先手必勝の「おかえり」をこういうところは意外と几帳面な阿含なので、カレンダーの類は毎月一日のうちに捲らないと気が済まない。今日も帰宅して荷物を置くと、何より先にテレビ台の前の卓上カレンダーを手に取った。
次に暖房のスイッチを入れ、BGM代わりのテレビをつける。今日は午前授業のみで部活もなく、珍しく空が明るいうちに帰宅することができた。しかしアウターを突き抜けるような外気の寒さを大学からの帰り道で味わっていては、今から遊びに出かける気にもなれない。ベランダの窓から外を見れば微かに雪が降り始めていた。
大学入学後しばらくは実家からキャンパスに通っていた阿含だったが、後期授業が始まる前に大学近くのマンションに移り住んだ。アイツに食事の用意や掃除なんてできるのかと周囲からは心配されたものだが、先述の几帳面さが功を奏して意外と生活は上手く回っている。
(本当はもっと自堕落に過ごす予定だったんだけどな)
暖房が効き始めた部屋の中で、ベッドに寝転びながら阿含は思う。最初は一人暮らしをしたら女なんか連れ込み放題だと思っていたから、学生には広過ぎるくらいの1LDKを借り、寝室にはダブルベッドを設置した。しかし実際に暮らし始めて分かったのは、自分が存外プライベートな空間に見知らぬ存在を踏み込ませたくない人間である、ということだった。
自分の全てであるこの部屋に名前も知らない女を上げるのはどうにも気が進まず、そもそもそれなりに部活と授業が忙しく高校の頃ほどナンパをする暇がない。そんな理由もあって、ダブルベッドは結局ほとんど当初の目的では使われぬまま阿含一人分の体重を受け止め続けている。
「ああー……」
すぐ近くで声がした。顔を向ければ阿含が寝転んでいるベッドのサイドフレームに背中を預け、カーペットの上に座り込んでパソコンを操作していたヒル魔の姿が目に入る。
先ほど阿含と一緒にこの部屋に上がり込んでからずっとここで作業をしていたヒル魔だったが、ここにきて何か問題が発覚したらしい。顔を顰めてパソコン画面を凝視するヒル魔の横顔を黙って見つめていると、ヒル魔は視線に気付いて阿含の方を向いた。
「何かあったのか」
「いや、大したことじゃねえ……。書類を手配してんだが、それが住民票の住所宛てじゃねえと送れねえんだと」
「テメーの住民票って実家か?」
阿含の問いにヒル魔は黙って頷いた。
彼の実家と最京大は真反対の方向にあるため、通学には時間がかかる。アメフトに関する分析や情報収集に時間を割きたいヒル魔にとって、往復二時間弱のタイムロスは大きい。そのためヒル魔は正式な住所は実家におきながらも、普段は大学や練習場近くのホテルを点々とする生活を続けていた。
中でも使われているのがこの、阿含の部屋である。ホテルよりもスペースが広く、ビデオデッキ等の機材も充実していて、何より阿含が気まぐれを起こせば作業を手伝ってくれることもある。最も作業効率の良いこの場所をヒル魔も気に入っているようで、試合の前などはほぼ阿含の部屋に入り浸るようになった。
毎日のように床とテーブルに勝手に資料を並べられ、試合のビデオを流して意見を求められて、言えば違うと却下された。それでつい阿含も火がついて、互いに嫌味の応酬を繰り返しながら一緒に分析を進め、長丁場になった日には夕食に宅配ピザを頼んで、徹夜した朝は寝室とリビングのソファに別れて昼まで眠るのだ。文句を言いつつ、それでも阿含は部屋を貸すのを断ったことはなかった。
よく「相手が自分といる時だけに見せる安心し切って気の抜けた顔が好きだ」と言う人間がいるが、阿含はむしろヒル魔がアメフトに夢中になってエンジンがかかっている時の顔が好きだった。自分の部屋にヒル魔がいても不思議と悪い気はせず、それどころか欠けていたピースが埋まっていくような心の平穏さえ感じていた。
「いい加減俺も部屋借りっかな」
そうぼやくヒル魔の声で、阿含の意識は現実に引き戻される。
「……今の時期じゃもうほとんど埋まってんじゃねえか?」
「こだわらなきゃ空いてんだろ。家なんか大学に近くて寝れる場所がありゃ良い」
ヒル魔はパソコンから目を離さず、キーボードに何やら打ち込みながら阿含に言い返す。何だそれ、と焦りと苛立ちがちくりと胸を刺した。部屋を借りるということはもうヒル魔がここに来る理由はなくなるということだ。……この日々を気に入っていたのは自分だけか?
「じゃあ、もうここテメーの家にしちまったら?」
阿含の口から発された言葉で、ヒル魔の手がピタリと止まった。
「は……?」
「こだわらねえんだろ。ここなら大学にも近えし」
「そりゃそうだが……」
ヒル魔の声が戸惑いで揺れた。つけっ放しのテレビからはニュース番組が流れ続けている。そんなはずもないのに、自分の心臓の音がヒル魔に聞こえるんじゃないかと阿含は気が気ではなかった。
以前の阿含なら、こんな弱みとも言える感情を相手に曝け出すようなことはしなかっただろう。でももう何度目だろうか。阿含はこちらを向いたヒル魔の顔を真っ直ぐに見据える。昔からいつだって少し手を伸ばせば触れられる距離にいたのに、振り返れば毎回この男から手を差し伸べられてばかりだ。
「書類だって、明日住民票移して手続きしたら間に合うんじゃねえのか」
「まあ。けど、毎日ソファで寝るってのもな」
「このベッドなら二人いける」
「……」
「俺も、家賃安くなるし」
ああ違う。本当に言いたいのはこんなことではないのに、どうでも良い言葉ばかり口から溢れてくる。
しばしの沈黙の後、ヒル魔がすっくと立ち上がった。そしてそのまま近くにかけてあったダウンジャケットを羽織ってマフラーを巻きだすものだから阿含も慌ててベッドから起き上がる。
「おい待て、俺が言いてえのは……!」
スタスタと廊下を歩いていくヒル魔を追いかけて咄嗟に手を掴む。よほど焦った表情をしていたのか、顔を見たヒル魔に驚いたように笑われた。
「……ホテルのチェックアウトして荷物取ってくんだよ」
「戻って来んのか?」
「テメーが言ったんだろ、ここを家にしろって」
ヒル魔は呆れとはにかみの入り混じった笑みを浮かべ、小さく頷いた。我ながら無茶だと思っていた提案が受け入れられたのが俄かには信じられなくて、返事もできずに立ち尽くす。
「早くしねえと、夜は雪が酷くなるってニュースで言ってたろ?言いてえことっつうのは帰ってきてからゆっくり聞いてやる」
「……ああ」
「ん。じゃあ行ってくる」
阿含の返事も待たず、今度こそヒル魔は玄関を出て行った。が、阿含にはもうそれを気にしている余裕はなかった。
急いで廊下を歩いて寝室に戻り、寒さも気にせずベランダの窓を開けて外に出る。柄にもなく気を落ち着かせようと深呼吸をした。
次にあの玄関のドアをヒル魔が開ける時、何を言えば良いのだろう。優秀な脳はフル回転でそれだけを考え続ける。家賃の話と最低限の家事分担の話と、今までの日々が嫌いではなかったことと、それからもっと根底にある自分の気持ちと。「言いたいこと」なんて本当はいくらでもあって、大小問わず泡のように言葉が浮かんでは消えていく。でもまず一言目は……。
ベランダにはもう薄く雪が積もっている。ひやりとした冬の風が頬の熱さを冷ましてくれるような二月のことだった。