無題自分でも、どうして名前を呼んだのか分からなかった。
「んー?」
頬杖をついて少し横に傾いた顔に乗ったふたつの瞳が、伺うようにこちらを見る。お互いが別のオーディションに参加するから暫くは会えない。お互いがんばろう。話はそれで終わった。窓から差し込む暖かな光がふわふわと触り心地のいい髪を透かしている。続く言葉が無いことを疑問に思ったのか、なんなのか。1本の指が自分に向かってきたことに気がつき無意識に身体を後ろに仰け反らせた。
「心配しなくていいんだよ、ホッケー」
「しんぱい」
「うん。……違うの?」
逃げた自分を追うように、明星の指が自分の鼻をつついた。
心配。
果たして自分は心配しているのだろうか。全貌がよく分かっていないオーディションとはいえ、明星も衣更も既にデビューしているアイドルだ。経験も実力も劣ることは絶対にない。リーダーの自分が胸を張って送り出せる素晴らしいアイドルたちだ。分かっている。それは全く……は、言い過ぎなのかもしれないが。心配はしていない。はず。
「色々考えちゃったんでしょ、頭でっかちだもんね」
「は?」
「すぐ怒るし!」
「怒ってない。」
「ほんとかなあ」
けらけらと子供みたいに笑いながら立ち上がり態々隣に移動する男。なんだか少し縦に伸びたような気がする背が、自分を見下ろして影を作る。
「大丈夫だよ。誰かが悲しむ結果も、俺たちが辛い思いをする過程も無い。それは約束するって先輩も言ってた。SSみたいなことには、ならないよ」
いつもけたたましいくらいの声は静かに落ち着いて、子供をあやす様な色を見せる。なんだか悔しくなって、静かに視線を逸らした。と、同時に顔に近付く気配。
「おむ、っ」
「……、おむ?オムライス?」
「違う。公共の場でキスは事前に許可を取れ、周りが気になる」
「ええ!絶対許可してくれないじゃん、好きなタイミングで不意打ちしちゃうもんね」
大人びた雰囲気はどこへやら。またね、と楽しそうに逃げ出した明星が部屋を出ていくのを追いかけることは出来なかった。此処を出発しなければ行けない時刻が近いことを、携帯のアラーム音が知らせてくれたからだ。
……なんだか親を名乗る不審なメールアドレスから大量のメッセージが届いているような気がするが、そちらは見なかったことにする。録画しましたか?だと。してはいるがあんたに関係ないだろう。それともまた何か企んでいるのだろうか。
そんなことをゆっくりと考えていられるほどの余裕も無く、念の為と数分置きにセットしたアラームが出発を急かす。台本、携帯、財布、忘れ物は?
自分のことで埋まっていく思考の片隅で、先程大丈夫だと笑った明星までもが急げ急げと煽る。
うるさい。
お前はその能天気な顔で、いつも通り輝いてくればいい。
未だ脳内に居座る男に立ち去れ、と内心手を払いながら荷物を纏めて、自分も別の戦場へと足を進めなければと部屋を後にした。