くれぐれも吸い過ぎないように、一回トんじまったらもう宇宙までいっちいまうからよお。何がおかしいのかそれともすでに宇宙までいっちまってるのか電子の板が様々な表情を作る下でケタケタと笑う前歯の無い男の話を朝の冷たい空気が這う安いモーテルの一室でVはぼんやり思い出していた。「お前さん、いったいどうしたんだ?」
さすがに心配になったのだろう、昨夜は一晩中どこかへ電話をかけ続けていた男が声をかける。その顔には深い疲労の色があった。
「なんでもない」
Vは無感動な声で答えた。
「そうか……ならいいんだけどよう……」
男は安堵のため息をついた。そしてそのまま椅子に座っているVを見下ろしている。Vはその視線から逃れるように目を伏せた。
「それで……これからのことだけどな」
男の声は不安げだった。
「お前さんのいうとおり、俺はこの仕事からは手を引くことにするぜ。正直言ってこんな危ねえ橋は渡りたくなかったし、それに……まあ、なんだ、俺にもいろいろあるんだよ」
男は言葉を濁したが、それがどのような意味を持つのかVには分かった。
「そうだな」
Vは静かに言った。その言葉を聞いてほっとしたような顔をする男に向かって続ける。
「だが一つだけ頼みがあるんだ」
「あん?なんだい?できることなら聞くけどよ」
男が緊張したのが分かる。当然だ。金でも女でもない望みなど聞いたことはないはずだからだ。それはいつも命乞いとして使われてきたものだった。ただ一言、「あんたのとこのボスに合わせてくれ」戸惑って当たり前だとVは思った。しかしどうしても頼まずにはいられなかった。自分に残された時間が残り少ないことは分かっていたからだ。だからこそ少しでも早くやるべきことを片付けたかったのだが……。
(なぜこうなった?)
Vは自分の記憶を探る。そこには必ずあの男がいた。銀髪の男。裏社会ではそこそこ知れている存在。名前は確か―ジャック・ザリッパーといっただろうか? その男と出会った時、自分は間違いなく仕事を終わらせていたはずだった。しかしそのわずか数秒後には路地裏の奥深くにいたはずの自分が見覚えのない部屋にいてベッドの上に寝かせられていた。そこから始まる悪夢の記憶。次々と変わる場所、場面の中でなぜか必ず出てくる黒い影のようなものと戦う自分の姿。そして最後に見た血のように赤い空の下に立つ男たちの姿。
あれは何を意味するものなのか分からない。そもそも今の自分にそんなものがあるのかどうかすら疑わしいものだ。
それでも考えずにはいられないことがあった。今まで目にしてきた光景、その中で何度か出てきた名前について。
(ブラッドブリード)
恐らくそいつらが自分を攫ったのだろうとVは推測を立てていた。ならばなおさら奴らに一泡吹かせるまでは死ねないということだ。だがそのための手立てが何もないというのも事実であった。たとえ一人でも戦える術を持っていたとしてもそれだけでは足りないこともわかっていた。何よりこちら側に来てしまった以上、帰る方法が無いということは嫌というほど思い知らされてきた。ここに留まるしかないということだけは理解できた。だからどんなことが起ころうと立ち止まるわけにはいかないのだ。
(やるしか無いんだ。まだその時じゃないだけだ!)
気合いを入れ直すべくVは拳を握る。すると突然胸の中にずきんと痛みが走った。思わずうめき声を上げて胸を押さえる。
「おい、大丈夫か!?」
慌てて男が駆け寄ってくるのを見ながらVはさらに強くシャツの上からもわかる程はっきりとした脈動を繰り返す心臓を握り潰すかのようにして押さえつけた。
「だいじょうぶ……だ」
短く答えるだけで精一杯だった。息をすることすら苦しい。それほどまでに肉体的な苦痛を感じていることにVは初めて動揺を覚えた。同時にこのまま死ぬのではないかという恐怖がじわじわ湧き上がってくるのを感じていた。
「本当に平気かよ?」
男は不安そうな顔を浮かべたまま尋ねる。Vは彼の視線から逃れるように目をそらした。
「問題ない。それよりも俺は何をすればいい?」
「何もしなくていい。ゆっくり休んでろ。無理したっていいことなんかないぜ」
「それじゃ困る」
「……わかったよ。とりあえず今は休むことにしてくれ。それが一番だ」
男はそう言うと立ち上がった。
「また来るからな」
そう言い残して部屋から出て行った。Vの視界の中から男が消える。途端に静寂が訪れる。一人残されたVはそのまましばらくじっとしていた。
不意に再び扉が開かれたのはそのすぐ後の事である。そこには一人の男が立っていた。
「おおっと失礼した。まさか客がいるとは思わなかったものでな」
Vよりもさらに長身で筋肉質、おまけにスキンヘッドという厳つい風体をした大男は驚いたように言った後、頭を下げた。
「ドクターか」
Vは苦々しい顔で言う。
「まあそう邪険にしないで」
男はVの不機嫌さなどまったく気にしていない様子でつかつかとその前までやってきて腰掛けているVを見下ろしながら言った。
「しかし驚きましたな」
「なにがだ」
「あなたのような方があんな街で倒れてるなんて。いったいどうしてですか?最近の仕事の結果に不満でも……という訳でもなさそうだ」Vは男の言葉を鼻で笑った。
「別に。ただちょっとミスをしただけだよ。もうどうでもいいことだ。それで?わざわざここに運んできてまで俺を診てくれるってのか?医者にしては随分といい趣味をしてるもんだな。この変態野郎が!」
その言葉を聞いても男は特に表情を変えることなく、むしろ口元には薄笑いさえ浮かべてすらいた。
「酷い言われようだ。傷つくねぇ。私はただ善意でもって君を助けたつもりなんだが……」
「余計なお世話だって言ってんだよ!」
男の言葉の途中、Vは椅子ごと体を回転させると男に向かって蹴りを放った。だがそれはあっさりと受け止められてしまう。一瞬、掴まれた足を見たVだったがすぐに勢いよく振り払い後ろに飛び退いた。
「ほぅ。噂通りなかなかやり手の方らしいですな。これはますます興味深い。実に面白い。あなたの身体の秘密を調べることができたら私も少しは名が売れるかもしれませんね。ところでよろしいでしょうか?そんな所で座っていないでベッドの上にいてもらえれば診察のしやすいのですが。ああ、それとその服は脱いでもらえるとありがたいんですけどねえ。調べるときに邪魔になりまして……。いかんせん女物の下着というのは手に取るのにも一苦労です。いっそ裸になってもらった方がいいかもわかりませんが、流石に初対面の相手をそこまでするというのもどうかと思いましてね。せめて上だけでもお願いできますか?」
目の前の男はまったく悪びれずに喋り続ける。Vは黙っていた。
「うーん。返事がない。仕方ありませんね。では私が脱がせてあげましょう。大丈夫、痛くはしませんよ。優しくしますからね」
「馬鹿なことは止めろ。第一なんで俺がこんなことをしないといけ……むぐ!?」
男はVの口を塞いだまま抱きかかえるようにして軽々と持ち上げてしまったのだ。暴れるVだがまるで相手にならなかった。
「おとなしくしてもらいましょう」
男はそのまま奥の部屋へと歩いていく。
「やめろッ」
なすすべもなくそのまま運び込まれていくVであったが途中で力尽き再び意識を失ってしまった。
次にVの目が覚めた時、そこは見慣れぬ天井だった。
「どこだここは?」
「私の診療所ですよ」
横合いから声がかかる。Vがそちらを見ると例の男が笑顔を浮かべたままそこに立っていた。
「覚えていませんかな?」
「そういえばあの男に担ぎ込まれたんだっけか」
まだはっきりとしない頭を無理やり覚醒させつつVはゆっくりと起き上がった。見ると寝ていた場所は清潔そうな白いシーツが敷かれた寝台であった。病院特有の薬品臭くない代わりに消毒液のような匂いを感じた。Vは再び視線を戻す。男は相変わらず同じ場所に立っているだけであった。
「お前本当に医者なのか」
「もちろんだとも」
「さっきの行動を見て疑わない奴がいるとしたなら相当な物好きだぞ」
「あれくらい普通だと思うのだが」
「……」
「それにしても」
男はそこで一旦話を区切ると言った。