ガサガサと葉が揺れる音がする。
「リアねえさま!」
アルローリアはその声で我に返り慌てて前を見た。しかし時すでに遅し。ぽよんと顔にボールがぶつかってその勢いのままぽすんとしりもちをついた。ボールが地面をころころと転がっていく。うなぁ~と鳴き声をあげながらユーリアがやってきてアルローリアの顔を覗き込んだ。
「リアちゃん、大丈夫?」
続けてやってきたシフォがそう言って尋ねてくるので、アルローリアはこっくりと頷いて返事をする。記憶にある限りいつもならもっと騒ぐはずなのだが、やけに静かだ。シフォは心配になってユーリアやルピナスと顔を合わせる。
「ねえ、リアねえさまのこと見ててくれる?ぼくはボールを取ってくるね」
「じゃあ私、ママたちのこと呼んでくるね。リアちゃんすりむいちゃったみたい」
「わあ、ほんとうだ。痛そう……」
「ユーリアは、リアちゃんの傍にいてくれる?」
うな!と元気のよい返事をしてユーリアは大きく首を縦に振った。シフォが少し離れたところでこちらを見ていた保護者の下へ走って行くのを見てから、ボールが転がっていた方へとルピナスは足を向ける。どうやらボールは芝生を越えて木々の生い茂る庭園の方まで転がっていってしまったらしかった。特段悩む理由もなかったので、ルピナスはそのまま木々の中を進む。
ぎちり、と何かが軋むような音がして、ぴくり、とルピナスは耳を揺らした。ついで鋭敏な嗅覚が感じ取ったのは、祖母と共に旅をしていた時以来の、血のような匂い。ざわりと尻尾の毛を逆立たせ、木々の奥を注視する。その隙間にちらつく不気味な光沢を帯びた黒い色と、その黒い色に今にも齧り取られそうになっている桃色を見ると、ルピナスはそれを助けるべきか、それとも今すぐに大人を呼びに走るべきかと考え込みながら一歩後ずさりをした。ぱきりと枝が折れる。その黒色がこちらを見た瞬間、ルピナスは竜の姿に転身するなり桃色を口に咥え逃げ出す。ぞろりと黒い何かが追いかけてくるのを背中に感じながらユーリアたちの下へ走った。
シフォはもう大人を呼んできていたようで、今日保護者として同伴していたユーダリル、シュネーヴの二人がいる。ぴくり、と両者は同時に反応を示し、木々の方へと視線を向けた。少し遅れてルピナスが飛び出してくる。
「おや、ルピナス。そちらは新しいお友達ですか」
『えっとね、あのねっ、あのっ、大変なのっ』
「ええ、ええ。わかっておりますとも。どうやら子供たちの遊びを邪魔する無粋な客がいらっしゃるようで。」
ずるりとほどけるようにユーダリルの姿が妖艶な女性から美しい闇色の猟犬へと変わった。ぎちり、ぎちりと、獲物に近づくそれの足音が聞こえる。アルローリアの不調に続き起こったこの出来事に、シュネーヴも険しい顔のまま木の向こうを睨んだまま警戒を強めた。
ぬ、と。侵入者は木の陰からその姿を覗かせる。それは一言でいえば、虫であった。一方で、ただの虫と言ってしまうには、異様な姿をしていた。
それは蠅のような顔をしている。それは蟷螂のような鎌を持っている。それは百足のような脚を持っている。
いわば蟲のキメラとでも言おうか、異様な姿をしたそれは大体成人男性くらいの体高をしていた。ぎちり、ぎちりと脚の関節を唸らせながら、それはしきりに首を傾げる。ルピナスは桃色を咥えたまま耳を伏せ、ユーダリルとシュネーヴの後ろへ下がった。かつ、とシュネーヴは換装の済んだヒールを鳴らす。
「一般市民が来る前に事を済ませましょう」
短くシュネーヴがそういうのと同時に、虫は大きく鎌を広げながら叫び声のような軋む音を上げた。
「――虫、ですか」
カノープスは眉をしかめる。頭を過ぎるのは、蝶雪に無理やり子を産ませ軍事利用していたあの帝国のこと。暫しの沈黙ののち、彼は首を横に振り、アルローリアのことをゆっくりと見た。
「……リアも、たくさん怖い思いしたね。傍にいられなくてごめんね」
ぱちぱちと瞬きを繰り返し、うーん、とアルローリアは首を傾げる。
「リア、よくわかんない」
「わからない?」
「だってリア、虫さんなんか見てないもん」
きょとん、とそういうアルローリアに、カノープスはちらりとシュネーヴを見た。シュネーヴは何とも言えない表情でカノープスを見つめ返す。
あの時……カノープスが悪夢から脱したあの時から、アルローリアには度々こういうことがあった。時折様子がおかしくなり、しばらくして元に戻ったかと思えばその時のことを覚えていない、と言う。
どうしたものかと考えるカノープスだったが、にわかに外が騒がしくなり、その理由を大体予想できている彼はこめかみを揉みながらドアを開けた。ドグマがにこにこと実に楽し気な笑顔を浮かべながら両手でしっかりと羊……のような桃色の生き物を持っている。その生き物は懸命に短い脚を動かしてドグマの手から逃れようとしていた。
「……何をしているんですかドグマ」
「いや~、羊ちゃんがこっち行きたいっていうから」
「下ろしてあげなさい」
「え~」
「ドグマ?」
「仕方ねえなあ」
ドグマの手から逃れたその生き物は勢いよくシュネーヴの胸元に飛び込み小さな口を開く。
「たすけて、かえってきて」
シュネーヴは困ったように眉尻を下げた。この羊は助けたときからずっとシュネーヴとアルローリアに対してそう鳴いている。何を聞いてもこれだけをインコのように繰り返すばかりで、仔細は一向にわからなかった。帰巣本能だろうか、羊は帰り道を理解しているようで、一生懸命方角を示して二人をどこかへ連れて行こうと努力している。
しかしカノープスには迷いがあった。果たして羊の言うままに二人をその場所へ連れて行って大丈夫なのか?これは帝国の罠なのではないか……?
「あなたもとうとう限界なのだね。」
悩む彼をよそに、アルローリアの身体に潜むそれは小さく小さくつぶやいた。