借りられてくれるイチノ坊主頭にハチマキを締めた河田は、紙を開いて眉を顰めた。だがすぐに観客のほうをぐるりと見回すと、人山に向ってダッシュした。
山王工業高校体育祭名物の借り物競走は、正しくは借り“ヒト”競走であった。紙に書かれているのは「◯◯な人」といった、人物を指す言葉である。
集団の中に、目当ての人物はいなかった。聞けば、午後に予定されている棒倒しの準備に駆り出されたと言う。むしろそれならば見つけやすい。
河田はグラウンドの真ん中で設営中の木の柱を振り返った。──いた。涼しい顔してロープを押さえている坊主頭。一目散に駆け寄る。
「深津、ちょっといいか」
「…取り込み中ピョン」
「それはそうなんだげどよ」
四角い紙を広げて見せると、深津は二度瞬きして隣の奴を呼んだ。
「すまん、借りられてくるピョン。ここ頼める?」
「なんだ河田、何って書いてあんだ?」
横倒しにされた柱ごしに紙を見せると、そいつは笑って「なら仕方ねーな」と答えた。
並んで立つと同じくらいの背丈である。深津は同じ高さの目をじっと見つめながら両手を広げた。
「ひと思いにやれピョン」
「おー。しっかり掴まっとげ」
同じくらいの背丈であるが、筋肉量は自分の方が多くて助かった。河田は内心でごちた。
横抱きにした坊主の身体はずしりと重い。誰だよ『自分の所属する部の部長 ※部長本人の場合は副部長』なんて書いたやつは。
深津は河田の太い首に腕を回すと、ぐるりとトラックを一瞥して言った。
「今なら一位ピョン。河田ロボ、発進」
「誰がロボだ」
山王工業高校体育祭名物の借り物競走は、正しくは借りヒト“運び”競走であった。紙に書かれている条件の人物を見つけたら、いわゆるお姫様抱っこで運ばなければならない。ちなみにやむを得ない事情があれば運び役を交代してもいい。
男子生徒が8割を占める学校の悲しき伝統だと、先輩に言われたが、河田からすれば今にも壊れそうな細い身体の女子を最新の注意をもって横抱きにするよりも、筋肉ダルマの坊主を持って容赦ないスピードで走った方がマシだ。幸い、深津も同意見らしく、トラックを走り始めたら自力で首に掴まり始めた。
このまま残り300メートルならいける。河田は安堵した。
しかし次の瞬間、後ろからバカデカい声で名前を呼ばれて「はあ!?」と振り返ってしまった。
「そこの坊主ども、退けええええ!!」
同じく男を横抱きにしているらしい奴が叫んでいるが、そういうお前も坊主だろと心の中でツッコミを入れる。スピードは緩めない。なんなら加速したい。怖いから。
「…宗像ピョン」
「運ばれでんのは誰だ?」
首にしがみついたまま、深津は後ろを観察しているらしい。トラックは半周が終わろうとしている。残りのコーナーはひとつだ。
深津は目を凝らした。五月蝿い野球部の坊主は図体がでかいが、それを抜きにしても抱えている男は小さく見える。あ、坊主頭だ。野球部かバスケ部か?
唇をむいと尖らせて、さらによく見つめたあと、深津は「ああ」と声を上げた。
「イチノだ」
「ああ……」
だからあんなに騒いでいるのか、と河田はどっと疲れを覚えた。
男の首に腕を回している一之倉は、猛スピードで運ばれているとは思えないほどに涼しい顔をしている。それよりも、同じ体格のこちらと違い、あちらは身長・体重ともに“借りヒト”のほうが小さい。明らかに不利なのは河田である。
「このままだと追いつかれるピョン。河田ロボ、加速」
「ロボじゃねえって言ってんべ…!」
腕の筋肉だけでなく、脚にも負担が大きくなっている。河田は数秒前の自分の考えを改めた。軽い女子の方がまだいい。もしくは軽い坊主。
一方、河田・深津を追う男は、これ好機とばかりに一之倉の身体をがっしりと掴まえていた。ちなみに小さいと言われるイチノだが、ちゃんと重い。筋肉の密度が高い。今にも腕が悲鳴を上げそうだが、男は幸せを噛み締めていた。
「ほら、頑張れ頑張れ。もうちょいで追いつけそうだぞ」
「んんんんん聡くんんんんんんん!!」
やるぜやるぜ俺はやるぜ!と鼻息荒く吠えた男は、首に回された腕でちょっと苦しくなる呼吸をむしろ糧にした。走りやすいようにと、身体の中心部にぎゅっと小さくなってくれている一之倉の誠意に報いたい。
──否、聡くんをお姫様抱っこしてゴールテープを切りたい!!
「うおおおおおおお!!バスケ部そこ退けええええええ!!」
「…オレもバスケ部なんだけどね」
そうこう言っているうちに、もう二馬身差くらいしかない。あと50メートル。残りの直線で全てが決まる。
深津は後ろに迫る男のことを、後に「鬼も裸足で逃げ出すほどのウマシカ」と喩えたという。
男はゴールテープを切った。──河田とほぼ同時に。
さすがに腕が限界だった。河田が足を下ろしてやると、深津はハア、と意味深な溜め息を吐く。
「お姫様になった気分だピョン」
「ロボに乗ってる姫様かよ」
たまらず座り込んだ河田の横で、イチノを抱いたままの男が審判に詰め寄っていた。
「今の絶対俺のほうが速かったろ!」
「うーん。同着じゃだめか?」
「ビデオ判定!ビデオ判定して!」
「競馬じゃないんだから」
イチノに諌められてようやく引き下がったが、悪い目つきをさらに悪くして河田の隣へとやってきた。まだ地面に下ろされていない一之倉だが、特に気にしてはいないらしい。こちらにVサインまでしてみせる余裕がある。
運動部の男を抱えてグラウンドを半周してきたとは思えないほど元気な駄犬に、河田は片眉を上げて微笑んだ。
「紙、なんて書いてあった」
大方、『かわいい人』とか『小さい人』とかだろう。それを見せられたイチノが快諾するとは到底思えないが、きっとそれだけこの男に甘いということに違いない。だってここは、男子生徒が8割を占める学校なのだから。
しかし河田の予想に反して、紙を取り出してみせたのは一之倉その人であった。何やら得意げな顔である。
どれどれと覗き込む坊主二人。しかしすぐに隣で舌打ちが聞こえた。
「…悔しいが意義なし。ピョン」
河田も同じことを思った。これならイチノは快諾するだろう。なぜなら野球部の男はウソが付けないほどに馬鹿だからだ。
「“かっこいい人”……なら仕方ねえべ」
「大体想像付くけど、オレ、これ以外では運ばれてやんないから」
ド低音で凄まれて、思わず息が止まる。
しかしそんな声を発した張本人を物ともせずに、さらには下ろす気もないらしい坊主は、まだブーブー文句を言っていた。
「絶対聡くんを1着にするって決めてたのに…!クソ、俺の馬鹿!鈍足!明日から坂道ダッシュするわ!」
「いいね、それオレも付き合う」
「マジ!?聡くんカッケェ!サンキュー!どこまでも着いていくぜ!」
疲労を知らない男がイチノを抱えたままスキップで2年のテントへ戻るのを、グラウンドにしゃがみ込んだままの二人は、ゲンナリした目で見送ったあと、顔を見合わせて困ったように笑ったのだった。