ぽろぽろと、つまびくように雨が降っている。
履き古したスニーカーは、既にびしょびしょだ。
まだ泥の溶け込んでいない、透き通った水溜りを蹴散らしながら、千秋と奏汰は並んで帰る。
爪先からじわじわと、つめたさが体に染み込むようだ。千秋は足先を靴の中で丸める。
隣でふわふわと歩んでいた奏汰が、何かに気がついたようにはっと後ろを振り返る。
隣の千秋は、奏汰に傘をさしかけたまま立ち止まる。
その海松藍のような瞳は、一点だけを見つめているようで、どこも見ていないようでもあった。見る人の心を奪うように揺れていて、意表を突かれたような色が浮かんでいる。
「どうした、奏汰?」
「うみです」
奏汰が見つめていたのは、雨だった。今降る、降り続ける無数の雨の一つ一つ。
分厚い乱層雲のせいで、重たく青みがかったグレーだった辺りが、わずかな雲の切れ間からうっすらと明るくなっていく。
奏汰は、みずみずしくひかる、おおきな雨粒の一つにそっと触れた。
その白魚のような滑らかな指先が、一瞬その水のかたまりに入り込む。
その瞬間、ぶわっと水滴が膨らむように広がり弾けた。
命を持ったように水はうねる。奏汰の指先を中心に、白や黄色や薄い橙色のかがやかしいひかりが溢れた。
勢いよくほとばしる水流が、二人の前髪をおおきく揺らし、頬を撫でては散らばった。
みるみるうちに無数の水の流れが重くるしい色彩を塗り替える。
重たそうな雲はちぎれ吹き飛び、真っ白にひかりを溢す太陽が顔を出した。
濃い深緑の街路樹にまとわりついた水滴が、虹色のプリズムを放つ。つややかに濡れた松葉は、まばゆいほどに陽のひかりを反射した。
路面にきらきらと混ぜ込まれたちいさなガラス片。通学鞄のファスナー。安物のビニール傘の透き通った持ち手。
何もかもが光り輝いている。
晴れ晴れとした空の中、流れ続ける薄い透明な水の膜は、うっとりと笑う奏汰と、唖然とする千秋を包み込む。
ちいさな太陽のように光りかがやく雨粒の核をつまむようにして、奏汰は話しかける。
「このこは、うみです。うみから、きたんですよね?」
首を傾げるようにして耳を傾ける。絶えることなくひっきりなしに溢れ出るひかり。
それを間近で全身に浴びる奏汰は、どうしようもないくらいに神々しかった。
千秋は息を飲んで幻想的な光景に見入っていた。吸い込む空気はひんやりと澄んでいて、体を動かすと水を掻き分けるような感触がした。
「きてください、ちあき、いっしょに」
「へ」
奏汰はすっと千秋の手を引いた。
息つく間もなく、ふたりはするりと核の中に吸い込まれた。
どぼっと背中から落ちる。気づいたときには、千秋は群青の海の中にダイブしていた。
無数のひかりをはじく細かなあぶくと、黄金のプランクトンが、ビーズのように波間を飾る。
足元には深い深い海溝が広がっていた。光も、ごぽごぽとした海の音すら届かない、暗い淵。ちらちらと、煌めくような白い塵がゆっくり落ちていく。
見上げれば、翠色にたゆたう、陽の光が透けた海面がはるか高くに見えた。
おだやかな流れは、千秋の体をやさしく浮き上がらせる。
「!?うみ!?」
「はい〜、ここは、あのこのふるさと。あまみずのふるさと。おみずのふるさと。」
少し上の方から奏汰の、おおらかな声が降ってきた。
そう大きな声ではないのに、頭に直接ぐわんぐわんと響くようだ。千秋は少しくらくらとした。
奏汰はそのまま、両の手のひらで愛おしそうに水を掬うと、捧げるように上を向く。手のひらをかたむけて、中身を喉に流し込むと、くぴりと音を立てて飲んだ。口の端からこぼれ落ちた水の滴がしたたって、妙に目を引いた。
見上げる奏汰の背中越しに、水中を通った陽の光があふれていた。呆気にとられる千秋に向けて、奏汰は微笑む。
「そして、ぼくらのふるさと。」
じっと奏汰は、千秋のことを見つめた。
「あ、息ができる」
千秋ははっとしたように呟く。すは、と呼吸を確かめるように吸って吐いた。
思わず手を口元に持っていくと、水を掻き分ける感触があった。手のひらに、呼気は感じられない。
ただ、吸い込む空気も、掻き分けた水も、無機質なのに生きている鼓動があるようだった。
「そうですよ、こきゅうができます。いきてるんですから、ひとも、おみずも」
生きているのか。生きているから、鼓動があったんだな、と千秋は妙に納得した。いのちある水に、全身を抱かれている。
まるで胎内のようだ。暖かくて、心地良い。ただ守られていて、自分のいのちを慈しみながら、待っていてもらえるような。
「陽の光が、とてもきれいだ。」
(翠色のあかるい波浪が揺れて、たなびくカーテンのようで……。)
(おおきななにかに、おおいに祝福を受けているような気持ちになる。)
千秋は、瞬くことも忘れて、うつくしい祝福に見入っていた。
「ぼくらは、しゅくふくされていますよ。うまれてきたときから、ずっと」
「いま、ぼくらが、ここにいることがなによりのりゆうです」
千秋は、そうだったらいいな。そうだったらよかったのにな。とぼんやり思った。
背中に青白い燐光を背負った奏汰は、水母に見えた。
さっきの、地上で溢れたひかりを浴びていたときとは大違いだった。
力なく、ただふわふわと流されるしかない、海のちぎれ雲のような水母。
身に纏うひかりも、鬼火のようだった。ひんやりとして、力ない。
「おなじしゅくふくをうけているんです。おなじは、うれしいことですよね?」
奏汰は、もとから海に棲む生き物のように、滑るように泳いで千秋に近づこうとした。
しかし、彼の体は、鈍くひかるいるかや、鋭く水を切る飛魚のようには進まなかった。
奏汰の腕は、もたもたと不器用に水を掻き、ようやく千秋のそばへたどり着く。
そしてそのまま、千秋をきゅっと両腕で抱きしめる。
「ちあき。ぼくらこれからずっとですよ。おんなじしゅくふくをうけたんですから。」
奏汰は、そう言って千秋の肩口に顔を埋める。
力ないその仕草は、ちいさな子供のようだった。迷子の子ども。どこへ行くべきなのか、立ちすくみ途方に暮れているようだった。
千秋はしばらく、やわらかに揺れ動く奏汰の、空を映した水の色の髪の毛を眺める。
そうだったらいいな。そうだったらよかったのにな。
千秋は、どうしようもなく寂しかった。奏汰が憐れだった。
全てのいのちの母のように、おおらかな海に包まれているのに。彼の体は海に浮かばないのだ。
確かな祝福を浴びているのに、奏汰はきっと海に還りたいのに。
彼の姿は、地上にいた時の見る影もなく、寄る辺無かった。
そして、千秋もまた、微笑みをたたえて奏汰の背中に手を回した。いささか薄いけれど、確かな厚みがある、奏汰の背中。内臓が詰まった、人間の身体。
「ああ、俺たち、これからずっとだ。ここからずっとだ。」
海に落ちた隕石のほのおは、流星の篝火は、ジュっと情けなく消えてしまったのだろうか。
それとも、光のない藍の深海のかなたで、いまだ消えず燃え続け、煌々と暖かく輝いているのだろうか。
千秋には分からなかった。けれど、星は空の生き物で、ほのおは地上にあるべきもので、人間は地上に棲む生き物だった。
(……暖かい。)
(今、心の底から、おめでとう、と言いたい……)
千秋はしずかに、眼を閉じた。たゆたう奏汰の柔い髪の毛が、鼻先をかすめていく。
広い、広い、一面の青色に、千秋と奏汰は、ふたりきりだった。
寒々しい何層もの青色の中に、ふたりだけが、ぽつりと浮かんでいた。
どこまでも続く、果てのないような海の中で、抱きしめ合って浮かぶふたりは、酷くちっぽけだった。
「帰ろう、奏汰。」
千秋は、奏汰へ語りかけた。
顔を上げ、うつむいた奏汰の肩に手を置き、千秋はもう一度、帰ろう、奏汰。と言った。
奏汰は、真っ直ぐに自分を射抜く千秋の目と、自分の目を合わせた。
そして、はっきりと笑った。