#雨水もっと早く決断すればよかった。もっと早く。
後悔だけはいつまでも降り続いていく。
父は険しい顔をしていた。
月明かりもない海の闇は荒々しく波しぶきを舞わせていた。
「父上、母上、どこに行くのですか」
無邪気な声で従弟のジンが叔父に声をかける。
「この海の向こうに私たちの国があるのですって」
幼い彼には理解できないだろう。確かにこの海の向こうに土地はある。けれど、私たちの国ではないのだ。それを『与える』と、一族の長である妲己が言った。
数十年前、そこから渡って来た七尾の狐神がいた。怪我をして辿り着いたその男を、父の親族たちの中でも力が弱くはみ出し者であった女が拾い、あろうことか夫婦となった。その夫婦は追放されることまでは無かったが、むしろ追放された方が幸せでは無いかと思うほど、親族に虐げられた。
ところが、昨年二人の間に子が産まれた。誰もが、その子が産まれた日、産まれたことに気付くほどに強い力を感じた。尻尾の数が力の強さを示す狐神の中でも高い攻撃力をもつ九尾の炎神。親の力が遺伝に関わると考えられてきた一族の中で、途端に海の向こうから流れ着いた七尾の存在は脅威となった。夫婦を虐げるものは無くなったが、代わりに皆、敬遠して近づかなくなった。
妲己は、海の向こうの国を脅威と考えた。そこで白羽の矢が立ったのが、妲己の七人の兄弟姉妹の中で妲己の次に力が強いと言われるジンの父と、四番目と言われる私の父。二人は家族を連れてこの海を渡ることにした。それぞれ十人足らずの眷属を連れ。
「父様、本当にこの人数で大丈夫なの」
「案ずるな。ベル。先行隊からの報告によると、かの国の神々は戦を忘れたかの如く、人間と共に共生しているらしい」
「そう。ならば大丈夫なのかしら」
そう言う父には不安の色は見えないが、言い知れない嫌な予感がある。亡き母譲りの自らの長い金の髪を指先で玩びながら一歩もここから踏み出したくないと思っていた。
そして
父も叔父も叔母も、皆敗れた。
しかも、たった一人の神の手によって。
理解できずただ怒り泣き喚くジン。私たち二人は子どもだからという温情をかけて貰い、人間の役に立つ神になることでこの島国に神として存在することを赦された。けれどジンは納得してはいない。
早朝、褥を抜け出す。乱れた着物を羽織り直し、帯を緩く結んだ。振り返ると眉間に皺を寄せて眠るジン。褥の上に波打つ銀糸の髪をそっと触れて整えた。
この愛情は、弟に向けたものなのか、それとも。
逞しい腕に抱え込まれ男を感じないわけでは無い。幼かった姿もすっかり見る影もなく、今は立派な雄だ。それに、私たちに私たち以外の選択肢はあっただろうか。
「予感がするの」
月神であるキールがどこか言いづらそうな口ぶりでそう切り出した。満月が彼女の後ろに大きく垂れこめている。
「悪い予感か?」
酒を盃に傾けながらライが尋ねた。
「火神が現れた時、あなたが受け入れれば、神が代替わりする」
「なんだそれ。俺が決めるのか?」
「決めるというか、気に入れば。なのかしら」
あからさまにライは顔を顰める。
ライが誰かを気に入るなんてことあるのだろうか。いつも不機嫌そうで、いつもジンと喧嘩をしている。あぁでも、ジンと今のように決定的に仲違いしてしまったのは、ジンのせいでお気に入りの人間が亡くなった時だった。彼はか弱い人間や小動物にやたらと目をかける優しさは持ち合わせているのだ。
「代替わりする神は、ジンなのね」
言いづらそうな雰囲気から察するにそうだろう。
「まだ、ひと柱とも限らないわ。相手は火神だもの」
「そうね」
ジンが追われるなら、私も去るだろう。
今、この日ノ本の世界には、強力な火神は居ない。以前産まれた火神は母神を焼き殺し、父神に切り捨てられたと聞いている。
いっそ、ライに出逢う前に始末してしまえばいいかもしれない。
でも、ジンはずっと今のままで居ることを望むのだろうか。
永い時を生きる私たちは、役目を失ってどう生きて行けばいいのか、私にも彼にも見えてはいない。見えないからこそ彼は苛立つのだろう。