ざらざらしたチェーンが擦れる音を立てながら、勢いよく自転車が追い越していく。ひゅんと吹いた風にセットした髪を乱され、瀬名は顔を顰めた。舌打ちしたくなる気分を抑えて手ぐしで前髪をなおす。つけてから時間のたった整髪料がべたついて、指先にもったりとした感覚がこびり付く。不快だ。今度こそ瀬名は舌打ちした。
はあ、と一つ息をついた瀬名は、歩き慣れた路地をゆっくり歩いていく。ありふれた住宅街だ。どうせ、急ぐこともないから。傾く前の午後の、白くて眩しいひかりを踏みつけながら歩いていく。からからの、ネズミ色に乾ききったアスファルトの、小さなガラスのつぶがキラキラとひかりを反射させている。
「キラキラの道だ!お日様が歌ってるみたいだ、わくわくする!綺麗なものは大好きだ!」
そのきらめきに、瀬名はぷいっとそっぽを向いてただ歩いた。凡人の瀬名には、いくら綺麗なものを見てもインスピレーションなんか分からないから。だから知らん顔して、興味無いフリをして歩いていく。
ざりざり音をたてる靴底が、どこかささくれだった気持ちに似ていて無性に腹がたつ。飲み込めない苛立ちを無視して歩く。
角を曲がると、道に沿って植えられた、ショッキングピンクのつつじの花が見えてきた。白い塀と、濃い艶々の緑の葉との色合いが毒々しい。ふわっと、鼻の奥を甘い香りがくすぐる。辺りにはぶんぶんと音を立てて、蜜を吸おうとするあぶが飛び回っていた。瀬名は絶対に顔にぶつかられてはなるものかと、手で虫を払い除けながら進む。
「あ、ツツジ!吸わなくちゃ、おいしいから。こんなに赤いツツジを見ても吸わないのなんてお前くらいだぞ、理解できない!」
理解できないのはアンタのほうだ。今のアンタ、あぶと同レベルなんだけど。天下の人間様がそれでいいわけ?花を見た瞬間駆け出して、小学生みたいにしゃがみ込む、オレンジ色のしっぽ。それがぴょこぴょこ跳ねるのを、呆気に取られて見ていた。ぱっと振り返った奴は口に花を咥えていて、はい、と瀬名にも一輪差し出した。あんな色の花を素手で弄るせいで、奴の白い指先は鮮やかに染まっていた。
吸わなければよかったな、と瀬名はぼんやり思った。差し出された色も、匂いも、味まで知ってしまったから、こんなにもしみるのかもしれないから。
奴からは、花ばかり貰った記憶が残っている。川端のたんぽぽの弾ける黄色、校庭のすみれの滲んだむらさき、花かんむりの中の、春の残り雪みたいな色をしてたシロツメクサ。子供の贈り物みたいな、拙いプレゼント。セナと花の歌!と口ずさまれたメロディを、瀬名はほとんど忘れてしまった。欠片だけ残った菜の花の歌を、喉の奥で転がしながら歩く。
最後の角を曲がる時、にゃあ、と足元で毛玉が鳴いた。瀬名はグレーの猫の方を見ないようにした。あと少しなんだから。知らないふりをして通り過ぎようとした。それなのに、しつこくグレーの、くつした模様でかぎしっぽの猫は、にゃあにゃあと鳴きながら、瀬名の足元に頭を擦り付ける。布越しの小さなあたたかい頭蓋の感触が、酷く懐かしかった。ふわふわとフラッシュバックする、緩やかな夕の放課後に観念して瀬名は立ち止まる。しゃがみこんで、前みたいになにかもらえると期待してるのだろうか、大人しく座っている猫を見つめる。
「アンタも、忘れらんないんだねぇ」
少しぎこちない手つきで首の下を撫でてやると、ゴロゴロと気持ちよさそうに喉を鳴らす。
「俺はねこの達人なんだ!どんなねこでもグルグル言うぞ、なんてったって達人だからな!」
猫のくりくりした、プラスチックみたいな目が、嫌になるほど透明に澄んでいた。猫は、あいつに撫でられてた時と同じように目を細めていた。純真さがペラペラに透けた、あどけない瞳。いやらしいくらいの邪気の無さが、つるりとした網膜の裏の、水晶体の奥の奥、真っ黒ながらんどうを仄めかしているみたいで、瀬名は薄気味悪かった。誤魔化すようにもっとわしゃわしゃめちゃくちゃに撫でてやると、ぎゅーっと目を閉じた猫はにゃんにゃんと溶けていく。その甘ったるい声で、瀬名の中の、歩く道のりでふつふつと湧いていた憤りが悲しみが後悔が怒りが、ドス黒い淀みが、ぶわぶわと膨らんで蠢いて丸めた背中を覆っていく。心の底から心地よさそうな猫を見て、そうか、馬鹿なんだな、と瀬名は思った。
こいつは馬鹿なんだ。
瀬名は、みるみるすっと冷えた頭の芯で思って、軽蔑した。なんにも知らないしあわせな馬鹿が、白い腹を見せた柔らかな獣のあさましさが、吐きそうなくらいに羨ましかった。
アンタにいつもお昼の残りをくれた奴は、もういないんだよ。
俺は、アンタのことかわいいかわいいねって撫でてくれた奴じゃないんだよ。アンタのこと体張って守ってくれた奴じゃないんだよ。あいつはもう居ないんだよ。とっくの昔に壊れたよ。
どうしてそれが分からない!
「痛っ!」
ギャッと猫が鋭く鳴いた。手の甲に爪をたてられたのだ。瀬名はぱっと手を引っ込めた。ちりちり痛む引っ掻き傷から、細く血の糸が走っている。力が入ってしまっていた。無遠慮に腹を押された猫は、毛を逆立てて憎々しげにこちらを睨んでいる。その憮然とした目つきに、瀬名はどこか安心した。背中の緊張がゆるゆるとほどけていく。
「ごめんね」
瀬名は手の傷口を押さえながら、ゆっくり立ち上がった。猫は振り返りもせずにスタスタ歩き去る。嫌われてしまったのかもしれない。でも良かった。瀬名もあの猫のことが嫌いになったし、そっちの方が楽だった。
猫に引っかかれたところからほんの数歩歩くだけで、『月永』と書かれた表札が見える。
二階建ての一軒家の玄関先はひさしで覆われていて、ドアを中心に、橙の陽を吸い込むように濃紺に冷えていた。影の中に入り込むと、夕日が遮られて肌寒い。鞄からクリアファイルを取り出して、ガコン、と音を立ててポストに放り込む。ドサッと中に落ちた音を聞き届けて、瀬名は踵を返した。
レオが居ないこの街に、一秒だっていたくは無かった。レオの影ばかり付きまとうこの道が憎くて仕方無かった。いくら足早に急ごうとも、ふわふわ漂い続ける思い出が、死ぬ前の二人の青春が、瀬名の裾を引っ掴んで離してくれない。記憶の中のレオだけが、レオの残した彩りが香りが、天才の遺したメロディだけが、痛々しいほど鮮烈な熱を持って、脳裏に焼き付いていた。記憶から流れ耳から熔けて、首筋に残った熱は、血管を巡り、やがて心臓を刺すだろう。瀬名に捧げられた、無数のうつくしい音楽の欠片だけが、こなごなになった二人だけの青春の形見だった。
レオは砕け散る瞬間さえも綺麗だったのだろうか。この両手から溢れるほどの、手指に刺さる鋭い破片たちを、愚かで無垢な天才は愛しただろうか。瀬名が憎んだこの残骸を。
瀬名は薄青く暮れた宵の中を一人で帰った。もうどこにも、レオの影は見えなかった。