お嫁に行きますっ! プロローグ
このところ鬼殺隊士の間でまことしやかに囁かれている噂がある。
ここは蝶屋敷、蟲柱胡蝶しのぶの私邸兼怪我をした隊士たちの療養先として存在する。
鬼殺隊士、竈門炭治郎はこれから向かう任務の調整のため蝶屋敷を訪れていた。
——突然だが、炭治郎は今、とても悩んでいる。
尊敬する柱の一人、炎柱煉獄杏寿郎から気持ちを伝えられたのは最近のこと。
「俺は君が好きだ」
自分にとってはいつだって「煉獄杏寿郎」は特別な存在だった。
尊敬する柱。追いかけても追いかけても追いつけない大きな背中に、いつしか俺は憧れ以上のものを抱いていた。しかし、自分は彼にとっては鬼殺隊士の一人にすぎない。特別な存在には決してなれない。想いを伝える気などなかった。迷惑を掛けたくない。拒絶されたくない——日に日に膨らむ想いに蓋をしてきた。それなのに。
「竈門少女! 俺の『好き』はこういう意味での好きなんだ! 師弟愛でも友情愛でもない。こんな、欲にまみれた汚い感情を俺は君に持っている。幻滅しただろうか?」
先日、煉獄の口からその想いを伝えられた。
柔らかな口付けとともに。
その時のことを思い出し、炭治郎は赤らむ顔を両の手で覆った。
煉獄さんも、俺と同じ気持ちだったなんて。
幸せで、幸せで、どうしていいかわからない。でも……とても嬉しいです、煉獄さん。
こうして、俺、竈門炭治郎と炎柱煉獄杏寿郎さんとの交際が始まった。
俺、竈門炭治郎は、こんな名前だけど正真正銘、女の子だ。額には、小さい時に弟を庇って負った火傷の痣があるけど、気にしてはいない。もともと男勝りだった俺は、男性隊士とも気兼ねなく話せるし、女だからと引けを取るつもりもない。
父から受け継いだ日輪の耳飾りが、いつでも俺を守ってくれていると、そう、信じている。
そんな俺が、初めて恋をした。
鬼殺隊最高位『柱』——とりわけ炎柱煉獄杏寿郎は隊士からの信頼も厚く、彼に憧れる者は男女問わず後を絶たない。
その彼と恋人同士になれるなんて、こんな幸せが、あっていいのだろうか。
俺は、この幸せがずっと続けばいいと願っていた。
——しかし。
その後、任務でのすれ違いもあり、炭治郎は煉獄と会うことすら叶わない。蝶屋敷で会えたとしても人目があるため、なかなか二人きりになれない。よしんば二人きりになれたとしても、煉獄は炭治郎についばむような口付け以上のことはしてこないのだ。
「やっぱり、煉獄さん、俺じゃ物足りないのかな。あんなこと言ってしまって後悔しているんじゃないだろうか」
炭治郎は日に日に膨らむ不安に苛まれていた。
「あん? そこにいんの、竈門だろ?」
突然、頭上から降ってきた大声に、炭治郎はハッと我に返る。
「宇髄さん! お疲れ様です!」
そこにいたのは音柱の宇髄天元。長身の彼を見上げて炭治郎はぴしりと背筋を正した。
「何、ぼーっとしてんだよ。らしくねぇ。悩みがあるなら相談にのるぜ?」
ニヤリと笑う宇髄に、炭治郎は思わず笑顔になる。
この人は見た目派手だけど、人が悩んでいるのを見抜くのが本当に上手い。
「へへ。ありがとうございます」
「んー? 最近、お前なんか変わったな。前は山猿みたいなガキだと思ってたが、いい感じに色気が出てきたじゃねーの。ド派手に恋でもしてんのか?」
ぐっと言葉に詰まる炭治郎を見下ろして、宇髄はにんまり笑った。
「あぁ、煉獄との噂、本当なんだな」
「へ!? あっ……それは内緒って言われ……あっ!」
慌てて口を塞いだ炭治郎に、宇髄は「ぷっ……くくっ……」と笑いを噛み締める。
「まあ、あいつとお前、お似合いだよ。煉獄をよろしく頼むぜ!」
バシッと背中を叩かれて「ひっ」と声を上げた炭治郎は、まじまじと宇髄を見つめて、口を開いた。
「あ、あの、宇髄さんにご相談したいことがありまして。こんなこと、他の人に聞けないので……」
もじりもじりと顔を赤く染めて言い淀む炭治郎に、宇髄は無意識に抱きしめようと伸ばしていた己の二の腕をぐっと押し止める。
やっば! こいつ、よく見ると可愛い顔してやがんなぁ。
しかし、すぐに真顔になった宇髄は腕を組んで、真っ赤な顔で項垂れる炭治郎を見下ろした。
——でも、この様子だと、まだ竈門は知らねーんだな、あの噂。
♢♢
「あー……つまり、お前は」
炭治郎の悩みを聞かされた宇髄は顎に手を遣り、ふむ、と一呼吸置く。
「煉獄と自分の気持ちが通じあって、晴れて恋人同士になったものの、口付けから進まない関係を不安に思っている、と」
恥ずかしそうにコクリと頷く炭治郎を見て、宇髄は呆れたように特大のため息を吐き出した。
え? は? ばっか? ばっかじゃねーの!? こいつらまだそこ? ガキか! ガキの恋愛のほうがまだマシだわ!
煉獄の炭治郎に対する独占欲、他の人間が炭治郎に色目を向けた際の殺意に満ちた視線。側から見れば、全てが度を超えた愛情以外の何ものでもない。
おいおい。派手に拗らせてんな、煉獄よぉ。
「な、なので、経験豊富な宇髄さんに、その……煉獄さんに飽きられないために俺、何をしたらいいか、教えていただきたくてっ!」
ふんすっと鼻息荒くずいずい詰め寄る炭治郎の頭を宇髄は「待て、待て待て」と片手で押し戻す。
「確かに俺様は経験豊富な超絶色男ではあるが。まあ、待て。ちょっと考える」
煉獄よ。お前の考えてることくらい派手に想像つくけどなぁ。でもよ、それで相手を不安にさせてたら意味ねーぞ?
いま、俺様が手練手管を教えてやるとしたら相手は竈門じゃない。もっと先に頑張らねーとならない奴がいるだろう。
なぁ、煉獄よ?
炭治郎の期待に満ちた煌めく瞳を見下ろし、宇髄は口を開いた。
「竈門、お前はそのままでいろ! お前には何の落ち度もねぇ!」
ぽんぽんと優しく頭を撫でられ、炭治郎は困惑する。
「え? そ、それじゃあ、俺、どうしたらいいかわかりませんよー!」
赤紫色の大きな瞳に涙を溜めて今にも泣き出しそうな炭治郎に、宇髄は「よし、わかった!」と声を張り上げた。
「俺がド派手に煉獄と掛け合ってやるよ! まあ、安心してお前は任務に出掛けろや。まあ……俺もあいつに聞きたいことがあるしな」
宇髄の笑顔に炭治郎はホッとした表情を浮かべる。
あーあ、嬉しそうな顔しやがって。可愛いじゃないの。……なあ、煉獄。お前の回答次第じゃ、俺も容赦しないぜ?
「てな相談を竈門から受けたぜ」
任務から帰宅した煉獄を待ち受けていた宇髄は、炭治郎から受けた悩み相談の内容を包み隠さず伝えた。
「〜〜〜! 任務明けに聞く話ではないなっ!」
クソでかい声で叫ぶ煉獄に、宇髄は「あんまり不安にさせてやるなよ。竈門は初心どころか超鈍ちんのガキなんだからよ」と言い、ニヤリと笑う。
「宇髄、言い方に気を付けろ。しかし、君からの忠告、恩に着る!」
「ばーか。恩になんか着なくていいからよ、なんでお前、竈門のことド派手に抱いてやらねーんだよ?」
宇髄の言葉に煉獄の顔がカッと赤みを帯びた。
「き、君はっ、そんなあけすけな物言いをするもんじゃないっ! 俺が、どれだけ我慢していると思っている……」
声、ちっさ!
「あ? 聞こえませんー」
「俺がどれだけ我慢しているか、君も炭治郎もわかっていないのだ! 俺がっ、どんな気持ちで自分を律しているか! 俺だって、炭治郎に触れたいといつも思っている! 彼女の全てを暴いて自分のものにしたい! あの可愛い笑顔を見るたびに、もういっそこの場で抱き潰してしまおうか、という欲に、どれだけの忍耐を持って我慢していることかっ!」
興奮するにつれ大声になっていく煉獄を宇髄はどーどーと手で制する。
「お前、言ってることが派手にやべぇから少し落ち着け」
ふーふーと青筋を立て呼吸を整える煉獄の姿を宇髄は呆れた眼差しで見下ろした。
「でも、彼女を傷付けたくない。無理を強いて嫌われたくない。俺は炭治郎を、一等大切にしたいんだ」
ぼそりと呟くその姿に、全隊士憧れの炎柱としての威厳など一欠片も見当たらない。
これが本当にあの鬼殺隊炎柱煉獄杏寿郎かよ。やっぱ、派手に拗らせてんのな。
「なあ、煉獄」
宇髄の顔から笑いが消えた。
眼を細め煉獄を見据える。
——でもよ。
そんなに竈門が好きなら、なんでだよ?
「だったらなんでお前、見合いなんてすんだよ」
なあ、そんな話、納得いかねーだろう?
——鬼殺隊士の間でまことしやかに囁かれている噂がある。
『炎柱、煉獄杏寿郎が見合いをするらしい』
♢♢
「え? 煉獄さんが……?」
「ああ。炎柱様がお見合いするって話、本当らしいぞ」
任務中に竈門炭治郎は同行した隊士の一人からそう聞かされた。
「煉獄さんが……お見合い……」
隣を行く炭治郎の顔色が変わったことに全く気付かない隊士は続ける。
「なんでも煉獄家分家のお嬢様らしいぜ? まあ、炎柱様は代々鬼殺隊の柱を務める由緒正しい家柄の御曹司だもんなあ。見合い話なんざ日常茶飯事、引く手あまただろうぜー」
羨ましいよなーと話に夢中になる隊士であったが、最早炭治郎の耳にその声は届いていなかった。
いやな汗が額を伝う。
心臓が早鐘を打つ。
俺を好きだと言ってくれた煉獄さん。
大事にしたいと言ってくれた煉獄さん。
炭治郎、と優しく名前を呼んでくれる煉獄さん。
蕩けるような口付けをくれる煉獄さん。
どうして——?
溢れる涙を振り払うように炭治郎は足を早めた。
前を向け、炭治郎! いまは、任務中だ! 集中しろ! 必ず理由があるはずだ! 信じろ!
煉獄さんを、信じるんだ!
♢♢
——数日前。
煉獄家の一室には煉獄家当主煉獄槇寿郎をはじめ、長男の杏寿郎、次男の千寿郎が顔を揃えていた。
「見合い……ですか?」
声を絞り出すようにして煉獄は目の前に座る槇寿郎に訊いた。二人の間には閉じられたままの写真が置かれている。槇寿郎から「お前の見合い相手だ」とだけ告げられ、渡された代物だ。
「ああ」
ただそれだけ素気なく応える父の横顔を、千寿郎がやや青ざめた顔で見守っている。
「私は見合いなどしません! 私の気持ちは父上もご存知のはずです!」
思わず声を張り上げる煉獄を槇寿郎は五月蝿いとばかりに手で制し「承知している」と唸るように言った。
「ならば何故、このようなお話をお受けになるのです! お断りください!」
「鎮まれ、杏寿郎。まずはその写真を開いてみろ。思うところはないか?」
父に促され渋々といった体で煉獄は写真を手に取り表紙を開いた。そこには着物姿の艶やかな女性の写真。
——やはり、なんの感慨も湧かない。自分の琴線に触れることができる女性は竈門炭治郎ただ一人だ。
腰掛けに座り少し斜に構えた写真の女性の、その涼やかな目元に煉獄は視線を移す。
——この女性、どことなく……。
「気が付いたか? 写真の女性は瑠火の遠縁にあたる娘だ」
煉獄瑠火——父の最愛の妻にして、俺たち兄弟の母。
炎柱であった父を支え、自身がもう長くないことを悟った母は俺に『弱き人を助けることは強く生まれた者の責務です』と、人としての正しき心構えを説いた。厳しく、正しく、ひたすらに優しい人であった。
「母上の?」
たしかに写真の女性の目元や纏う雰囲気がわずかに母に似通っていると感じる。
「母上に、似ているのですか?」
今まで大人しく控えていた千寿郎がおずおずと写真を覗き込む。母は千寿郎がまだ小さい頃に亡くなっている。その母に似ているという女性に興味があるのだろうか。煉獄は千寿郎をいじらしく思い、持っていた写真を渡した。
じっと写真を見つめる千寿郎の姿に何を思ったのか槇寿郎は小さくため息を吐いた。煉獄も父のため息の意味がわからぬほど勘が悪くはない。
しかし。
「だからと言って、私はこの女性と見合いをするつもりはありません!」
すると、槇寿郎はチと小さく舌を鳴らした。
「この話を持ってきたのは、分家の先代当主。俺と瑠火の縁を結んでくれた言わば恩人だ。瑠火と結婚できた時、俺は天にも昇る心地だった。この女と添い遂げることができるなら何を犠牲にしてもいいと思えるくらい幸せだった。だから、この縁を取り持ってくれた先代には足を向けて眠れんくらい感謝している。その御仁から、この娘をお前に一度でいいから会わせてくれ、と言われてな。母に似た面持ちの娘ならきっと息子も気に入るはずだ、これで煉獄も安泰だ、と……」
つらつらと述べる槇寿郎に薄れかけていた怒りが再燃する。
「どんなに母上に似ておられようと、私には心に決めた人がいるのです! 煉獄の安泰!? そのために私に犠牲になれと、父上はおっしゃるのですか……!」
苦しい。
悲しい。
自分の気持ちは『煉獄』である以上尊重されないのか。愛する人と添い遂げることすら許されないのか。
父上は、自分の幸せを願ってはくれないのか……!
煉獄はただひたすらに悔しくて、握った拳をダンッと畳に打ちつけた。
「……あぁ? 誰がお前に、煉獄のために犠牲になれと言った?」
眉間に深い皺を寄せた槇寿郎が呆れたように腕を組んで煉獄を見据えた。
「は? し、しかし、父上は先程、見合いをしろと……」
「大人の事情に巻き込んで悪いが、顔を立てて見合いだけしてくれと言ってるんだ。その上で断ればいいだろう」
「…………」
——いえ、それは今、聞きましたよ、父上?
千寿郎が落ち着いた眼差しで槇寿郎を見上げた。
「そ、それならそうとはじめからおっしゃってくださればいいではないですか! 私の気持ちを知っていながら蔑ろにしているとばかり……」
しょんもりと項垂れた煉獄は安堵のため息を吐き出した。
「……くだらん」
槇寿郎が、煉獄の顔を見る。
煉獄もまた、槇寿郎の顔を見た。
「煉獄に釣り合うものなどごく僅か。あとは有象無象。なんの価値もない塵芥だ」
あんぐりと口を開けた煉獄に見つめられ、槇寿郎は慌てて「俺、言っとらんぞ」と首をぶんぶん横に振る。
二人の視線がそーっと千寿郎に向けられた。
千寿郎は顔を上げると、にっこり微笑って二人に言った。
「——と、いつもの父上らしくおっしゃって差し上げればいいものを。大人の世界はしがらみだらけで大変なのですね、父上?」
あまりに無邪気に微笑む千寿郎に、煉獄と槇寿郎の喉がヒュッと鳴る。
「そ、そうだな……」
「それに、千には、もう心に決めた姉上がおりますから!」
ふくふくと笑う千寿郎を見て、槇寿郎は内心でため息を吐く。
それは、たぶん……いや、間違いなく『彼女』のことを言っているのだろう。
槇寿郎の頭に、太陽のような笑顔で周りを和ませる鬼殺隊士が思い浮かんだ。その耳には「日の呼吸」の使い手の証たる日輪の耳飾りが揺れている。
彼女との初対面は最悪だったが、あの頭突きがなければ、俺は今でも「糞爺」のままだっただろう。まあ、杏寿郎が彼女を愛おしく想う気持ちもわからなくは、ない。
「しかし、お見合いをした後にこちらからお断りするとなれば、あちらの女性に恥をかかせてしまいませんか?」
煉獄の言葉に、槇寿郎も「うむ」と考え込む。
「しかし、見合いをせねば父上の顔が立たず、かと言って俺は炭治郎以外の相手と添い遂げるつもりはない。お相手の方には心より申し訳ないとは思いますが、私は炭治郎以外には全く、石ころほどの興味もありません」
キッパリ言い切る煉獄に槇寿郎は深々とため息を吐いた。
長い沈黙を破ったのは、千寿郎の朗らかな一言だった。
「そうだ! いっそ、炭治郎さんにお見合いをぶち壊していただくのはどうでしょう?」
煉獄と槇寿郎は揃って顔を見合わせた。
♢♢
「と、いうわけだ」
煉獄は自分が見合いをすることになった経緯を宇髄に洗いざらい告白した。
「親父殿のしがらみかよ! チッ! 仕方ねーな! でもよ。派手に噂になっちまってるぜ? 竈門の耳に入るのも時間の問題なんじゃねえの? 竈門のこと、あんまり虐めるんじゃねーぞ」
「虐めてなどいない! それに、どうせ断る見合いだ。炭治郎に余計な心配を掛けたくはない」
「ばーか。大事とか言って手も出せねーで地味に女を不安がらせてんじゃねーよ。竈門が噂を耳にする前にお前の口から説明してやれよ」
ひらひらと手を振って踵を返す宇髄に、煉獄は「ああ、そうだな!」と力強く頷いた。
——その翌日。蝶屋敷に火急の報せがもたらされた。
カァァァ! カァァァ!
『竈門炭治郎、鬼トノ戦闘中二負傷! 間モナク蝶屋敷ニ到着〜!』
——煉獄家、お見合い騒動のはじまりはじまり。
つづく!