演技に呑まれており、それどころではなかったのだ。
     そして司自身も、思い描いた以上に演じられた自信があった。
    「司くん!」
    「何……うわっ!?」
     後ろから肩を掴まれた司が振り返れば、至近距離に類の顔があった。驚いて後ずさった司を追いかけるように距離を詰めて、類は言葉を続ける。
    「追加したい演出がいくつか浮かんだんだ、今から全て試してみてもいいかい!?」
     鼻先がぶつかってしまいそうな距離の近さで、相手の目もよく見えた。照明を反射して、はちみつ色の瞳が色彩豊かに輝いている。そんな類の目に映り込んだ自分を見て、司の胸が熱くなる。頬が緩んで、自然と笑顔になる。
     司だけを映す、この瞬間の目が好きだ。類から寄せられる期待が、熱の込められた視線が、嬉しくて仕方がない。
    「ふ、ハハハ、当然だ! なにせオレは、お前の演出に12000%で応える男だからな!」
     かっこいいポーズ付きで答えれば、類の瞳はいっそう輝いた。
    「じゃあまずはデルとイベリスの出会いのシーンだけど――」
     興奮冷めやらぬ様子で類が語る演出案は、どれも今回のショーをより盛り上げること間違いなしの、最高の案だった。
     次々と試される演出に応えながら、司は思う。類に恋人ができようとも、演出家としての神代類に誰よりも応えられるのは自分だ。そう在ってみせる。
     ……少しだけ、心に残る苦い気持ちは、見ないようにした。


      ◆


     魔法使い・デルは、その魔法でイベリスの心を奪うことはできなかった。イベリスの想いを自分の都合よく変えようとはせず、その想いが彼女の想い人に届くことを願った。
     イベリスの大切なペンダントの贈り主は、そのときに会ったきり、再会できていないという。イベリスは、想い人との再会を願っていた。それを聞いたデルは、イベリスのために魔法を使おうと、そのペンダントの主を魔法で見つけようとする。魔法をかけると、ペンダントはふわりと浮き上がり、真っ直ぐに――デルのもとへと、飛んできた。
    「んん? どういうことだ? ペンダントをくれたやつに向かって飛んでいくよう、魔法をかけたつもりなんだが……」
    「え……? まさか」
     イベリスは何かに気づき、デルに一つ質問をする。十年前、森の中で迷子の少女に会わなかったかと。デルは記憶を辿って、思い出す。十年前に出会った、気の弱い少女のことを。

     イベリスは十年前、森に迷い込んだ。今でこそ強気に振る舞うイベリスだが、その当時は、自己主張の苦手な、とても気弱な少女だった。そんなイベリスがたまたま森で出会った少年は、自分勝手で傲慢で、傍若無人で、散々に振り回された。
    「キミは本当に、自分の意見を言わないやつだな」
    「あ……その……」
    「よし、試しに、何かわがままを言ってみろ」
    「えっ、そんなこと、言われても、むずかしい……」
    「一つくらいあるだろう? 本当に何もないのか?」
    「……う、ごめんなさい」
     はあ、と少年が溜め息を吐く。イベリスは機嫌を損ねたと思い、びくりと肩を揺らした。
    「そうだな……これを見ろ!」
    「えっと、ペンダント?」
    「そうだ。キレイだろ!」
    「う、うん」
    「欲しいだろ!」
    「うん……?」
     曖昧に頷いたイベリスに、少年は「そうだろう!」と満足げに頷いた。
    「じゃあこれはやる」
    「えっ? な、なんで」
    「欲しいって言ったじゃないか」
     言わされたようなものだけど、とは、イベリスには言えなかった。ペンダントを手に押し付けられ困った顔をするイベリスに、少年は笑いかける。
    「ほら! わがまま言うのなんて、難しくないだろ?」

     森を出られたのはとっぷりと日が暮れてからだった。その後すぐ、イベリスは親と共に離れた町へ引っ越してしまい、少年に会うことはなかった。
     十年前、イベリスにペンダントをくれた少年は、幼き日のデル本人だったのだ。
    「そっか。あなたが、あのときの男の子だったのね」
     想い人とはもう既に再会していたと知り、柔らかく微笑むイベリス。
     物語は、二人の想いが通じ合ってハッピーエンドを迎えた。


      ◆


     最終公演も終わり、司と類は更衣室で着替えをしていた。
    「はー……、あっという間だったな」
    「フフ、そうだね」
     司の演技が仕上がってから、それにインスピレーションを受けた類は演出に多くの改良を加えた。主役を務める司と寧々はかなり大変な思いをしたが、それでも類の演出に応え演じきった。えむもまた、名脇役と言える立ち回りをした。
     初日から最終日まで、公演が終わった後の観客は皆、笑顔だった。それを思い返し、司は頬を緩める。
    「司くん」
     着替えを終えたところで不意に呼びかけられる。
    「何だ?」
    「そういえば聞けていなかったなと思ってね。何をきっかけに、あの演技ができるようになったんだい?」
     イベリスに惹かれるデルの目には、焦がれるような想いがあった。舞台上のデルは、自分を見てほしいと強く願っていた。司が恋をする演技をできるようになって数日、それに呑まれた寧々がやや挙動不審になるほどには、恋慕を宿した瞳をしていたのだ。
    「本当に、誰か好きな人でもできていたり、なんてね」
     茶化すような聞き方だが、司は気づかなかった。類の声が僅かに震えたことに。司はロッカーを閉めながら、類の方を見ずに言う。
    「――何を言う、それは類の方だろう?」
    「え」
     類の動きが止まる。司はそれに気づけない。何故なら、自分のことで精いっぱいだったからだ。
     昼休みにあれを目撃してから、もう二週間以上経っていた。毎日考えていた。自分は、類が好きなのだろうか?
     類の恋人になりたいのかというと、それはいまいちピンとこなかった。恋人になると何が変わるか。それは散々、恋の演技を研究する中で知った。デートをしたり、手を繋いだり、キスをしたり。司は、類とそういうことがしたいとまでは思わなかったのだ。今まで通りの関係で満足しているとも言える。あの、とびきりの演出が思いついた際のギラギラとした目を、自分に向けてさえくれたなら。――まあ、恋人らしい行為が、嫌だとも思わなかったが。
     しかし、そういう関係になりたいとまで思わないのに、類があの女子生徒とそういうことをするのを想像したとき。司は、自分にこんな感情があったのかと驚くほど、不愉快な気分になることに気づいた。他の誰かがその席に座るくらいなら、自分が……と。
     結局、司が考えているのは、恋人なんて作らずに自分を見ていてくれたらと、そういう話だった。
    (もう、遅いが)
     それこそ、恋人でもないのだから、類が誰かと付き合うのを止める権利なんてない。
    「司くん、それって、何のこと」
    「類。その……、お前は、好きな人がいるんじゃないか?」
    「すきなひとって」
    「もう今回のショーも終わったことだし、言うタイミングを逃しているというなら、今言ってくれていいぞ」
     恋人ができたのだ。報告の一つでもしてくれるだろうと思っていたし、そのとき笑顔で祝福できるよう、司は心の準備をしていた。にも関わらず、今日に至るまで一切そんな話はなかった。
     きっと今回の公演が終わったら報告するつもりなのだろう、と司は検討を付けていた。されるのなら、早い方がいい。知らないフリを続けるのも限界が近かった。
    「つ、司くん、もしかして、気づいて……?」
    「すまん。実は、知ってるんだ」
     相当に動揺したようで、類のロッカーがガシャガシャと音を立てた。中で何かが崩れたらしい。
     類が想像よりも動揺していることに、司の方も驚いていた。もしかして、話す気はなかったのだろうか。当たり前のように類は恋人ができたことを報告してくれると思っていたが、自分は、そういう報告をするような相手ではないということか。
     落ち込みかけたとき、飛び込んできた言葉に司は耳を疑った。

    「僕が司くんのこと好きだって、いつ気づいたんだい……!?」
    「……は?」

     ぽかん、と口を開けて呆けた顏をする司だが、類はそれどころではなく、顔を赤くしたり青くしたりしている。
    「ミクくん達が何か言った……!? それとも、そんなに僕がわかりやすかったかい!?」
     こんなに慌てふためいた類は初めて見た。司はしばらく呆然と眺めて、ようやく先ほどの言葉が脳まで届く。
    「ま、待て! 待て待て待て! 類が、オレを、好き?」
    「え……? あ」
     司の困惑した様子に気づいた類の優秀な頭は、一瞬で理解した。類の気持ちに気づいていたなら、司が今困惑しているのはおかしい。つまり、類は早とちりをしたのだ。司に気づかれた、と。
    「……わ、忘れて」
    「は!?」
    「司くん、今のは忘れてくれ。いや、すぐ忘れさせるからちょっとそこで待っていてくれないか」
    「何をする気だ!?」
     更衣室を出て行こうとする類を全力で引き留めながら、司は叫ぶ。
    「そもそも! お前、付き合っているやつがいるだろう!?」
    「……えっ? え? ……僕と司くんって、付き合ってるのかい?」
    「何を言っているんだ!?」
    「そ、そうだよね。……えっと、僕が、誰と付き合ってるって?」
     見つめ合った類と司は、首を傾げる。話が噛み合っていない。
    「……まず、司くんは、僕に好きな人がいるだろうと言っていたよね。それで、付き合っている人がいると。これは、誰のことを言ってるんだい?」
    「誰なのかは知らんが……多分、一年の女子だろう?」
    「一年の女子?」
    「二週間前だったか、昼休みに。告白を受けていたじゃないか」
    「……? あっ」
    「すまん、聞くつもりはなかったんだが。ちょうど、類が彼女に付き合おうと返事をしているのが、耳に入ってしまって」
    「司くん、それは誤解だよ……! 君が言ってるのは、緑化委員の後輩の子だ」
    「緑化委員の?」
     類は緑化委員に所属している。それは司も知っていた。
    「順を追って話すとね」
     一年生で緑化委員を務めていた生徒が先日転校した。それにより、件の女子生徒が後続として、緑化委員の仕事を引き継ぐことになった。草花に関心はあったが、実際に手をつけた経験のなかった彼女は、これを機にと気合を入れて仕事に取り組んだそうだ。
     緑化委員の日常業務として、校内の花壇などの水やり、整備などもある。その仕事が楽しく感じた彼女は、個人的な趣味としても花を育て始めた。が、育て始めた花は、どうにも成長が遅く、何かやり方を間違えているかと不安になり、校内で相談相手を探し始めた。
    「自分で言うのもなんだけど、僕は緑化委員の活動はしっかりとやっている方だからね。それを見て、僕なら詳しいんじゃないかと思ったらしい」
    「たしか、その前日に手紙で呼び出されていただろう。ただの相談なら、そんな風に呼び出す必要はあるのか?」
    「目立ちたくない、って言ってたね」
     変人ワンツーの異名は校内全域に轟いているのである。呼び出しておいて随分な言い草とも思えるが、類は特に気にしていなかった。
    「呼び出されたときはステージに急ぎたかったから、詳しい話は明日の昼休みにってことで解散したんだ。だから、司くんが聞いたっていうのはその日の話じゃないかな」
    「じゃあ、付き合うというのは……」
    「花を育てることに、って意味だね」
     類はスマホを取り出して、メッセージアプリを開いた。そこには美しく咲いた花の写真と、「神代先輩のおかげで無事咲きました! 本当にありがとうございました。また改めてお礼します!」というメッセージが残されていた。
    「オレの、勘違い、だったのか?」
     司は自身の頬が熱くなるのを感じた。いや、今回のことがあったからこそ、演技が掴めて無事にショーを成功させられたのだ。そう思い直すことでどうにか精神を保った。
     そして、心を落ち着けたところで、別の問題が頭に浮かぶ。
    「……類」
    「誤解が解けたようで良かった。それじゃあ、そろそろ行こうか」
    「類」
    「……」
     強く呼びかければ、類は観念して備え付けのベンチに腰掛けた。それは逃げないという意思表示だった。
    「その、類は、オレが好きなのか……?」
    「…………そうだと言ったら、君は、どうするんだい」
     投げやりに呟いた類の前に司は立つ。更衣室の照明が逆光になって、類からは司の表情がよく見えない。仮にそうでなくとも、見る勇気はなかった。
    「さっきお前は、オレがどうやって今回の演技ができるようになったかと聞いたな」
    「……聞いたよ」
    「オレは、類に恋人ができたものだと勘違いしていたんだ」
    「う、ん?」
     何の話をしているのかと、類の頭に疑問符が浮かぶ。
    「そのときに思った。類の一番傍にいるのが、オレの知らない誰かになるのは……とても、嫌だと」
    「……司くん? それって」
    「デルを演じられたのは、類に恋人ができたと思い込んで、嫉妬したからだ。あの日から、オレは類のことが好きなのかと、ずっと考えていた」
     照明に目が慣れてきた類は、司の頬が仄かに染まっていることに気づいた。自分も司のことを言えないだろうとも気づいている。
     司の演技を、類は何度も見てきた。舞台上で、彼は恋をしていた。その演技は、司の類への想いから生まれたものだった。
    「さっき、類がオレのことを好きだと言ったとき、オレは……すごく嬉しかったんだ。きっと、これが好きってことなんだと思う」
     真っ直ぐに、司の視線は類を射貫いていた。
    「司くん、その、わかっているかい? 僕は、君が好きで、つまり。ええと、キス、とかを。したいっていう、そういう”好き”なんだけど」
     類は何かに抵抗するように言葉を重ねた。それはこんな都合の良いことが起きていいのか、という不安によるものだったが、本人に自覚はない。
    「きっ、キスは、だな。それも考えたんだが、したいかと言われると、正直わからん!」
    「ええ……?」
     やはり自分と司の想いは同じではないのかと落胆しかけた類の様子に、司は慌てて付け足す。
    「だが、想像したときは、嫌だとは全く思わなかったぞ!」
    「そ、想像したんだ」
    「あ、ああ!」
     沈黙が流れる。十秒とも一分とも思える無音の後、苦し紛れに司は明るく告げた。
    「そうだ、実際に試してみたらわかるかもな!」
     なんて。ハハハ。冗談めかした提案に、類はベンチから立ち上がった。司への距離を一歩詰めて、その肩に手をかける。
    「試して、みるかい」
     ゆっくりと、既に近い類との距離がさらに縮まっていく。驚いて肩を揺らした司だが、その手を払いのけることはしなかった。
     司が逃げられるだけの時間をたっぷりとかけて近づいていく。鼻先が触れることに気づいて、類が顔を僅かに傾ける。この距離なら睫毛の本数すら数えられそうだった。
     ふと気づく。いつかの練習の際と同じく、類の瞳には司だけが映っている。焦がれるような熱を持った瞳。
    (――あ、好きだ)
     すとんと、あるべき場所に収まるように、その想いは司の胸にあった。うるさいほどの心臓の音が、どこか遠くに感じられた。
     緊張に握り締めていた手を、そろりと類の背中に回した。類の目が見開かれる。その反応が気恥ずかしくて、司はぎゅっと目を閉じた。
     あと一ミリで、唇が重なる。

    「類、司! まだかかるの?」

    「どわあああッ!!」
     ノックと同時に扉の向こうからかけられた声に、司は飛び上がった。類はそれ以上に、至近距離で浴びた司の悲鳴に耳をやられた。ネネロボが音量計測をしたらしき声が遠くに聞こえる。
    「なッ、な、なんだ!?」
    「司、うるさい! っていうか、二人とも着替えにどれだけかかってるの? まだかかるなら、わたしとえむは先に行くけど」
     時計を見れば、むしろよく待っていてくれたという程度には時間が経過していた。
    「あ……、寧々、えむ、すまん! 先に帰っていてくれ!」
    「わかった! 司くん、類くん、またねー! 寧々ちゃん、行こっ」
    「ちょっと、えむ、引っ張らないでってば……!」
     寧々とえむの声が遠ざかっていく。完全に聞こえなくなると、司は脱力して座り込んだ。
    「お、驚いた……」
    「……司くん。僕たちも、帰ろうか」
    「ああ、そうだな……」
     荷物を持ち直して更衣室から出る。鍵を閉めて、帰宅するため歩き出した。
     いつもならあれこれとショーの話をしながらの帰り道だが、互いに一言も発さず、黙々と歩いた。無言のまま、あっという間に住宅街まで辿り着く。それぞれの家に帰るためには、ここで分かれることになる。二人は立ち止まった。
    「類、オレはこっちだから、また学校でな」
    「うん。またね、司くん」
     ぎくしゃくと挨拶を交わしたが、どちらも動くことはなく、棒立ちのままだった。別れる前に何かを言わなければと思うが、何を言えば良いのかわからなかった。
     先に帰路へと足を動かしたのは類だった。司は背を向けようとした類の手を咄嗟に掴む。
    「司くん?」
    「……るっ、類」
     声が裏返ったが、そんなことより、伝えておかねばならなかった。
    「次に二人になったときに、続きを、しないか」
     司はどうにか言葉を絞り出す。
    「オレは、したいと思った」
    「……」
    「……何か言ってくれないか」
     類の手を掴んでいた司の力が緩む。その瞬間、司の腕を掴み返した類は、その腕を引き寄せた。
    「なっ」
     類の片手が頭に添えられた。瞬きの間に、距離はゼロになっていた。
     唇に触れる柔らかな感触が何なのか、司が理解する前に温もりは離れていく。
     何が起きたのか理解したと同時に、司はわなわなと震えた。
    「い、今、類、おま、おまえ」
    「……フフフ、しちゃったねぇ」
    「す、するならすると言ッ……、というか、ここは住宅街で、いや通行人はいないが、だがなあ!」
     周りを見回しながら、頬を染め上げた司が叫ぶ。
    「類! 今後は場所を考えろ! こっ、こんな、誰に見られるともわからん場所で……!」
    「そうだね、善処するよ」
     類はにやけきった顏を隠そうともせず笑った。
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