夜が去り、暁が東の空に現れる。けれどそれは時計がそういう時刻と数字で示しているだけで、実際に朝のはじまりを目にすることは叶わない。人理の砦にあるこの部屋には窓がなく、それ以前にこの地はいつも吹雪のなかにある。
ケイローンは目覚めた身体を起こすでもなくベッドに横たわっていた。のっぺりと白い天井を、見るともなしに目に映す。まだ何かをするには早い時間。まばたく瞼は少し重い。英霊には眠りが不要であることと、眠りに落ちるのが心地よいことはどちらも正しく両立する。もう少しだけ、と寝心地のよい姿勢を探して身動げば、布団のなかであたたかいものと触れ合った。
よく知る形。やわらかさ。ぼんやりとした頭でケイローンは手を這わせる。もっちりと弾力のあるこの感じ。指先でふにふにとつつくのもいいけれど、手のひらでぐっと掴むのが癖になるようなこの感触。知っている、けれど睡魔がその正体をぼやけさせる。
ケイローンが寝惚けたままに何だったろうとそれをこね回していると、手のひらに何か小さな引っ掛かりがあるのに気がついた。ゆっくりと擦るとくにゅりとやわく潰れるが、確かにかたく尖るもの。指で辿ればちょうど摘めるか摘めないかくらいのささやかな突起がそこにある。
「は……っ、ぁ、あ……」
こすこすと擦るほどかたくなるのを楽しんで、より大きくなったそれを二本の指できゅっと抓る。それを遊ぶように繰り返すと、睡魔を一瞬で吹き飛ばすほどの甘い響きが耳をくすぐった。どくりと心臓が飛び起きる。
「ア、キレウス……」
全力疾走のあとのような息苦しさを覚えつつ、ケイローンは押し上げた瞼の先にそれを見た。健やかに眠っていただけであったはずの恋人が、胸をまさぐられあえかな喘ぎをこぼしている。
薄く開いた赤い唇。ほんのりと上気した頬に、悩ましげな形に歪む眉。震える瞼が開かれないのが救いかどうかは分からない。縁取る長い睫毛が動かないのを見下ろしながら、ケイローンは詰めていた息をゆっくりと吐き出した。
じわりと額に汗が滲む。抓んだままの乳首をそろりと指で撫でてやると、再び甘い声が耳の奥をくすぐった。
「あっ、あンっ、ぁ、ふ、んぅ〜」
抑えることのない素直な喘ぎは腰に響く。
寝ている相手に何てことをと思いはするが、ケイローンは今度こそはっきりとした意識でアキレウスの胸をまるく揉んだ。
やわらかな肉の弾力が、手のひらを押す小さな尖りの感触が、よく知るものだと馴染んでゆく。もっととねだるような甘えた声を言い訳にするのはずるいことと知りながら、ケイローンはその手を止めることができなかった。
しっとりと火照った熱い肌が、一枚の布を隔てていてもよく分かる。アキレウスが普段から身につけている黒いインナーは、ぴったりと肌に張りつきいやらしく乳首を浮かせていた。その触ってと言わんばかりの有り様にごくりと唾を飲み込んで、それでもケイローンはそこに触れはしなかった。くるくると周りを撫でて焦らすだけで、もどかしそうに身をよじるアキレウスに笑みを深くする。
「んっ、あ……、ぁう……」
ぴくぴくと震えはするが未だ閉ざされたままの瞼。ここまでされて目覚めないのはよほど疲れているからか。たっぷりと愛してあふれるほどに魔力を注いだ昨夜をケイローンは思い出す。
激しくされたい気分だからと後ろから突くようねだったアキレウス。望みどおり強く腰を打ちつけて、獣さながらの種付けで応えたケイローン。
いつかベッドを壊すのではと危惧しているが、ついに限界を迎えたのかと思うほど、昨夜の交わりはかなり激しいものだった。ぱんぱんと肉をぶつけ合った淫らな音が、今も耳の奥に残っている。シーツを噛んで精一杯に堪えながら、それでも突かれるたびに歓喜していたアキレウスの甘く爛れた嬌声も、ケイローンの耳は覚えていた。
これはケイローンの仮説に過ぎないが、アキレウスは無敵に等しい加護を持つがゆえ、その肉体を傷つけられることを心のどこかで求めている。しかしそれは本人も意識できないところでだ。だからそんな意識はないままに、その欲はほとんどの場合戦闘において満たされ発散されている。そのため誰も気づかない。
けれど時々は、それができずに燻ったまま夜を迎えることもある。自分でも何が燻っているのか分からない、ただ疼く熱を抱えて過ごす夜。そういう時に、アキレウスはベッドの上でひどくされることを恋人にねだるのだ、とケイローンは考える。それがキモチイイということを、身体も心も知っていて、甘えるように求めてくる。
「せん、せぇ……」
眠りのなかからこぼれ落ちる、舌っ足らずな幼い声。すっかりと低くなった大人の男の声ではあるが、ケイローンからすれば子供の頃と変わらない。響きに滲む真っ直ぐであたたかい親愛が、くすぐったくて、かわいそうで、何よりもただ愛おしい。
仮説を立てるくらいなら、その被虐的な欲をどうにかしようと考えるなり、求められても上手く加減をするべきだ。それがアキレウスのためであり、正しいこととは分かっている。
しかしケイローンはまったく同じ正しさで、自分にはそれができないことを分かっていた。たった一度の奇跡のような召喚と、求められている喜びに、欲はどこまでも深くなり、抑えることはとてもできない。
ふぅとひとつ息を吐く。ケイローンは胸を撫で回す手を止めると、そっとアキレウスの瞼に口づけた。薄い皮膚の下のまるみ。隠された黄金が花開くように現れるのを待ちながら、とくとくと刻まれる鼓動を指先で静かに受け止める。
「ん……、せん、せ?」
先ほどよりはしっかりとした声が響く。ゆっくりと重そうな瞼が開かれる。
「おはようございます、アキレウス」
生え揃う睫毛の一本一本が見えるほどの距離にいて、ケイローンは朝露が滴るような声を耳元で囁いた。びく、と震えたアキレウスは寝ぼけまなこをぱちぱちとまたたかせる。
「ぉはよ……って……うわ、なに、近っ」
一人用のベッドはふたりで寝るには小さいために、身を寄せ合うのは仕方ない。しかし身動ぐだけで鼻先が触れそうなほどに抱き合うのは近すぎる。アキレウスはもぞもぞと距離を取ろうとした。
「身体の調子はどうですか?」
「いやこのまま話すの……まぁ別に……や、待って、その、胸……が」
「胸?」
「んっ、なんか、ちくび、こすれて……痛い、ような……、ひゃっ、ぁんッ」
何も知らないまま焦らされ尽くしたそこに指をすべらせれば、アキレウスはびくんと大きく仰け反った。
「やっ、あっ、なに、だめ、ぇ……っ」
ようやく与えられた刺激に悦ぶ身体に置き去りにされ、戸惑いながらも慣れた快楽によがる声。ケイローンはその寝ている時とはまた違う声に煽られて、奥歯をぐっと噛み締めた。歪む唇を抑えておくのに苦労する。
「だめ、ではないでしょう? アキレウス」
こういう時にどう言うべきかはすでに何度も教えていた。聡く素直な教え子は、快楽に犯されながらもケイローンの言わんとすることをきちんと理解したのだろう。
淫らな欲に屈する自分を恥じるように、それでいてそんな状況に興奮するのを隠せないようなひどく蕩けた顔をして、濡れた唇をゆるませた。
「は、ぃ……、あっ、ぁ、きもちい、です、せんせぇ、そこ、きもちいい……っ」
「痛くはない?」
「んっ、へいき……、こすれて、ぜんぶ、気持ちよくって、あっ、んんっ」
くにくにと乳首をこねる指にたまらなそうに首を振り、アキレウスは言葉どおり悦に浸りきった声を上げる。それは朝の時間に似つかわしくない夜にだけ響くはずのものだった。
「では、もっとしてもいいでしょうか」
そんな声を上げさせているケイローンもまた、夜の声で夜に紡ぐべき言葉を空に踊らせる。視界の端には刻々と起床の時刻に近づく時計の数字が見えているが、乱れるアキレウスから手を引こうとは思えない。
「んぁ……でも、もう朝じゃ……」
身に宿る熱に悶えながら、それでも己の本領をしかと心得ている英雄は、ためらいがちにそう告げる。どれほど愛し合ったあとであれ、目覚めた朝にはその身はただの剣である。人理のために、世界のために、マスターのために戦う道具であることが、夜の自由に対する責任なのだと言葉にはせず告げている。
「ええ、そう。そうでしたね」
それはケイローンとて理解していることであり、それを言われたら引くしかない。名残惜しくとも最後に一度谷間に顔を埋めるだけで、アキレウスの胸からゆっくり身を離す。今はまだケイローンを誘うように色香をあふれさせているが、もうじき何もなかったように鎧が覆うことだろう。未来視なんてものをわざわざ持ち出すまでもなく、未来はそこに見えている。
「けど」
だからケイローンに続いて身体を起こしたアキレウスが、服の裾を掴んでもじもじとする姿は予想にはないことだった。ケイローンは突然重力が半減したかのような錯覚のなか、言い淀むアキレウスの言葉をじっと待った。
「けど、先生がどうしても、って言うなら、俺……その、朝飯抜いても構わないし……」
それは普段であれば咎めるべきな告白だが、今のケイローンには天啓とも言える慈悲だった。つまり朝食後までの時間であれば、まだ夜の続きとして扱っていいらしい。
「どうしても、と言うだけで?」
たったそれだけで許される。その至福はケイローンの頭の奥を痺れさせた。
こくりと頷きながら服をたくし上げたアキレウスが、裸の胸を見せてくれる。露わになる瞬間にたゆんと揺れたのを見逃さなかったケイローンは、一秒すらも惜しんでそこへ手を伸ばした。
布越しでない肌は吸いつくようにうっすらと汗で濡れていて、それがまた艶かしさを増している。むっちりとしたやわらかな肉をわざと揺らして楽しめば、アキレウスは真っ赤な顔で不満そうに唇を尖らせた。
「先生、ほんと胸を揉むの好きだよな」
「あなただって揉まれるの好きでしょう」
「俺は好きにさせられただけだから」
「好きだというのは認めると」
ぐにぐにと揉みしだく手を止めないままに笑いかける。反論は特に返ってこなかった。 言葉になる前の甘い吐息が次々こぼれ落ちてゆく。
ピピ、と時計が鳴った音にふたりで顔を見合わせて、どちらからともなく唇を重ねてすべての音を遮った。残された時が短くなるほど燃え上がる。蝋燭と同じだな、と浮かんだ言葉は飲み込んだ。
「ん……、せんせ、せんせぇ……っ」
もう少し、もう少しだけと朝の時間を食い潰す。快楽に濡れる金の瞳は月を映した水面のようで、覗き込むほど囚われる。
やわらかい。あたたかい。手放したくない愛おしさ。求められると安堵を覚える心はきっと、求めることを許されたいからなのだろう。
ケイローンは震える両手にそっと腕を掴まれて、ひそやかに息を飲み込んだ。ここで終わりだと告げられるには、まだ早い。まだこの至福の時を堪能したとはとても言えない。
駄々をこねているのを承知で手のひらに力を込めたケイローンに、アキレウスは再び未来を裏切った。
「下も……触って……」
うつむく先を追いかけると、すっかり兆したものが見える。目覚めてからは一度も触れていないそれが、ケイローンを求めて熱くなっていた。
「先生……」
ぐ、と引かれて胸から外れた手の下で、ふたつの飾りがぽちりと赤く腫れている。その可憐とも思える姿に目を惹かれつつ、寛げた下衣からまろび出たものの卑猥な様に喉が鳴った。
朝食はもう遥かに遠いものになった。
「……どうしても?」
言わせることに意味はない。けれど言葉にするということは、何かしらの意味を持つ。
アキレウスが恥じらいためらう素振りをケイローンが贅沢に見守ると、やがて噛んだ唇は開かれた。
「……どうしても」
睨むように尖る目も、頬を染めていては可愛らしくしか映らない。半端に脱いアキレウスを再びベッドに押し倒すと、ケイローンはふっと微笑んだ。
どうしても、と言える我がままを、互いに許し合えている。それが行為を続けられることよりも、たまらなく嬉しかった。
ベッドが壊れないことと、マスターが朝食を済ませる頃までに終わること。ふたつの目標を掲げながら、ケイローンはひとまず目の前にある胸に顔を埋め深く息を吸いこんだ。
アキレウスが変な声を上げていたが、どうしても、そうしたくなったのだから仕方ない。