Peer 2 いったい、これはなんなのだ。
サブロは眉間に皺を寄せて、深くため息を吐いた。
「どうかされましたか?」
「う、いや、別にどうもない」
音もなく、いきなりひょっこりとサブロの横から顔を出してきた入間に驚き、上げかけた声をどうにか飲み込む。
「はい、コーヒーをどうぞ。熱いから気をつけてくださいね」
「う、うむ」
出されたコーヒーから立ち上る湯気の香りはこの上なく香ばしい。
「あっ、砂糖は入れますか? ミルクは?」
「ブラックでいい」
「わあっ! 大人の男って感じでかっこいいですね!」
「そうか?」
「はい! 僕、どっちもたっぷり入れないと飲めなくて」
入間は恥ずかしそうにエヘヘと笑いながら頭をかき、サブロと対面のソファへ腰を下ろした。
(こ奴が)
サブロは出されたコーヒーをズズズと啜りながら、薄目で目の前の少年を見やる。入間は相変わらずニコニコと満面の笑みを浮かべている。
(首席が執着している男か)
笑顔を絶やさず自分へ愛想を振りまいている彼は、いたって普通のどこにでもいる少年だ。アリスが端から見ていて痛々しいくらいに入間へ媚びているのがどうにも分からない。
(裏切った警察への復讐心からか……?)
警察組織への反逆なら、確かにバビルの首領へ擦り寄るのも一計だろう。だが、アリスの性格からいって、そんな事はするわけがない。それは断言出来た。だからこそ、今の状況が理解出来ない。
(もしかしたら)
バビルから親しい者を人質に取られ、無理矢理行動させられているのかもしれない。
(それならば、ウヌがなんとかせねば!)
サブロは持っているカップの取っ手を強く握りしめた。
★★★★
「おかしい」
サブロは目の前の屋敷から目を離さないまま、首をひねった。
その屋敷は、シンプルな造りだが気品のある佇まいで、閑静な高級住宅地に浮くことなく見事に溶け込んでいる。
二人が家に入ってからかれこれ一時間は経過しているも、ただの一人も訪れる者はいなかった。
「あれは!」
サブロは車の窓から思わず身を乗り出した。アリスと首領が並んで門から出てきたのだ。慌てて飛び出しかけるも、いや待てと自制する。
周囲には通行人もいた。こんな人目の多いところでやり合うのは本意ではない。
そうこうしているうちに、二人は黒塗りの高級車へ乗り込み出発してしまった。
(どこへ行くのだ?)
はやる気持ちを押さえつつ、サブロはアクセルを踏みこんだ。
(ここは?)
車を走らせること数十分、二人が向かった先は、町はずれにある小さな建物だった。 入間たちはその中へ入って行く。
入り口のドアが完全にしまったのを見届けてから、サブロは周囲を警戒しながら近づいた。ドア横には「診療所」と書かれた小さな看板が掲げられていた。
「よし」
サブロは車から降りると、大股で診療所へ近づく。勢いよくドアを開けて、中へ声を掛ける。
「はーい」
ひょっこりと顔を出してきたのは、なんと入間だった。
まさか首領自らが名乗りでてくるとは思っても見なかったサブロは驚きに目を見張る。
「診察ですか? すみません、今バラム先生は急患に対応中なので、ちょっとお待たせするかと思いますが大丈夫ですか?」
「いや、うむ、待たせてもらおう」
「すみません、お名前を伺っても?」
なんの余興か、バビルの首領は受付嬢のまねごとまでするらしい。動揺を悟られまいと、コホンと一つ咳払いをしてから「サブノック・サブロだ」と胸を張って名乗る。
「サブノックさん。僕は」
「イルマ、であろう」
「はい! え、何で名前を?」
「ヌシは有名人だからな」
「そうなんですか?!」
え、そうなの? オペラさんと入間は隣にいる赤髪の人物へ向かって首を傾げている。
「そうです」
頷いたオペラはサブノックから視線を外さない。でも瞳にはなんの揺らぎも見られない。
(これは正直に話した方がよさそうだ)
「すまぬ。実はウヌは怪我人でも病人でもない」
「そうなんですか! あ、じゃあバラム先生のお客様ですね! 失礼しました、どうぞこちらへ」
入間は慌てた様子で奥を示した。少し先には「応接室」と書かれたドアが見える。
「いや、ウヌは」
「どうぞどうぞ」
「お体、立派ですね。何かスポーツでもされていたのですか?」
「うむ。特に何というわけではないが、日々の鍛錬は欠かさないぞ」
「すごい! なかなか毎日続けるなんて出来ませんよ。どんな鍛錬を?」
「先ず、ランニングを十キロしてからの」
応接間に通されて、いつの間にか入間と談笑していた自分に気づいたサブノックは、グッと出かかった声を飲み込んだ。
話が聞き上手な彼にはついつい何でも話してしまった。こちらは調子が狂って仕方がない。
(ここは一つ)
自分のペースに持ち込まなければならない。
サブロは腹から一つ息を吐くと、前のめりになって入間を見据えた。
「ここの医師に用なぞない」
わざとぞんざいな口調で凄む。
「アスモデウス・アリスを連れてこい」
サブロは唸るような声で目の前のあどけなさの残る少年の顔を睨みつけた。
「アズくんですか? まだ診察中みたいなので、もう少しお待ち頂いてもいいですか?」
入間は申し訳なさそうに頭を軽く下げた。その瞳にはただサブロに対する謝罪の色しか見えず、怯えも虚勢も浮かんではいない。
(こ奴!)
サブロはぎりりと歯噛みをしつつ、イスから立ち上がりかけたそのとき、
「ここにいる」
聞き慣れた声がドア越しに聞こえた。
「首席!」
アリスが部屋へ入ってきた。体のあちこちに包帯を巻き、顔にも擦り傷が出来ている。結構な怪我を負っているにもかかわらず、アリスは無表情でサブノックを見据えた。
「貴様……何の用だ?」
「知れたこと。お前を連れ戻しに来たのだ」
アリスは「ふん」と鼻で笑う。
「何がおかしい」
「連れ戻す? サブノック、貴様はまだそんなことを言っているのか? 警察というものは存外暇なのだな」
「なんだと?」
「アズくん、お知り合いなの?」
二人の間にひょっこりと入間が割り込んできた。頭の触角のような髪の先がゆらゆら揺れて可愛らしく、たちまち緊迫した空気も和んでいく。
「ええ、まあ。腐れ縁といいますか」
「そうなんだ!」
「イルマちー!」
はち切れんばかりの威勢の良い声が室内へ飛び込んできた。
「クララ!」
緑色の髪をした少女だった。入間よりももう少し年上かもしれない。大きな瞳をせわしなく動かして、ころころと笑う顔がなんとも愛らしい。
「診療所、あちこちにいっぱいあるから、捜すの大変だったんだよー!」
でも、やっと見つけたあ! と、クララは笑って入間の隣へ当たり前のように腰を下ろした。そして、サブロを見やると「この人、だあれ?」と首を傾けた。
「アズくんと昔からの友達だって」
「友ではない!」「違います!」と、入間の回答に二人は揃って異を唱える。
「でも」
「へえー?」
クララは立ち上がり、サブロとアリスを囲むようにぐるぐる回り、交互に見比べる。
「なんだ?」
不躾な視線を向けられて、サブロは顔をしかめた。クララは唐突に鼻先が触れ合うほどに顔を寄せて「ねえ、どっちが強いの?」と首をまたかしげる。
「もちろんウヌだ!」「私に決まっているだろう!」
ほぼ同時に二人が吠えるように主張する。
「えっと、アズくん? サブノックさん? 二人とも?」
「入間様、お下がりください」
アリスはそう言うと、いきなりサブロの横っ面へめがけて左手の拳を猛烈な勢いでつきだした。それをサブロは腕で防御し跳ね返す。バランスを崩したかと思ったが、アリスはその勢いのまま、くるりと片足を軸にして反転し、今度はわき腹へ蹴りをかます。
「決まりだな。――うっ!」
だが、サブロはその足をむんずと捕まえるとそのまま後ろへ放り投げた。
「動きが単調すぎるわ!」
「っち」
壁に激突するかと思いきや、アリスは空転すると両足で壁を蹴り、いったん床へ転がるもすぐに身を起こして、サブロを睨む。
「ちょこまかと五月蠅い奴だ」
「あいにくバカ力相手には不足ないのでな」
そう言ってニヤリと笑った元同僚に、サブノックが訝しさに片眉を上げたそのとき、
「はいはい、止め止めー!」
「うおっ!」
「わっ!」
「もー! ここはけが人、病人がいるところなんだよ! もっと静かに! 喧嘩なんて御法度もいいところ!」
「バラム先生!」
(いつの間に?!)
大柄な男性がいつの間にか背後に立っていた。口元には仮面のような物を付けている。
自分と同等、それ以上の体格を持つ者は巷に溢れんばかりにというわけではないが、いるにはいる。この世界にいればなおさら対面する機会も増えた。しかし、今自分とアリスの首根っこを背後から掴んでいる者は体躯だけではなく、底に流れる気迫というものが他人よりも段違いだった。気を抜けば飲み込まれ、あっという間に押さえつけられるだろう。
(出来る……!)
背中を冷や汗が伝うのが分かり、身を硬くする。
「オペラさんまで! 大丈夫だから!」
「なっ」
頬に冷たい金属の感触をひやりと感じ、初めてナイフを当てられていることに気づく。
「坊ちゃん、こういう輩はすぐ調子に乗ります。ちょっと分からせないと」
「大丈夫だって! だってアズくんの友達なんだから!」
オペラは顔をしかめながら、ゆっくりとナイフを懐へしまった。サブノックは小さく息を吐く。そうでもしないと、強ばっていた体が動かなかったからだ。
「すみません、サブノックさん」
「友ではない」
「え?」
「友ではない」
己に言い聞かせるように、言葉を噛みしめるように言う。
「でも仲良しじゃないですか。こんなところにまでアズくんを訪ねてくるなんて」
「それは……」
サブノックが言い淀んだのを見計らってか、アリスが「もう貴様は帰れ」とつぶやくように言った。
「今日は帰る」
サブノックは応接室のドアノブへ手を掛けた。
「首席よ」
入り口へ向かいながら、用心のつもりなのか、後ろをついて歩くアリスへ声を掛けた。
「なんだ?」
「ヌシは自分の判断でイルマの元へいるのか?」
「勿論だ」
アリスは何を今さらといった表情できっぱりと断言した。
「だったら良い」
だったら、自分も好きなように出来る。
「二度と私たちの前に現れるなよ」
「それは無理だ」
サブノックは口端を上げながら答えた。
「なんだと?!」
「これからも監視させてもらうぞ」
「貴様まさか!」
アリスが突然怒鳴った。どうした? と振り向くと、憤怒の形相を浮かべて仁王立ちになっている。ここまで怒りを露わにした彼を見るのは過去に数えるほどしかない。
「どうした?」
「アズくんー!」
アリスの後ろから入間の声と、トントンと軽快な足音が聞こえてきた。
「イルマ様!」
「バラム先生が呼んで――んんっ!」
手を振りながらこちらへ走ってきた入間を迎えるような形で、アリスはサブノックの目の前で彼を抱き締めた。サブノックがあまりの驚きに口を開けていると、さらに入間の唇へ噛みつくようにキスをした。チュクチュクと唾液を啜り、舌を絡め合うような卑猥な濡れた音が廊下へ響く。
「んっ…あ、アズく、ん…サブノックさんが見てる…恥ずかしいよぉ…んんっ」
唇を重ねながら、アリスはサブノックを睨みつける。その強い視線にサブノックは声も発することが出来ない。
「イルマさまは私のものだ! 貴様なぞには渡さん!」
ようやく唇を離したと思えば、いきなりそう吠える。
サブノックはこれみよがしに大きくため息を吐くと、踵を返して歩き出した。
「また来る」
「もう来るな!」
「あ、サブノックさん、また来てくださいね!」
「イルマさまいけません! 奴は――――」
自分への悪態を背中越しに聞き流しながら、サブノックは横目でちらりと上階段へ目を走らせた。
手すりのすき間から赤い瞳がこちらを射貫くように見ている。サブノックの視線に気づき、サッと気配を消した。入間から「オペラさん」と呼ばれた人物だろう。
「バビルとは一体」
サブノックは得体のしれないジャングルへ安易に足を踏み入れたことを自省しつつも、それ以上の好奇心に胸を躍らせながらドアを開けた。