仁重殿に置かれたる繰り人形(以下略)言い知れぬ苛立ちは、不安と無力感の裏返しなのかもしれない。
院子から見上げた先にはよく晴れた空。項梁は胸のざわつきを重苦しい呼吸と共に吐き出した。
少し離れた場所ではこの仁重殿の主たる台輔が一人 穏やかな声を響かせている。
周りにいる人影達の一人一人に声をかけ、返事も無いままに語らいを続けているのだ。
この六年で見慣れた光景。
虚ろな顔で日光を浴びる無言の聴衆の顔を見回して、項梁はいま一度肺の空気を絞り出す。
白圭宮では、偽朝の落とし子とも言える傀儡達を抱えたまま六年が過ぎた。
嘗ては傀儡となった者達の療養所が台輔の宮の側近くにあったが、今は建物は封鎖され その機能と共に彼らの身柄は仁重殿の敷地内に移されている。
理由はその人数だ。当初からの療養所は今や人数に対して広過ぎた。
─いや、元よりそれほど多くは生き残っていなかったか……。
見慣れた光景の筈なのに今更そんな述懐が浮かんできたのは、項梁の抱えるこの重苦しい焦燥のせいだろうか。最近、頓に六年前の戦のことを思い出す。
明らかに魂魄が抜けて、呪符で縛られ漸く動いていたとしても、兵としての働きが出来る者は戦場に出されてその殆どが死んだ。自分達が殺した。傀儡は決して投降などしてはくれない。
そして兵でなくても、尊厳の無い死を迎えた傀儡達を大勢見た。
彼らは戦場という機構を動かす駒のように使い捨てられ、またある者達は打ち捨てられた人形のように、逃げることもせずにただ戦火に焼かれた。
目を閉じると、今でも同輩達の慟哭が耳に甦るような気がしてくる。
***
項梁達が踏み込んだ外朝には人の気配もなく、不気味に静まりかえっていた。
多くの人で賑わっていた嘗ての姿との差異を強く感じて、奇妙な場所へ迷い込んでしまったような違和感がより増す。戦場を行軍しているというより、戦場跡の廃墟に迷い込んで彷徨っている様な気分だった。
少し前に雉門を抜け、今は苦い記憶の残る奉天殿にさしかかろうというところだ。
周辺はほかより一段高い場所になっているだけで元は開けて見通しの良い場所だったが、今はあたりに瓦礫が積まれて俄に視界と足場が悪くなっている。
奉天殿は門と塀に囲まれているが元々式典用の殿堂であって戦の備えではない。砦の壁と比べればその塀は低く兵卒ならば越えるのに難儀するようなものでもないが、まとまった広さのある閉鎖空間には違いが無い。先で敵軍が待ち構えている可能性があるということで今は斥候が戻るのを待っている。
これまでにも何度かこのような待機時間があり、そのたびに肩透かしを食らってきたものだ。
(通常の戦場ならば、敵が待ち構えていてこれほど静かである筈がない)
そう思いながら留め置かれる間、妙に間延びした緊迫感に晒されて嫌な汗が掌に滲む。
「項梁様、会敵しないのはいいのですが こうも何も無いと、なんだか気味が悪くないですか。燕朝に着くまでこの調子なのでしょうか」
気を紛らわすためか、傍らに控えていた副官が声を出す。漕溝からの付き合いの、元は江州師に属していた若者だが 余り戦慣れしていないらしい。
項梁とて似たようなことを思ってはいたが、感情が顔に出すぎているなと苦笑を返した。
「……敵の戦力にも余裕はない、ということだろう」
項梁の言に なるほど、と僅かな安堵の除く顔で頷く。
「燕朝の本陣まで此方の兵力を温存させるほど、となれば余程のことでしょうね。しかしこれならば空行師を上げても良かったのでは?」
「隧道を通った時に言ったろう、雉門の呪(まじな)いは切られていた。おそらく五門全ての呪いが切られている。であれば今空行師を上げても援護ができない。敵方にも余裕は無かろうが、我が方の騎獣の数とて十全とは言えない。そんな中で歩兵の支援無しで騎獣を上げるのは単騎突入と変わらん」
雲海の上には間違いなく選(せい)卒(えい)と対空防備が待っている。空行師は強力だが無策に敵陣に送り込んだところで徒に損耗させるだけだ。
「せめて数があれば……。援軍の騎獣をお借りできれば、と惜しくてなりませんよ」
上を向いてぼやく副官に思わず笑ってしまう。
「気持ちは汲むがそれは贅沢というものだ。あくまでこれは戴国の問題、そこに他国が兵を貸してくれたというだけで破格の振る舞いだぞ、無傷でお返しするのが筋だろう」
一時の絶望的な状況を思えば、後方と糧秣の憂いが無い戦いを保証されているというだけでも十分だ。主上が援軍を決して前線部隊に組み込もうとしないのはそう考えているからだろう。
「じれったく思えるかもしれんが、地道で確実な方法をとるべきだと私も思う」
「はあ、まあそれはわかるのですが……」
歯切れの悪い副官の肩を、確りしろと笑って叩く。
しかし、励ますような物言いの裏で項梁も漠然と不安を感じていた。
─いくらなんでも、何もなさ過ぎる。
驍宗を奪還し、漕溝に集結し今日に至るまでおよそ四ヶ月。陣容を整えついに白圭宮まで攻め入るに至ったが、その間 敵も黙ってみていた訳では無い。病んだ他州からの出兵、荒民や投降者に紛れた間諜による工作、随分と都合の良い場所と時機に生じる妖魔、執拗に出血を強いられた猛攻はこの期に及んでまだこれほどの手管があるかと臍を噛む程であった。
それを見て日和ったか、はたまた元より恭順の意思が無いのか、王と宰輔からの要請にさえ兵を出し渋った州もある。王の「他国の兵力は後方へ配置する」という方針もあって、正統な官軍で有るにもかかわらず偽朝の兵を圧倒できるほどの兵力は無い。
逆に言えば、そんな状況であったから此処に至るまで四ヶ月も掛かってしまった訳だが。
ともあれ、その数ヶ月を思うと尚のこと この静けさは不気味だった。
敵軍とて損耗はあろうが、事前に集めた情報を鑑みれば此方の兵員を削るだけの兵力はあるはずなのだ。これまでにも 自分ならばここで罠を張る、ここに伏兵を置く、という場所で今のように斥候に様子を見させてきたが、その悉くで肩透かしを食らっている。味方の空気が弛緩し始めているのも問題だが、不要な緊張を強いられ続けるのは兵の負担になる。
気を引き締めろ、と檄を飛ばしながらここまで来たが味方の疲弊を考えれば限界が近い。
もしや項梁の考え違いであったか。敵兵力の見込み評価を下方修正するべきだろうか。あるいは勝つつもりなど最早無く、策もなにも全てを抛(ほう)擲(てき)しているのだろうか……。
そう考えた所で、泰麒と共に白圭宮に還った当初の朝廷の不気味な空気を思い出した。
投げ遣りとも違う、薄気味の悪さ。伸ばした腕の先も分からない様な視界不良の敵陣で四方に警戒しながら徒(いたずら)に踊らされている感覚。
毛穴に纏わり付く様な不安感を振り払うべく、項梁は瞑目した。
漸く伝令が来たのは、十分すぎるほどの休息を堪能した後だった。
「─師帥殿、先遣が戻りました。一伍を送り奉天殿、その先の華蓋殿を抜け謹身殿まで行って戻らせましたがいずれにも敵兵の姿は無く人のいる様子は見られなかったとのことです。」
「待て、その範囲に伍を一つか?見通しが悪ければ障害物の裏に伏兵を潜ませている可能性がある。配置を探るにはそれでは足るまい」
思わず、警戒が緩んでいるのでは無いかとの懸念が首を擡げる。
それが……と、伝令も困惑混じりに返答の声を出した。
「瓦礫や建材が散在しているようですが、それらの他には特に障害物も設置されていないようで門から先は見通しがかなり良いらしいのです。報告者の言を借りれば、何の備えも無いのが却って異様だ、と。強いて言えば門を潜った先の石畳が水浸しで斥候が一名足を滑らせたのが一番目立った出来事ですね。」
静かなものですよ、と伝令は首をすくめる。
「伏兵なりがいるのであれば、いくら身を潜めてようと斥候の存在で多少動きが出ます。開けた場所で相手がこちらを見るのであればこちらからも相手が見えましょう」
戦場に於いては例え相手が隠れていても殺気や視線は敏感に感じる。斥候を任されるような兵士がそれらに気付かぬとは思えない。
「絶好の配置に卒の一つも無し、か……」
愈(いよ)々(いよ)以て不可解である。
「先陣はこれより奉天殿へ進みます。それでは」
伝令の兵は報告を終えると一礼して次の指揮官への連絡に向かう。
「まったく、もしやこの緊張と脱力が一種の精神的な攻撃なんじゃないかと疑いたくなるほど何も起きないですね」
「そう思っているならもう少し背筋を伸ばしておけ、先陣がここを抜ければ次は我々の番だ。相手が常勝と言われた用兵家であると忘れるな」
ぼやきが板に付いてきた副官にぴしゃりと言う。半分は自分への戒めである。
弛緩した空気を拭えないままに、前の一団が午門を通り奉天殿へと抜けた時だった。
不意に高い音が耳をかすめた。瞬間、轟音と共に突如門が落ちた─ように、項梁には見えた。
─何だ?何が起きた!
崩落した壁の上に楼(たかどの)の屋根であったものが積み上がり、あたりはもうもうと白く煙っている。
遠くから、先程耳にしたのと同じ高い音が響く。音の方向へと面を巡らせると、白くぼやけた空に小さく黒い点が数個。黒点は見る間に近づき、丸い砲石が姿を現したかと思えば弾着の勢いのまま破裂した。
身体ごと意識を揺さぶるような震動に、千の石塊を鍋で煎るような音がする。何ごとかと判ずる暇もなく破裂音が続き、あたりに白く立ちこめた靄からは水と、石の焼ける匂い。
─襄陽砲(とうせきき)と……そうか、砲石の中身は沸かした鉄か!
泥と漆喰で固めた弾丸が砕けると、中に封じられていた鉄の湯が流れ出し石畳の上に撒かれていた水を急熱する。高温の鉄汁に触れた水は激甚な勢いで膨張し強い衝撃を発生させる。
そうやって生じた爆発的な力が門楼を崩したのだ。
何が起きたのか分かれば大した事でも無い。
門が落ちて先発隊と分断されたのは厄介だが、砲は大がかりな装置で小回りが利かない。早急に射程範囲から退避すれば大した損耗は出ない。
「落ち着け!こんなものは子供だましだ!門から離れ隊列を組み直せ!」
項梁が態勢を整えようと声を張り上げていると、瓦礫に阻まれ視界不良の中、土煙と白い蒸気の向こう側に動きがあった。
「おい!伏兵はいないんじゃなかったのか!?」
そんな声がどこからか上がっている。
砲と爆発によって奉天門より内側に閉じ込められた兵士達が見たのは
行く手に見える宮殿、そして今し方崩れ落ちた門の建屋の階上から、虚ろな目で何かを抱えた者達がぞろりと歩み出る。兵によってはその中に見知った顔を見つける者もあった。
白圭宮にいた、傀儡になった者達だ。
「くそ、静かなわけだ。伏兵どころか兵とも呼べない木偶どもではないか」
「……細かい命令がこなせる訳でもなし、傀儡など戦場で大した役には立たん!蹴散らせ!」
この時まで 皆一様に、碌な作戦行動もとれない傀儡をまさか戦場に出してくるとは思っていなかった。のろのろとした動きを見るに賓満憑きでも無い。
─一体何を持っている?こんな梢(ほうばしら)も無い場所で場所で砲石の用意…という訳も無かろうが。
分断された奉天殿(あちら)と門の外(こちら)、壁の壊れた箇所もあり外側にいる後続の部隊の一部からは僅かながら様子が知れた。しかしすぐにその僅かな視界も土埃と煙で塞がれる事になる。
方々で困惑が広がる中、再び甲高い投射音と、弦の音が響く。相変わらず割れた弾からは赤熱した鉄が流れ出し、今度はご丁寧に火箭まで放たれているようだ。
先陣にあった者達は、傀儡達が抱えた物が油壺であったと 虚ろな顔が炎にまかれ燃え上がるのを見て漸く気付いた。
「─人が……人が燃えている!」
内側から聞こえる声で外側にいる者は何が起きているのかを知る。
奉天門の内側では 上がった叫びを皮切りに、顔色を失い立ち尽くす者、生き物の焼ける匂いに嘔吐する者、反応は様々であったが皆一様に戦慄を憶え、先頭の部隊は大混乱に陥った。
その取り乱し様は平時の王師であればあり得ないものであったが、そもそも先陣には偽朝を離叛した者が多く組み込まれている。つまり彼らの大半は各地から挑撥された素人に毛の生えたような兵なのだ。
間諜の可能性を考えれば離叛者は作戦の枢要に組み込む訳にはいかず、かといって監視付きで後方に留め置く様な余裕もない。自然、末端の損耗率の高い部隊ほどこういった者達を組み込まざるを得ない。勿論長年の兵卒もいるが、割合にすれば少数派となる。
多数がそんな様では、古参兵にも恐慌が伝播する。
更に言えば、古参は、対峙する傀儡達に知り合いが紛れている率が非常に高い。運悪く知己を見つけてしまった者にしてみたら、目の前にいる知人達は数ヶ月前、数年前には親しく言葉すら交わしていたものが、今は声も上げずに炎の中で我が身が燃えるに任せている。
阿鼻叫喚の王師と対照的に無言のまま炎を上げる傀儡達だったが、立ち尽くしていたのはほんの暫しの間だけだった。時間の経過に合わせて 指先から腕、腹と伝播するように強ばり、徐々に背を丸めていく。高熱に炙られた筋が変性し収縮を起こしているのだ。意思を持たない奇妙な動きは苦悶のようにも見える。
知り合いのそんな様相を見て、半狂乱になって火を消そうと近寄る者に、傀儡は手を伸ばした。
炎に巻かれた腕(かいな)で、駆け寄ってきた兵を抱擁する。旧情の故ではない。手近な可燃物にしがみ付けと命令されているのだろう。
あっという間に黒く焦げ落ちた手や顔とは裏腹に、衣服や皮甲に覆われた箇所は熱の伝播が遅いらしく生焼けで、掴む力は意外なほどに強かった。
別の場所では柱や周囲に積まれたがれきの建材に次々と火が燃え移っている。
松脂でも塗り込んであったのか奉天殿は勢いよく燃え上がっていた。いかに仙が徒人より頑強であろうと、炎に巻かれれば命を落とす。後続は炎上する門殿に阻まれ先陣の救援もままならない。いまや内と外、彼我は完全に分断されていた。
後続陣の側にいた項梁達には、「向こう側」が火炎と黒煙で埋め尽くされた後は何事かが起きているのを、ただ悲鳴と怒号から伺い知ることしか出来ない。
中には立て直しのための指示を飛ばす指揮官達もいたようだが、混乱の坩堝の中でもはや戦闘単位としての機能は期待できなかった。
***
その時鼻腔を突いた髪や革の焼ける臭いは今でもまざまざと思い出せる。
そこから先は、それまでの静寂は幻だったのかと思うような地獄だった。
その日に至るまで離叛も逃亡もせず阿選に与しているような兵は、いずれも死兵だ。皆一様に手強く、兵にせよ将にせよやりづらかった。
だが、心情的にはそちらの相手をしている間の方がまだましだったと、項梁は思う。
内朝では至る所に凶暴な妖魔が跋扈していた。
妖魔の出る場所の付近では兵でも官吏でも、生きた人間と出会うことは無い。
そもそも残存者の数が少ないのもあるだろうが、妖魔除けがあるのか、それとも妖魔のいる場所は予め決められていて通達でもあったのだろうか。
しかし妖魔を避けるという意思すら持てない者達のことはただ捨て置かれていたらしい。
妖魔のいる場所は大概 食い荒らされた血と肉とでそこら中死臭に満ちていた。
大型の獣の囓り取ったような、馬とも犬とも分からぬ食い散らされた肉塊の傍に転々と放り投げられていた品々はその残骸が白圭宮にいたはずの輩(ともがら)であると嫌でも突きつけてくる。
瞼の裏に焼き付いてしまった凄惨な光景を追い出すように、項梁はきつく眼を瞑る。
せめて命のあった者だけでも助けたい。台輔が切にそう願うのもよく理解出来た。
しかしその願いは、今のところ一つも実を結んでいない。
項梁は いま一度、仁重殿の中庭に佇む見知った顔ぶれを数える。
必死に傀儡の人数を数えてきたこの六年は、一人欠け、二人欠け、これ以上取りこぼすまいと悲痛な思いを抱えた続けた六年でもあった。
命じられたことをこなせる内はまだよかった。呪符に縛られているとはいえ、自発行動があれば「いつか自分の意思を取り戻すのでは無いか」と僅かな期待が持てていた。
しかしいずれ、与えられる命令にすら反応を見せなくなるとその期待が所詮は楽観だったのだと打ちのめされた。だが、まだ生きている。筆を持たせれば、書かずとも手になじんだ五指の形で構える。口に粥を入れれば飲み込むし、目玉が乾けば瞬きもする。生きていさえすればいずれ解決方法が見つかるかも知れない。
しかし年数が経つほどに、最低限生きるのに必要な反応すら小さく薄くなっていく。そうなれば衰弱が始まる。自ら食うことも、水を嚥下することもできなくなるからだ。仙籍に無い以上、そうなった傀儡の命脈は永くはない。
かしゃん
突如響いた何かの割れる音に、台輔の声が止まる。場に一瞬の静寂が満ちた。
傀儡の一人の手に持たせていた器が何かの拍子に地に落ち、割れたらしい。
月のような、仄青い白玉の盃が石畳の上で砕けている。
器を落とした人物を認め、項梁は視線を背けた。
この玉盃はたしか、彼の友人が持たせた物だった。
手に持った物を落とす、それは一つの兆候である。手に持った器を保持できない程に筋力が弱っているのだ。そうなると、直に反射が消え始める。
ついに、彼に順番が回ってこようとしている。
「……恵棟……」
拳を握りしめ、絞り出すようにその名を呼んだ。