お引っ越し!(あすさとSS)「ふ~、なんとか片付いたかな?」
入間は額に浮かんだ汗を首にかけたタオルで丁寧に拭いながら、ほっと息を吐いた。一人暮らしには広すぎるくらいの広さのこの部屋なのに、あちこちにまだまだ段ボール箱は山積みになっている。必要最低限の物だけ持って来たはずだったが、あの狭いアパートの一室にこんなに物があるとは思わなかった。
「もうひと頑張りしなきゃ!」
腕まくりをしながら気合いを入れたそのとき、玄関のチャイムが鳴った。引っ越して来たばかりのマンションに当然知り合いはおらず、配送業者も帰ったばかりだし、電気ガスなどの業者が来るにはまだ早いよねと腕時計を見やった入間は「しまった!」と顔を青くする。慣れない片付けに手間取って、自分が考えていたよりもかなり時間は経過していた。鳴らした主に十分な心当たりがあるので持っていた荷物を文字通り放り出して、長くはない廊下を全速力で走って玄関へ向かった。
「明日ノ宮先生! すみません!」
「入間くん……」
ドアを勢いよく開けたそこには入間が編集担当をしている作家の明日ノ宮有栖の姿があった。秀麗な眉を眉根に寄せている。
「マンションの下までお迎えに上がるはずだったのに……! 片付けに夢中になっていて時計を見てなくて! ごめんなさい!」
「有栖だ」
「へ?」
唐突に言われて、思わず口が開く。
「プライベートでは『有栖』と呼ぶと、この前約束したはずだが」
掛けている眼鏡の端をクイと指で押し上げながら、これ見よがしにため息を盛大に吐いた。
「上がっても?」
「あ、えっと……とりあえず、どうぞ!」
「失礼する」
「まだ全然片付いていなくて。こんなところですみませんが座ってください」
持って来たちゃぶ台を直にリビングのフローリングに置いて、敷いた座布団へ有栖を座らせると、有栖は台の上にドサリと持っていた大きな袋を置いた。
「なんですか?」
「引っ越し蕎麦だ」
「わー! あそこのお蕎麦屋さんのお蕎麦じゃないですか! すぐに売り切れるのに!先生、有り難うございます!」
お礼を伝える入間に対し、有栖はまた顔をしかめる。
「先生? あ、えっと、……有栖、さん」
「ぎこちないが、まあいいだろう」
そう言うと同時に、有栖はフッと息を吐いた。同時にククッと笑い声を漏らす。
「もー! からかわないでください!」
「すまない……君の行動が可愛くて、つい」
ぷうっと頬を膨らませた入間を見やり、有栖は笑いを堪えることが出来ない。
「もう! 笑いすぎですよ。でも、決めたことなので……気をつけます」
下の名前で呼ぶこと。つい数日前からお付き合いというものを始めた二人が話し合って決めたことの一つだった。
「あ、もう一つの約束がまだでしたね」
「あ、ああ」
有栖へ向き直った入間は目を閉じて少し上を向いた。有栖は軽く咳払いをしつつ、掛けている眼鏡を外す。
「失礼する」
有栖は背を少し屈ませて、入間へ唇を寄せた。
もう一つの約束である「挨拶のキス」。ちゅっと軽いリップ音が耳に心地良くて、入間の頬はいつも緩んでしまう。
「さあ、せっかくの蕎麦が伸びてしまう。早く食べよう」
また咳払いをした有栖がそう言って、手早く蕎麦が入った容器をテーブルへ並べ始めた。
「はい!」
「なかなか良い部屋じゃないか」
一足先に蕎麦を食べ終えた有栖は、部屋の中をぐるりと見回す。
分譲貸しのこのマンションは最近建てられたばかりだったので、外観もまだ新しく、部屋の中もそこそこ綺麗だった。
「もうここに住めばいいのでは?」
「うーん……それも魅力的なんですが……やっぱり今のアパートも捨てがたくて」
このマンションは期間限定の居住だった。というのは、入間の住んでいたアパートが建築法云々の関係で、ほぼ建て替えのような改修工事をしなければならなくなり住むことが出来なくなって、入間は半ば強制的にアパートを追い出されてしまった。アパートは当初、とにかく家賃の安さが魅力的で決めた物件だったが、住むうちに愛着が湧いてきて今は離れがたくなってしまっていた。
だが、引き払う時期は入間の中で密かに決まっている。でもそれは相手もあることなので、今はまだ願望に近い。けれど、そうなるといいなと入間は蕎麦をたぐりながら、ちらりと有栖を横目で見やった。
「どうした?」
「いえ、なんでもないです」
「ここに、このカーテンを付けるのかい?」
手持ち無沙汰になったのか、有栖は段ボール箱からカーテンを取り出している。
「ええ。あ、置いといてください。僕が付けるので」
「遠慮しないで。君は蕎麦を食べていなさい」
入間が急いで蕎麦を食べている間に、有栖はリールに手際よくカーテンを付けていく。
「これでいいか?」
「はい! ありがとうございます!」
「片付けは苦手だが、このくらいは――、」
有栖の動きが止まった。どうしたのだろう? と近寄って見れば、壁に貼られたポスターを凝視している。それは巨乳アイドルのグラビアポスターだったので、入間は慌ててポスターを剥がし、背中へ隠す。
「これ、前に住んでいた方の物です! 僕のではないです! ちょっと壁に傷が入っているので隠すのにちょうど良くてそのままにしていただけなんです」
「壁に傷?!」
「えっと、これです」
驚いている有栖にその箇所を指し示す。それを見た有栖の顔がたちまち険しくなった。
「入間君、これは傷じゃなくて穴だ。至急管理会社に電話して直してもらいたまえ」
そうぴしゃりと言い放った。
「明後日には来てくれるそうなんですが……」
壁の傷、もとい穴はドリルか何かで人為的に空けられた物で、辛うじて貫通していないものの、だがちょっと押せば簡単に穴が空くくらいの物だったので、さすがに入間も管理会社へ連絡していたのだが、ちょっと今忙しいので後でいいですか? と、「お願い」されてしまい、入間はそのままにしていたのだった。
「それならいい……じゃないぞ! 今すぐ来てもらいなさい!」
私が電話すると、有栖は自らのスマホを取り出したので、慌ててそれを制止しつつ、入間は管理会社へ電話をし、来訪の約束を取り付けて、二人でホッと胸をなでおろした。
「二時間くらいで来てくれるそうです」
「まったく……ほら、隣の声が丸聞こえじゃないか!」
ゲーム音楽のような低音がズンズンと振動を伴って聞こえてきた。何を喋っているのかは分からないが、男性二人の話し声も耳に入る。だが、すぐに静かになった。
「お隣さんにも相談したのですが、『僕は別に気にならないよ!』って軽く言われちゃいまして」
それもあって、入間は穴の修繕を先延ばしにしてしまったのだが、あちらの音が聞こえるということは、こちらの音も聞こえるということなので、やはり早めの修理になって良かったと安堵する。
「じゃあ僕、ご飯の後片付けをしますね」
入間は空になった容器をキッチンの流しへ運ぶ。
「隣の住人はどんな奴――――」
リビングに残った有栖の言葉が不意にぴたりと止まる。
「どうしました?」
異変に気づき、キッチンからリビングへ顔を出すも、有栖はゆるく首を振った。
「いや……部屋の片付けを続けよう」
「いえ! 先生は座っておいてください!」
「先生じゃなくて」
有栖だ、と言いつつ、段ボール箱を持ち上げる。
「有栖さん」
「手伝わせてくれ。この食器はこの戸棚でいいのか?」
「はい」
この部屋は単身者用なので、キッチンの間取りは狭い。洗い物をする入間の背中と、その後ろの棚へ食器をしまう有栖の体はどうしても触れ合ってしまう。
(汗臭くないかな? 大丈夫かな?)
入間は内心ドキドキしながら、洗い物を黙々と続けて。
「あれ? また何か聞こえませんか?」
大方の荷解を終えた入間の耳に何かの音が届いた。でも何かは分からない。
「そ、そうか? 私には何も聞こえないが?」
「あの壁から聞こえるかも?」
例の穴が空いた壁に顔を近づける。
「入間君、この本はどこに置くんだ」
「すみません、それはそこに――、」
背後から呼び止められるように話しかけられて、向き直った入間に今度ははっきりと「声」が聞こえた。一瞬、言葉が止まる。
『あっあっ…ん』
それは嬌声だった。
『あっあっ、そこ、ぐりぐりしちゃヤダ』
「ぐりぐり?」
思わず首を傾げた入間を見やり、有栖は額を押さえて大きくため息を吐いた。
「隣人は……真っ昼間から仲がよろしいようだ」
「そ、そうみたいですね!」
あはは、と笑ってみたものの、自分でも乾いた笑いだという自覚があった。
『んひぃ、うぁっ、あ、あっ』
もう疑いようがない。しかもどんどん声は大きくなって、はっきりと聞こえだした。
「あの、このマンションの近くに美味しいおまんじゅうを売っている和菓子屋さんを見つけたんです! そこの餡子が甘すぎず、かといってあっさりとしているわけでもなく、とにかく絶妙の味わいで、」
『んんッ…、おちんちん、もっと触ってえ……』
「…………」
決して聞き耳を立てているわけではないが、どうしても無口になってしまう。
(ど、どうしよう?!)
もう和菓子の話なんて頭から飛んでしまった。
『奥まで、あん、んっん、もっとちょうだい…中もっとほじってぇ』
(奥まで?!)
『あっ! …あっあっ…こんなの、はじめてだよぉ…』
(何がはじめて?!)
いちいち突っ込まずにはいられない。有栖は終始無言ではあるが、「はじめて」と聞こえたときにぴくりと肩を震わせていた。
紛らわすために会話したいが、先ほどみたく上滑りのものになることは分かりきっているので口を開くことが出来ない。音や映像で紛らわせる手もあるが、あいにくまだテレビも何も繋がっていない。それならと、スマホで音楽を流すことを思いついた入間が、スマホを入れたカバンへ手を伸ばしたとき、固まっていた有栖がいきなり動いた。壁へ近づくと貼っているポスターを取り、穴の横へ耳を当てる。
「せん、有栖さん! さすがに駄目ですよ!」
「君との今後に備えて――いや、こ、今後の作品の参考にしたいんだ」
「今後の僕? あ、ああ! 今後の作品のため! そうですね! じゃあ僕も」
好奇心という悪魔に負けてしまった二人は揃って壁に耳を押しつける。
『あっあっ…うぇっ、だしたいよぉ…これ、取ってぇ』
入間の喉が無意識に鳴る。カアッと下腹部が熱くなっていくのが分かった。ズボンの前が苦しい。ちらりと有栖を見やれば、股間が見事に盛り上がっている。
「あっ! いやこれは」
入間の視線に気づいた有栖は慌てて隠そうと身をよじる。その仕草が無性に可愛い。
「有栖さん……」
入間は半ば無意識に吸い寄せられるように有栖へ抱き付くと、その口端を舌先でペロリと舐めた。そして唇を軽く押しつける。
「キス、しちゃいました」
ごめんなさい、と俯いた入間を今度は有栖が抱き締めた。
「我慢しようと思ったのに……全く君は!」
眼鏡を床へ放り投げながら、有栖は言葉とは裏腹に優しい口調で入間へささやいた。
「え? ――んっ」
噛みつくように、有栖は入間の唇を自分のそれで覆った。差し込まれたぶ厚い舌が、入間の口の中で滅茶苦茶に暴れる。いつもの挨拶のキスとは全く違う。
「ふぇ…」
口端から零れる唾液を拭く間もなく、二人絡み合って床へ転がった。
「下に資源ゴミを置いておける場所があるので、この段ボール持って行きます」
「私も行こう」
「僕一人でも持てますから」
「私が行きたいんだ」
そんな会話をつらつらとしながら玄関を出ると、ちょうどあの隣の住人も二人並んで部屋から出てきた。
「あっ、こんにちは!」
「こ、こんにちは!」
年若い方の青年が元気よく挨拶をしてきたのに、入間は若干言葉に詰まってしまった。あんな痴声を聞いてしまった後では仕方ない。くりりとした大きな瞳の活発そうなこの青年が隣の住人だと、入間は有栖へ小声で説明する。
「入間君、分からないことあったら何でも聞いて」
「はいぃ」
挨拶に赴いたときから、青年は非常にフレンドリーで優しかった。お隣さん、良い人で良かったとしみじみ思っていた矢先に、あんな事が起こってしまい、入間はどんな顔をして話せばいいのか分からない。
「こんにちは……」
お隣さんの横に立っている男性はボソボソと挨拶を口にしてバツが悪そうによそを向いているので、もう一人の声の主というのはバレバレだ。
(あれ?)
パーカーのフードを目深に被っているので顔は見えづらいが、どこかで見たことがあると入間は首を捻る。そしてその瞬間、記憶が蘇り、思わず声を上げてしまった。
「あーっ!」
最近、SNSで話題になっているヌーチューバーだった。そう指摘したとき、「げっ」と顔をしかめて呻いていたので間違いない。
「僕、バビルス出版の佐藤入間と申します。以前から先生にはお話を伺いたいと思っておりまして――」
ポケットから取り出した名刺を握らせて詰め寄る。
「すごいじゃないですか! あのバビルス出版から取材ですよ取材!」
自分のことのように嬉しげにはしゃいで飛び跳ねる青年へ冷めた視線を送る男性だったが、その口角は微妙に上がっている。
「あ、また改めて御連絡させて頂きますね! 失礼しました」
我に返って頭を下げる入間に対し、今度は青年が有栖へ詰め寄った。
「佐藤君、こちらのすっごいイケメンの方は? あれ? どこかで見たような?」
「私は……」
口を開きかけた有栖を制すように入間はその前へ出た。
「僕の……恋人です!」
勢いよくそう宣言する。目を丸くした青年たちだったが、すぐに満面の笑顔になった。
「そうなんだ! お似合いだね!」
「ありがとうございます!」
「行こうか」
有栖は段ボールを抱えてエレベーターホールへ向かうべく歩き出した。
「失礼します!」
隣人へ会釈して、その後ろを慌てて追いかける。
エレベーターが来るのを並んで待つ。
階数表示パネルを見やりながら、幸せだなと入間は有栖の肩へそっと頭を寄せて。
【終わり】