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    ぎょう

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    ぎょう

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    計画を聞いた後のMDM直前くらいの気持ちで書きました。二人とも自動車免許持ってることになってます。
    支部‣https://www.pixiv.net/novel/show.php?id=15625964

    さようなら、カーテンコール 初めて燐音くんの故郷の話を聞いた時、絵空事みたいだなと思ったのを覚えている。画面の向こう文字の向こう、そういう場所にあるような話で。その顔色と声色から、きっと本当なんだと確信していたけれど、だ。結局その時どういう反応をしたのかは覚えてない。
     絵空事みたいだと思ったことを覚えているのは、今もそう思っているから。架空の世界のような村は、いつだって僕には思い描けない場所だった。

     だからそんな燐音くんの故郷が、どんな場所でどんなところなのか、本人にちゃんと聞いてみようと思ったのだ。数年経った今、この狭いアパートのキッチンの前で僕らのこれからを考えていて、ふと。


    「燐音くんの故郷ってどんなところ?」
     思い立ってすぐ、キッチンにある棚から昼ご飯の材料を取り出しつつ、リビングでテレビを見ているであろう燐音くんに向けて話しかけた。
     棚の前からコンロの前に移動して、スーパーのセールでまとめ買いしたちょっと太めのパスタを、あらかじめ沸かしておいたオリーブオイルと塩の入ったお湯に入れる。地獄の釜みたいにぼこぼこ煮える鍋から湯気が上がってきていて、今なら世の女性が蒸気をよく浴びている意味がわかる気がした。多分全然ちがうんだろうけど。

     この間に他の材料を切ってしまおうと冷蔵庫の方を向いて、同時にその方向にいる返事の無い燐音くんにも視線を向ける。びっくりした顔だった。バイト先の女の子が見てたキュウリに飛び退く猫みたいだな。
     どうしたの、と僕が声に出すより先に、急に俊敏に動いた燐音くんの手が肩を掴んで、そのまま固まる。なんなんだ。取りあえずその手痛いから力緩めてくれないかな。それか、もしかしてこれはいつものヘッドロックとかと同じ系統のやつだったりするんだろうか。

     とりあえず燐音くんが口を開いてくれないことにはどうにもならなさそうなので、さらさらの前髪に料亭の暖簾を捲るみたいに手をあてて、俯く顔を覗き込んでみた。ああそうだ、パスタも伸びちゃうし。

    「なに、どうしたんすか」
     ぱちり。目が合って、飲む方のラムネみたいな色にじっと見つめられる。ぱちり。よくわかんないなって思いながら僕が瞬きをすると、目の前の顔に付いた口から長いため息が漏れた。
    「うわっ、酒くさ!?僕もうすぐご飯だからあんまり飲まないでね~っていったっすよね!?」
    「………ニキきゅんよォ」
    「えっはい。え何、やっぱこれいつものヘッドロックと同じ系統のやつ?」
     僕早いとこ逃れた方が良いんすかね。俺に聞くなよ、それを。確かに。
     でも、今は燐音くん以外に聞く人がいない。ここは僕のアパートで、ここには示し合わせても無いのに集ったこの二人しかいないから。どうしようかな、と少し悩んだけど、まぁいいか、と思った。今のところ危害は加えられてないし、特に急ぐこともないし、ここに敵はいないし。
     一人でにそう納得してもう一回燐音くんの顔を覗き込もうとしたその時、僕は一番大事な事を思い出した。
    「あっパスタ!!!」
     咄嗟に身をよじって燐音くんの手から逃れ、コンロのつまみを回して火を止める。吹きこぼれて大惨事、はなんとか回避できたけど、これはちょっと茹で過ぎたんじゃないだろうか。そんな気がするな。お湯の中を漂う麺を菜箸で一本取って食べてみると、やっぱりちょっと柔らかかった。頭の中で予定していたレシピを確認して、ちょっと変更する。あれをあれして、これをこう。よし。

     満足したからいそいそと冷蔵庫の方を向き直って、そこで僕はパスタ事件より前の記憶を取り戻した。そうだ、燐音くん。置いてけぼりにされた赤い髪のヒモは、しゃがみ込んで長い長い溜め息を吐きながら、何かぶつぶつと呟いている。なに喋ってるんだろう。同じようにしゃがみこんで耳を澄ませてみると、どうやら「そうだよなァ、ニキはそうだよなァ」と言っているらしい。
     なるほど、よくわからないな。今日になってから何度めかの思考放棄。これがもっと別のことで凹んでいるんだったら大問題だけど、僕の名前が出てるんだからそれは多分ないだろう。ゆっくり回る扇風機の風で揺れる髪に手を伸ばしてかき混ぜて、やっと見えた顔に向けて笑う。
    「お昼ごはん食べましょ」
    「…今日なに」
    「ナポリタンっすよ~!燐音くん好きでしょ?もうちょい時間かかりますけど」
    「ん、待っとく」

     その一言と、いつものガラが悪い笑顔とは違うもっと優しくて柔らかい笑顔に、僕の心臓がぎゅっと締め付けられる音がした気がした。燐音くんのこういうところ、ずるいな。
     誤魔化すようにもう一本腕を伸ばして今度は両手で勢いよくその髪をぐしゃぐしゃにすると、燐音くんは楽しそうに笑った。なんだかいっそ溜め息が出てしまいそうだったけど、それをぐっと我慢して、気分を切り変える様によいしょと立ち上がる。同じように立ち上がってリビングに向かった背中はすっかりご機嫌だった。つられて自分もなんとなくご機嫌になりながら今度こそ調理を再開する。三度目の正直。
     後ろから聞こえてくる調子の良い鼻歌をBGMに、野菜室から玉ねぎとピーマンを、チルド室からベーコンを取り出して、まな板の上に置いた。
     まずは玉ねぎの皮をぺりぺり剥き、現れた本体をまっぷたつにしてからスライスする。まだまだ新鮮な玉ねぎの催涙効果はすごくて、ちょっと涙が出た。ピーマンはヘタの部分を先に切ってから種をスプーンで取って洗う。これは輪切り。薄切りのベーコンは二パック分をまとめて一気に3㎜幅に切った。炒める時にばらけさせるから固まってるのはそのままでいい。これで、入れる材料は準備完了だ。

     満足げにまな板を見ていると、同じタイミングで燐音くんのBGMが途切れた。でもどうやらまだ歌うらしい。ゆっくりと始まった次の曲は僕でも知っている有名な曲で、釣られるように一緒に歌い出す。
     フライパンに油を敷いて玉ねぎを炒め始める僕と、その後ろで買ってきた雑誌でも読んでいるであろう燐音くんのデュエットは、結局盛り付けを終わらせるその瞬間まで続いた。歌いながらトングで麺と具をねじって盛っていく。ご機嫌なリズムと、ちょっとすっぱいケチャップのにおい。白いお皿を彩る鮮やかなナポリタン。両手に出来上がった料理を持って、燐音くんに声を掛けた。
    「燐音くん、出来たからコップとフォーク出して~!あと粉チーズも!」
    「へいへい、人遣いが粗いなァニキは」
    「作るの手伝ってないんだから当たり前でしょ!働かざる者食うべからず!っすよ」
     両手のそれ机に運んでから、燐音くんに並んで冷蔵庫の麦茶を取りに行く。空いた片手でフォークを受け取ってお皿の手前に置いて、並ぶコップにお茶を注いで、氷が転がる音を聞きながら向き合って座った。両手を合わせて、ふたり同時に滑り出てくる言葉をそのまま声に出す。

    「「いただきます」!」







     スポンジの擦れる独特な音、皿と皿が触れる音、時折シンクに滴り落ちる水の音。食べ終わった昼ご飯の片づけをするニキは何かご機嫌に鼻歌を歌っていて、俺はそれに耳を澄ませる為にテレビの音量を小さすぎるくらいに下げた。リモコンの隣に置かれたびちょびちょのコップを手に取って麦茶を煽ると、溶けかけの氷が涼し気な音を立てる。まぁ実際涼しいんだけど。

     数日前に今年初の稼働を迎えたエアコンの風と駆動音をしばらく味わっていると、キッチンの方で気の抜ける鼻歌に合わせてしっぽ髪が揺れていて、釣られるようにおもむろに腰を上げた。機嫌の良い背中に近づいて、その肩に顎を乗せる。
     そこでやっと俺に気付いたニキがこちらを振り返れば同然、至近距離で視線が合って。思わず笑えば、叱って来ようとしていたのであろう少年は、拗ねた表情で照れ隠しの様に文句を言った。
    「人の邪魔は~しちゃいけないんすよぉ~…………」
    「うそ」
    「なにがぁ」
    「邪魔って言うのが」
    「……いらん事言う燐音くんには食後のデザートあげません」
    「お?やんのか?」
    「ちょっ今洗い物してるんすけど!?」
     じゃれる様にしてその首に回していた腕を緩めると、呆れたような声色でデザートの所在地を教えられる。冷蔵庫。二段目。取りに行こうかとも思ったけど、折角揺れるしっぽ髪に釣られたことだしと、もう一度その肩に顎を乗せ直して、今度は首ではなくて腰に腕を回した。
     もう気にしない事にしたらしいニキは洗い物を続けながらまた鼻歌を歌い始める。変わらない生活の音と俺だけが聞ける呑気な歌と愛しい人の体温。平穏の欠片。突如おぼつかなくなった日々は未だ体裁だけ整えたようなものだが、それでも良いと思える。今なら。だから、もう少しこのままで良かった。


    「で、結局燐音くんの故郷ってどんなとこなんすか?」
     良かった、のだが。頬杖を突いていた手からずるりと思わず頭が滑り落ちて、言葉を失ったままベッドシーツを眺める。忘れてなかったんか、それ。なんなんだよ、それ。数秒くらい固まった後に腕の隙間から問いの主の顔を覗くと、相変わらず呑気にプリンを食べていた。かわいいな。
    「口の端に食べカスついてんぞ」
    「えっ嘘ぉ!ほんとだ!」
     ころころ表情を変えながら無事食べカスを取ったニキはそれをぺろりと舐め、雑談に興じるようなノリで再び俺の故郷の話題を催促した。折角乗せ直した顔がまた腕から滑り落ちる。本日二回目のベッドシーツ。
    「それまだ聞くのかァ……」
    「聞きますよ~、何回でも。話したくないなら別に聞かないっすけど」
    「話したくないって言うかさァ……どういうつもりで聞いてんの、それは」
    「ん~?」
     食べきったプリンの皿とスプーンを机に置いてから俺の方を向いて座り直したニキが、じっと俺の目を見た。そんなに深い意味はないだろうと思っていたが、これはもしかして存外真面目に聞いているんだろうか。思わず身構えて座り直す俺に向かって、ニキがゆっくりと口を開く。人生でいちばん長い一瞬。見つめる青色の目が綺麗で、コンマ数秒の世界でも綺麗だと思うくらい俺はコイツの事が好きなんだなと思った。間違っていない。ニキの喉が声を発した。

    「…燐音くんの目って海みたいっすね?」
    「………なんて?」
    「あ!ねぇなんか海行きたくなってきた!行きましょ海!」
    「ちょっ待っ、はァ!?おいニキっ、おい!」
     予想外の発言、予想外の展開。俺が開けた沈黙から数秒立たずに起きた進展にしては内容が濃くて、訳が分からなくて、脳がオーバーヒートしそうだった。海。に、行きたい。偶にとんでもない飛躍を遂げるニキの思考は、今日も元気に飛び跳ねている。今から?と聞くと、食べ物を目にした時の様に光り輝く目で今から!と返って来て、もう俺は何も言わないで鞄を準備した。スマホと財布と携帯食料。
     これさえあれば多分大丈夫だなと推察を付けてボディバッグを肩にかけると、ニキはもう玄関の前に立っている。早えんだよ、と一人ごちていると、早く!と急かされた。向かう方向、開け放たれたドアと逆光の中満面の笑みを浮かべる少年の向こうには、入道雲と夏の匂い。

     二人勇んで押しかけた中古の軽自動車は陽射しに当てられて見るからに暑そうだったし、実際襲ってきた熱気と湿気に案の定当てられながらドアを開けて座席に乗り込む。シートベルトをきちんと締めてからビニール傘二本をまとめて後部座席に放っていると、エアコンなんかのボタンがある辺りを弄っていたニキが体を戻した俺に寄って来た。
     手にしているスマホには前に勝手に借りた時から履歴が変わっていないサブスクの音楽アプリが表示されている。
    「燐音くんなんか聞きたいのあるっすか~?」
    「なんか夏っぽい曲」
    「広義!無茶!ヘイグーグル、夏っぽい曲流して」
    「諦めんのがはえぇよ、なんか混ざってるし」
    「僕にそういう曲の…ブロッコリーみたいなやつ、期待しちゃダメっすよ。おっ夏っぽい曲~」
    「ボキャブラリーな。んだこれ、聞いた事ねェ」
     喋り声に紛れた機械音声の後に流れ出した曲は、なるほど確かに夏らしい。猛暑日だと言う気温とも相まって、しょっちゅう使うからと置きっぱなしにしている傘の存在も忘れられそうだ。
     青空のもと、俺たちを乗せた白い軽自動車は、ギター強めのアップテンポなイントロをBGMに、まだどこにも見えない海に向かって走り出す。
    「出発進行~!まずはコンビニから!」
    「酒買ってもいい?」
    「運転交代する気無いんすかアンタ!?」

    ゲラゲラ笑う俺の声と、必死に騒ぐニキの声が、窓の向こうまで響いていた。







     ここまで俺たちは、先月来たお客さんの話だとか、新しいバイトの子の話だとか、どうでもいい話を延々とし続けた。建物が並び立つ高速道路はいつの間にか田舎道に差し代わっていて、植えたての青く背の低い稲が海風に揺られている。
     陽射しを受けて光る雲より遙かにこちらに近い地点でちかちかと瞬く踏切のランプと警鐘は、ここが旅の終着点なのを知らせている様だった。
    「なァニキきゅんこの踏切どっちから電車来るか賭けようぜ、負けた方アイス奢りな」
    「は~~?アンタはまたそうやって賭けしたがる………みぎ」
    「おっ言ったな?じゃあ俺っち左~」
     センチメンタルになっていく心情を誤魔化すように振った話題に意外にもニキが乗ってくれたという事は、実は同じ心情だったりするんだろうか。ハンドルを握る横顔を眺めても俺の好きな顔があるばっかりで、そのあたりは上手く分からない。
    「なんすか、負けても文句言わないでくださいよ?男に二言は無しっすからね!」
    「わァってるよ、にしても来ねェな電車」
    「田舎だから本数が少ないんすかね~?それか駅から踏切が遠いとか」
    「あー…あっ」
    「ん?あっ右!右から来た!右~~!僕の勝ち!奢ってくださいねちゃんと!」
    「クッソ、勝てると思ったんだけどな…」
     通り過ぎていく電車には目もくれずに喜ぶ運転手は、もう既に何のアイスを奢ってもらうかを考えているようだった。洩れてる洩れてる、全部声に出てる。でも、俺が悲しんでいた終着点のその向こうにあるものを、こいつはさも当然のように思い描いてくれた。それがどうしようもなく愛しくて、嬉しい。
     思わず笑うと、ニキも同じように笑い出す。笑ってばっかりだな、と思った。旅に出てから。それはきっと良い事で、現実から逃げ出すのが正しくない事でも、今だけはそれで良い。正しさだけがすべてじゃないって、コイツが教えてくれたから。
     やがて電車は通り過ぎて、警鐘が止むのと同時に車両に隠れていた水平線が再び顔を出した。線路を乗り越える車が揺れて、遂にナビが到着を知らせる。アップテンポなイントロから始まった旅は、落ち着いたアコースティックギターのアウトロで終わりを告げた。

    「海っすよ、海、海~~!ほら!」
    「お~お~、はしゃぎすぎてこけんなよニキ」
     息をつく間も持たずに車から飛び出して砂浜を走り出した背中は、やがてサンダルを放り投げて海に足を突っ込む。冷たい!とはしゃぐ声に合わせて藍鼠色のしっぽ髪が揺れた。立ち尽くして眺めていると、逆光の中で目があう。この目が海なら、きっとその目が空だった。一緒に居なくても生きていけるけど、一緒に居ないと俺たちは寂しい。
    「燐音くん!」
     呼ばれるままに海へ向かって、ズボンの裾を捲り上げる。さっき放り投げられたサンダルの横に俺が脱いだサンダルも並べて、いざ海へと足を浸けた。
    「うわッ、思ってたより冷てェ」
    「でしょ~?これ砂浜出たら熱いかなぁ…」
    「熱ちィだろ多分、サンダルまで走るしかねェな」
     げ~、と文句を垂れながら砂浜に座ったニキに倣い、同じように腰を下ろす。敷くものを持って来れば良かったなと思ったが、今更後の祭りだ。次来る時の参考にしよう。
     足湯にでも入ってるのかと思うような息を吐いたのが聞こえてきて、それに笑うと不満げな顔で睨まれたので、隣に並ぶ足を自分の足でつついてやる。
    「やめろ~~!ズボンが濡れる!!」
    「もう砂で汚れてるんだから今更っしょ、ほらほら♪」
    「冷たい!あとちょっと痛い!馬鹿力!」
     横に仰け反りながら威嚇されたので、ここが止め時だと判断して両手を顔の横に掲げた。お手上げだと無言のうちに示すと、ニキもあっさり引き下がる。
     正面に向き直ると隣の少年が口を開いて、お腹空いてきたっす、と呑気にぼやくので、その膝についでに持ってきていたコンビニの袋を置いてやった。
    「やった~、ありがとうございま~す」
    「どういたしまして、健気な燐音くんに泣いて感謝しろ」
    「は~ご飯美味しい…海ご飯良い……」
    「聞いてねェし……まァ、偶に来る分には良いよなァ、海」
    「あんますることないっすけどね~?どうしようこれから…何も考えずに飛び出してきちゃった…」
    「色々あんだろ色々ォ、貝殻拾うとか」
    「お、野生児燐音くんだ。いいっすねぇそういうのも」
     そんな会話の合間にも袋に入っていた唐揚げ串はあっという間に消えていき、気付けば跡形も無い。串を紙で包んで突っ込んだ袋は取りあえずその辺に置かれ、取りあえず食べて落ち着いたらしいニキは、俺の顔をじっと見てから脈絡のない_ニキの話に脈絡が無いのはいつものことだけど_問いを投げかけてくる。

    「ねぇ燐音くん、楽しい?」
    「楽し~よ、十分過ぎるくらいだなァ。ニキは?」
    「そりゃあまぁ。楽しいっすよ、海っているだけでテンション上がるし」
    「お、高評価。次のデートも海にすっか」
    「そうしましょ~、来月くらいからは屋台とかも出てるんだろうし」
     水平線を眺めながらする未来の話は、夏より先に進むことはなかった。これは逃避行だから。会話にぽつんと間が開いて、それから名前を呼ばれる。天色の目が近づいてきて、あ、キスされるんだな、と思った。ニキがキスしたくなる基準は多分、言葉に出来ない感情がある時。素直に目を瞑る。それを開けた時目の前の瞳と目が合って、その青色に空を想う。
     徐々に傾いてきた陽が茜色を帯びたから、海も空も、もう青色では無かった。ぽつんと浮かぶのは、欠けた白い真昼の月。
    「……燐音くん」
    「…なぁに」

    「海の果てって、あるんすかね」








     人の少ない海をこれでもかという程満喫した僕らの車がふたたび駐車場に帰る頃には、夜はすっかり更けていた。行きとは違って割とげっそりしながら部屋の前まで戻って、鍵を開ける。
    さも当然の様に先に入った燐音くんが靴を脱ぎ終わるのを待ってから、自分も玄関に入って靴を脱ぎ、部屋に足を踏み入れた。
    「暑い~!りんねくんエアコン付けて…」
    「リモコンどこ」
    「え、無いっすか?机に置いて出たと思うんだけどな…」
     僕がリモコンを探して机に目をやるとほぼ同時に窓が開く音がして、もしやと思ってそっちに目線を向ける。案の定ベランダには後ろ姿。荷物を下ろして、その隣に並んだ。眠らない街の明かりと欠けた月が僕らを照らす。腕を組んで、ベランダの柵にかけた。

    「僕暑いって言ったじゃないっすか~、中戻りましょうよ」
     都会の風に吹かれて、赤い髪がさらりと揺れる。いつの間にかヘアバンドを下ろしていたらしい。どこか幼く見えるのは、そのせい_つまり、前髪を上げてないからという事に、しておいてあげよう。どこからか漂って来た煙草の煙が、狭いベランダを通り過ぎていく。
    「ニキ、あのさぁ。結局なんだったんだ、昼間のやつ」
    「…故郷どんなところですか、って話?」
     無言で頷く横顔に、漠然と言葉を選ぼうと思った。だからすぐに言葉が出てこなくて、同じ方向に顔を向ける。もう水平線は見えない。
    「特に、深い意図はないっすよ。ただ……」
    「うん」
    「…燐音くんは、海の果てって想像つく?」
     突如投げかけた突拍子もない質問にびっくりしたらしい燐音くんがこっちを向いて、目線が合う。海色の目が数回瞬きを繰り返して、それから下へ伏せられた。目を伏せるのは何か考える時の癖だと、僕は知っている。睫毛を眺める事数秒、少し長い瞬きの後に顔が上がった。
    「イーハトーヴみたいなもん?」
    「イーハ…なんて?」
    「イーハトーヴ。宮沢賢治だよ、お前に借りた教科書に書いてあった。存在しない町」
     宮沢賢治。確かに、そんなひとの書いた話が載っていた記憶はだけはうっすらとある。けどまぁ、作者すらおぼろげな人間が内容に含まれるなんてことないワードを覚えている訳も無いのだ。早々に諦めて、質問に質問を返す。
    「どんなとこなんすか、そこ」
    「わかんねェ」
    「なんで?」
    「…想像がつかねェから」
     沈黙。突如降って湧いた僕が言いたかった結論に、別に不味い事を言われた訳でもないのに言葉に詰まってしまった。燐音くんが、ニキ?と不思議そうに首を傾げる。
    「海の果てってあるんすかねって、聞いたじゃないっすか」
    「うん」
    「…僕には、想像が出来なくて。海の果てもそうっすけど、その…燐音くんの、故郷も。燐音くんにとってのイーハトーヴみたいに」
    「だから、知りたかったのか?」
    「そうっすよ~、本当に深い意図なんかないっす。気になるな~って、ただそれだけ…燐音くん?」
     くるり、と僕が顔を覗き込むと、避ける様に燐音くんが顔を逸らした。デジャヴ。昼間は逸らされなかったけど。その先でまた覗き込もうとすると、また同じように逸らされて、結局顔は見られなかった。でも、わかる。

    「全く、なんで照れてるんすかねぇ」
     髪から覗く耳が赤いことは、室内から差し込む光でバレバレだから。
    「照れてねェ」
    「はいはいそうっすね~、ところでそろそろ部屋戻りません?ベランダ暑い……」
    「……ニキ」
    「ん~?」
     夜風を浴びていた顔を隣に向けたら水色の瞳が眼前にあって、思わず目を瞑ってしまった。唇が離れる感触に瞼をあげると、やっぱり向かいの瞼は開いている。海で見てたのばれたんすかね、なんて。視線の先で燐音くんが笑って海が広がるみたいに、その目が滲んだ。

     喉の奥に詰まった言葉もそのまま、二人で連れ立って部屋に戻って、無事探し当てたリモコンでエアコンをつける。お風呂に入って、ベットに潜り込む。一日限りの逃避行の終わりを、日常のなんてことない行動の節々で実感した。その目が海みたいだと思ったから、その目を海に連れ出したいと思ったから、ただそれだけの事だったんだけど、案外僕も満喫していたらしい。

    「ニキが、俺のこと知りたいって思ってくれたのが、俺は嬉しい」
     時計の秒針が真下を指すころ、おひとりさま用の狭いベットの中で、燐音くんがそう言った。月明りが暗闇の中をサーチライトみたいに漂っていて、まるでそれから隠すように、僕は赤い頭を抱き込む。今はまだ、アンタも僕もその話を望んでいないから、この先の話はしないけど。でも僕は、いつかアンタがイーハトーヴに帰るその日、そこが海の果てだって、連れて行ってあげようと、ずっと密かに、思っているから。

    もうすぐ、カーテンコールに僕らのいない夏がくる。
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