新調した毛布にくるまって、片割れとぴったり身体を寄せ合う。体の芯まではなかなかあったまってくれない二月の朝。那由汰はぶるっと震えた身体をアラーム代わりに目を覚ました。
…………二度寝すっか。
そう決心する瞬間が幸せだったりする。スースーと寝息を立てる兄の体温を借りようと、腕をまわして再びまぶたを閉じた時。
「おーい! 珂波汰ぁ!」
ドンドンと玄関のドアが激しく叩かれ、部屋全体がたぶん、揺れた。那由汰の口からは迷わず舌打ちが飛び出す。寝たふりを決め込むか、ドアを開けるか。迷っている間にも、兄の名を呼ぶ聞き慣れた声とノックの嵐は止まない。
…………マジで諦め悪いな。
かれこれ五分くらい経った頃、とうとう那由汰の方が折れて布団のぬくもりを手放し、渋々玄関へと向かった。
まだ眠っている珂波汰に気を遣ってそっとドアノブを回す。明らかに不機嫌な顔をして睨んでも、ソイツは全く悪びれた様子もなくてなおさらムカついた。
「お、那由汰おはよう!」
BAEの赤髪こと朱雀野アレンは鼻の頭まで赤くしながら「やっと開けてもらえた」だのほざいている。
「お前、今何時だと思ってんだよ」
「え? 七時ってそんなに早いか?」
「俺らにとっては夜中だっつーの」
「そ、そうなのか? えっと……ごめん……」
さすがに夜中は盛ったけど、少しくらい悪びれろよな。
そんな那由汰の思惑通り、アレンは叱られた犬みたいにシュンとしていた。
「……で、何の用? 珂波汰ならまだ寝てっけど」
「あ、ああ! これを渡しに来たんだ。授業の前にと思ってさ」
言い終わると、那由汰の目の前に光沢のある黒い紙袋が差し出しされた。
借りてたレコード、とか? それにしては小さすぎる。よほど大事なものが入っているようで、アレンの両手は慎重に袋を支えていた。
「なにこれ」
「何って、チョコレートだよ。今日はバレンタインデーだろ?」
バレンタインデー。
全く知らないイベントではないものの、那由汰にとっては興味がないに等しかった。二月十四日が過ぎて、売れ残った板チョコを安く大量に手に入れる方が楽しみなくらいだ。
それに。
「女が男にあげるやつじゃん」
バレンタインというイベントに対してはどうしてもその印象が強い。毎年この時期になると、ライブ終わりに女のヘッズがこぞって出入口のところで待ち構えている。もちろん、知らない奴からの食べ物を受け取る気なんてさらさらない。バレないよう、裏口から珂波汰と逃げるように帰路に着くのが恒例となっていた。
そんな那由汰の率直な投げかけに、アレンは丁寧に言葉を返す。
「男とか女とかは、関係ない。大切な人たちに『大切に思ってる』って、ちゃんと伝えられるいい機会なんだ。夏準とアンにもあげたぞ」
「……ふーん」
決して咎めようとはしないアレンの穏やかな口調は、「そんなもんなのか」とすんなり那由汰を腹落ちさせた。同時に、後ろから裸足の足音がペタペタと聞こえてくる。
「ふあ〜あ……ねみぃ。那由汰、勧誘なら俺が追っ払ってやる……って、何しに来たんだよてめえ!」
「珂波汰も起きたのか!」
「あー、お前のせいでな」
那由汰があえて半開きにしていたドアを珂波汰が全開にする。それから裸足のままアレンのすねのあたりを目掛けて蹴りつけた。
「痛っ……! ちょ、珂波汰! 痛い痛い!」
「今何時だと思ってんだよ」
「悪かった、ごめんって! あっそうだ、これ!」
アレンが慌ててさっきの袋を突き出すと、珂波汰の攻撃がぴたりと止んだ。
「? んだよ、これ」
「バレンタインのチョコレート!」
「……はあ?」
さっきまで大事に持ってたそれを、今度はぐぐーっと珂波汰の胸に押し付け無理やり受け取らせる。
「那由汰とも分けてくれ……って、もうこんな時間か。俺行かないと!」
「な、おい……っ!」
珂波汰の言葉を遮り「じゃあまたな!」と残して赤い嵐は行ってしまった。
「……逃げたな」
「うん、逃げた」
やっと出てってくれて清々したけど。
悪態をつきながら兄の横顔を見ると、目線の先にあるのは今し方押し付けられたばかりの高級そうな紙袋だった。
「…………」
「食わねえの?」
「…………」
「じゃー俺開けていい?」
返事を待たず、珂波汰の腕の中のものをひったくってテーブルに置く。このくらい強引じゃないと、珂波汰は変な意地を張って一生中身を見ないかもしれない。そう思ってブラウンのリボンが十字にかけられた正方形の白い箱を取り出してやった。
リボンを一気に引き解いて箱を開けると、違う色、違う形の一口サイズのチョコレートが四つ仕切られて入っている。一粒ずつに細かな装飾があり、本当に食べ物なのかと疑ってしまうほど。
「おお……すげえ」
那由汰の反応につられた珂波汰が肩に顎を乗せて覗いてきて、その隙をつく。
「ほら」
チョコレートをひとつ摘み、珂波汰の口の中にすかさず押し込んだ。
「んぐっ」
「珂波汰、うまい?」
「…………ん」
珂波汰は満更でもなさそうに咀嚼を続けている。ここまでして、ようやく。SUZAKUの奴にひとつ貸しだ。「ほい、もう一個」と再び兄貴の口を開かせた。
「……つか、那由汰はもらわねーの」
「何を?」
「チョコ」
「誰に」
「誰にって……今日は会わねえのか」
「!」
珂波汰の点々とした言葉がようやく那由汰の頭の中で繋がった。
期待に胸が膨れ、心が浮き立って、頬がじんわり熱を持つのが分かる。
そっか。もしかしたら、あいつから。バレンタイン、案外悪くないかもしんねえ。
ちなみに最後のひとつは「那由汰が食え」と珂波汰が頑なだったので、仕方なくもらうことにした。スーパーボールくらいの丸いチョコは、舌の上に乗せた途端あっという間に溶けていく。箱と一緒に入ってた小さい紙いわく、『トリュフ』と呼ぶらしい。変な名前だ。
◇
朝だけでなく、夜もめっきり冷え込んだ今年の二月十四日。結論から言うと四季には会えなかった。
『ごめん。今日はだめなんだ』
珂波汰と背中合わせの布団の中で、何時間も前に送られてきたメッセージを読み返す。眠っている珂波汰にスマホのライトが当たらないよう、毛布を自分の頭の上まで引っ張りあげた。
あの後なんとなく落ち着かなくなって四季に『会おうぜ』と連絡してみると、返事はあっけないもので肩透かしを食らった。
勝手に期待していただけだし、そもそも今まであってないようなイベントだったから別にいいんだけど。
──大切だって伝える日、か。
このままこの日を終えたくないと思うのは、きっとSUZAKUの言葉が引っかかっているせいで。ささくれみたいに、知らないふりをしようとしても気になってしまう。
どうしようもないもどかしさを紛らわせるため何度か寝返りをうつ。すると前触れなく閃いた。
(俺が渡せばいいんじゃね?)
どうして丸一日気がつかなかったのか。そうだ。自分から渡せばいい。やっぱ俺天才。得意げになる反面、自惚れぶりに身悶えしそうになって背中を丸めた。
何かをしてもらうことに慣れすぎているのだ。珂波汰からも四季からも、いつも与えてもらってばかりだから。
(たまには、俺から)
一日くらい過ぎたってどうってことないだろ、たぶん。そうと決まれば色々準備が必要だ。アラームを七時にセットして、スマホを布団の端っこに寄せる。閉じたまぶたの裏で、珂波汰と四季が目を丸めて驚いている。まだ何もしていないのに、ふたりの反応を想像するだけで満たされていく気がした。
「……那由汰? まだ起きてんのか?」
背中越しに珂波汰のかすれた声が飛んできてようやく、片割れを起こしてしまったことに気づく。
「もう寝るよ」
「そっか……」
「ん。おやすみ」
那由汰の返事に安心したのか、珂波汰が再び寝息を立て始める。朝借り損ねた体温を今度こそ、と珂波汰の身体に腕を回すと、那由汰もいつの間にか眠りに落ちていた。