Recent Search
    Sign in to register your favorite tags
    Sign Up, Sign In

    xylophagous7

    @xylophagous7

    ☆quiet follow Yell with Emoji 💖 👍 🎉 😍
    POIPOI 29

    xylophagous7

    ☆quiet follow

    2024年8月10日のエア阿オンリー新しいやつ2本上げたかったのに間に合わなかった!
    一日遅れましたが新しいやつも2本書き上げてやっと中オチまで行ったので、そのうち本にする予定の連作短編過去分も併せて新刊サンプルっていう体で途中までですけど出します。

    本にするときまでに大幅な編集と改訂を入れる予定です。入らないかも知れないです。
    錯簡はわざとです。

    エア阿選オンリー2024【新刊サンプル】乍朝右界奇譚拾遺集乍朝右界奇譚拾遺集

    右:一、南に面したときの西側
    二、そば、かたわら

    古来、幽界物の物語集は多く有るが、明幟二百年を過ぎた頃から明確な幽(かくり)世(よ)とは異なる 日常の側にある不思議な物語からなる奇譚が人口に膾炙した。
    これらは幽界物を捩って、日常の側、傍らにある、即ち右界物と呼び習わされた。
    この書は戴極国乍王朝で親しまれたそれらの物語を蒐集、編纂したものである。




    目次

    玉盃にて花精を養うこと
    龍の爪を縫い込んだ閭胥のこと
    月夜に彷徨う
    人を囚ふ礼物のこと
    破り札
    破り札・文州
    破り札・瑞州
    仁重殿に置かれたる繰り人形の命を得ること
    新任の夏官、鬼より南天の枝を得る
    願いの叶う宿帳のこと
    亡霊の首を落とす官のこと






    玉盃にて花精を養うこと

    明幟十年頃のこと。
    驕王の朝より此の方まで国に仕える武官在り。偽朝にては禁軍将軍を拝命し、離反の後正統なる王の為に尽くす。その功を以て台輔より瑞州師将軍に叙さるる。
    将軍邸宅の院子に歳経た一本の花樹有り。いずれの王の御代にか「付ける花には化生が宿り 故人の面影を見せる」とぞ伝わる。然れど花付けぬこと久しく、訪う者は皆「いずれ立ち枯るべかめり」と口の端に掛きたり。
    ある秋の夜、花樹の精 将軍の夢枕に立つ。花精「玉盃に水を盈たし我に与えよ。然れば百歳の後に爾が願いを聞かむ」と言ひたり。
    将軍、百秋に渡り玉盃に水を汲み化生の樹に与ふ。花樹は枯れず百歳共に在り。
    百歳の後、花精百花を咲かす。
    将軍、故人に遭い落涙すと伝う。

    ─瑞州


    院子の中心にある古い樹をぼんやりと眺めていた。
    何代か前の王の御代に、時の瑞州師将軍が縁故の者を亡くした際 悲嘆に暮れる将軍を見かねて王が下賜した花樹だと聞いている。当時は見事な花を付けて将軍の心を慰めた物だそうだが、今は花を咲かせなくなって久しい。
    花に面影を見たということはその将軍が偲んだ相手というのは寵姫か、はたまた昇仙を拒んで只人として死んでいった妻や娘であったのか。
    生憎、己が囚われている死者は花に面影を重ねる様な相手ではない。
    「友尚、また樹を見ていたのか」
    急に掛かった声に、人が近づいていることにも気付かないほどぼんやりしていた己を自覚して驚いた。
    「もう約束の時間か。出迎えもせずにすまなかったな、霜元」
    同じ瑞州師に属するこの同輩とは、時折酒を酌み交わす間柄だ。
    「いいやこちらの方こそ、勝手に上がり込んだ非礼を詫びるべきだろう。謝罪という訳でもないが、干した魚を持ってきたので酒肴にしよう」
    非礼も何も、ただ友尚がぼんやりしていただけで霜元には何の非も無い。
    友尚の好む魚を手土産に選んでいる辺り、ただ気を遣ってくれているのだと分かりやすい。
    手土産など要らないと何度も言っているが、何かと理由を付けては邸宅を訪れる時に細々した物を持参するのだ。
    今日は非礼に対する謝罪と来たか、相変わらず言い訳が下手だなと苦笑した。
    「いつも眺めているこれが、弔慰の花と呼ばれている樹か」
    「……そんな呼び名が付いているとは知らなかったな。だが、おそらくそうだろう。時の王が当時の将軍に贈ったものだと聞いている。院子の中でも一等立派だ」
    霜元は樹を眺める友尚の横顔から視線を外し、同じ方向に顔を向けた。本来ならば花時だろうに枝には蕾の一つも付けていない。
    「俺がこの邸に入ってから、一度も花を付けているのは見たことが無い。樹にも寿命というのがあるのだろう?いずれこの樹も枯れるだろうさ」
    淡々と響くその声を聞いて霜元は目を伏せる。
    花に死者の面影を見るという弔慰の樹。いずれ枯れると語る平坦な声とは裏腹に、この時期になると友尚がこの樹を気に掛けていることを、霜元は誰よりも知っていた。
    そして、もし仮に死者の面影が見えたとしたら、このどこか危うい同輩は何もかもを捨てて遠くの山へと旅立ってしまうのでは無いかと漠然と思っていた。
    死者が果たして残された者を死出の旅へと呼ばうかどうかは分からない。だが、無意識の内に友尚は切欠を欲しているように思えるのだ。
    罪を犯した自らの過去を捨てる切欠、生真面目な彼が責任を抛擲する切欠、重たい生に終止符を打つ切欠。
    どうした所で彼自身が選ばないであろう道を選択するための、切欠。
    あるいは ただ、呼ばれたいのだろう、とも。
    「……いずれ枯れる、か。そうかもしれないな」
    このまま枯れるならばそれでもいい。
    せめて、この明るく気の良い そのくせ胸に大きな虚ろを抱え込んでしまった友人が、死ぬ理由など探さなくなるまではその花を付けないでいて欲しい。霜元は腹の奥でそう願った。


    冷めた十月の夜風が、一人 庭院に佇む友尚の頬を撫でていく。
    この時期になると何年経っても気が沈む。
    新月の庭の隅で独り盃を傾け、鉛の様な胸の内を酒精に溶かしていく。
    つるりと冷たい盃の肌目を撫でた。何時だったか、まだ若い時分に友と鴻基の街へ出かけた際に見かけて購った物だ。白玉を磨いて作られた盃。
    玉の盃は月光に透かせば月を捕まえて光るという。
    薄く青がかった色合いだが、どこか温かみがあって、どちらかと言えばこの酒杯自身が月のようだ。これで飲めばいつでも月見酒だな などと巫山戯て笑った記憶がある。
    二つ一組であったが、片方は割れてしまった。
    よく磨かれた玉の盃を戯れに天に掲げても、朔の夜では月は映らない。
    少し飲み過ぎたかと目を閉じて意識を夜気に晒す。
    日々冷涼さを増していく風に頭が冴えると同時に、同じ冷たさを感じた記憶が呼び起こされる。
    秋に色づく木々の葉と、自分が火を掛けた廬の燃える色。
    池のように広がる血溜まりと、倒れる嘗ての主公。
    友尚の想う秋は、赤い。
    頬を焦がすように熱くて、腹の底から指の先まで冷えるような、赤。
    よくやったな と穏やかに労う声と、事が終われば斬って捨てろと宣う鋭利な声音。
    赤い鉄錆の匂いに塗れた青白い顔。兵卒に怯える民の顔。
    夜天を焦がす火と、怒号と悲鳴。
    取り留めも無く、万感が脳裏を渦巻いて感慨は連なる記憶を呼び起こす。
    月灯りも無く虫の声だけが響く秋の庭の中、走馬灯を回すような心境で樹を眺めていると不意に胃の腑を擽るような笑いの衝動が湧いた。
    我ながらいつまで引き摺っているのかと笑ったつもりが、口から出たのは肺を絞った様な呼気だけだった。空元気も出てこないとは、よくよく可笑しくなってくる。
    腹を抱えるように身を縮めて く、く、肩を震わせる。
    手で目元を覆うと、指先に冷たい感触。自分の笑い声が掌に跳ね返って籠もるように反響した。
    「何を泣いている」
    濃紺に染まる冷えた夜の空気に、自分のものでは無い声が響く。
    肩を跳ね上げるようにして顔を上げた。
    ここには誰もいない。確かに先ほどまで独りだったはずだ。
    手を下ろして視えたのは、そこに在る筈の無い人影だった。
    白い面に、深く喪に服すような短い髪。表情の無い整った顔は作り物めいている。
    何度も記憶に反芻した顔が面前に現れて、いよいよ夢と現実の区別も付かなくなったかと自分の正気を疑った。
    一つ記憶とは違う葬儀のような白の衣が、月明かりも無い濃紺の夜の中で浮いている。
    葬儀……誰の?
    決まっている。相手は死者だ。ならば本人の葬列のための死装束だろう。
    呆然としたまま、院子に植えられた古樹に目を遣る。相変わらず花など一つも見当たらない。
    自分が狂ったのか、魔性の類いか、理由は知らないが 今この幻は確かに目の前にある。
    風が吹いて、煽られた白い右袖がふわりと舞った。あまりに軽いその動きに目を瞠る。
    ─中身が、無い。
    やはり幻か。
    ─あるいは酔って知らぬ間に庭先で寝てしまったか?
    それにしては意識も感覚も截然として生々しい。
    ─なんでも良い、何か 声を。
    異界に放り出されたような状況に停止しそうな頭で考える。
    もしもこれが夢だというならば、しゃべり出した途端に自分の寝言で目が覚めるかも知れない。
    「弔慰の花が見せる死者の面影というのは、こんなに明瞭なものなのですか……」
    自分で思っていたよりもずっと、濡れて歪んだ声が出た。喉が情けないほど震えている。
    白い人影はすうと目を細めると樹と友尚とを一瞥してから再び口を開いた。
    「お前が会いたかった死者は『私』で相違ないのか」
    感情の窺えない平坦な声でそんな風に言われれば、尚のこと化生かなにかと見えてくる。
    友尚は答えない。
    「本当は、誰に会いたかったんだ?」
    会いたかったのは誰なのか。
    そんなこと分かるはずも無い。
    今面前に立つこの幻とて、会いたかったのかと問われれば はい と答えるだけの自信は無い。
    しかし酒に酔った頭が見せた夢か、妖の見せる願望か、そのいずれだとしても心に無ければ幻影だって現れたりはすまい。
    そう考えたところではたと思いついた。
    「ああ、そうか」
    思いつくと同時に、自分の愚かしさに思わず自嘲が漏れた。
    「俺は貴方に会いたかったわけじゃ無い」
    もう会えない人間は数え上げればきりが無い。それでも会いたい人間だって山ほどいる。
    だというのに、あまりにも沢山失ってしまった知己の中で彼の似姿が面前に立ち現れた理由。
    それはきっと
    「貴方に、俺に会いたいと思って欲しかったんだ」
    最後にまみえたのは友尚が命を受けて文州へ発つ前だ。
    それより前は会うことすら叶わない期間が続いていた。
    それより後には友尚の目に映ったのは、血溜まりに倒れ伏す姿だけ。
    拝謁を求めて、拒まれて、拒まれ続けて漸く、一度会えたと思えば永訣が待っていた。
    全てが終わった後になって、帰泉が、恵棟が魂魄を抜かれた事を知った。
    成行はきっと最後の戦いでも主の側に居た。饕餮すら動員された戦場は凄惨な有様で、死体の判別すら付かなかったがあの男は離反したり戦いを前にして逃亡したりは絶対にしない。
    最後まで付き従った軍勢の殆どは死んだ。
    生え抜きの古参麾下は 皆、連れて行かれた。
    だというのに、自分だけが忘れられたように遺されている。
    死者でも構わない。もしも会いに来てくれたら、共に来いと呼ばれたら、そんな夢想を胸の何処か片隅にずっと抱えていたのだと気付いた。我ながら救いがたい愚か者だ。
    友尚の、吐血にも似た告解を聞いて幻は目を眇めた。
    「死人は何も望まない。」
    それはそうだろう。分かっている。
    それでも
    「貴方は俺の見ているまぼろしでしょう」
    ぐしゃりと、崩れるように笑う。顔が上手く笑みを作れない。
    「ならば俺の欲しい言葉を下さっても良いでしょう」
    無言のまま夜に茫洋と浮かぶ白い影は今にも消えそうで、なるほど花精とはこういうものかと思われた。
    白い影は曖昧な輪郭を闇に溶かすようにしばし佇んでいたが、無理に笑おうとする友尚を前に、口を開いた。
    「言葉が必要だというなら、与えよう。お前は連れて行かない」
    口中に血の味が広がるような錯覚を覚える。
    「・・・恵棟は、連れ去ったのにですか」
    「そうする必要があったからだ」
    「ここに居るのが俺ではなく、成行であれば連れて行ったのでしょう」
    「必要があればそうする。そうでなければ誰であろうと連れては行かぬ。それだけだ」
    友尚の顔は埴を拉ぐように歪んだ。
    必要ない。
    自分は連れて行かれない。
    自分が選べなかった道を進んだ同輩達への羨望が肺を軋ませる。
    「お前は思い違いをしている」
    ふ、と花精の顔に表情が現れた。緩く弧を描く唇は、昔日によく見た笑みだった。
    「お前が必要ないから連れて行かないのではない。遺す必要があるから置いていくのだ」
    かすかに持ち上がった口の端が、懐かしげに細められた目が、まるで共に戦場を駆けていた昔のようで郷愁に胸が詰まった。
    「…連れて行かないというのなら、せめて 俺のもう一つの願いを聞いて下さい」
    俺に、会いに来て下さい。
    「今ここに立っている、それでは不足か?」
    「ええ、足りません。きっと明日になれば、ただ俺が見たい幻をみただけ、酒に酔って都合の良い夢を見ただけ、と思うでしょう。貴方が俺に会いに来たという証は無いのですから」
    花精は僅かに困るような気色を見せた。
    そして、友尚の手元に目を留める。
    「…では、お前と私とで 一つ約束をしよう」
    「約束?」
    小さく、白い影が頷いた。
    今日が特別だっただけで、本来二度とお前の面前に現れることは叶わないのだが、と前置きをして尚も言葉を続けた。
    「十月の朔の日に、その玉盃で 水を与えてくれ。枯らすこと無く、割ること無く、百年やり遂げれば再びお前の許へ来よう」
    そう言って、眉の下がった淡い笑みを面にのせた。
    「その約束を以て、今日私がお前に会いに来たという証としよう」
    約束と言っても 勿論、明日になってただの夢と思えばそれでよい。
    一度始めても、百年経たずに止めたところで責めはしない。
    「本来ならばただ、最後に別れの挨拶を告げに来ただけなのだから」
    ─ではこれにて、然様なら 私の右腕よ。
    そう言うと花精は夜を捲るようにして夜陰に消えた。
    ざあっと強い風が音を吹き消して、友尚は一人夜の庭に残された。

    翌朝友尚は、己の臥室で目を覚ました。
    いつから夢だったのか、果たしてあれは幻だったのか、全てが判然としない。
    卓子に目を遣れば昨日使っていた玉盃が置いてある。
    ─枯らすこと無く、割ること無く、百年やり遂げれば再びお前の許へ来よう。
    いずれ枯れると、そう己で言った樹だ。
    二つあった盃の内一つは既に割れている。
    このずしりと重たい肩に、百年は 永すぎる。
    ─その約束を以て、今日私がお前に会いに来たという証としよう。
    それは、友尚が約束を守っている間は あの日あの人が自分に会いに来たのだと 信じていられるということ。
    「…ずるい方だ」
    思わず泣き笑いに似た苦笑が漏れる。こんな優しく非道い約束は自分では到底思いつかない。卓子の上の玉盃を手に取ると、その内側を拭って歩き出した。

    毎年、十月の初めになると友尚は一人 院子で酒を飲む。
    一杯目は必ず水で、花樹と共に酌み交わす。
    始めの頃は、ただ失われた物への哀惜があった。
    十年経つ頃には、湿った感傷は瘡蓋で覆われて、血を流すことが無くなった。
    数十年が経つ頃には、ぽつりぽつりと、花樹を相手に昔を語ることも出来るようになった。
    懐かしく、愛おしく、時代の移ろいと共に忘れられていくものを、歴史に埋もれていく物を、誰にも語れない記憶と共に 院子を相手にして一人語り起こすのだ。
    この頃には周囲の顔ぶれも徐々に変わって、傍目に心の虚ろは殆ど分からない。ただ時折友人が心配そうに眉根を寄せるのは相変わらずだった。
    その年の十月、宵闇の迫る中 例年のように酒と盃を手に庭に出た。
    ふと、顔を上げると見慣れた樹影に見慣れない色彩。
    樹が、白い花を付けていた。
    枯れること無く、割れること無く
    百年が、過ぎていた。
    友尚はその白い花を呆然と見上げてから くしゃりと顔を歪めて笑った。
    「ああ。俺に、会いに来て下さったんですね。」
    同輩達が、主公が死んで 百年あまり。
    初めて心の底から泣くことが出来た。






    龍の爪を縫い込んだ閭胥のこと

    明幟八十年頃、垂州嶮(けん)岸(がん)の里宰海鴟(かいし)より聞きたる話。
    海鴟幼き時分の閭胥、字を緘鴞(かんよう)と言ひたり。
    緘鴞、面貌厳冷、寡黙なれど智深く厚情なり。里人多く彼を慕へり。
    彼沈思するに右のかひなに弓手を添うるが常なり。
    幼き海鴟問う
    「老師、爾が弓手を肩に添うは何のならいなるか」
    老師応えて曰く
    「かつて此方に、龍の爪を縫い込みたり」
    己が惑う折に龍の智恵を乞うもの也、と。

    ─垂州 嶮岸



    鴟(し)尾(び)は自分の小字が嫌いだった。
    鴟尾の住む廬は海が近い。曇り空に灰色の海、そこに飛び交う鴟(とび)は身近な存在だ。
    だが身近故に厭な思いもさせられてきた。飼っていた雛鳥を攫われた、畑作業の合間の握り飯を盗られた、その際蹴爪で怪我をした、そんな例の枚挙に暇が無い。
    特に身体の小さな鴟尾は舐められているのか、里の他の子らよりも狙われがちだった。
    だというのに、髪の色が鴟色で 太くて癖の強い剛毛は髷に結うには長さが足りず ちょろりと結んだ髪が尾の様だと、そう言っていつの間にやら呼ばれ始めた字。友達が揶揄うように呼ぶのも、大人が微笑まし気に言うのも気に食わなかった。
    ささくれ立った気分のせいか、世の中の何もかもが気に入らない。
    八つ当たりの様につま先でがりがりと地面を掘った。
    「鴟尾」
    背後から、少し割れた静かで硬質な声が掛かる。
    「桂花と喧嘩したそうだな」
    振り返りもしないままそう声が続いて思わずギクリと身を竦ませる。
    鴟尾は声の主である閭胥の事も苦手だった。
    「…だって、字のことで囃(はや)すから…」
    唇を尖らせたまま、おそるおそると振り返れば当然そこには閭胥─緘鴞(かんよう)がいた。
    緘鴞は、顔が怖い。老人だのに眼光は鋭く、表情が薄くて笑ったところは見たことが無い。
    年の割に上背があって大きな傷跡のある身体はガッシリしているので余計に怖い。
    昔は兵卒だったんじゃないかと噂に聞いたが本当の所は誰も知らない。
    緘鴞は、鴟尾の父母が子供の頃から閭胥だった。
    もとの出身はここではないそうだが、じゃあいつから里にいたのかと言うと誰もよくは知らない。あまりに長生きなので、里にはもう緘鴞の若い頃を知るものはいないのだ。
    多分、里で一番長生きだ。
    「…桂花が悪いんだ」
    無言に耐えかねて、顔を伏せたままで鴟尾が言う。
    言ってから後悔の念が湧いた。こういう物言いをすると大概の大人は眉間に皺を寄せる。
    我が強くて中々折れない、と言えば良さそうにも聞こえるが、自分に非があると思っても素直に謝れない性質なのだ。意地は張るが怒られるのはやはり怖い。
    緘鴞に怒鳴られたとか、怒られたと言う話は聞いたことが無いが、もし怒られればいかにも怖いだろうという感触がある。まるで目の前に大岩があるみたいだ。叩いても蹴ってもビクともしない、絶対に敵わない、そう言った怖さ。
    「鴟尾はその字が嫌いか」
    出し抜けの質問に思わず緘鴞の顔を見る。
    叱られるまではいかなくとも「仲直りしなさい」「悪気は無かったのだろう」なんて言われると思っていたのに。
    「…嫌い」
    拗ねたような声で言えば、緘鴞はほんのちょっとだけ眉を持ち上げた様だった。
    「何故?」
    「鴟が嫌い。鷹みたいな形(なり)をして、人の飯を攫ったり死んだ動物を漁ったり、狩りをするときだって群れてるし、狙うのも鼠やら蛙やらのせこい獲物ばっかりだ」
    実のところ、それは鴟尾が鴟を見てそう思った訳では無い。だが、一般に鴟がそう言われているのを知っている。だからこそ、その鴟に準えるのは侮辱の意図ではないかと気になるのだ。
    鴟尾の言を聞き、緘鴞は右肩に左の手を当てて瞑目した。
    「お前は歳の割に聡いが、幼い。故に疑心が生ずるのかもしれんな」
    独りごちる様に零された言葉の意味が分からず、鴟尾は眉根を寄せた。
    「もっと自分と、周りをよく見ると良い」
    「……意味が分からないよ」
    「……お前は、鴟尾という字を馬鹿にする意図で付けられたと思っているようだが─」
    「だって、鴟は鷹や隼と比べて一段劣っている様な扱いじゃないか」
    遮って反駁すれば、緘鴞は小さく肩を揺らした。
    「それを疑心と言ったんだ」
    ─誰も、そんな風に思ってお前を呼んではいない。
    「里の者は唯、近所を駆け回る茶色のしっぽが可愛いのだよ。鴟が身近だから真っ先に連想した、それだけのことだろう」
    鴟尾が頻繁に鴟に突かれ、盗られた飯のために逆に追いかけ回したりしているから余計にな、という言葉はすんでの所で飲み込んだ。
    「っでも! ……」
    承服しかねて声を上げた鴟尾だったが、モヤモヤとした心の裡は形を得ず言葉を継げない。
    「私の字は緘鴞だが、その呼び名を侮蔑だと思うか?」
    脈絡の無い話に、突然何を言い出すのかときょとんと目を丸くした。
    「なんで?」
    「鴞は、ふくろうのことだ。場所にも依るが鴞は凶悪で残忍だとか人に知られず悪事を働くなどと言って凶鳥と見る者もある。里の者が私を緘鴞と呼ぶのはそういう含みがあると?」
    鴟尾はただ首を横に振る。残忍だとか、悪事を働くとか、全く以て緘鴞に似つかわしくない。
    「裏など疑わずに、ただ真っ直ぐ見てみれば良い。お前が鴟尾と呼ばれる時、周りはただただ微笑ましい顔をしているだろうさ」
    「……笑ってこっち見てるのも馬鹿にされてるっぽくてちょっとやだ」
    そう返せば、緘鴞は再び身動ぐように肩を揺らす。
    その姿を見てふと思ったことが鴟尾の口を突いて出た。
    「ひょっとして、笑ってる?」
    今度は緘鴞が不意を突かれる番だった。
    「……ひょっとしなくても、笑っているが」
    「うっそだあ!分かりにく!」
    殆ど表情を変えないまま驚いた様な空気を出す緘鴞が可笑しくて鴟尾は大きな笑い声を上げた。
    発作の様な笑いは中々収まらず、目尻に涙が浮いてきてそれを拭った頃にようやっと喉が落ち着いたのだった。ああ、おかしかったと呟く声がまだ少し揺れている。
    「…ありがとう、ちゃんと桂花に謝って仲直りするよ」
    「そうか」
    ふ、と口の端を持ち上げて緘鴞が自身の右肩に触れた。
    先程鴟尾に「何故、己の字が嫌いか」と問うて瞑目した時にも同じように左の掌で右肩に触れていたのを思い出す。
    「その右肩触るの、何か意味があるの?」
    ああ、と左手を離して緘鴞が応えた。
    「……癖だ。考え事をするとき、悩み事が丸く収まったとき、そういう時の」
    「へんなの。そういうのって髭を撫でたり、顎に手を遣ったりするんじゃないの?」
    鴟尾が問えば、緘鴞は少し何かを考える素振りをした後、鴟尾の耳元へ秘密を打ち明けるように口を寄せた。
    「実はな、ここには龍の爪が入っている」
    「龍」
    「そう、若い時分に拾って縫い込んだのだ。故に龍の知恵を借りる際そこへ手を遣る」
    「どこで龍って本当に居るの」
    勢い込んで聞き返せば、閭胥は口元に手を遣って肩を震わせている。
    ─担がれた!
    「ばか!」
    気付いた瞬間にカッとなって臑を思いっきり蹴り上げた。
    「こら。痛いから止めなさい」
    ちっとも痛くなさそうに言う老人に、鴟尾は尚も握った拳をぶつけたりつま先を踏んづけたりを繰り返す。口では制止をする割に、緘鴞はいつまで経っても肩を震わせたままだった。

    この日以来、鴟尾は自分の小字がさして嫌いではなくなった。
    そして怖かった閭胥のことが少し好きになった。

    男は木陰に腰を落ち着けると、静かに目を閉じた。
    日差しは穏やかで頬の横を通り抜けていくさやかな風が心地よい。
    最早思い出すことも稀になった、遠い 遠い 昔を回顧する。
    男が緘鴞という字を付けられるよりも前。元号が変わるよりも前のことだ。
    男には、命をかけるに値すると付き従った主がいた。
    主公は徳高く有能で、麾下一人一人を気に掛ける人物であった。
    何を考えているのか分かりにくいと同輩から散々言われていた男だったが、懸案事項を抱えていれば主公はいつも目聡く見抜いては声を掛けた。
    淡く笑みを刷いて「どうした、悩み事か?」と軽く肩を叩くその顔、手の感触は、いまだ思い出せる。そして事が収まった後、同じように肩を叩いて労う声もまだ耳の奥に残っている。
    ─あの時は、どうだったろうか。
    最後に言葉を交わした日。他国の助力を得た泰王の手によって城が攻め落とされたあの日。
    数年に渡り声を掛けるどころか顔を見ることすら間遠になっていたが、久々の軍装に身を包んだ主公は、倦怠の澱に沈んだ様な数年間に比べれば幾分さっぱりした顔をしていた様に思う。
    「今ならまだ、囲みは薄いぞ」
    「ご冗談を」
    今なら逃げられるぞ、など冗談にしても面白くない。今更逃げる理由が無い。
    「どうにも沈んでいる様子だったからな。何を悩んでいるのかと思った」
    軽く言って肩を竦めた。ああ、やはりこの人は戦場に立つ方がずっと似合っている。
    「ここがあとどの程度耐えうるか、考えておりました」
    「長くは保つまい」
    それはそうだろう。むしろ、十分に「長く保った」後だろう。難攻不落の要害に築かれた城の利点を生かし、極力損耗を抑え 地味に しかし確実に 相手に出血を強いてきた。
    後が無いと分かっている中での持久戦ほど精神を削る物は無い。自殺紛いの吶(とつ)喊(かん)に走る兵が出てもおかしくないものを、ここまでの期間粛々と遂行し続けたのだ。ここ最近は相対する敵兵にも厭戦感や焦燥が見て取れるようになっていた。
    傍らに立つ主公の方を伺えば、不思議と穏やかな顔をしている。
    「最早保たぬにしても、簡単に首をくれてやる気は無いがな」
    「同感ですね」
    足掻けるところまで足掻く。その思いで同意すればくつりと笑う吐息が聞こえた。
    怪訝が顔に乗っていたのか、主はなんでも無いと手を振って示した。
    「いや、それこそ趣味の悪い冗談の話だ。『首謀者が見つからない』となれば現時点では一番の嫌がらせになるなと、ふと思った」
    この状況で『見つからない』方法。…囲みは薄く、やろうと思えば逃げられぬ事は無い。
    しかしこの方には間違いなく、生きるつもりが無い。
    「…今ここで貴方の首を落としてお連れせよと?」
    きつく眉間に皺を寄せる。
    「怒るな。選択肢を俎上に載せただけで、実行するつもりは無い。許せ」
    ─ああ、しかし
    怒るなと言ったその口で尚も性質の悪い冗談を続ける。
    「もし私が死んだ時に、お前に余力があれば落として持って行ってくれ」
    呆れるほど楽しげに、そんなことを言う。
    「首は黄海にでも放れば流石に見つける者もおるまい」
    遠くを見つめる主の目に、一瞬だけ憧憬の色が見えた気がした。
    ついぞ行くことの叶わなかった場所。ここではないどこか。人理の通じぬ天外の地。外へ。
    周到に隠されている本心の内、その僅かな破片に触れた気がした。
    平穏に会話など出来た暇(いとま)は一瞬のことで、その後は混乱に次ぐ混乱であった。
    敵味方の別なく積み上げられた死体、饕餮に蹂躙されもはや蝕でも起きたかのような有様の燕朝、目に映る物で秩序を残した物など一つも無かった。傷を受けて血に塗れた己とて例外では無い。すっかり様変わりした白圭宮の中 主へ宛てて飛ばした青鳥の後を追ってその姿を探した。指揮所としていたはずの辺りで漸く見つけたのは 見間違えようも無い、主公の右腕一本だけだった。
    皮甲ごと獣に食い千切られた様な荒い断面。その割に小さな、途切れた様な血溜まり。
    ─饕餮か。
    おそらくは台輔の使令に食われ右腕だけがその顎門(あぎと)の外へ零れ落ちたのだろう。
    怪我で動かない己の肩に難儀しながら外套を外し、拾い上げた主の腕を丁寧に包んだ。
    何か深い考えがあった訳では無い。既に戦線が崩壊していたとはいえやったことは唯の敵前逃亡だ。ただ、その時男の頭にあったのは一つだけ。

    外へ。この人を、ここ以外の どこかへ。

    どのように逃げ延びたのか、実のところ男はよく覚えていない。
    腕を抱えて王宮を去った後、気付けば主の腕を埋めていた。
    己の手元に小さな指の骨を一つだけ残し、ぼんやりとこれからのことを考えた。
    この人を連れて、黄海へ。
    だめだ、きっとしばらくは追っ手が掛かる。混乱に乗じて首尾良く戴を出ることが出来たとしても此(こ)度(たび)戦ったのは複数国からなる連合軍だ。他国だからと安心することは出来ない。
    だが果たしてあの人は本当に故国を離れることを望むのだろうか。分からない。
    一つ分かっているのは、あそこに居た主はひどく苦しそうだった、たったそれだけ。
    熱を持った傷のせいで思考は千々に乱れる。
    だというのに身体が酷く冷えている。
    血を失い過ぎた。見れば一番大きな傷を受けた右肩は未だにぱくりと大口を開けて血を流している。綴じねばならない。
    まだまし程度に動く左手で傷を抑える。
    ─どうした、悩み事か?
    耳の奥で、懐かしい声が響いた気がした。
    「……」
    声にならぬ声で、主の名を呼ぶ。そして考えた。
    ─何故、何も仰って下さらなかったのか。
    ─何故、貴方の苦しみから逃げて下さらなかったのか。
    ─何故、生きては下さらなかったのか。
    問いに答える声は無い。
    掌にころりと乗る白い主公の欠片にぼんやりと思考が向く。
    大きな罪を犯したこの人の魂は、一体どこへ行くのだろう。
    山へ還ることをこの人自身が望むとも思われない。
    弔われることも、祀られることも無い魂は野ざらしで、祖霊にもなれない。
    国土には主公への怨嗟が満ちていて地に還ることも許されない。
    生まれて、死んで、またどこかに実って、土に還って。その循環から外れてしまったら、主はどこへ消えるのだろう。
    だくだくと、右肩に開いた傷から血が流れる。
    男は無言のまま、小さな白い破片を赤い傷口に押し込んだ。
    そのまま傷を縫い綴じる。
    異物感の残る右肩に手を当てれば、いつかの温かい感触が残っているような気がした。
    「貴方はきっと望まないでしょう」
    生きることも。もう一度生まれることも。きっと。
    「もしも私が善良に余生を全うすることが出来れば…或いは知り合った誰かが私の棺を弔い、祈ってくれることもあるかもしれない」
    そこに一片の混ぜ物があったところで、きっと気付かない。
    「もしも貴方の欠片ごと、誰かが私の再生を願ってくれるなら」
    その時きっと貴方はまつろわぬ魂でも、彷徨う鬼でもなくなる。
    再びどこかで実って、またこの世の一部に組み込まれる。
    その時は、きっと。
    「また逢いましょう」


    緘鴞はしばし閉じていた瞼を持ち上げた。
    梢を通り抜けた柔らかな日差しがうっすらと白くなった黒目に掛かる。
    ああ、善良に生きる などお笑いぐさだ。
    この手はとっくに血まみれで、誅伐を受けた民からすれば己は鴞(ふくろう)なんて可愛い程の残虐な悪人だ。人の良い善人の様な面をする裏で、身中に国の仇を後生大事に抱えて。
    生まれ変わりなど本気で信じている訳では無い。思えば何か理由が欲しかっただけなのかも知れない。言ってしまえば、不条理に対して己を言いくるめるための言い訳だ。
    そんな自分以外の誰も理解出来ない理由で、里の人々の善意を裏切り続けている。
    右肩に手をやった。ごつりと硬い感触がある。
    すっかり在るのが当たり前になって違和感は無くなったが、確かにそこに居る。

    ─いましばらく、私の我が儘にお付き合い下さい。

    下ろした瞼に ふっと風が吹き抜けた。







    月夜に彷徨う

    明幟二十年頃のこと。
    諸官民巷に名に立ちたる怪事あり。
    曰く「こちよりては、夜(よ)来(ごろ)明月の憑きたるか、物に狂ひ足跡を絶つ者多し。」
    弘始の世に官たる者ここら消ゆ。なかんづく 兵、夏、天、此(これ)等(ら)に偽朝を永らえ心やすき者をさをさ無し。新しき者は陰に日向に「次は彼奴ばらならめ」なんどとくちすさびたり。
    物狂いの夜に心取られて 辛くも命生く者はこぞり「月、出でにき」とぞ申す。
    いつよりか「死気がため、月が呼ばう」と言ひ習ふ。


    ─瑞州 鴻基



    ─月が、出ていたんです。


    戴の夏は短い。
    晩夏を過ぎれば、昼間こそまだ日光に暖かさが感じられるが、陽が落ちれば帳をくぐったように空気が冷たくなる。
    ひやりとした空気の中、ざぁざぁと聞こえてくる波の音に耳を傾けていると、凌雲山の岸辺に一陣風が吹き抜けた。風に煽られるようにして空を向くと、所々に薄く雲を刷いたような深い星空が見えた。月は雲に隠れて翳っている。
    湿度の低下に伴って空気が澄むので、この時期は夜が日を追うごとに美しくなる。
    月が一番輝くのもこの季節だ。
    月の光は魔性を呼ぶ。
    蓬莱に縁のある者から聞いた話では、月というのは太陽を真としてその反射で光るのだという。だからだろうか、月光は死んだ陽光だと言う者もある。
    月の隈無く明るい夜。
    『それ』が起きるのは、決まってそんな日だ。
    兵卒や夏官、あとは僅かに天官、そう言った立場にある人間が、ふらりと消える。
    すぐに見つかる者もあれば、ふつりと消息を絶ってしまう者もある。
    見つかる者は決まって雲海に浮いている。
    雲海に落ちて見つかるなど、幸運であると言わざるを得ない。
    そして何故そんな事になったのかと問えば、決まって
    「月が、出ていた」
    と茫洋と答えるのだ。引き上げらて数日は視点が合わず、何をするにも無気力で時折頭痛を訴える。偽朝下の鴻基を知るものならばその様子に戦慄するだろう。それは傀儡になる手前、魂魄を抜かれた者の初期の様相にぴたりと一致する。
    偽王は討たれた。
    使役されていた妖魔はその年の内に徹底的に排除され、鴻基奪還から二年を超える今となっては瑞州の何処を探したって次蟾はいない。…はずなのだ。
    しかし放って置くわけにもいかず、こうして定期的に岸辺を見回る当番が出来た。
    おかげで溺れる前に引き上げられる人数は増えたが行方不明者は減っている。
    本来であれば二人一組で当たるよう言われているが、今日の相棒が怖じ気づいてしまったため立場の弱い自分が一人で見回りに出ている。
    とはいえ、相棒が怖じ気づく理由も分かる。月に呼ばれてしまったものは、どこの陣営に属していたかに関わらずあの七年の内に燕朝に出入りしていたものばかりだ。彼は弘始が始まってすぐの頃に兵卒になった。次に呼ばれるのは自分かも知れないと怯えているのだろう。
    ─あるいは、自分もいずれ。
    兵卒で、弘始の始めから終わりまで燕朝に居た、阿選麾下。
    条件はそろっている。実際には阿選の麾下であろうと、反意を持っていた者であろうと関係なく消えているのだが、噂ではまことしやかに「嘗ての謀叛人が己に殉じなかった麾下を呼んでいるに違いない」などと言われていた。
    馬鹿なことを、と思う。
    己に従わない者を 殉死とばかりに呼ぶような人間では無い。
    思い出した噂話に、唾でも吐いてやりたい気分だった。
    ─付いていこうとする者を遠ざけて、自ら主従の絆を切って捨てたような人物が、今更己の許に呼ぶものか。
    どれだけ多くの人間が慕おうと、彼自身は結局誰も必要となどしていなかったのだ。
    そう考えると、肩がずんと重くなるようだった。
    偽朝に与していた者など消えてくれた方が清々する、とでも言いたげな新顔の官吏達の顔を思い出すといっそ頭が痛くなる。
    雲が切れたのか、ふぅ と顔に月光が掛かった。
    空を見上げると 夜を真円に刳り抜いたような盈(えい)月(げつ)と 目が合った。
    暗い闇の中、蝋燭に火を灯したように ぽぅ と浮かんでいる。
    何故だろうか。目が離せない。
    じりじりと頭の芯の部分が痛む。
    空に穴を開けたような白い真円の下には、鏡面の様な雲海が広がっている。
    鏡映しの月の上、誰かが月光に浮かび上がるように立つのが見えた。
    暗く距離もあるはずなのに何故こんなに明瞭に見えるのだろうか。
    それは玄の衣に、背に龍の刺繍を刺した長い裘(かわごろも)を引き、雲海の上を滑るように歩いている。
    肩口で切り詰めた髪を靡かせて水面に映る月を歩いている。
    こちらに背を向けて、歩いている。
    歩いている。
    六寝へ。
    伴をせねば。

    「午月」
    突如背後から自分を呼ぶ声が聞こえて、弾かれたように振り返った。
    「お前は私が王だと思うか」
    それはいつかに聞いた問いかけだった。
    音もなく突如現れた何者かの存在に驚き、それが今し方こちらに背を向け水面を歩いていたのと同じ人物であると認めて更に混乱した。
    ─何だ?一体、何が起きた?
    在りし日に見た姿のまま、自らのすぐ近くで複雑そうな顔を浮かべるその人の問いに応えることも忘れ、状況を確かめるために雲海の方へと肩ごと振り返った。
    そこには ただ静かな海と、何の変哲も無い丸い月が空に佇んでいるばかり。
    どこまで遠く目をこらしても、人影など何処にも無い。
    深まる混迷を振り払うように再度月から背を向けて、己の背後へ向き直れば そこには最初から何も無かったと言うように、ただ普段通りの夜が横たわっていた。
    ─お前は私が王だと思うか
    そう聞かれて嘗て自分は「もちろんだ」ときつい調子で答えた。
    自分で思っていたよりも強い語調になった理由、それはきっと相手も分かっていただろう。
    一体、聞いた本人はどんな言葉を欲して問うたのだろうか。
    それは分からない。
    だが、今聞かれたら自分は何を言うだろう。
    「貴方が王であっても、なくても、構わなかった。ただ私にとっては誰よりも王にふさわしいと信ずる主公であった。…ただ、それだけでした」
    ぽつりと零れた独白は、誰かに拾われることも無く、闇夜に溶けた。
    ただ、月だけが それを見ていた。


    月の光は魔性を呼ぶ。
    あるいはそれは、自身の心の内にある物を。






    人を囚ふ礼物のこと

    明幟の初め頃。
    市に希有なる品流れたる事在り。人々挙(こぞ)り是を購う。
    詳細失伝し今は容姿由来も知らず、ただ幸福を齎(もたら)すとのみぞ伝ひける。
    さる王師将軍、礼物として是を受く。
    用ひて後、所領にて是の売買をきつく戒む。
    王師将軍、人よりその故を問はれて曰く
    「其は人を捕らふる呪物也」
    上、時を同じくし是を禁制品とす。


    ─瑞州



    手伝いとして来ていた大方の下官が退出した後、友尚は一人漸くほっと息をついた。
    吐き出した呼気の分 空気を肺に送り込めば、心なしか春らしい柔らかな匂いが満ちてくるような気がした。
    そう、もう春が来ている。血と火に染まったあの秋から、もう半年が経つ。
    一度は軍営からの辞意を告げ断罪を待つべく謹慎していた所に、瑞州師の将軍として応召する気は無いかと台輔より打診があったのは三月も前のことだ。
    固辞していた所へ、ありがたいことに代わる代わる説得に来たのは、白圭宮の攻略の際に陣を共にした主上の麾下の面々であった。
    物忌みの様に内に籠もる友尚に対して、彼らが言葉こそ違えど「罪に逃げるな、お前も働け」と口々に言いに来たのは気鬱に沈む己を心配してのことだろう。
    が、人手が足りないというのもまた事実だ。あの七年間で人が死にすぎた。
    ─あまり考え込むな、日々を生きれば気も紛れるだろう。
    ─湿っぽく悩むだけの穀潰しを飼ってる余裕は今の白圭宮には無いんだよ、動けるならば働け。
    ─無理にとは言わない、だがもし偽朝に在ったという罪の意識でそう言っているのであれば、どうか頼む、力を貸して欲しい。
    実直で不器用な彼らの優しさは、途方もない虚無と罪悪感に塗れた自意識を切り刻む。だが同時にその優しさに安住したくなる。
    台輔へと拝命の意を伝えたのは、一月前。実際に朝が少しでも整わねば断罪も何もあったものではないと気付き、ひとたびそう考えついてしまえばただ罪科の定まるのを座して待つのは怠惰の様に思えて気まずくなったというのが正直な所だ。
    つまり、軍へ復帰することを決めたのは、自らの刑場への道を舗装するためであった。
    だが本人の意図はどうあれ、諾と応えた以上友尚は王師の将である。代々の瑞州師将軍に与えられる官邸へと居を移すよう言われ、荷の運び込みと整理を行ったのが今日だ。
    身辺は整えてあったのでさほどすることもないと思っていたが、実際にはなんやかやと作業が必要になってくる。複数人の人手を借りて尚一日が掛かってしまった。
    開け放った折り戸から外を見れば、院子の大樹に傾きだした日輪が掛り 庭を黄金色に染めていた。しばし、一人で黄昏に塗り替えられてゆく院子を眺める。
    日が翳れば吹き抜ける風は未だ冷たい。胸の内まで冷え冷えとした物が吹き込む。
    ─少し、疲れているようだ。
    まだ自邸の実感は無いが、それでも己の生活空間としての場に多数の人間が居るというのは落ち着かなかった。

    夜の帳がおりて後、戸を閉じて下官から渡された礼物の目録を手に臥室へ移動した。
    思わぬ時間を食ったのは、身辺整理をしてあった故、とも言えた。
    本当に必要最低限しか物を残していないと知っている同輩らが「あれはあるのか」「これも持っておけ」と何くれとなく贈ってくれたからだ。
    必要ないと言った所で、体裁を整えて正式に贈られた物を突き返すのも憚られ結局この顛末である。さほど数は無いが確認はしておく必要があるだろう。
    房室に入ると、香だろうか、かすかに透き通るような匂いが鼻をかすめた。
    礼物の大半は実用品であったが、たしか香と香炉もあったように思う。
    目録に目をやれば案の定。他に、掛け軸や陶磁器といった骨董類もいくつか見受けられる。
    こういった物の取り扱いはさっぱり分からないが、手伝いの下官が良い具合に配置してくれたらしく時節にあった物が選んで飾られている。
    臥牀近くの供案には風情のある鉢植えが置いてあった。花の種類はよく分からないがいくつか蕾が付いていたのでひょっとするとこれが香っていたのかも知れない。
    棚には趣味の良い絵皿なども置いてあり、風流やら趣やらに興味の無い友尚にも洒落た居心地の良い空間を作ろうという配慮が感じられる。
    しかし季節ごとに掛け軸を変えたり壺や香炉を見合うよう揃えたりと考えればいかにも面倒だ。差配してくれた物には申し訳ないがその内に仕舞ってしまうかと考え、己の薄情さに苦笑する。
    ざっと確認が済むと、用を終えた礼物の一覧を卓子に置いて一つ欠伸を零した。


    「─友尚、どうしました?昨日の引っ越しの疲れがまだ残っているのかしら」
    台輔に声を掛けられはっと二、三度瞬きを繰り返す。一体何の話をしていただろうかと少し首を巡らすと、広徳殿の飾り窓から差し込む陽の光が目の中に飛び込み網膜に刺さった。
    「……あ、申し訳ありません。呆けていた様で」
    「いいえ、気にしないで下さい。今日は私が急に呼び出したんですから」
    いかにも屈託の無い様子で笑われて、友尚は誤魔化すように頭を掻いた。
    「いけませんね、仙のくせにあれしきのことで疲れを引き摺るようでは」
    「そうは言っても、気疲れはあるでしょう。恵棟に聞きましたよ、友尚は意外と人見知りが激しいんだって」
    「あいつ、台輔のお耳にそんな駄弁をお聞かせしたんですか?いえ、在りませんからね、人見知りなんか……」
    「何が駄弁だ。お前、暫く大変だろうからと台輔が手配して下さったのに、住み込みの奄を断っただろう。お前のそれは人見知りでなければ何だと言うんだ?」
    ひょこりと衝立の奥から顔を出した恵棟が反駁してきた。思わぬ場所から現れた朋友に思わずのけぞってしまう。
    「恵棟、お前居たならそう言え!」
    衝立の向こうは書棚の置かれた房室の様だった。そこから木簡をいくつか抱えて出てきた恵棟が、友尚に向けて器用に肩を竦める。
    「人の気配を読み損ねるなどそれでも武官か?と、言いたい所だが続きの房室での作業だったからな、気付かないのも仕方ないか。台輔、ご歓談中に無礼をいたしました。ご依頼のあった書簡はこれで全てです」
    言いながら卓子の上に一つ一つ丁寧に木簡を並べていく。
    「助かります。恵棟は仕事が早いですね。前に正頼が褒めてましたよ、瑞州(うち)に欲しいって」
    正頼が大変な能吏で主上の信が厚い事は周知の事実である。そんな人物に、お世辞としてもそのように言われれば嬉しい。恐縮です、と恵棟は照れたように返した。
    「待って下さい台輔、恵棟を瑞州に取られたらうちが片付きません。困ります」
    「お前の言う『うち』は自邸だろうが。自分で片付けろ。それか観念して下官をおけ」
    引き留める友尚と呆れたように言葉を挟む恵棟に、くすくすと台輔が笑った。肩をふるわせる度に、採光窓から落ちる日光が長く豊かな鬣にちらちらと反射する。
    「ああ、そういえば、直に主上もいらっしゃるのではありませんか?昨年から今年にかけての山崩れの報告資料はこれでご用意できましたから、私は退出いたしましょう」
    そうだった、恵棟の言う通り主上が来る頃だ。自分も昨年任された藍州での砂防工事について話が聞きたいと呼ばれたのだった。
    「いえ、軍吏の意見も聞きたいと仰っていたので、良ければもう少し時間を貰いたいです。恵棟に資料を頼んだのはお伝えしてあるので驍宗様もそのおつもりかと思いますし」
    そういう事であれば、と恵棟は穏やかに肯(うべな)う。
    噂をすれば影がさす、とは言ったもので殆ど時を置かずに下官が主上の来訪を告げた。
    「すまない待たせたようだ。だがこれで五人揃ったな」
    五人?
    怪訝に思い胸の内で数える。台輔と、恵棟、友尚、そして今し方主上がいらっしゃった所だ。
    「ですから申し上げたでしょう、騎房に立ち寄るのはおやめ下さいと」
    主上のすぐ後ろから、僅かに呆れを滲ませた声が聞こえる。
    「そうは言うが、約束の刻限通りだ。午の刻、昼餉の終わった頃に、と」
    「ええ、午の刻の内ではありますね。あともう暫くで未の刻にさしかかりますが」
    一歩下がった場所に控えていたその人も、主上に続いて戸口を潜る。慇懃な口調だが、軽妙に続く会話からは互いに蔽いきれない気安さが見て取れた。
    それはそうだろう、主上の践祚までずっと同格の禁軍将軍として隣に並び立っていたのだから。
    「あ…選…様?」
    友尚の口から、意図せぬ内に声が漏れ出る。
    「どうした、友尚。引っ越しついでに祝い酒でも過ごしたか?」
    友尚に向き直ったのはどこか楽しげな、揶揄う様な顔。
    麾下と他愛もない話をする時主公は 柔らかく、春の陽射しの様に微笑する。そんないつもの

    「─っ」
    目を開いて真っ先に視界に飛び込んだのは見慣れない牀榻の天裏だった。
    鼓動が不規則に跳ねて指先がじりじりと冷たく痺れている。
    「…う」
    肺が迫り上がるような気分の悪さが喉を圧迫する。
    目は覚めた筈なのに、鮮明に見えていた光景はいつまで経っても脳裡から去って行かない。
    身を起こして瞼の幻影を払うように頭を振る。
    呼吸を宥めるように深く息を吸うと鼻腔を満たす空気が甘く香った。
    僅かに、五感が現実に帰ってくる。
    一つ、息をついたところで手で目を覆った。そこに焼き付く見知った顔が、まだ消えない。
    「…恵…棟……」
    朋友はもう居ない。身体こそ生きてはいるが、その魂は深く虚ろを彷徨っている。
    前に会ったのは、仁重殿だ。
    傀儡とされ、偽王討伐の後にも生き残った者は「神気の強い場所、或いは麒麟の近くであれば妖魔の影響が取り除けるのでは」という台輔たっての希望で燕朝の仁重殿傍近くに療養所が作られた。
    ただし、今の朝に傀儡を仙籍に残しておく余裕は無く、只人として。
    魂魄を抜かれて久しい者から順に一人欠け、二人欠け、今は数えるほどしか残っていない。
    そもそも、白圭宮にこそ多く居た傀儡は誰一人として戦火から逃げることをしなかった。
    ために、城が落ちた時にはもうその殆どが亡くなっていたのだ。生き残ったのはほぼ、各州の州城で病んでしまった者達だった。文州で抜け殻になっていた恵棟の様に。
    ─あり得ない。
    台輔の元にいる恵棟が、あんな風に立ち働いて声を掛けてくることは、無い。
    それに友尚はあんな風に鬣の伸びた台輔の姿を知らない。幼い頃も肩口に掛かる程度であったし、成獣して帰還した際はすっかりと短く切り詰めていた。
    何の屈託も無く、無邪気に笑う宰輔はこの国にはもう居ない。
    ─あれはあり得なかったことだ。
    だというのにこの生々しい程の現実感はなんだ。
    醒めれば消えるのが夢だろう。ならば目覚めても尚消えないこの現実に成り得なかった記憶の残滓は一体なんだというのだ。
    あり得ない。
    ─だって、あの人は、叛いたのだ。
    誰にも黙って、独りで決めて、叛き、豺虎に落ち、竟(つい)には死んだ。
    血溜まりに沈んだ、あの人だった物。あんな風に笑いかけることなどもう
    「─っ」
    意識の片隅に浮かんだ雪解けの様な笑みに、友尚は胃の腑が裏返るほどに嘔吐した。
    吐いても、吐いても、気道を絞めるような愁慕は胸骨の内より出て行きはしなかった。


    「友尚、酷い顔だな」
    瑞州師の将を拝命してから暫く、暖かさを増した陽射しの中、燕朝の走廊でそう声を描けてきたのは台輔の大僕の少女だった。
    「耶利、敬語がどうのというのはもう何も言うつもりも無いが……さすがに当人に面と向かって悪罵を浴びせるのはどうかと思うぞ」
    勿論そんなつもりでないことは分かっている。素っ気なく突っ慳貪な印象は否めないが、この少女はそういった悪意とは無縁だ。わざと真剣な顔を作ってそう返してみたのは友尚なりの親愛故である。
    どうやら冗談の意図は十分に伝わったらしく、耶利は友尚の言に軽く肩を竦めることで返答とした。
    「まぁ、そういう意味でなら友尚は静之の独谷の次くらいには はんさむだと言ってもいい」
    「待て待て待て。聞き捨てならん。せめて比較対象は人間にしてくれ」
    何故よりによって独谷と比べる。犬みたいな性格だと言われたことはあるが顔まで犬に似ているとは思いたくない。
    「話が逸れたが……」
    やめてくれ、本筋に戻す体で有耶無耶にしないでくれ。
    「顔色が悪い。夜寝ているのか?」
    どうと言うことの無い気遣いの言葉が、胸に銛の様に突き立った。
    「…ここの所少し夢見が悪いが、寝てはいる。大丈夫だ」
    とは言ったものの、夢見が悪いというのは少し違う。
    見る夢は全て、只管に優しく温かい。
    失われたはずの物が失われずにそこに在る夢。十年も前の自分であれば明日も同じ様に在ると信じていたであろう日常の夢。間違いなく、幸福な夢である。
    寝ている間は何の違和感も無く、唯々温かな幸せを感じている。
    目覚めてからが最悪なだけだ。自己嫌悪に死にたくなる。
    昨晩見た夢の中には成行が居た。
    成行だけではない、帰泉も、諫言の末に粛正された同輩達も、嘗ての六官長も、主上の行方が知れなくなったあの日から今日までに消えてしまった内の誰一人欠けていなかった。
    こんな時にあいつがいれば。奴であればどうしただろう。あの人であればどう反応しただろうか。今でもそう考えることはあるし、叶うことなら還ってきて欲しいとさえ思う。だが、それは叶わないと分かっているから思考することが許されるのだ。
    本当に還ってくる事を望むのは、彼らの死を理解せず拒むのは、死者達への冒涜ではないか。
    「─俺は、案外と心が弱いらしい」
    暗いところへ落ちてしまいそうな考えを断ち切って苦笑を漏らした。同時に、僅かな頭痛を覚えてこめかみに手をやる。
    走廊の外へ目を遣れば、建屋と園林の方々に瓦解と荒廃の跡を残しつつも差し込む空気は優しく麗らかだった。立ち尽くす自分を置いて、国は立ち直ろうと動いている。
    「誰にだって弱るときはある。重要なのは弱ったときにどう立ち回るかだ。敵に弱っていると悟らせれば格好の餌食だが、味方に弱ってることを隠す奴ほど周りを巻き込んで自滅する」
    「ほう?」
    見た目通りの年齢だったはずだが、この少女は時に、官吏たる地仙として生きてきた自分などよりよっぽど仙じみた物言いをする。
    「まあ、弱っていると分かれば黄海じゃあ率先して囮に使われるがな」
    「味方って一体何だ」
    仙らしさ…とは違うかも知れないが浮世離れしているのは確かだろう。この飄々とした殺伐感は一朝一夕で身につくものでは無い。冗談だ、と言うように耶利は軽く頷いた。
    「安心しろ、ここは黄海じゃないし囮を使う用事が無い。味方なんて言うのは、お互いにあいつが死ぬのは嫌だなって思えれば味方に数える。そんなものだろう」
    なるほど、危うい場面では生き残る確率の高い者のために囮になる、逃げる者は躊躇わない。それは自分が囮の立場であれば躊躇わないで欲しいから。そう考えれば相手を心配することと、いざというときに切り捨てること、その二つは矛盾しない。
    それは『あいつは自分を生かそうとするだろう』という信頼があって成り立つ関係とも言える。些か人間味に欠けるが。
    「私は友尚の味方だし、友尚は私の味方だと思っているんだが」
    「その『味方』っていざという時に切り捨てるやつだな?」
    「そう、躊躇なく切り捨てられるやつ」
    互いに真顔でそう言い切ると、目を合わせたまま口元でにやりと笑った。
    「ありがとな、心配してくれて」
    くく、と笑いを噛み殺しながら感謝を伝える。
    「私としても味方が減るのは嫌だからな。所で友尚、香か何か使っているか?」
    すん、と小さく鼻を鳴らして耶利が尋ねる。
    「いや…何か匂うか?」
    突然の話題に面食らいながら、すんすんと己の袍の袖口を嗅ぐ。
    遠回しにくさいから香でも使えと言われているのだろうかと一瞬背筋に冷や汗が伝うが、この娘ならば直截に「お前におうぞ」位は言うだろう。
    見ると耶利は眉根を寄せて記憶を辿るような風情だ。
    「いや、大したことではない。何か花のような香りがしたんだが…どこかで嗅いだ覚えがあってな。少し気になっただけだ。園林の花が香ってきたのかも知れない」
    気にしないでくれ、と手を軽く振って話題を打ち切る。
    「ともあれ、困りごとがあるならば私だって相談くらいには乗るつもりだ。抱え込んだ挙げ句に周りを巻き込んで自滅なんて真似はしてくれるなよ」
    他人の事に滅多に干渉しない彼女がこうまで言うのだ。自分は余程酷い顔をしていたらしい。
    まだまだ未熟だなあ、と眉を下げて苦笑を深めた。
    「面目ない」
    「何、大事ない。礼なら山査子飴で構わない」
    生真面目な顔で返答する食えない少女は、やはりどこか浮世離れしている。



    乱の平定を終え鴻基に戻る。遠征の間ずっと野営地にいたので友尚にとって久方ぶりの自邸だ。
    重苦しい胸のつかえを吐き出すように溜息交じりに深呼吸をした。
    主上や台輔の基本方針は討伐ではなく鎮定だ。なるべくならば武威で以て鎮めるのではなく、対話を以てするのが望ましい。
    しかしこの度の乱は少し話が違った。
    始まりは一つの街だった。このままでは冬を越せない、そう思い詰めた者達が徒党を組み、里二つ分離れた位置にある山の麓近くの廬を襲った。流石に隣接する場所を襲わなかったのは「顔見知りは殴れない」という事だろうか。
    しかしそれが事をややこしくした。襲われて焼かれた廬の縁者が報復に走ったが、その近隣の者達が、襲われた廬の側に付く者、始めに襲った街の側に付く者とに分かれたのだ。
    なんとも間の悪いことに、山の麓─即ち水源に近い廬と、その近隣とで水利の件で揉めていたのだという。縁者に被害のあった者あるいは義憤に駆られて被害者に付く者、それらが団結し、対する加害者の側は元々の人数の多さに加えこの期に乗じて水源地を確保しようと動いた者とで集まり、対立を深めた。竟には県城まで巻き込んでの暴動になったという訳だ。
    何かの要求があっての反乱ならばまだよかった。
    しかし相手が同じ方向を向いていない暴徒となれば、早急に鎮圧しなければのべつに被害が拡大する。代表者もなく、最終的な目的も定かではない。結局は鎮圧するほかなかった。
    いくら偽朝の罪が糾されたと言っても、すぐに太平の世になど成りはしない。民にとっては今を生きることが第一なのだ。そして彼らの中に芽吹いてしまった国への不信の根は深い。
    「分かってはいるんだがな……」
    臥室で友尚は独り小さく呟くと、遠征の間に血と土埃の匂いが染みた様な装束を脱ぎ捨てて常の小衫姿になる。
    「随分疲れているな」
    「疲れもするさ。気が滅入る」
    今し方脱ぎ捨てた袍が拾い集められて綺麗にたたまれる。
    「いっそ築城だけしていたい気分だ」
    「そうなればお前の剣の腕はただの持ち腐れという訳だ」
    むっと顔を蹙めて返せば相手は小憎らしい程に涼しい顔をしていた。
    「友尚、お前は存外に子供っぽいよな」
    「お前にだけは言われたくない、恵棟。納得いかないことを何時までも意固地になって文句を言い続けるところとか、軍吏としてどうなんだ。冷静さに欠く」
    途端に涼しげな顔をしていたのが崩れて眉が持ち上がる。
    「言ったな、旅帥の頃気に食わない他軍の師帥の指揮に反抗した挙げ句に食ってかかって懲罰房にぶち込まれそうになってたくせに、人に冷静さなど説ける立場か?」
    「何十年前の話を持ち出すんだ!お前こそ糞みたいな両長の両伍に対して私情で兵站少なく見積もったことあっただろうが!」
    「あんな奴ら糧秣不足で途中で引き上げてくれた方が民の為だ!私は今でもあの判断は正しかったと思っている」
    「その尻拭い誰がしたと思ってるんだ?主に俺だぞ!阿選様だってお前が故意にやったの知ってて庇ってたんだからな」
    「それに関しては後日品堅殿から聞いたので謝罪に伺った」
    「俺には?恵棟、俺はその謝罪受けていないぞ」
    「お前は普段から邸を片付けたり何かと面倒を掛けられているから相殺だ」
    侃々諤々の応酬に僅かな沈黙を挟むと、顔を見合わせて両者同時に吹き出す。
    ひとしきり笑い合うと、滅入っていた気分が少し晴れる様だった。


    はっと目を見開くと、久方ぶりの自邸の牀榻が視界に入る。狂ったように鼓動を打つ心の臓に痛みを覚えて身を起こすと、知らず、獣の咆哮の様な呻きが己の口から漏れ出した。
    何故。ここしばらくは夢など見なかったのに。



    硬く口を引き結んだ表情で、黄医の潤達が台輔に拝謁する。
    「気になること、というのはなんでしょう」
    対する台輔は、いつもと同じように構えたところがなく穏やかな雰囲気を纒っている。
    顔色は僅かに白く良好とは言いがたいがこれは仕方がない。泰麒の体調は思わしいことの方が少ないのだから。今は朝議の後とあって、疲れも出ているのだろう。
    「貴方が躊躇するということは、私の体調とは無関係のことなのでしょう」
    潤達は麒麟の主治医たる黄医だ。泰麒の身体に関わることで有ればどれだけ言い難いことで有ろうと包み隠すことはない。
    その彼が言い渋るのは、大概が職務分掌を離れた内容に言及する時だった。
    少し場の空気を和らげようと、背後に控えていた大僕の少女に菓子を取るよう頼もうと背後を振り返る。と、目の前で跪いていた青年が重たい口を開いた。
    「台輔は、近頃になって見られるようになったという病の事をご存じでしょうか…。」
    「病?」
    蓬莱で育った泰麒にとって、病といわれて思い浮かべるのは風邪や冬に流行する感染性の疾病だ。しかし常世においては細菌やウイルスの存在すら定かではなく、下手をすると天意によって引き起こされる原因不明の災害の一種という可能性すらある。一概に自分の知っている概念のものと同一視することはできない。
    「それはどのような病なのですか?」
    「全容は不明ですが…これまでの見聞から典型的な症状をお話させて頂きます。始めの頃は、気鬱がちだった者がいくらか闊達になります。そして性格が明るく開けた様になるのに反して、身体的には衰弱していきます。足元のふらつきや注意力の散漫などが多く見られ、人と話をしていても微妙に噛み合わなくなってきます。酷い者は幻聴が聞こえることもあるそうです。こうなってしまうと事故に遭う者が多いのですが、最後には床に就いたまま起きてくることがなくなる、と」
    潤達は言及するのを避けていたが、おそらく死者も多く出ているのだろう。悼ましく思って眉をひそめると相対した黄医は恐縮してしまった。
    「申し訳ありません、このような話本来であればお聞かせするべきではないものを」
    「いいえ、構わないでください、それより続きをお願いします」
    続けてください、と言われて少し悩みながらも律儀な青年は口を開く。
    「民間で始めに見つかったもので、雲海の上までその存在が伝わるのに時間がかかった様ですが、近頃は官の間でも同様の病が起きているのです」
    「なるほど、その病というのが白圭宮でも見られるようになってきたのですね。すみません、寡聞にして私はその話を知りませんでした」
    「とんでもない、まだ医官の間で噂になっている程度なので台輔がご存じなくとも無理はありません。しかしいずれはこの病についても正式にご報告が上がると思います。何しろ、先日仙が同様の症状で……」
    「亡くなったのですか?」
    泰麒が言葉を継ぐと潤達は跪拝したまま気まずげに身動いだ。
    「……はい」
    仙が病を得ることは、通常であればあり得ない。
    昇仙した者は通常の人間より格段に頑強になる。冬器でもなければ刃物で肌を裂くことができず、滅多なことでは怪我にも病にもかかることはない。その仙が、死に至る病。
    何か嫌なものを感じて黙考する。これはいわゆる感染症なのだろうか?
    「潤達よ、その病にかかった者に、他に何か特徴や共通点はあるのか?」
    突如背後から声がして泰麒は思考を現実に引き戻した。今まで背後で黙って聞いていた耶利が声を上げたのだ。
    「……他に?ああ、これも聞いた話になるのですが、心配した周りの者が声を掛けて医者にかかるよう勧めても、皆一様に『心配ない』『自分は今幸福なんだ』『家に帰って寝ていれば平気だ』と、おおよそ そのようなことを申すそうです」
    潤達の話を聞き、耶利は目を眇めて「そうか」と言ったきり、また黙ってしまった。
    「教えてくれてありがとうございます、潤達。何か…良くない感じがします。私の方でも少し調べてみましょう」
    ……はっ、と僅かに迷うような、戸惑うような声が一揖と共に還ってくる。
    「もしや、他にも気になることが?」
    その様子に逡巡を見て取り水を向けた。
    「私から申し上げるべき筋のことではないのですが……」
    僅かに口籠もった後、台輔に促されて言葉を紡ぐ。
    「州師中将軍のことです」
    「友尚の?」
    少し前に反乱の平定があり、血の穢れが障るといけないからということでここしばらくは会っていない。前に会ったときは些か疲れが顔に出ていたが問うても笑って「なんでもない」と返すだけだったので、偽朝で要職に就いていたという点で風当たりが強いのだろうか、心労があるのだろうかと気を揉んだのだが、やはり何かあったのだろうか。
    「……ここ数日の中将軍の様子は、尋常のことではありません」
    泰麒が思わず腰を浮かすとがたりと椅子が鳴った。
    「どういうことでしょう」
    「就任以来、お見かけする度にお疲れの様子でしたが先だって鴻基に帰還した際は幾分顔色が良かったので、医官の皆安堵していたのです」
    それが……と、言い淀む様に口を閉ざす。
    「帰還以来、日を追うごとに顔色が悪くなっていらっしゃいます」
    それも、以前よりもずっと。と、不安げに眉間に皺を寄せた。
    勿論黄医が思わず口を出してしまうほどの体調の不良というのは気になる。医官とはいえ潤達は本来ならば軍とは全く別の系統に属するのだから。
    しかし、それよりもっと気になることがあった。
    何故、今その話をしたのかだ。
    「私の思い違いであれば構いませんが……もしや先程の病の話と友尚の話、何か関係が?」
    思い当たるのは、二つの話が地続きである可能性だ。
    先程潤達が言っていた症状は友尚には当てはまらない。だが、敢えて先程の話と共に友尚の事を言ったのだとしたら……。
    「……病を直に診たことのある者が申していたのです。中将軍の憔悴した様が、醒めない眠りに就く前の患者にそっくりだと」
    集中力の欠如、手足の震え、頭痛。顔相は眼下が落ち窪み壮健とは到底言いがたい。脈が暴れるらしく時折胸を軽く押さえている。
    そうなった者はいずれも数日の内に錯乱して事故死するか、いずれ起きてこなくなるという。
    「まだ意識は確りしていらっしゃるようですが、仙であるから『まだ』で済んでいるだけなのでは。それとなく休養をお勧めしたこともあるのですが『動いている方が気が晴れる』と…」
    「なるほど、貴方が気がかりに思うのも尤もです……」
    俯き、ふむ、と一つ頷くと台輔は真っ直ぐに潤達を見た。
    「分かりました、では今から」「駄目ですよ」
    自らの言を遮って聞こえてきた平坦な声に、軋むような動きで背後を振り返る。
    「私が」「駄目です」
    慇懃な態度だが、発言を許さないという無言の圧を感じさせる少女に、台輔の首筋につっと汗が伝った。
    「耶利、何故止めるのです」
    「お止めする理由は潤達に聞けば分かるでしょう」
    「では何故喋らせてくれないのです」
    「良いですか、中将軍が御前に参上しないのは乱平定の穢れを台輔に触れさせる訳にはいかないからなのでしょう。だというのに潤達に『では今から私が様子を見に行きましょう』などと聞かせてご覧なさい、絶対に怒られます。とばっちりで私まで怒られます」
    「それは潤達の目の前で言ってしまっては同じ事なのでは?」
    「おや。では我が身を守るために、時折台輔が寝付いた振りで人払いをして外朝あたりまで抜け出していることなどばらしてもよろしいでしょうか。私は怒られたくないので」
    「耶利!」
    悲鳴のような台輔の叫びが響いた後、二人はしっかりと潤達に叱られた。



    「─中間位置の戦鉦を三打。相違ないな。では、次は陣地で」
    演習の開始時刻といくつかの条件についての確認を終え、霜元は穏やかに辞去を告げた。
    それを拱手を交わして見送った後、友尚は人の気配を感じて背後に意識をやる。
    「聞いても良いですか」
    己の背後に静かに立つ気配に向けて問うた。
    「何故私なのです」
    「お前だからだ」
    振り向きもせずに掛けた問いだったが、主公からは平静な飄とした返答が帰ってくる。
    今日行われる他軍との対戦演習で、主公は指揮に友尚を指名した。対するのは今し方去って行った、左軍の師帥である霜元だ。
    背中越しに砂を踏みしめる微かな足音が聞こえた。
    主は背後から隣に位置を変え、友尚と並んで向かいの陣を見つめる。
    「不満か?」
    「いいえ、決して。ただ不思議に思ったのです」
    霜元はどちらかというと定石を踏まえた安定感のある指揮をする。どう出るかは読みやすいが、出方が読めることと勝てることは別の話だ。彼の布陣は固いが決して硬直しているわけではない。地に根を張る大樹の様な、動じることのない強さ。
    臨機応変を旨とする友尚とは些か趣が違う。
    堅実で安定した指揮を基本とする者は右軍にも多いが、中でもよく似た将がいる。成行だ。
    友尚より軍歴は長く、個人技でも練兵演習でも何度も煮え湯を飲まされている相手だった。
    演習の指揮を任じられてから、ずっと彼の顔が脳裡にちらついている。
    統制のとれた軍隊は、冬山の雪崩に似ている。
    只真っ直ぐに向かってくると分かっていても「これは止められない。」そういう印象を抱かせる用兵だ。怯めば飲まれる。
    きっとあいつであれば、霜元が相手でも危うげなく立ち回るだろう。
    考えていると、ふう、と風に紛れるほどの小さな吐息が聞こえた。
    「……言われずとも承知だろうが…ともすれば攻勢に偏りがちな左軍の中でも、霜元は手堅い戦術を取る守備型だ。いわば、左軍の盾だな」
    話し始めた主公の方に視線を向ければ、彼の人は相変わらず気負った所もなく薄く笑む様にして左軍の陣を見つめていた。
    「対して、お前は……守りもまあ卒の無い程度にはこなすが……いや、言い方が悪いな聞き流してくれ」
    「難があるのは自覚しているので反論はしません……」
    眉根を寄せて言えば、隣からくっと笑う声が聞こえる。
    「いじけるな、褒めてはいないが貶している訳でもない。ともあれ、お前の武器は突破力だ。流れを作り、相手の綻びを見逃さずに陣を斬り破る、右軍の自慢の矛だ」
    軽やかに笑みを刷いていた横顔が、こちらを向く。
    「盾に盾をぶつけても、面白くあるまい?お前だから選んだ。期待しているぞ」
    薄い微笑を明確な笑みに変え、小突くように肩を叩いた。


    酷い汗で、纒った袍が重く湿っている。
    自分の呼吸が煩くて息を詰めれば、今度は静寂が耳鳴りになって襲いかかってきた。
    じったりと濡れた額を拭う。顔から掌が離れると半端に開いたままの帳の隙間を縫って、まだ高い位置にある陽光が目を刺した。
    昼前に台輔の下命で邸での待機を申し渡されたのだ。急ぎ確認したいことがある、午後に使者を送るので待つように、と。
    皮甲を外し少し休むかと腰掛けたのは覚えているが、いつの間にか眠ってしまったらしい。
    強く目を瞑ると、じんじんと眼底が痛んだ。
    「しまったな、休暇でもないのに……」
    あくまで言い渡されたのは待機だ。しかも「後で使者を遣わす」と言われているのだ、寝ていて気付かなかったなどという事になれば笑い話では済まない。
    「まだ来ていないのであれば良いんだが」
    「別に勝手に上がるから気にすることはない」
    「そうもゆくまい」
    はたと気付いて顔を上げる。
    目の前に年の頃十七、八の娘が感情の窺えない面で立っていた。
    「耶利!まだ夢か」
    「い、いえ……。勝手に上がって申し訳ありませんが、夢ではありません中将軍……」
    位置関係のために少女の影になっていた青年がおずおずと横に進み出た。
    仁重殿で顔を合わせることがある。黄医の青年だ。
    「潤達、気にすることはない。友尚の家だぞ畏まらないでいい」
    「潤達殿はともかくお前はもう少し畏まってくれ」
    誰かしら人がいれば中に通す前に一声掛けて起こしてくれたろうが、そもそも下官を置いていないのは友尚が悪いのだから仕方が無い。だが、それはそれとして隣の家に野菜を持ってきたみたいな調子で臥室まで遠慮一切なしに入ってくる耶利は少し考え直して欲しい。
    ともあれどうやら台輔からの遣いというのはこの二人のことらしい。
    「なんだか笑い話で済みそうな気がしてきた……」
    「居眠りについては笑い話で構わないが、私たちが来た要件は笑い話では済まんぞ」
    言うと、耶利は隣に立つ潤達に目配せをした。
    硬い顔で、潤達がすんと鼻を鳴らす。
    「ええ、おそらく同じ匂いです」
    「そうか、ならば話は早い。『病』の正体は分かった」
    「俺には何一つ分からないんだが」
    憮然とした顔で友尚が抗議をすれば、然りと耶利が頷きを返す。
    「勿論、分かってやっている」
    「分かっているなら説明くらいはしてくれるんだろうな?」
    「いいや、このまま分からない友尚を置いてけぼりにして振り切る」
    「振り切るな置いていくな頼むから説明はしてくれ。知人とはいえこちらは知らぬ間に臥室まで入られて無駄に寝顔まで見られたんだぞ……」
    「寝言も聞いたぞ」
    「おい嘘だろう……?」
    愕然と確認の問いかけをするが耶利は答えず隣の潤達を見遣る。
    「見ろ、潤達。この返答のキレの無さ、いつもの友尚ならもう少し面白い反応をしてくれるというのに。これは異常だ。典型的な症状と言える」
    「え、えぇ…? なる……ほど?」
    「潤達殿を困らせるな、困惑しているだろうが!」
    「いえ、私どもが近寄っても死んだ様に眠って、起きていらっしゃらなかったのでこれは相当なことだなとは思っておりました。おそらくは異常な疲労と注意力および思考力の低下によるものでしょう。返答のキレ云々は私には分かりませんが」
    なるほど、武芸に秀でた耶利ならばともかく、体術の心得のない潤達に気配を殺して近づくなど出来るはずがない。だというのに気付かずに眠りこけていた己の失態に心の中で毒づく。
    先程は分からないまま置いてけぼりにする、などと言ってはいたが状況確認のために耶利に視線を向けた。
    「…先程『典型的な症状』と言っていたな。『病』とも」
    「ああ。私たちがここに来た理由はそれだ」
    「俺が、病にかかっていると?」
    熱もなければどこかに痛みがあるわけでもなし、夢見が悪い以外には何一つ悪い所は無い。
    「病にかかったと言うより、正しくは罠にかかったと言うべきだ」
    「罠……」
    なんともまた剣呑な話である。当然と言えば当然のことだが、偽朝に属していた友尚を排除しようとする者は多い。だがその「病」というのが不可解だ。
    「まず病であるということから納得がいかないが、俺は一体誰の罠に掛かったんだ?」
    「こいつさ」
    そう言って耶利がその手に掴んだのは、供案に置かれていた小ぶりの梅の鉢だった。


    耶利が「それ」について知ったのはまだ十にも満たない子供の頃だった。
    耶利が育った黄朱の里のすぐ近くに、見慣れぬ花が咲いたのが始まりだ。梅に似ていたが、その花は僅かに小ぶりで房なりに咲く。似ているだけで違う物だ。
    香りが強く里の子供らは皆その芳香を好ましく感じていたが、大人達は早々に里近くに枝を伸ばしていたその花を、木の根ごと刈り取ってしまった。
    「何故切ってしまうんだ、折角花が咲いたのに」
    梅に似た花ならば実もなるかも知れない。そうなれば貴重な食料だ。さらにはそれが梅や桃のような甘い果実となれば大人だって嬉しかろうに。そう思って耶利は不平を零した。
    「まぁ、実際の所果実は生る。それにこいつにも使い道がある。だから里から離れた場所に生えた物は刈っていない。ただこいつは花期が長い。数ヶ月は花を付けたままだ、花が落ち冬までの僅かな期間、果実の採れる量など高が知れているさ。刈ったとて問題にもならん」
    「だからって、刈ってしまうのか。それともそいつは売れるのか?」
    今会話している男が元はと言えば猟木師であったことを思い出しそう聞いた。
    「ま、やりようによっては売れるだろう。だが俺ならこいつを売るのは止めておくな」
    「何故だ。売れる物なら売ればいい。そうでもないなら何故切った?」
    お前は何故、何故と聞くんだな、とその男は笑って言った。
    「百聞は一見に如かず。三日後に、こいつを刈らずに残してある所へ連れて行ってやろう」
    自分の目で見てみると良い、上機嫌にそう言った。
    約束の三日後、男に連れられて見たのは、すっと透き通るような花の匂いの中で眠る何匹かの獣の姿だった。小型の妖魔の姿すら見える。
    「おい、これは大丈夫なのか?」
    異様な光景だった。
    獣は人の気配に敏感だ。子供連れがのこのこと近づいて起きもしないなどあり得ない。
    「犰狳までいるじゃないか」
    おまけに妖魔の姿である。
    「大丈夫だ。ああなったらもう起きん。そこにいる野ウサギは新顔だが、起きたところで危険は無いからな。三日の間に安全確認はしておいた、安心して観察するといい」
    もう起きない。そう言われて急にそこで眠る獣たちが死に瀕しているように思えて、猟木師の男の短袍の裾をぎゅうと握った。
    「あの花はな。夢を見せるんだ」
    竦んでしまった耶利の頭を撫でながら男が話しかける。
    「それも、とびっきりの良い夢だ。あの花の枝を一本枕元に置いて寝ればえらく良い気分で眠れるぞ」
    「良い気分で寝ていても、良い気分で起きれないなら意味が無い」
    ちがいない、と笑い声が返ってくる。
    「あの花がどうやって獣を眠らせる?人も同じように眠ってしまうから里の近くの木を切ったのか?」
    「花が眠らせる訳じゃない。あの花はただ、夢を見せるのさ」
    おそらくは香りに何かあるんだろうな。肩をすくめて答えるが、幼い耶利には意味が分からなかった。夢を見せるなら眠らせる力があるのだろう、と納得がいかない。
    「夢を見るには眠らなきゃならないだろう。夢を見せるというのは眠らせるということじゃないのか。花に眠らせる力が無いならなんで獣は起きてこない?」
    男はごりごりと髪を掻いた。
    「あー……これは俺も聞いた話だがな?眠りっていうのは二つあるんだ。浅い眠りと、深い眠り。夢を見るのは浅い眠りだ。深い眠りに落ちると、その間夢は見ない……らしい」
    つまりな、と虚空に視線を逸らして考えを纏めている。
    「この花の香りは、夢を見せる。深い眠りに落ちるのを邪魔するんだ。浅い眠りでは心も身体も十分に休まらない。寝ているはずなのに、寝ていないのと同じなんだ。だからその内眠りが足りなくなって起きてこなくなる」
    そして
    「この花が見せるのは、とびっきりの良い夢だ。獣たちも夢を見るのだろう、わざわざ好んでこの花の根元で眠りたがるやつが野生の獣にも一定数いる。あの木はそういうやつをおびき寄せて自分の膝元で獣が衰弱死するのを待っているのさ。そういう生き方をしている」
    耶利の手に籠もった裾を掴む力がぎゅうと強くなる。
    怖がらせてしまったか? と男が顔をのぞき込むと、険しい顔がそこにあった。
    「……せこい」
    眉をしかめて唾棄するように呟く耶利に、男は大きく声を上げて笑った。


    「つまり、黄海で採れるその花を戴で売ったやつが居て、それ故に巷でその変な病が流行していると。そういうことか?」
    「そういうことだ。花─猟木師は歿(もつ)香(こう)梅(ばい)と呼んでいたな─それを持ち込んだ者がいる。本来黄海に生える植物だ。気候が合わずに土地に根付くことはないだろうが、鉢植えならばなるほど生かす程度はできるようだ。この病が見つかったのは春先からじゃないのか?」
    耶利が潤達へと視線を向けた。
    「把握している範囲での話になりますが、冬より前には同じ症例はありません」
    「春先に初めて花をつけるからな。そして潤達が患者の元で嗅いだのと同じ匂いがこの房室でしている。巷の病も同じ原因で間違いないだろう」
    「昏睡中の官の邸に行って匂いを嗅いでくるよう言われた時は何かと思いましたよ……」
    訳も分からず治療のためでもなく匂いを嗅ぐためだけに派遣された黄医のいたたまれなさを思い、友尚は思わず憐憫の情が湧いた。
    「国に持ち込まれてこんなにすぐに雲上まで広まるとも思いがたい。潤達は『冬より前には』と言ったが、実態として掴めていなかっただけでおそらく民の間ではずっと前から出回っていたんじゃないかと私は思う」
    先の見えない息を殺すような生活で冬を越せる目処も無い。そんな中で、甘く優しい夢を見れるなら。これまでに見た夢を思い出して友尚は小さく息を零した。
    「……ありえそうな話だ」
    そしてその下地を作ったのは間違いなく偽朝に居た自分達なのだ。



    「瑞州でも取り締まりが始まりました。急いで国外から持ち込まれる品への検疫の制度を整えている所ですから、直に戴全土で例の花は見られなくなるでしょう。貴方の所領を参考にさせて頂いたおかげです、友尚」
    「参考にするほどの事などしていませんよ」
    ただ単に所領内にある各里の里宰へと「香りの強い花」の鉢植えを一鉢一家族分の食料と交換すると触れを出しただけだ。
    切枝であれば放っておけば直に枯れる。年をまたいで花をつける可能性のある鉢植えだけ回収できればいいのだ。ただ「禁制品」として持つ者に罰を与えるとなれば隠す者も出てくるだろう。禁止されることで興味を持つ者が出る可能性もある。そうなれば本末転倒だ。
    そこで、詳細を伏せ、ただの花と紛れさせて一度に集めてしまうことにした。食料との交換となれば里中を「探して」でも集めるだろう。何せどこの里も義倉はすかすかだ。
    夢で腹は膨れない。希望があれば人は夢になど縋らなくても生きていけるのだ。
    今の戴には正しい王がいる。
    「ところで、貴方にあの花を贈ったという夏官ですが……」
    いいさした所で台輔はふいと目を伏せた。
    そう、花を礼物として友尚に渡したのは顔見知りの夏官だった。驕王の代から仕える官で偽朝に在った者同士ということで明幟になってからもなにかと友尚にも気を遣ってくれていた。そんな相手から曰く付きの品を贈られたということで酷く自嘲したが、そういえば本人はどうしているのだろうか。
    「入手したのは取り締まられるより前ですから、まさか罰を受けたりはしていませんよね?」
    単純に最近顔を見ていないな、と思い何の気なしに発した言葉だった。
    「……彼は、亡くなっています」
    台輔の口から小さく聞こえた言葉に絶句した。一体いつ?いや、それよりも何故?
    「彼自身も、病を得ていました。病の原因が分かった頃には既に危うい状態に在ったようですが、その後も花を手放さなかったようです」
    「病」で死んだ官がいるというは聞いていた。その中の一人であったということだ。
    「もう聞くことは出来ないので分かりませんが、彼が貴方に花を贈ったのは、純粋な厚意からだったのではないでしょうか?」
    危険な物と知って、陥れる目的で友尚に贈ったのか。あるいは自らの心の慰めを、分かち合うつもりで贈ったか。
    「……わかりません」
    台輔の言う通りなのかもしれない。だが、そうでなければ良かったのに、と思った。
    夏官は、軍と密接に連携している。誅伐を行うのは軍だが、そのための道を敷くのは夏官だ。
    夢と分かっていても縋らなければいられないほど、罪悪感に苦しんでいたのだろうか。
    夢で腹は膨れない。だが希望が無ければ人は何かに縋らずに生きられない。
    民の描く希望とは明日への展望だ。地を耕せば実りが得られる。里木に祈り卵果が実る。生まれた子はきっと健やかに育っていける。
    では、そんなささやかな希望を奪い続けた官が描く明日への展望とは何だろうか。
    「……気の良い奴でした」

    暴虐を成した偽王はもう居ない。
    ここからは、己の罪は自分で背負っていかなければならない。






    破り札

    明幟の初め頃。鴻基、文州の二所にて黄昏より深更にかけ幽鬼の現れ出でたるとの報あり。
    装い兵に似て刀持ち、此に遭ひたる者を襲ふ。死者頻(ひん)々(ぴん)たり。
    其を見たる者の曰く「荒々しく、野卑凶悍なるもてなしなり。姿赤黒く様態影の如し」
    台輔、報を受くに心砕き給ふ。
    或る日、瑞州師の士(へい)を召し
    「民の物に魘(おそ)はるるは無慙なり。爾が手にて此を斥けよ」
    とぞ宣(のたま)ひ、一片の呪符を与ふ。
    士 七日目にして鴻基城下に幽鬼と行き遭ふ。赤黒き影のひた斬り来るを躱し、其の面前にて台輔より給ひし呪符を引き破りたり。影の札裂くるを見るものは、たちまち消えにけり。
    爾来、墨書きしたる札破るを魔除けとす。民間には烏の絵描きたる札多し。
    是、今に言う破り烏符の起こりなり。

    ─瑞州・文州


    破り札・文州

    豪(ごう)准(じゆん)は生粋の土匪だった。
    ここ文州では給田を売った者でも活計(たつき)を得る手段が豊富だ。
    元来田畑を耕すよりも玉を商う者、それを切り出し運ぶ者、その差配をする者の方が多い土地である。それでも食うに困って他人の上がりを脅して掠め取る様な者も多かったが、今の王になってからは最低限人夫に支払うべき給金が定められ、身体を傷めて働けなくなった者へは役所へ申し出れば炊き出しや門衛の手伝いなど、務めることが可能な仕事が与えられてその間の食が保障された。
    勿論のこと、元が荒っぽい文州の者どもである、諍いごとは多く暴力的な手段でそれを治める様な職分の者は変わらず必要とされた。
    しかしそれに瑞州から派遣された武官が協働する様になってからは、これまでの後ろ暗い匪賊としてではなく公に存在を認められる様になった。
    申請して認められれば石工や人夫と同じように給金を受けることができるし、当然、度を過ぎれば罰せられる。いわば公認の土匪である。
    そう言った者は何時しか「降りかかる石礫から守ってくれる」ということで土庇と呼ばれるようになった。
    今挙げた諸々の保障は旌券を持たぬ者に対しても門戸が開かれている。
    望めば小学程度の教育も受けることが出来た。それら全ての、差し伸べられる手を打ち払って生きてきたからこそ、豪准は生粋の土匪であると自負していた。
    自負していたから、自分と同じ破落戸(ごろつき)のくせに土庇などと呼ばれ人から感謝される生き方を選んだ者どもの事を内心で唾棄していたのである。
    ─役人に諂(へつら)う走狗共が。
    酒場の喧噪の中、知った顔が酒舗(みせ)に入ってくるのを見かけて憎々しげに顔を歪めた。
    豪准は弱いものが嫌いだ。何かに寄り掛からねば立つことも出来ない者を心底から憎んでいた。
    自分の力で生きられないから役人だの国だのの信の置けない物に頼らねばならないのだ。
    ─国など、いつ掌を返して俺たちを殺しにかかるか分かった物ではない。
    周囲の者達が王を有り難がって「これで暮らしが良くなる」などと喜んでいるのが不気味で、そんな者達を見ると薄ら寒いような思いがしていた。
    役人のお墨付きで土匪が土庇になるならば、一転 役人のお墨付きで無力な鉱夫も蜂起の首魁である。自分が何者かを誰かの一存に頼るなど豪准は絶対に御免であった。
    自分の力だけを頼りに生きる。馬鹿にする者は許さない。そんな生き方が出来る道は土匪しか無かった。今飲んでるこの酒とて、人を殴って得た金で購ったものだ。
    「おい、そこのお前」
    背後から声を掛けられ、豪准は煩げに振り返った。直接の面識は無いがおそらくは先程入ってきた土庇の内の一人だ。
    振り向いた顔を見て相手は面食らった顔をする。
    「なんだ、年寄りではなかったか」
    カッとなって豪准は椅子を蹴飛ばして立ち上がった。
    「お前、俺を馬鹿にするのか!」
    豪准の髪は生まれつき老人の様な黄髪だ。故に後ろから見たら老人と間違われる事が多い。
    色のない白い髪は目立つ。昔から揶揄する奴らは多かった。そういう者は片端から拳で黙らせてきた豪准である。
    今度もその手合いかと拳に親指を握り込んだところで別の者から声が掛けられた。
    「よせ。悪かったな豪准、俺たちは喧嘩を売りに来た訳では無い」
    方順だった。年の頃が近く字も若干似ているが、近年になって他の鉱山から流れてきた豪准とは違って親の代から函養山を根城にしているという。                  
    方順達の頭は相当の初期から王への協力をしていたと聞いている。つまり豪准が嫌っている土庇の中でも真っ先に尻尾を振った連中に他ならない。
    「半官どもが何の用だ。税でも取り立てに来たか」
    喧嘩腰の対応に声を掛けてきた男が色めき立つが、方順がそれを手で制して話を続ける。
    「豪准よ、時折妙な死体が出るというのは知っているな」
    「…女や年寄り子供連中が膾(なます)にされてるあれの事か」
    函養山の周辺で変死事件があるというのはこの辺りでは知らぬ者がいない話だ。
    殺されるのは夜。主に女子供や老人が狙われており、夜に出かけた者が翌朝には襤褸切れの様にずたずたにされた状態で見つかる。多くは殺した場所で放置されているのが常だが、行方の知れなくなった老人の真っ二つにされた死体が山の縦坑から見つかったのを切欠に、捜索すると坑道から非道い状態の死体がわんさと見つかった。
    今はもう封鎖されている坑道だったので深い穴は早々に塞がれたが、果たしてそれまでに何人が見つからない様な深くに投げ込まれたのだろうか。
    不可思議なことに、どれだけの悪路でも、雨に泥濘んだ場所でも、死体の周りには一切の下手人の痕跡が無い。足跡すら見つからないのだ。
    ごく稀に屈強な男も犠牲になる。棍棒や鉈を手に持った死体も見つかっている。
    だというのに、斬り結んだような痕跡は一切無くいずれも一方的に殺されている。
    襲われた者の中には逃げ延びた者や大怪我を負いつつ辛うじて息のあった者もいるが、いずれも歯の根も合わぬような状態で、下手人について真っ当な回答が得られたことは無い。
    妖魔の類ではないのかというのが目下の有力な推論だ。
    「まさか俺が下手人だと疑っているのではあるまいな」
    妖魔だなどという言は豪准は信じていなかった。妖魔ならば折角殺した獲物の肉も食わずに消えるものか。気の触れた変質者の類に違いない。
    「いいや。そもそも人の仕業では無い、というのが上の見解らしい」
    方順の応えの内容に思わず鼻の頭に皺が寄る。
    「これまでに襲われたのは女子供に老人、たまに混じる若い衆はいずれも髪の色の薄い者だった。おそらくは老人と間違われてのことだろう」
    豪准の鼻の皺はますます深くなる。
    「州師の者が来て、この呪符を置いていった。魔除けだそうだ」
    言いながら方順は懐から見慣れぬ絵のような、字のような不可思議な図案の描かれた紙束を出した。一枚を抜き出して豪准へと差し出す。
    「正体の分からんものに襲われて、そいつの影が赤ければこの札を破るといい」
    「巫山戯るんじゃねぇ」
    差し出された札を方順の手ごと平手で打ちすえた。
    「襲われてるのは弱い奴ばかりだ、この俺が襲われるものか」
    「いいや、俺の知り合いにも襲われた奴がいる。そいつは身体も大きく気の荒い赤虎みたいな男だったが、正面から額を割られた死体が坑道から見つかったよ」
    辛抱強く話を続ける方順だったが、既に豪准は嫌気が差していた。
    机の上の杯を呷って空にすると天板に叩きつけるように戻す。
    「武器も抜けずに頭を割られるような間抜けと一緒にするな」
    そう吐き捨てると目の前に立つ二人を押しのけるようにして酒舗を後にした。

    豪准の腹の奥にはいつもどろどろととぐろを巻いている何かがある。
    おそらくそれは怒りだ。ままならぬ物全てに対する怒り。それが何かのきっかけに短気となって発露する。侮蔑を受けたとき、理不尽を頭から浴びせられたとき、その怒りは顔を覗かせる。
    酒舗を出てからふつふつと煮えるような腸を抱え夜道を歩いていた。
    ふと、方順が最後に言っていた話を思い出す。
    身体が大きく気の荒い、年寄りでもない男が─おそらくは碌な抵抗も出来ずに殺された。
    額を割られているということはそういうことだ。尋常の腕ではないか、予想もしていない瞬間に突如斬りかかられたか…いずれにせよ意表を突かれたのは確かなのだろう。
    腰に佩いた剣に手をやる。
    禄に切れもせぬ 剣とは名ばかりのなまくらだが、硬くて重い鉄の棒は鈍器としては十分だ。
    ─俺は簡単には斬られはせん。
    きっ、と前途に横たわる暗がりを睨み据え、剣に手を添えると塒(ねぐら)へ帰るために山道へと歩を進めた。使われなくなった鉱夫のための小屋、今はそこを仮のすみかとしている。
    不意に意識の片隅の方が、生臭い鉄の匂いを嗅ぎつけた。
    毛穴が太るような嫌悪感を覚えて、今来た道を振り返るように身を翻す。
    そこにあるのは、赤黒い影。
    人の形をしてはいるのだが、靄のように茫洋としてその輪郭は霞んでいる。
    月光で地に縫い付けられた影がむくりと身を起こして立ち現れたような、そんな風情だった。
    ─なんだこれは。
    頭髪が上を指し、蟀谷に脂汗が伝う。掌が気持ち悪くじっとりと湿っている。
    ─正体の分からんものに襲われて、そいつの影が赤ければ…
    先だって言われた内容が脳裡に閃いた。
    ─馬鹿野郎!影の赤い妖異ではなく、赤い影の妖異ではないか!
    脳裡に浮かんだ人物の顔に頭の中で罵倒を投げつける。
    暗がりに月明かりだけで姿形は判然としないが、皮甲を身につけた人間の様だった。手にはおそらく朴刀を下げている。
    あからさまな敵意に満ちた姿勢に、咄嗟に剣を抜いていた。
    ─来るなら来てみろ、剣技なぞは知らんが、腕力と速さじゃ負けたことは無い。
    音も立てずに斬りかかってくる影に、油断なく剣を構える。
    振りかぶった動きに合わせ、相手の朴刀を剣の腹で受けようとした所で、ひたりと首筋に冷たい物を感じて無意識に身を捩った。
    剣で受けたはずの朴刀の影が、ざくりと脇腹を裂いた。
    ─何でだ!確かに受けた筈だ!
    傷口の焼けるようなどうしようも無い熱さに踞る。すんでの所で身を引いていなければ今頃は腹から臓物がまろび出ていたことだろう。
    踞った所に影の脚が落ちてくる。
    間断なく背や脇腹を抉るように蹴りつけてくるやり方は相手を甚振る悪辣さとそれを楽しむような底意地の悪さを存分に感じさせた。
    ─畜生、畜生畜生、畜生めが!
    痛む腹の傷を堪えて腕の力だけで握り込んだなまくらを振り回す。切れずとも、当たれば脚の骨くらいは砕くだろうし、当たらずとも怯んで隙ができるはずだ。
    ところが剣は影を素通りしてただ虚しく空を切った。
    豪准の抵抗を受け、朴刀が腕に落ちてくる。腱を断たれて握っていた手から柄が落ちた。
    何が妖魔なものか、こんな糞みたいな性格をした妖魔がいるものか。
    抵抗の手段を奪い、尚も暴力の行使を続ける影に厭な人間味を感じる。執拗な攻撃に、目の裏が赤くなったが血の上る頭とは裏腹に、蹴られ、斬られ、身体はどんどん重くなる。
    ついに踞っていることすらできなくなって、どさりと地面に倒れ込んだ。
    脳裡に襤褸切れのように滅多斬りにされた自分の死体が浮かぶ。このまま膾にされるのか。
    そう思っていると、襟首を掴まれ持ち上げられる。
    朦朧としたまま何事かと思っていると、ずるずると引き摺られる感触があった。
    坂を上っている。
    ガサガサと己の身が草をかき分ける音とは対照に、影が歩くときには砂利も鳴らない。
    なるほど痕跡が無い訳だ。
    ずるりずるりと、赤黒い影は土匪をひきずり山を行く。
    着いた先は暗黒がぽっかりと口を開けていた。
    ─坑道に落とす気か!
    これまでにいくつかの死体が縦坑から見つかっているのを思い出していた。
    底が浚えないほどの深い物はあらかた閉じられた筈だ。だが硬い岩盤の坑に放り込まれて無事に済むはずが無い。
    ずるずると、赤黒い影は暗い坑道を迷いも無く進む。
    手近な縦穴に豪准を引っかけると、ずだ袋を投げ込むような動作で真っ黒な暗闇に向けて腕を放った。
    ─ちくしょうめ!
    豪准は暗黒に頭から落ちる寸前、赤黒い影がにちゃりと厭らしい笑みを浮かべたのを見た気がした。





    破り札・瑞州


    ─己の識る文字ではないが、絵でもない。
    渡された一葉の紙片を拡げ、士真は跪いたままちらりと視線を眼前の鞜先に向けた。
    「疑問がある、という感じですね」
    苦笑と共に声が降ってくる。どうぞ、楽にしてください。と声の主は続けるが自国の宰輔を前にして緊張するなというのが無理な話だ。
    「ご存じの通り、私は胎果なので。人のつむじに向けて話しかけるのはどうも据わりが悪いんです、私のためだと思ってもう少し気楽に接して貰えませんか?」
    「……そんな、畏れ多いことです」
    そろりと顔を上げて口を開いてはみたものの、眉尻が酷く下がる思いがした。
    「ああ、やっと顔を上げてくれましたね」
    同じ漕溝の城で軍営を共にしたとは言え、泰麒はその間ほぼ伏せっていたため、士真が間近に接するのはこれが初めてのことだ。
    伝聞の形で「身分に頓着されない」とは聞いていたが、記憶にある先代の麒麟とも随分違うので戸惑ってしまう。麒麟の慈悲とはあまねく上から垂れるもので、気安く対等に触れるものでは無かったから。
    「おそらく、これが何かと思って戸惑っていることでしょう」
    「─ご明察の通りです」
    これ、と示されたのは先程渡された紙片の事だ。直々にご下命があると聞いて馳せ参じた後、突如渡されたのがこの墨書された紙片である。何かの符丁だろうか?
    「ご用命があると聞いておりますが、どなたかへの書簡でしょうか。これを届けよと。」
    ひねり出すように推測してみたが、いまいち自分でもしっくりきていない。
    案の定、返答と共に首が横に振られる。
    「いいえ、申し訳ありませんがもう少し剣呑な用事です。本来ならば冬官府で管轄すべき事象なのですが、何分危険を伴うので……」
    冬官府、と聞いて合点がいった。ではこの紙に書かれた模様は何らかの呪(まじな)いなのだ。
    「本来なら州師の仕事ではありませんが、あなた方が適任だろうと助言があったのです。軍を動かす訳にはいかないので単独で臨(のぞ)む事になってしまうのですが、頼まれて貰えますか」
    ただでさえ温情で生かされている身、捨てろというのならば一命を擲つのになんの躊躇もない。
    「どうぞ、頼むなどと言わずになんなとお申し付けください。死に損なった身です、私で能うのであれば微力を尽くさせて頂きます」
    無礼を承知で台輔の目に真っ直ぐ視線を向けると、少し悲しげな視線が返された。


    士真は夜の鴻基の街を歩いている。
    人の通りは殆ど無い。
    戴国では首都州の街にまで火の手の上がる戦乱を経たとは言え、それからもう数年が経つ。
    じきに十年近くなるだろうか、当然復興が進み人も戻ってきている。祭りの最中 賑わう街に降りて飾り提灯の下で同輩と酒を酌み交わしたのはつい半年前のことである。
    だというのに、今 大通りを歩いてさえ人とすれ違うことは稀だ。小路は言うに及ばない。
    それは今日に限ったことではない。台輔よりの下令を拝命して以来、この夜回りは七回目だ。
    そのいずれにおいても、街はひっそりと息を殺していた。
    事前に決めた巡回経路に従い、静かな大通りから 更に薄暗い小路へと歩を進める。
    人が門を閉ざし身を潜める様にして夜を過ごす理由。それこそが士真が賜った命の枢要である。
    近頃急に治安が悪化したという話は聞いていたが、そこに とある噂が付随しているということを、士真はこの命を受けた際に初めて知った。
    ─弘始の亡霊。偽王の兵。
    ─血に飢えた禁軍の亡者が民を殺して回る。
    聞き込み中に聞いた声を思い出しては胸を鋭い刃物で刺されるような痛みが走る。
    元より聞き知っていたのは、解決に至らぬ殺人の件数が急に増えた、という話だ。
    少しばかり深く調べて知ったのはその手口の凄惨さだった。
    斬られた傷、全身に及ぶ打撲痕、折られた手指に、眼球はえぐり出され……文字だけの調べ書きを読んだだけで吐き気を催した。被害者の身体に無事な箇所は一つも無い。人死になど慣れきっている筈の兵卒の自分でさえ胃の腑から舌の根までが酸いくなった。
    それが始まった頃、狙われるのは主に女子供と、見るからに非力な者ばかりであった。
    彼らが夜間の外出を避けるようになると、その牙は正丁にも向けられるようになった。
    護身用にと帯剣している者もあった。それが碌な抵抗もままならずに無惨な骸と化す。
    物陰から身を潜めて見ていたという目撃者の言では、斬られた者とは別に血まみれの人影があったというが、現場には相争ったような痕は見つからなかった。
    そうこうする間にいずれ人通りが少なくなって、顛末を目撃する者の証言も絶えてしまった。
    これらの惨殺は下手人が全く分からないまま今に至り 調べも暗礁に乗り上げている。
    こうして、たったの数ヶ月の間に 夜の鴻基は嘗ての妖魔と誅伐を怖れて門扉を閉ざしていた頃の戴の様相に逆戻りしてしまったのだ。
    暗い夜の街路で手元の灯りがじりりと揺れた。士真はふぅと重い胸の内を溜息に変える。
    一連の調書を読み取るとまず 手口から人間の仕業の様に思われるが、何の痕跡も無いという事実に果たして人間にこんな事が出来るだろうかと訝った。
    恐ろしい、凄惨で悼ましいことだと思う。弱い物に狙いをつけて、無分別に襲っていることを思えば怨恨ではない。物取りでもなく、襲った理由すら定かではない。ただそこに在ったというだけで巻き込まれ被害に遭った者達の恐怖と無念を思えば酷く胸が痛んだ。
    だが同時に、それを「嘗ての禁軍」の暴虐と紐付けて語られるのが言いようもなく苦しかった。
    申し開きなんてしようも無い。事実、あの頃 軍は民を徒に苦しめる恐怖だったのだ。
    廬が襲われる理由だって理不尽だった。ただそこに在っただけで巻き込まれた者が大半だ。
    だが、決して自分達は血に飢えた獣だった訳ではない。何の罪もない里に火を掛けるなど、望んでやったことではない。苦しかった。嫌だった。
    しかし、民を前にしてそんなことを口に出せるほど恥知らずにはなれなかった。
    士真に出来るのは唯、己の行動の責任を苦い悔悟と共に飲み下す事だけだ。
    ふいに、物思いに沈んでいた意識が じたりと湿った嫌悪感を拾う。重苦しく毛穴に纏わり付く様な、嫌な空気が流れている。
    はっと前を見据えると、暗い夜に茫洋と人影が見える。
    武器を提げ 皮甲を纒っている…ようだ。姿勢が悪いが見慣れた影形は士卒らしく見える。
    目をこらせば凝らすほど輪郭がぼやけるようで、はっきりとした容姿が伺えない。ただ、乾いて血が凝(こご)ったような赤黒い色をしていることだけが鮮明だった。

    ─犯行が人の手による物であれば、貴方が後れを取ることはないでしょう。

    武器を提げ、皮甲を着て、音も立てずに動くことは人間にはまず無理だ。
    生温い汗が背を伝う。手に持った灯りをそろりと地に置くと、空いた手を懐に当てる。
    腰に佩いた剣を鞘ごと剣帯から外した。
    赤く模糊とした影が武器を抜き構えたように見える。明瞭(はつきり)とは分からないが、おそらく朴刀。
    構えは軍で習う型と同じだが、些か雑で隙が多い。剣を交えたところで決して負けることはないだろう。

    ─いいですか、士真。ただ、もしもそれが人でないのであれば

    影が大上段に振りかぶる。剣は抜かない。

    ─決して打ち合ったりはしないで下さい。

    影が、ぶんと重たい動作で袈裟斬りに刀を振り下ろす。対する士真は鞘ごと剣を逆手に握ったまま、利き手で懐を探る。黒い切っ先から目を逸らさずに身を横に躱した。
    剣を抜けば、反射的に打ち合ってしまうだろう。士真を斬り損ねた影が、返す刀で胴を狙って切り上げる。打ち合ってはならない。助言を強いて念頭に置き跳び退(すさ)って避ければ、追うように突きが繰り出される。影絵の様に輪郭しかない相手に目測を見誤り袖口が裂けた。
    僅かな間の後、士真にとって正面からの刺突が捌きにくいということに気付いたのか、影の動きが変わった。決して動きの練度は高くはないというのに、的確に此方の苦手を突いてくる実に嫌らしい性格の剣だ。己の手が懐にしまい込んだ目的を探り当てると同時、危ういところを狙われて思わず手にある剣の柄で刀を捌こうと動いたが、まるで空(す)かす様に刃は柄を素通りした。咄嗟に身を引いたが、腕の皮膚が裂け生暖かい液体の伝う感触があった。血で滑った剣がかしゃんと音を立てて地に落ちた。
    ─打ち合うな、とは こういうことですか…
    今更に助言の意味を理解した。
    士真の持つ剣は冬器だ。人の手で妖魔を切れる唯一の武器。それが相手を素通りするのではまともに戦って勝てるものではない。おまけに今この影の刃は仙の膚(はだえ)を裂いたのだ。
    ─なるほどこれでは冬官の手には余る。
    こちらの流血に気付いたのか、影が構えを解き背を反らせ腕を開いた。声も音も聞こえないが、嘲り嗤ったのだと分かった。それも一瞬のことで再度朴刀をこちらに向ける。
    不意に、泣きたい様な胸の詰まりを覚えた。別段、状況に悲観した訳ではない。
    ─台輔、感謝いたします。
    見せつけるように殊更ゆったりと、影が大きく刀を振りかぶった。
    これはきっと、自分達の罪の形だ。七年の間に失われた民達の、恐怖と恨みの凝った者だ。
    それを切り捨てたところで自分の罪業が消えて無くなる訳ではない。それでも。
    握りしめた利き手を懐からするりと抜き出す。
    影が士真に向かって迫る。近づく切っ先を真っ直ぐ見つめた。今度は躱さない。
    ─自分の罪と向き合って、それを打ち破れるのなら。
    贖罪のために生きることも、許されるような気がした。

    ばり、と絡まり合った繊維を破る音が小路の薄暗がりに響いた。

    瞬間 影の動きが止まり、一拍。
    まるで一刀の下に斬られたように 影の肩口から腰に掛けてがずるりと滑り落ちる。

    ばしゃん

    断たれた影の上体が地に落ちる前に、血袋が弾けるように赤黒い輪郭が消えた。
    後には、はじめから変事など無かったとでも言うように、士真が地に置いた灯りが何もない街路を照らしていた。

    「ご苦労様でした。貴方のおかげで対策ができそうです」
    数日後、報告のため仁重殿を訪った士真を、台輔は微笑みと共に労った。
    「ひとまずは、貴方に渡した物と同じ呪符を冬官府で大量に用意させています。もうしばらくは夜間外出を制限する必要がありますが、呪符に効果があると分かったので、輪番を組んで目前で呪符を破ってやれば、徐々に散っていくでしょう」
    「あの、台輔……徐々に…?」
    はい、と少年の姿をした慈悲の神獣は応えた。
    「何か強い執着や想念の様なものを核に瘴気が集まって形を成した物じゃないか、という事だったんですけど散らす方法がいまいち判然としなくてですね。実地試験でちゃんと効くことが分かったので後は地道に散らしていくだけです。文州でも同じ現象が起きているそうなので、そちらにも急いで連絡と呪符の支給が必要ですね。そちらは霜元に託して文州と協同して貰おうと思っているんですが、鴻基の方は中軍に任せるつもりです。」
    宜しくお願いしますね、と微笑みと共に肩を叩かれ、何故かは分からないが背を汗が伝った。

    慈悲…とは一体どんなものだっただろうか?






    仁重殿に置かれたる繰り人形の命を得ること

    明幟の初め頃のこと。仁重殿に繰り人形のあると聞こゆ。
    台輔の傍近くに置かれたる人形の内、命を得たるものあり。
    自ずから動く已(のみ)に在らず、文語筆談すら能くす。
    其は日に渡り台輔と政について語り合ひ三日目にして黙す。
    語りて後 鳥に変じて北へ発つと伝ふ。

    一説に、台輔その妙徳を以て傀儡に仙の位を与ふとも言うが、詳細失伝し、その名は知れず。



    ─瑞州



    言い知れぬ苛立ちは、不安と無力感の裏返しなのかもしれない。
    院子から見上げた先にはよく晴れた秋空。項梁は胸のざわつきを重苦しい呼吸と共に吐き出した。少し離れた場所ではこの仁重殿の主たる台輔が一人 穏やかな声を響かせている。
    周りにいる人影達の一人一人に声をかけ、返事も無いままに語らいを続けているのだ。
    この六年で見慣れた光景。
    虚ろな顔で日光を浴びる無言の聴衆の顔を見回して、項梁はいま一度肺の空気を絞り出す。
    白圭宮では、偽朝の落とし子とも言える傀儡達を抱えたまま六年が過ぎた。
    嘗ては傀儡となった者達の療養所が台輔の宮の側近くにあったが、今は建物は封鎖され その機能と共に彼らの身柄は仁重殿の敷地内に移されている。
    理由はその人数だ。当初からの療養所は今や人数に対して広過ぎた。
    ─いや、元よりそれほど多くは生き残っていなかったか……。
    見慣れた光景の筈なのに今更そんな述懐が浮かんできたのは、項梁の抱えるこの重苦しい焦燥のせいだろうか。最近、頓に六年前の戦のことを思い出す。
    明らかに魂魄が抜けて、呪符で縛られ漸く動いていたとしても、兵としての働きが出来る者は戦場に出されてその殆どが死んだ。自分達が殺した。傀儡は決して投降などしてはくれない。
    そして兵でなくても、尊厳の無い死を迎えた傀儡達を大勢見た。
    彼らは戦場という機構を動かす駒のように使い捨てられ、またある者達は打ち捨てられた人形のように、逃げることもせずにただ戦火に焼かれた。
    目を閉じると、今でも同輩達の慟哭が耳に甦るような気がしてくる。

    ***

    項梁達が踏み込んだ外朝には人の気配もなく、不気味に静まりかえっていた。
    多くの人で賑わっていた嘗ての姿との差異を強く感じて、奇妙な場所へ迷い込んでしまったような違和感がより増す。戦場を行軍しているというより、戦場跡の廃墟に迷い込んで彷徨っている様な気分だった。
    少し前に雉門を抜け、今は苦い記憶の残る奉天殿にさしかかろうというところだ。
    周辺はほかより一段高い場所になっているだけで元は開けて見通しの良い場所だったが、今はあたりに瓦礫が積まれて俄に視界と足場が悪くなっている。
    奉天殿は門と塀に囲まれているが元々式典用の殿堂であって戦の備えではない。砦の壁と比べればその塀は低く兵卒ならば越えるのに難儀するようなものでもないが、まとまった広さのある閉鎖空間には違いない。先で敵軍が待ち構えている可能性があるということで今は斥候が戻るのを待っている。
    これまでにも何度かこのような待機時間があり、そのたびに肩透かしを食らってきたものだ。
    (通常の戦場ならば、敵が待ち構えていてこれほど静かである筈がない)
    そう思いながら留め置かれる間、妙に間延びした緊迫感に晒されて嫌な汗が掌に滲む。
    「項梁様、会敵しないのはいいのですが こうも何も無いと、なんだか気味が悪くないですか。燕朝に着くまでこの調子なのでしょうか」
    気を紛らわすためか、傍らに控えていた副官が声を出す。漕溝からの付き合いの、元は江州師に属していた若者だが 余り戦慣れしていないらしい。
    項梁とて似たようなことを思ってはいたが、感情が顔に出すぎているなと苦笑を返した。
    「……敵の戦力にも余裕はない、ということだろう」
    項梁の言に なるほど、と僅かな安堵の除く顔で頷く。
    「燕朝の本陣まで此方の兵力を温存させるほど、となれば余程のことでしょうね。しかしこれならば空行師を上げても良かったのでは?」
    「隧道を通った時に言ったろう、雉門の呪(まじな)いは切られていた。おそらく五門全ての呪いが切られている。であれば今空行師を上げても援護ができない。敵方にも余裕は無かろうが、我が方の騎獣の数とて十全とは言えない。そんな中で歩兵の支援無しで騎獣を上げるのは単騎突入と変わらん」
    雲海の上には間違いなく選(せい)卒(えい)と対空防備が待っている。空行師は強力だが無策に敵陣に送り込んだところで徒に損耗させるだけだ。
    「せめて数があれば……。援軍の騎獣をお借りできれば、と惜しくてなりませんよ」
    上を向いてぼやく副官に思わず笑ってしまう。
    「気持ちは汲むがそれは贅沢というものだ。あくまでこれは戴国の問題、そこに他国が兵を貸してくれたというだけで破格の振る舞いだぞ、無傷でお返しするのが筋だろう」
    一時の絶望的な状況を思えば、後方と糧秣の憂いが無い戦いを保証されているというだけでも十分だ。主上が援軍を決して前線部隊に組み込もうとしないのはそう考えているからだろう。
    「じれったく思えるかもしれんが、地道で確実な方法をとるべきだと私も思う」
    「はあ、まあそれはわかるのですが……」
    歯切れの悪い副官の肩を、確りしろと笑って叩く。
    しかし、励ますような物言いの裏で項梁も漠然と不安を感じていた。
    ─いくらなんでも、何もなさ過ぎる。
    驍宗を奪還し、漕溝に集結し今日に至るまでおよそ四ヶ月。陣容を整えついに白圭宮まで攻め入るに至ったが、その間 敵も黙ってみていた訳では無い。病んだ他州からの出兵、荒民や投降者に紛れた間諜による工作、随分と都合の良い場所と時機に生じる妖魔、執拗に出血を強いられた猛攻はこの期に及んでまだこれほどの手管があるかと臍を噛む程であった。
    それを見て日和ったか、はたまた元より恭順の意思が無いのか、王と宰輔からの要請にさえ兵を出し渋った州もある。王の「他国の兵力は後方へ配置する」という方針もあって、正統な官軍で有るにもかかわらず偽朝の兵を圧倒できるほどの兵力は無い。
    逆に言えば、そんな状況であったから此処に至るまで四ヶ月も掛かってしまった訳だが。
    ともあれ、その数ヶ月を思うと尚のこと この静けさは不気味だった。
    敵軍とて損耗はあろうが、事前に集めた情報を鑑みれば此方の兵員を削るだけの兵力はあるはずなのだ。これまでにも 自分ならばここで罠を張る、ここに伏兵を置く、という場所で今のように斥候に様子を見させてきたが、その悉くで肩透かしを食らっている。味方の空気が弛緩し始めているのも問題だが、不要な緊張を強いられ続けるのは兵の負担になる。
    気を引き締めろ、と檄を飛ばしながらここまで来たが味方の疲弊を考えれば限界が近い。
    もしや項梁の考え違いであったか。敵兵力の見込み評価を下方修正するべきだろうか。あるいは勝つつもりなど最早無く、策もなにも全てを抛(ほう)擲(てき)しているのだろうか……。
    そう考えた所で、泰麒と共に白圭宮に還った当初の朝廷の不気味な空気を思い出した。
    投げ遣りとも違う、薄気味の悪さ。伸ばした腕の先も分からない様な視界不良の敵陣で四方に警戒しながら徒(いたずら)に踊らされている感覚。
    毛穴に纏わり付く様な不安感を振り払うべく、項梁は瞑目した。

    漸く伝令が来たのは、十分すぎるほどの休息を堪能した後だった。
    「─師帥殿、先遣が戻りました。一伍を送り奉天殿、その先の華蓋殿を抜け謹身殿まで行って戻らせましたがいずれにも敵兵の姿は無く人のいる様子は見られなかったとのことです。」
    「待て、その範囲に伍を一つか?見通しが悪ければ障害物の裏に伏兵を潜ませている可能性がある。配置を探るにはそれでは足るまい」
    思わず、警戒が緩んでいるのでは無いかとの懸念が首を擡げる。
    それが……と、伝令も困惑混じりに返答の声を出した。
    「瓦礫や建材が散在しているようですが、それらの他には特に障害物も設置されていないようで門から先は見通しがかなり良いらしいのです。報告者の言を借りれば、何の備えも無いのが却って異様だ、と。強いて言えば門を潜った先の石畳が水浸しで斥候が一名足を滑らせたのが一番目立った出来事ですね。」
    静かなものですよ、と伝令は首をすくめる。
    「伏兵なりがいるのであれば、いくら身を潜めてようと斥候の存在で多少動きが出ます。開けた場所で相手がこちらを見るのであればこちらからも相手が見えましょう」
    戦場に於いては例え相手が隠れていても殺気や視線は敏感に感じる。斥候を任されるような兵士がそれらに気付かぬとは思えない。
    「絶好の配置に卒の一つも無し、か……」
    愈(いよ)々(いよ)以て不可解である。
    「先陣はこれより奉天殿へ進みます。それでは」
    伝令の兵は報告を終えると一礼して次の指揮官への連絡に向かう。
    「まったく、もしやこの緊張と脱力が一種の精神的な攻撃なんじゃないかと疑いたくなるほど何も起きないですね」
    「そう思っているならもう少し背筋を伸ばしておけ、先陣がここを抜ければ次は我々の番だ。相手が常勝と言われた用兵家であると忘れるな」
    ぼやきが板に付いてきた副官にぴしゃりと言う。半分は自分への戒めである。
    弛緩した空気を拭えないままに、前の一団が午門を通り奉天殿へと抜けた時だった。
    不意に高い音が耳をかすめた。瞬間、轟音と共に突如門が落ちた─ように、項梁には見えた。
    ─何だ?何が起きた!
    崩落した壁の上に楼(たかどの)の屋根であったものが積み上がり、あたりはもうもうと白く煙っている。
    遠くから、先程耳にしたのと同じ高い音が響く。音の方向へと面を巡らせると、白くぼやけた空に小さく黒い点が数個。黒点は見る間に近づき、丸い砲石が姿を現したかと思えば弾着の勢いのまま破裂した。
    身体ごと意識を揺さぶるような震動に、千の石塊を鍋で煎るような音がする。何ごとかと判ずる暇もなく破裂音が続き、あたりに白く立ちこめた靄からは水と、石の焼ける匂い。
    ─襄陽砲(とうせきき)と……そうか、砲石の中身は沸かした鉄か!
    泥と漆喰で固めた弾丸が砕けると、中に封じられていた鉄の湯が流れ出し石畳の上に撒かれていた水を急熱する。高温の鉄汁に触れた水は激甚な勢いで膨張し強い衝撃を発生させる。
    そうやって生じた爆発的な力が門楼を崩したのだ。
    何が起きたのか分かれば大した事でも無い。
    門が落ちて先発隊と分断されたのは厄介だが、砲は大がかりな装置で小回りが利かない。早急に射程範囲から退避すれば大した損耗は出ない。
    「落ち着け!こんなものは子供だましだ!門から離れ隊列を組み直せ!」
    項梁が態勢を整えようと声を張り上げていると、瓦礫に阻まれ視界不良の中、土煙と白い蒸気の向こう側に動きがあった。
    「おい!伏兵はいないんじゃなかったのか!?」
    そんな声がどこからか上がっている。
    砲と爆発によって奉天門より内側に閉じ込められた兵士達が見たのは
    行く手に見える宮殿、そして今し方崩れ落ちた門の建屋の階上から、虚ろな目で何かを抱えた者達がぞろりと歩み出る。兵によってはその中に見知った顔を見つける者もあった。
    白圭宮にいた、傀儡になった者達だ。
    「くそ、静かなわけだ。伏兵どころか兵とも呼べない木偶どもではないか」
    「……細かい命令がこなせる訳でもなし、傀儡など戦場で大した役には立たん!蹴散らせ!」
    この時まで 皆一様に、碌な作戦行動もとれない傀儡をまさか戦場に出してくるとは思っていなかった。のろのろとした動きを見るに賓満憑きでも無い。
    ─一体何を持っている?こんな梢(ほうばしら)も無い場所で砲石(たま)の用意…という訳も無かろうが。
    分断された奉天殿(あちら)と門の外(こちら)、壁の壊れた箇所もあり外側にいる後続の部隊の一部からは僅かながら様子が知れた。しかしすぐにその僅かな視界も土埃と煙で塞がれる事になる。
    方々で困惑が広がる中、再び甲高い投射音と、弦の音が響く。相変わらず割れた弾からは赤熱した鉄が流れ出し、今度はご丁寧に火箭まで放たれているようだ。
    先陣にあった者達は、傀儡達が抱えた物が油壺であったと 虚ろな顔が炎にまかれ燃え上がるのを見て漸く気付いた。
    「─人が……人が燃えている!」
    内側から聞こえる声で外側にいる者は何が起きているのかを知る。
    奉天門の内側では 上がった叫びを皮切りに、顔色を失い立ち尽くす者、生き物の焼ける匂いに嘔吐する者、反応は様々であったが皆一様に戦慄を憶え、先頭の部隊は大混乱に陥った。
    その取り乱し様は平時の王師であればあり得ないものであったが、そもそも先陣には偽朝を離叛した者が多く組み込まれている。つまり彼らの大半は各地から徴発された素人に毛の生えたような兵なのだ。
    間諜の可能性を考えれば離叛者は作戦の枢要に組み込む訳にはいかず、かといって監視付きで後方に留め置く様な余裕もない。自然、末端の損耗率の高い部隊ほどこういった者達を組み込まざるを得ない。勿論長年の兵卒もいるが、割合にすれば少数派となる。
    多数がそんな様では、古参兵にも恐慌が伝播する。
    更に言えば、古参は、対峙する傀儡達に知り合いが紛れている率が非常に高い。運悪く知己を見つけてしまった者にしてみたら、目の前にいる知人達は数ヶ月前、数年前には親しく言葉すら交わしていたものが、今は声も上げずに炎の中で我が身が燃えるに任せている。
    阿鼻叫喚の王師と対照的に無言のまま炎を上げる傀儡達だったが、立ち尽くしていたのはほんの暫しの間だけだった。時間の経過に合わせて 指先から腕、腹と伝播するように強ばり、徐々に背を丸めていく。高熱に炙られた筋が変性し収縮を起こしているのだ。意思を持たない奇妙な動きは苦悶のようにも見える。
    知り合いのそんな様相を見て、半狂乱になって火を消そうと近寄る者に、傀儡は手を伸ばした。
    炎に巻かれた腕(かいな)で、駆け寄ってきた兵を抱擁する。旧情の故ではない。手近な可燃物にしがみ付けと命令されているのだろう。
    あっという間に黒く焦げ落ちた手や顔とは裏腹に、衣服や皮甲に覆われた箇所は熱の伝播が遅いらしく生焼けで、掴む力は意外なほどに強かった。
    別の場所では柱や周囲に積まれたがれきの建材に次々と火が燃え移っている。
    松脂でも塗り込んであったのか奉天殿は勢いよく燃え上がっていた。いかに仙が徒人より頑強であろうと、炎に巻かれれば命を落とす。後続は炎上する門殿に阻まれ先陣の救援もままならない。いまや内と外、彼我は完全に分断されていた。
    後続陣の側にいた項梁達には、「向こう側」が火炎と黒煙で埋め尽くされた後は何事かが起きているのを、ただ悲鳴と怒号から伺い知ることしか出来ない。
    中には立て直しのための指示を飛ばす指揮官達もいたようだが、混乱の坩堝の中でもはや戦闘単位としての機能は期待できなかった。

    ***

    その時鼻腔を突いた髪や革の焼ける臭いは今でもまざまざと思い出せる。
    そこから先は、それまでの静寂は幻だったのかと思うような地獄だった。
    その日に至るまで離叛も逃亡もせず阿選に与しているような兵は、いずれも死兵だ。皆一様に手強く、兵にせよ将にせよやりづらかった。
    だが、心情的にはそちらの相手をしている間の方がまだましだったと、項梁は思う。
    内朝では至る所に凶暴な妖魔が跋扈していた。
    妖魔の出る場所の付近では兵でも官吏でも、生きた人間と出会うことは無い。
    そもそも残存者の数が少ないのもあるだろうが、妖魔除けがあるのか、それとも妖魔のいる場所は予め決められていて通達でもあったのだろうか。
    しかし妖魔を避けるという意思すら持てない者達のことはただ捨て置かれていたらしい。
    妖魔のいる場所は大概 食い荒らされた血と肉とでそこら中死臭に満ちていた。
    大型の獣の囓り取ったような、馬とも犬とも分からぬ食い散らされた肉塊の傍に転々と放り投げられていた品々はその残骸が白圭宮にいたはずの輩(ともがら)であると嫌でも突きつけてくる。
    瞼の裏に焼き付いてしまった凄惨な光景を追い出すように、項梁はきつく眼を瞑る。
    せめて命のあった者だけでも助けたい。台輔が切にそう願うのもよく理解出来た。
    しかしその願いは、今のところ一つも実を結んでいない。
    項梁は いま一度、仁重殿の中庭に佇む見知った顔ぶれを数える。
    必死に傀儡の人数を数えてきたこの六年は、一人欠け、二人欠け、これ以上取りこぼすまいと悲痛な思いを抱えた続けた六年でもあった。
    命じられたことをこなせる内はまだよかった。呪符に縛られているとはいえ、自発行動があれば「いつか自分の意思を取り戻すのでは無いか」と僅かな期待が持てていた。
    しかしいずれ、与えられる命令にすら反応を見せなくなるとその期待が所詮は楽観だったのだと打ちのめされた。だが、まだ生きている。筆を持たせれば、書かずとも手になじんだ五指の形で構える。口に粥を入れれば飲み込むし、目玉が乾けば瞬きもする。生きていさえすればいずれ解決方法が見つかるかも知れない。
    しかし年数が経つほどに、最低限生きるのに必要な反応すら小さく薄くなっていく。そうなれば衰弱が始まる。自ら食うことも、水を嚥下することもできなくなるからだ。仙籍に無い以上、そうなった傀儡の命脈は永くはない。
    かしゃん
    突如響いた何かの割れる音に、台輔の声が止まる。場に一瞬の静寂が満ちた。
    傀儡の一人の手に持たせていた器が何かの拍子に地に落ち、割れたらしい。
    月のような、仄青い白玉の盃が石畳の上で砕けている。
    器を落とした人物を認め、項梁は視線を背けた。
    この玉盃はたしか、彼の友人が持たせた物だった。
    手に持った物を落とす、それは一つの兆候である。手に持った器を保持できない程に筋力が弱っているのだ。そうなると、直に反射が消え始める。
    ついに、彼に順番が回ってこようとしている。
    「……恵棟……」
    拳を握りしめ、絞り出すようにその名を呼んだ。


    その数日後のこと、広徳殿に訪問者の姿があった。
    「台輔、お呼びでしょうか?」
    跪拝して礼をとっているのは瑞州師中将軍の友尚だ。訪問者、とは言ったが 実態としては呼ばれて参上しただけなので、むしろ本人の表情には若干の戸惑いがある。
    「忙しい所を済みません。急なことで困惑しているでしょうけれど、どうしても出立前に話をしておきたくて……」
    楽にするよう伝える台輔は、青白い顔をしていた。そば近くには大僕の耶利と項梁が控え、まださほど寒くもないが傍らに褞袍を用意している。体調を崩しているのかもしれない。
    「いいえ、ご用があればいつでもお呼び立ていただいて構いません。ただ連絡の者から聞いた様子では余りにお急ぎのようでしたので少々驚いているだけです」
    そうは言うが、友尚は馬州で起きた一部州師将兵による県城占拠の鎮圧のため、近く派兵が決まっている。今の時期は出立前の準備のために忙しく立ち働いているはずだった。実際ほとんど無い隙間時間を縫ってここに立っているのだろう。
    「時間が、なかったので……。そこも追々説明します」
    仄白い顔をまっすぐ前に向けて ではまず、と話を始めた。
    「次蟾や傀儡についてずっと調べてきましたが、このたび進展がありました」
    ここに来て?と疑問が友尚の頭を掠める。六年前の乱の平定直後からずっと台輔が国の内外の伝手をたどり魂魄の抜けた者達を元に戻す方法を求めていたことは周知の事実である。他国の宰輔にまで書簡を送っていたが、ここ数年めぼしい話は無かったように記憶している。
    その疑問に答えるように台輔が口を開いた。
    「これまでと全く別の情報提供者から話がありまして」
    「今頃見つかるなど、山奥の洞府にでも隠遁していたんですかその情報提供者というのは」
    思わず呆れ声を出してしまう。台輔が方々の有力者、知者、道観寺院、好事家に至るまで「病んだ」者達のことや、魂の抜けたような自失状態から快復した者の情報を募っていたことを知らぬ者は戴国内におるまい。
    「そのようなものです。ただ、その者の名は教えてはいけないという約束なので……」
    苦笑いとともに、台輔は口の前で指を一本立てて見せた。
    「でも…待った甲斐のある話が聞けました。非常に確度の高い情報です」
    「……なるほど。分かりました、敢えてそれが誰かと問うことは致しません」
    名を出してはならないという条件で、友尚はとある人物に思い当たっていた。
    主上を連れて奉天殿から雪崩を打って逃走したあの日、計都を連れ出した娘。阿選亡き今、謀反に際して使われた妖魔の類に最も詳しいのは間違いなく彼女だ。むしろ謀反に妖魔を使うことを唆した人物である。個人的に思うところもある。素性を隠すのはそういうことだろう。
    台輔は敵ではないと判じていたようだが、流石に主上の陣営に戻る程の面の皮は持ち合わせていなかったらしく友尚は明幟の世に琅燦の名を聞いた覚えは無い。
    台輔とは連絡を取っていたのか と、ただ純粋に驚いた。


    そもそも泰麒が傀儡を療養所に集めたのは「病んだ者が集まれば、そこに瘴気が湧く」「麒麟の気によって瘴気の影響は散る」と耶利から聞いていたからだ。
    黄朱は妖魔の習性を知る。次蟾についての話は早々に黄朱の者に聞きに行った。そこで知ったのは「病がある程度進行した後は、次蟾の影響下から脱しても快復することはない」という経験に基づく事実だった。黄朱は「何をすれば、どうなるか」はよく知るが「どうしてそうなるか」に興味を示さない。いや、興味はあっても態々調べる様な余裕がないのだ。
    他国の麒麟、ひいてはその使令にも話を聞いてみたが、親交のある国に次蟾を使令とする麒麟はおらず、使令達にも魂魄を抜かれた傀儡を癒やす方法を知る者はいなかった。
    自ら次蟾を下してみたりもしたが、使令になったとしても妖魔は自らの種についてあまり語らない。それでなくとも次蟾自体が力の強い妖魔ではないからか会話らしい会話が成り立っておらず、能力や生態について聞き出すことは未だにできていない。
    次に当たったのは道観だった。魂魄 と聞いた時、蓬萊にいた頃に読んだ本を連想したからだ。九字護法に妙に興味を引かれて手に取った道教の本だった。果たして次蟾が抜く魂魄と、言語概念としての魂魄を同じものとして扱って良いものかは分からないが、何かしらのつながりはあるかもしれない。そう思って。しかし道観にある 陰陽と魂魄に関しての思想体系をまとめた文献は思考の整理程度には役に立ったが、病を解決する糸口はそこには見つからなかった。
    結局妖魔のことは、実地に基づいた経験だけがすべてなのだ。
    「それで、どの程度調べた?」
    生徒の知識を試す教師の様な物言いだな、と泰麒は思った。
    「─鶚鵩(がくふく)、あなた検討がついているのでしょう。私が未だ核心に至っていない、と」
    「当然」
    さもなくば取引など持ちかけないだろう。
    「そうと分かっていて聞くのはひょっとして嫌がらせだったりするのでしょうか?」
    「まさか。一体どこから説明してやったものか、確認は必要だろう」
    ひょいと首を竦めてそんな風に言ってくる。随分と気安い態度を取るようになったものだ。
    軽く嘆息を零して泰麒は目の前の鶚鵩─これは世を憚るこの人物の呼び名として泰麒がつけた偽名だ─に言葉を返す。
    「まずは認識の擦り合せをする必要があるでしょう。最初からお願いします」

    三魂七魄、という語がある。
    道観の者から聞いた話によれば、人間を生かしている原動力 精気は陽と天に属する魂と、陰と地に属する魄に分けられる。精神活動を行う魂が三つあり、肉体を生かすための魄が七種ある。それを併せて三魂七魄と呼ぶ、ということだ。
    偶然か、道観にかつて妖魔を使って実験した者でもいたのか、部分的に一致する部分もあるので便宜的にこの「魂と魄」を傀儡の魂魄と同じ物と仮定しよう。説明に便利だからそのように扱うというだけで、実際のところ同一物かどうかはあずかり知らぬ話である。
    早いうちに呪を施し、護符で守られた建屋にいた傀儡が完全に動かなくなるのに三年かかった。
    鶚鵩はそう言った。おそらく事実だろう。泰麒が偽朝に在った頃、傀儡ばかりを六寝に召し上げて天官の数は増える一方なのでは、という疑問があったが
    「取り次ぎにしろ門衛にしろ、務めの長い者はいつの間にやら顔を見なくなっていった」
    と小臣をしていた者達から聞いたことがある。六年の間に何度か顔ぶれが変わっている、と。
    この段階に至った者は最早呪で縛って命令を与えたとしても反応はない。これは自発的活動を行うための魂が残っていないから、と見なすと現象を説明しやすい。その考えに基づいて言い換えれば、魂が肉体から完全に抜けるのに、三年。
    だが、この段階になっても、仙籍にない者もしばらくは生きていた。これは肉体の働きを司る魄がまだ残っているからだと考えればつじつまが合う。
    しかし、それも無限ではないはずだ。
    問うような眼差しを向けられ、泰麒は答える。
    「……傀儡のうち、仙籍から抜いた途端命を失った者がいます」
    そうだろうな、とでも言うように鶚鵩が頷く。
    例えば先の文州侯がそうだった。
    彼は謀叛の起きたその時には既に傀儡となっていた。泰麒や驍宗が文州城に入る頃には、魂魄を抜かれて七年が経ち、見(まみ)えた時は既に完全な廃人であった。
    そして、残った傀儡達も今は皆仙籍を外れ次々とその数を減らしていっている。
    三つの魂が完全に抜けるのに三年、魂魄が抜けぬよう呪を施してさえそれが限界だった。
    そしてどうやら魄も同様に抜けていくようだと、そしてその限界は文州侯やほかの傀儡達の例を見るに七年程度なのであろうと察せられた。嚥下反射すら消えた傀儡達に命があったのは、仙であるからどうにか永らえていただけなのだろう、鶚鵩の出した答えはそれだった。
    そして刻一刻と減っていく傀儡達については、魄に代わって生命維持を担っていた仙としての超常の力がなくなれば、当然魄の無い肉体は生きられないだろう、と。
    「仕組みを説明されたところで、それをとどめることができないのであればあなたの話に価値はありません。話はこれで終わりですか?」
    ことさら冷たく切り捨てるように泰麒は言う。くく、と押し殺したような笑い声が帰ってきた。
    「この先を聞くかどうかは、自分で決めるといい。残された時間は多くない」
    つまり、話はまだある。あるが、これ以上の情報を聞き出したいならば自分の要求を飲めということだろう。無料の情報はここまで、続きは有料で、か。
    「……わかりました。取引をしましょう」
    ため息に乗せて声を出す。
    いいだろう、取引成立だ。楽しげな返答を聞いて思わず眉根寄せた。
    「そうだな、堤(つつみ)…のような物だろうか。流れ出る水を一定量留めておく堰(えん)堤(てい)。魂魄を水を湛えた湖沼とすれば、その堤を壊すのが次蟾の妖としての特性なんだ」
    水漏れ程度であれば修復が効くが、完全に決壊した堤を直す術は無く、そうなれば呪符で縛って流れ出る魂魄を少しでも少なく留めるのが精々、と。そして───
    「…待ってください」
    すべての話を聞き終えて後、蒼白な顔で泰麒は言った。
    「今の話を総合すると、傀儡を、七年を超えて生かす方法は『無い』ということじゃないですか……」
    そう、泰麒が求めていたのは魂魄が抜けて傀儡と化してしまった彼らを快復させる方法、元の人生の続きを始められるよう『病んでしまう前』に戻すための奇跡だ。
    しかし、藁をも掴む思いで得た情報は残酷な事実だった。
    「だから言ったろう、残された時間は多くない、と」
    先ほどの己など比較にならないほど 暗く、冷たく、無情な声だった。
    与えられた情報を生かすか、このまま死なせるか、自分次第だ。そう突きつけられた様な気がして、身が竦んだ。

    話の途中、喉の渇きを覚えキリのいいところで泰麒は傍らの項梁に水を求めた。その顔色は友尚が堂室に入った時よりも悪くなっている。
    「……堤、ですか。堤が破れれば中に溜めた水は流れ出す。人の中に湛えられた魂魄が次蟾の開けた穴から漏れていく、と?」
    そこまでの説明を聞き、友尚は口元に手を当て何事かを考えている。
    「はい。そう、例えていました」
    「その、漏水した堤防を補修した経験はあるのですが、私は寡聞にして決壊した堤の流れる水を押し戻して修復したという例は……」
    言いさして、飲み込むような間。
    「話の腰を折って申し訳ありません、ただの例えとは分かっているのですがどうにも己の職分に引き寄せて考えてしまって」
    口の端をゆがめて友尚が言った。笑おうとして失敗した顔だ。
    「同じことを言われました」
    暗く沈んだ顔で台輔が言う。顔が一層白くなったように見える。
    「現状で穴を塞ぐ方法は無く、ひとたび流れ出た水を元に戻すすべはない、と」
    堂室の空気がさっと冷えた気がした。指先が冷たい。きっと自分も台輔と似たような顔色になっているのだろう。
    七年。
    これまで曖昧だった傀儡の寿命が、確固たる数字として示されてしまった。
    恵棟の魂魄が抜かれたのは弘始九年、すなわち明幟元年の春である。
    あの乱からすでに六年が過ぎた。
    覚悟はしていたはずだった。しかし覚悟していたからと言って、突きつけられて平静でいられるかはまた別だ。
    友の命の刻限は、せいぜいがあと半年。
    ─現状で穴を塞ぐ方法は無く、ひとたび流れ出た水を元に戻すすべはない
    六年探し続けた奇跡がわずか半年で見つかるとも思えなかった。
    大僕から渡された水を一息に飲み干し、泰麒が声を上げる。
    「ここからが、あなたを今日此所に呼んだ本題です」
    「本題……?」
    「まだ、全てを話したわけではありません」
    全て、とはなんだろうか。少なくとも台輔の顔色を見れば良い話ではなさそうだと検討がつく。
    「恵棟の身許引受人はあなたですね」
    「ええ。恵棟の下界の縁は既に切れていましたので」
    口を開き言葉を音にする直前、泰麒の表情に一瞬痛みをこらえるようなものが浮かんだ。
    「恵棟ともう一度会話できる、と言われたら……あなたはどうしますか」
    友尚の口元がわずかにこわばる。白い顔をした台輔の横で項梁が目を見開いていた。どうやら彼もこれは初耳だったらしい。
    「……元気なあいつに会えるならば是が非でも…と言いたいところですが、ここに私を呼び出したということは、何かあるのでしょう」
    慎重に答えると泰麒は困ったような笑みをこぼした。
    「あります。……それがあなたを呼んだ理由です」
    こぼれた水は戻らない。抜けてしまった魂魄は戻せない。
    「もしもその理由というのが『恵棟のためにお前の魂魄を差し出せ』というなら喜んでお応えいたしますよ」
    軽く戯(おど)けるように言った。重たい空気に思わず出てしまった冗談だが、もし自分の命程度で恵棟の命が購(あがな)えるなら、それでも構わない。
    そこは本気だったのだが、友尚の発言に台輔は愁眉を寄せるばかりであった。
    「そういうのではありません。あなたには恵棟に代わって選択をしていただきたいのです」
    友尚は続く言葉を待つ。選択、というからには選択肢が提示されるはずだ。
    「大雑把に言うと、このまま待つか、恵棟の魂を呼び戻すか、ということですが……」
    呼吸を整えるように息を吐く台輔の後ろで大僕の項梁が固い顔をしている。きっと友尚も似たり寄ったりな顔をしているのだろう。耶利はいつも通りなんてことのない表情で佇んでいる。
    「先ほど病の進行した傀儡の寿命はおよそ七年という話をしましたがこれはあくまで仮説です。外れる可能性はゼロではない。来年以降も恵棟は生き続けるかもしれない。ですが、呼び戻せばほぼ間違いなく、春を迎える前に恵棟は亡くなります」
    固くこわばった己の口元から きり と奥歯のこすれる音がした。
    きっとそんなことだろうと予測はついていた。何の代償もないなら台輔がこれほど思い詰めた顔をする理由がない。
    酷な話ですが、と但し書きをつけて続けた。
    「恵棟本人に決めることが叶わない以上、彼をよく知るあなたに決めてほしい」
    口を開こうとして、妙に口腔が渇いていたことに気づく。喉が粘るように重たい。
    あいつならきっとこう言うだろう、そう思ってはいても友の運命を自分が決めるという重みは耐えがたかった。
    「……呼び戻してください」
    自分が会いたいからではない。
    「恵棟は文州への途上で魂魄を抜かれました。きっと、もっと台輔のお役に立ちたかったでしょうし、仕事を中途半端に放り出して それをよしとするような官ではありません」
    恵棟が明日にも目を覚ましたら。何度も夢想したことだ。
    友尚が想像する恵棟は、いつだって真っ先に「一体今何がどうなっているのか、文州はどうなった、主上は、台輔はどうされている」と聞くのだ。
    「あいつは優れた官吏です。たかだか七年程度 空白期間があったって、きっと台輔のお役に立ちますよ」
    笑って答えたつもりだったが、上手く笑えていたかは分からない。
    本当に、そう言うだろうか。
    今の朝で山積する問題を前にして 先に逝かねばならないと知れば却って未練が募るのではないだろうか。「恵棟ならきっと」など、自分の傲慢を体よく包んだ欺瞞ではないのか。
    こみ上げる胸中の言葉を無理矢理飲み下す。
    「わかりました……すみません、こんな役割をあなたに押しつけて」
    「そこは 押しつけたのではなく、任せていただいた と思わせて下さいよ」
    今度は上手に苦笑ができた。
    「嫌な役目を任せてしまっておいてなんですが、もう一つ断っておかないといけないことがあります」
    そう言って懐に手を伸ばし一枚の札を取り出すと、耶利、と傍らの大僕に声をかける。
    「ここから先は実務者にお願いしましょう、代わりに説明をお願いできますか?」
    「引き受けましょう」
    台輔の手から紙片を受け取った耶利がそれを手近な卓子に乗せて示す。
    「……呪符か?」
    項梁が札を一瞥してそんなことを言った。友尚はその手のまじないには疎い方だが、文字を図案化したようなそれは、どこか見覚えがあるような気がして首をひねる。
    「まあ、呪符だ。未完成だけどな」
    項梁の疑問に答えるように耶利が言った。
    「台輔は魂を呼び戻す、と言ったが 正確に言うと違う」
    「……恵棟の意識は戻ってくるんだよな?」
    「それは大丈夫だ」
    肯定を受けて友尚は思わず胸をなで下ろす。項梁は早くも振り回される予感がしているのか、疲れた顔を隠そうともしない。普段から彼女の言動に翻弄されているに違いない。
    「では何が違う」
    「それを説明するためにまずはおさらいだ。先ほど台輔が言っていたのは……そう、堰堤(ダム)だったな。魂魄を堰堤、あるいは盃のような容れ物だとしよう。人という容器に魂魄という水が満たされているんじゃない。この容れ物自体が魂と魄なんだ……と、今は考えてくれ」
    そう言いながら耶利は盃を持っているかのように左右の手を象って、目の前に掲げる。
    「次蟾によって容れ物に穴が開き、魂という盃、魄という盃からそれぞれ精気が抜けていく」
    言いながら手に持った虚無を傾けてそこに無い盃の中身をこぼす動作をする。
    「この時、魂の中身が先に空になるが魄の方にはまだ水が残っている。まだ生きているが廃人同然になった傀儡はそういう状態だ」
    手首を返して、傾けていた架空の盃をぴたりと水平に戻す。
    「魂も魄も、容れ物の形はちょっと違うが中身は同じ、と言ったら分かるか?」
    「正解があるならこちらに委ねるな。きちんと言葉にしろ」
    忍耐のにじむ顔で項梁が言う。少し考えるような素振りの後、耶利は友尚に視線をやった。
    「つまり魂を呼び戻すんじゃない。恵棟の中にはまだ魂が残っているんだ」
    「待ってくれ。恵棟だけじゃない、今まで三年を過ぎて意思を取り戻した傀儡はいなかったんだろう? ならばこの変化は不可逆、そして魂と魄はあくまで別の物ってことじゃないのか」
    「普通ならそうだ」
    耶利は右手に持った不可視の盃を左手の盃の上で傾けた。中の水を空の器に移し替える仕草。
    「意図を持って中身を移し替えでもしなければ、魂魄は混じり合わない」
    だから意識的にその両者を混同するような特別な操作が必要になるのだ。
    「仙籍に入れ延命している間に符で命令を与える。魄を以て魂を擬(なぞら)えよ、と」
    ─そんなことが…
    「できそうですか?」
    胸中を引き継ぐように泰麒が訪ねる。
    「できるかもしれないし、できないかもしれない」
    至極真面目な顔で答える物だから、友尚にはどう反応すれば良いのかが分からなかった。
    「耶利、気休めにしては悪趣味だ。そういうのは…」
    咎めるような項梁の声に、言い方がまずかったらしいと察したのか耶利が言葉を換えて言った。
    「できるとは思うが、やってみないことには分からない。言ったろう、未完成なんだ」
    まったく 完成品をよこせばいいものを、中途半端に理論提示されたってこっちも困る。
    珍しく耶利が不満を露わにぼやいた。
    「有り体に言ってしまえば、台輔が言っていた『断っておかなければいけないこと』というのはそれだ、友尚。お前の出立には間に合わないし、馬州から帰ってくるまで時間が保つか分からない。冬官達に協力も要請しているがなんせ元にした叩き台が素人仕事だ」
    「……いつまでに戻ればいい」
    問われて耶利は嘆息をこぼす。
    「雪が降るまで待てるかどうかといったところか。魂と魄の変換効率は極めて悪い。持続的に動かすための魄と大きな波のある魂では本来の役割が違いすぎる。仮に残り半年生きられる程度の魄が残っているとして、数週間保てば良い方ではないかと言っていた。なるべくお前が戻るまで待つつもりだが、待つにも限度がある。早く行って大急ぎで帰ってこい」
    「行って帰ってこい、とは。お遣いじゃないんだぞ、そう言うわけにはいかんよ」
    友尚は思わず苦笑で返すが、耶利はさも不愉快だと言わんばかりに片眉をあげる。
    「今回の件ならもっと適任の者だっているだろうに、わざわざお前が派遣されるのなんかどうせいつもの派閥官吏達の嫌がらせだろう。さっさと帰ってくればいい」


    馬州は遠い。戴の初雪は早い。
    初秋に出立し冬が深まる前に戻る、口にするのは簡単だが実際に兵を動かすとなれば急ぎ足で行って戻るだけで二月(ふたつき)はかかる。ただ街道を歩くだけで刻限が近づく。
    往きの道中も、馬州に到着してからも、陣を敷いている時も、友尚の元にはしばしば鴻基からの青鳥が届いた。内容はいつも簡潔だ。
    ─符の完成の目途が立った。
    ─恵棟は近頃身を起こすのが難しくなってきた。
    ─家族から申し出のあった傀儡が数名、最期の会話をして息を引き取った。
    それらの状況の変化は 目減りしていく残り時間を如実に伝えてくる。
    蜂起した州師兵卒の鎮圧と 占拠された県城の解放は破格の早さで進んだ。
    陣を撤収した鴻基への帰途の道中、友尚の元に鴣摺が一羽飛んできた。
    厚い雲の垂れ込める寒い日だった。灰色にくすんだ空からまっすぐに鳥影が向かってくるのを見て、傍にいた麾下に一旦行軍を止め 皆 一時休息をとるよう申し渡した。
    友尚は飛んでくる鴣摺に向けて左の腕を掲げてやる。ずしりと重たい感触。
    毎度のこと、ともすれば震えそうになる指先を抑えて青鳥に結ばれた手紙を解いた。

    ─友尚
    起きたら元号が変わっていて驚いた。この数日の間に私が寝ていた間の話を聞いた。
    ほぼ七年、その間自分が蚊帳の外で何もできなかったことは悔しくてならないが、せめて知れて良かったと思う。お前が私の「呼び戻し」をするよう申し出てくれたこと、感謝する。
    お前は今も軍にいるのだと聞いた。鴻基を離れている時間が長いらしいが邸は掃除しろ。酒は控えて食事をとれ。脱いだ衣はきちんと仕舞え。麾下に面倒ばかりかけるんじゃない。
    最後になったが、随分と世話をかけたらしい ありがとう。

    見慣れた手の墨跡。
    指が白くなるほど握りしめた薄紙に一片(ひとひら)、白い雪が落ちてきた。
    その雪が溶けて薄く染みに変わる頃、もう一つ紙片の上に六花が舞った。
    動けないでいる友尚の上に、一片また一片と小さな粉雪が落ちては解けて消えた。







    新任の夏官、鬼より南天の枝を得る


    ─永らく白圭宮にて ときをり幽鬼の出(い)で来(く)との報 聞こえけらし。

    明幟五百余りを数えたる冬のこと。歳(とし)少(わか)き夏官、夜間大司馬府の院子にて幽鬼に遭ふ。
    皮甲 綬より往年の瑞州師旅帥と覚ゆ。
    鬼、手に一条の南天を持ち捧ぐ。
    「求(と)め仕(つかまつ)りつ」
    紅葉に白き霜降り雪原と紅玉に似る。
    一枝手に取り労へば、鬼 莞爾とし忽(たちま)ち姿消えにけり。
    爾来、燕朝に幽鬼の現れ出づること絶えたりと今に伝ふ。


    ─瑞州


    漸く務めになれた頃のことだ。
    瑞州司士の玄(げん)鑑(かん)は書庫を出て暗夜の中を一人歩きながらほうと白い息をついた。
    ─春になれば、もう一年が過ぎるのか。
    まだ若輩の身だが、大学を出て夏官として登用されてじきに一年。
    きんと冷えた空気の中にまだ空気の緩みは感じられないが、暦の上では幾らもしない内に春が来る。一年前はまだ学生だったという事実がなんだか信じられない。
    鼻の頭を撫でていく冷たい風に天を仰ぎ、めまぐるしく過ぎていった月日に思いを馳せた。
    たったの一年。しかし慣れない日々は新しい出来事の連続で、随分と色々なことがあったような気になってしまう。
    安定した治世の続く戴国ではそうそう大きな波乱もないというのに。
    だが宮へ来てすぐの頃にあった、身分ありげな若者から声を掛けられ挨拶したらその相手が実は台輔であった……等という椿事は黒麒を宰輔に戴くこの国ならではだろう。
    今でも、官吏にしては随分若いなとそっと視線を向けた先の印綬で宰輔だと気付いた時のことを思い出すと冷や汗が出る。動揺が顔に出ていなければ良いのだが、辞去する際にこちらに向けられた微笑みを鑑みるにあれはきっと気付かれている。
    白圭宮の高官達はどうにも気安い性質(たち)なのか、思わぬ人物から思いも付かぬ声を掛けられたりするのだ。国官への登用が決まった後(のち)に割合早い段階で夏官府へと振り分けられていたので、王師の将から話しかけられるなどは まぁ分かる。職務を考えれば将帥が夏官府にいるのも当然だし見慣れぬ顔の新人がいれば話しかけることだって有るだろう。
    だが、軽装姿の王に突然「剣の心得はあるか」と聞かれて手合わせに付き合わされそうになり礼節も何もなく「文官なんですが!?」と叫んでしまったのは酌量の余地が余り有ると思う。
    すぐさま平伏して謝罪に及んだがあれは絶対自分は悪くない。
    まずなんで主上が軽装でその辺をふらついているのだ。
    その上で何故己が目をつけられてしまったのか。
    周囲に皮甲姿の士卒だっていたというのに。普通稽古の相手を選ぶなら断然そちらだろう。
    思い出して仄かに頭痛を覚えた所で蟀谷に手をやった。
    ─…これ、気のせいでなく案外色々起きてるな?
    気付きたくなかった事実である。
    忙しさに紛らわせて忘れようとしていたがこの一年意表を突かれることばかりだった。
    先の例は突飛すぎるが、それを除いても世間は広いなと思わず遠い目をした事例が多々有る。
    同時期に入庁した者からは、指導にあたった官吏が怪談好きで職務初日に真っ先に教わったのが白圭宮四大奇談だったとかいう冗談みたいな実話も聞いた。
    深夜になると数百年前の大乱で死んだ士卒の幽霊が出るだとか、燕寝には固く閉ざされた来歴不明の蔵があるとか、血みどろの人影が出ると近く人死にが起きるだの、月の夜はどこそこには近づくなとか、聞き流したのでうろ覚えだが有り体に言えば陳腐な怪談話である。
    雲上人もそう言う下らない巷説などに興じるのかと妙な関心を覚えたものだ。遠い目で。
    予想の外(ほか)といえば、そもそも己の職分もそうだった。
    いくら大学を出たと言っても新任では下士で登用されることが殆どだ。が、いざ配属が決まり辞令が下ってみれば下大夫である司士だ。普通、新任で与える位ではない。
    とはいえ、驚きはしたが職務についてはやってやれないことはないと思えた。周りからのやっかみも多く受けたが、期待されているのであれば応えたかった。
    先任の中にはぽっと出が上役になれば煙たがる者もいるし同期からは些か遠巻きにされる。
    おまけに王やら台輔やら他国の賓客やらから頻繁に何かしらの驚きが提供される。(務めの長い官であるほど冷静に対処をするのでおそらく昔からそうなのだろう。慣れとは怖い)
    我ながらその状況でよく一年保ったものだと軽く自嘲が漏れた。
    やってやれないことはない という見込み通り、事実としてやったし、やれた。
    しかし無理を押してなんとかこなしたというだけだったな、と内省と共に苦笑が零れる。
    そんな状態で業務が円滑に回る訳も無く、調子を掴むまでは今日のように夜遅くまで掛かることも多かった。
    今は働く中で人との縁も増え、当初に比べれば随分仕事もしやすくなっている。
    ─そう思えばこれほど遅くなるのは久しぶりだな。
    書庫より夏官府へ戻る道すがらに見えた周囲の様子は、人気も無くすっかり日が回っていた。
    普段なら警邏の士卒やらなんだかんだと遅くまで残る官がちらほらといるものだが、ここ数日の冷え込みに辟易したのかそう言った面々も見えなかったのは珍しい。
    周りを見渡していると、建(たて)屋(や)を少し離れたところに小径が通っているのが不意に目に入った。目立たない様になっているので、利便性のために非公式に設けられたものであろうか。
    普段なら気付きもしないようなその裏道に足を向けたのは、気紛れだった。
    時間を考えれば夜の散歩など洒落込むよりさっさと帰って翌日に備えて寝るべきだろう。
    だが、人気の無いぴんと張った冷たい冬の空気に興が乗った……と言えば、案外そんなものだったのかも知れない。
    ざくり ざぐり
    石畳の敷かれた道を出て 土を踏むと霜柱の砕ける音が蹠(あなうら)に響く。
    一人きりの夜道、冷たい空気は頬や耳を刺すようだが下界の寒さに比べればかわいいものだ。
    小径は夏官府の裏を回り、院子(なかにわ)に繋がっていた。
    ぱっと開けた視界に、氷の礫で光る夜の庭が広がる。月光が反射しているのだ。
    花窓(かざりまど)の下には南天が植えられており、常緑の葉と紅い実が冬の夜に僅かな色を灯していた。
    霜が降りた紅い実は仄白く凍てつき、これも月に照らされ雪の如く光っている。
    誰もいない夜の院子が星の様に瞬く様は夢幻の様で、一瞬だけ踏み入るのを躊躇った。
    一晩の幻想のような庭、静かな空にざくざくと地を踏みしめる己の足音だけが響く。
    童心に返ったように、訳も無く心が浮き立ってそんな自分がなんだか可笑しかった。
    口の端を少し持ち上げた所で、ふと異質な空気が頬をかすめていく。
    ひやりと腹に氷の落ちたような冷気。先程までの、刺すような冷たい冬の外気とも違う。
    底冷えするような夜気を感じてひとつ、ふたつ、腕をさすり周囲を見渡す。
    一瞬目が素通りしそうになった。
    それほど「それ」は存在が希薄だった。
    院子を囲う壁の、花窓の前。
    自分が立ち入った瞬間、院子には確かに誰も居なかった。
    今は、そこに皮甲姿の士卒が佇んでいる。
    職場で見慣れたその皮甲から、瑞州師の旅帥と知れた。─ただし、数世代以上前の装備だ。
    大(お)凡(およそ)の所は大きくは変わっていないものの、今は使われていない型式の金具や、剣帯がかなり古めかしく感じられる。先王朝の時代の物であってもおかしくない。
    『寒い冬の日には、死気の強まる深夜になると、数百年前の大乱で死んだ士卒の幽霊が出るんだとか。話しかけても反応は無いし、小一時間ほど立ち尽くして音もなく消えるらしい』
    いつかに聞いた、雲上のものとも思えぬ月並みな怪談話が耳の奥に甦った。
    ─嘘だろ、本気で出るとか聞いてない!
    つ、と冷や汗が背を伝うが果たしてこのまま消えるのを待てば良いのか、はたまた回れ右して来た道を戻るべきか、判断に迷う。
    どこか遠くを見ているような、途方に暮れているようなその立ち姿に危険は感じられないが…。
    と、茫洋としていたそれがゆっくりと此方を振り返る。
    ─おい立ち尽くして消えるんじゃないのか!?動いているが!?
    半ば以上の八つ当たりを籠めて、頭の中でここにいない同期に当たった。
    仮に下らぬ怪談と思ったそれが実話だったとして、聞いていたのと話が違う。同じ数百年前の士卒で立ち尽くして消える霊と活発に動き回る霊の二者がいるならそう言ってくれ。
    いやむしろそんなもの後者の方が絶対話題になるだろう。
    ……おそらくは聞いた怪談話の筋から例外的な事が起きている。今起きているのが変則事例なのであれば、こちらに干渉しないという話とて確実か分からない。
    安全を考えすぐさま踵を返せるよう若干身構えながら振り向く人影を注視している。と、

    目が合った。

    そのままゆっくりと 二歩、三歩と歩みを寄せ此方に近づいてくる。
    生きている兵なら動くだけでがちゃがちゃと皮甲が鳴るが、何の音もない。
    ただ静かに、しかし確かに距離が縮んでゆく。院子の半分も進んで来たあたりで顔立ちがはっきりした。顔を見てもその人物に覚えは無い。内宮の警護を指示する司士として、瑞州師の卒長以上の位階にある兵はおよそ顔を覚えているが、確実に現職の旅帥ではない。
    奇妙に間延びした驚愕の中で呆然と観察している間に、件の士卒はすぐ目の前だ。
    頸部を守る皮甲の盆領(えりもと)に隠れていた喉に、射貫いたような穴がぽかりと空いている。これほど大きな傷を負っては、いくら仙であろうと到底生きてはいられまい。
    恐ろしくはなかった。
    どうして自分がそう感じたのかは分からない。
    あらゆる情報が、目の前のそれが生きた人間ではないと示しているというのに。
    数歩の距離までやってきたところでそれは足を止めた。
    人の良さそうな朴訥とした顔が、こちらを見て相好を崩す。
    家を見つけた迷子のような笑い顔。
    何故、そんな顔で笑うのだ。
    致命傷を負い 皮甲姿で現れている以上、きっと戦で死んだのだろう。
    山へも還れず、どこにも行けず、何百年も 彷徨い続けて 立ち尽くして。
    そんな想像をしたせいか、見も知らぬ筈のその兵卒が無性に不憫だった。
    いかにも屈託の無いその顔が郷里の里家で世話していた弟妹達を彷彿させたからかも知れない。その士卒は何かを言いたげに、口を開いては逡巡するように閉じる。
    足音が無かったのと同じように、ただ声が聞こえないのかと思ったが、どうやら何と言ったものかと迷っている風情である。
    ─…さま
    夜に紛れるような幽かな声が聞こえた。
    誰かの名を呼んだのだろうか。あるいは、呼ぼうとして思い出せなかったのかも知れない。
    困ったようにこちらを見るので、なんとなく小さく頷きを返す。
    ぱっと顔色が明るくなった。果たして幽霊というのはこんな表情豊かな物なのだろうか。
    益体もない感想が過るが、その嬉しげな表情を見て理解した。これはただの直感だが、おそらく自分は 彼が名を呼ぼうとしたその誰かと間違えられている。完全に人違いである。だが
    ここで「違う」と言えば、酷く傷つけてしまう気がした。
    騙しているようで気が引けるが、その「誰か」はきっととっくに死んでいる。ここで身代わりを演じるのは幾許か慰めになるのでは─いや、それは身勝手な傲慢だろう。
    思考の陥穽に嵌まり込みそうな玄鑑を余所に 当の幽霊は安堵にも似た笑みを浮かべたまま、地に膝を突く。そして僅かに面を伏せて、何かを捧げ持つ仕草を見せた。
    玄鑑に向けて差し出す手には、紅の実に白く霜の降りた南天の枝が乗っていた。
    どういう意図だろうかとまごついている内に、言葉が響く。
    ─お探し 申し上げました
    そう言って再び上げられた顔には、戸惑いと確信が器用に同居していた。
    ─貴方の元へ 送り届けねばと 何かを探し出さねばならぬと ずっと
    そう告げる迷いと自信が不可思議に混じった表情に、彼の静かな狂いが見える気がした。
    探していた何か、それを渡さねばならない相手、それらについての詳細は失われているのに今この状況を「間違いない」と信じている。
    呼ぶべき主の名も忘れ、命じた相手の顔も忘れ、それでもずっと 探していたのだろう。
    「…そうか」
    巷談俗説に言われるように強い未練が人を幽鬼として地に縛るというのであれば、なるほど彼は幽霊なのだ。何かを探して彷徨って、時折立ち尽くしては消える。
    一体何が切欠となったものかは分からないが、自分を誰かと取り違えたまま 現世へ応答する彼が何を望んでいるのかは分かる。
    「よく やった」
    司士と旅帥は同じ下大夫、位の上では同格。本来なら同輩として敬意を欠いた言い様である。しかし今目の前の彼が求めてるのはきっと「主の言葉」だろう。
    不自然にならないよう努めて言葉を選ぶ。
    「永(なが)の間の務め、大任だったな。ゆっくりと休むと良い」
    そう言って、彼が手に持つ一枝をそっと受け取った。
    しかし、茶色の枝に白く霜の掛かった紅の実とは。これは丸きり、何方かとそっくりな色の取り合わせだな。
    受け取った枝を見て思わず笑ってしまったのは、思考と共に連想したのが剣を手に溌剌と無茶振りしてくる軽装姿の王という己の不敬さ故だ。
    ─今一度、貴方のお役に立てる それだけで 私は
    どこか、さきほどよりも遠く聞こえる

    ─嬉しかったのです

    続く声は、解(ほど)けるように夜陰に溶けた。そんな気がして枝から視線を戻す。
    しかし視界には、今までの全てが嘘であるかのように 静寂な夜の庭が広がるのみだった。
    「…どうした?」
    しんと問う声に応えも無い。
    今までそこにあった筈の薄弱な気配は、さっぱりと消え失せて跡形も残らない。
    消えてしまった。
    いや、違う
    消してしまった。
    未練、執着、願い、念(おも)いの残滓
    それが解消されれば、あんな幽かな人鬼がこの世に留まり得る道理もあるまい。
    最後に届いた言葉が脳裡に甦る。
    ─嬉しかったのです
    今更になってぎりぎりと罪悪感が頸を締め上げた。
    蒿里山にも向かえずにいつまでも現世を彷徨っている位なら、未練などさっさと消し去ってしまえばいい。そう思った。目的が果たされれば、消えるだろう。そう考えての代演だった。
    何故だか彼が無性に不憫だった。いつまでもこんな場所にいないでさっさと去ってしまえばいい。なにがしか勘違いをされている様だが良い機会だろう。その程度のことだった。
    ─嬉しかったのです
    幸福そうに、噛み締めるように、誇らしげに、万感を籠めるような声でそう言った。
    違う。
    違うんだ。その言葉を受け取るべきは、私ではない。私にそれを言われる資格は無い。
    吐き気のように嗚咽が漏れた。
    数百年を彷徨った彼の尽忠を知れば、彼の本当の主は一体何と応えたのだろう。



    この夜以降、冬の夜に現れる幽鬼の噂はぱたりと絶えた。






    願いの叶う宿帳のこと

    明幟の二十年頃のこと。凱州北部に舎館(やどや)あり。
    主人 人柄温厚にして篤実、有識故実に明るいとのおぼえ也。
    近隣より請われて閑日私塾の体をなす。
    使ひ古して草臥れたる木簡、竹簡、よろづに継ぎ綴じ手習ひが為に供したるものをば設(もう)ければ訪れたる者みな筆のまにまに書き遊(すさ)ぶなり。誰からと無くいつしか宿帳と呼ばへり。
    さても一つの不思議なること、此の宿帳 見れば脱簡甚だし。
    よしなしごとを書き成して、簡牘(かんとく)失せたる者の言ふ。
    「亡父の形見の盗まれたるを宿帳内にてくねりたり。一月(ひとつき)の後、出でにける」
    「尋ね人より消息来たり」
    「故郷の酷吏の妖魔に遭ひ、官位返上し下野せると聞く。いとこころよし」
    曰く、其は人の願い聞きたる宝重なめり と。
    ─凱州










    亡霊の首を落とす官のこと

    明幟十年のころ。
    鴻基において庭氏の妖鳥を射ることあり。
    妖鳥忽(たちま)ちに姿を変ず。此、弘始に死した亡者也。
    上より此を刎頸に処すべしと下命あり。庭氏すなわち亡霊の首を落とすと伝う。

    ─瑞州




    「大司寇がお呼びだ、張参(ちょうさん)。今の業務は置いてすぐに向かうように」
    暦の上では秋だというのにいまだ僅かな暑気の残ったある昼下がりのこと。秋官府で大司寇が呼んでいると言われ書面から視線を上げた。視界がぼやけていたので思わず指先で眉間を揉む。
    張参、その男は朝廷でそう呼ばれていた。
    戦禍に見舞われた白圭宮で乱の首謀者を討ち取った数日後 瓦礫の山の中から見つかった数少ない生存者、正体不明の死に損ない、それが彼だ。
    名前の分からない時間が長すぎて 張家の三男 李家の四男、石を投げれば当たるようなありふれた男─程度の意味でいつの間にやらついていた字(あざな)。本当の彼のことを知る者は少ない。
    顔には大きな火傷の瘢痕が残り、傷のなかった頃の顔貌を推し量ることは難しい。喉も炎に焼かれて老人のように掠(しわが)れている。ただ一つ、すっと伸びた背筋だけが彼の本来の年齢や姿を僅かに伺わせる何かだった。
    作りかけの書類を片付けて、ごく僅かに脚を引きずって堂室(へや)を出る。日射しに目を細めた。
    ─気候が安定して夏が長くなっているのだろう。南方の国はいざ知らず 戴では温かい期間が長くなればそれだけ収穫が増える、きっと今年は安定して冬が越せる。
    そんなことを考えながら、張参は指示のあった建物へと向かうべく歩みを進めた。
    数年前と見比べて、外朝も随分と様変わりをした。自分が掘り出された場所は瓦礫の影もなく施設は建て直されてすっかりときれいになっている。
    さて 兵卒でもない文官が瓦礫に埋もれていた、と言われれば予測はつくだろうが、元々張参は偽朝において官位を賜り偽王のために働いていた。仮朝の体をとっていた間も、いよいよもってこれは謀反であろうと察した後も、台輔が帰還し主上が捕縛され、今日にも白圭宮は落ちるだろうというその日すらも。
    ─あの日死ぬつもりだったのだ、本当は。
    自分の成したことを考えれば、この先の正当な王の統べる戴国で生きるつもりなど端から無かった。それがせめてもの望みだった。しかし運の悪いことに生き残ってしまった。
    しかも生死の境をさ迷った挙げ句に目が覚めたときには全てが終わっていたという 己の考え得る中でも相当に最悪の状況である。
    大怪我を負った張参が目覚めたのは元号が明幟になって数年を過ぎた頃だった。
    素性も名前も分からない 張参と仮名のつけられた死に損ないが生き返ったのは、仁重殿近くにある療養所の一室であった。
    意識を取り戻して身じろぎした彼を見て、世話役の奄は腰を抜かすほど驚いたそうだ。
    後から聞いた話によれば魂魄を抜かれた傀儡だと思われていたらしい。
    しかし意識を取り戻したところで しばらくは自分の意思で瞼を持ち上げることも満足にできず、本人に自覚があるだけで対外的には傀儡とそう代わらない状態だ。
    殺してくれと訴えようにも喉は張り付いたように声が出ず、萎えた身体では筆を持つことはおろか身を起こすことにすら難儀する有様である。
    当初は絶望の底に落とされた気がしたものだが 日を追うごとに指先が動き、腕が持ち上がり、徐々にとはいえ身体は回復していく。吐息のような幽かな声が出るようになると幾分冷静になって考え事をする余裕も出てきた。
    そうなるとまずは 随分と永いこと寝ていたものだ、否 寧(むし)ろよくこんな状態の者を生かしていたものだ、と呆れが湧いた。
    呆れはしたものの 納得はできる。只人なら放っておけば死んでいくものが死ななかったのだ。
    そこでやっと「このどこの誰かも分からない死に損ないは仙なのだ」と判明したのだろう。
    大きな火傷で顔貌も判然とせず、焼けたのかどさくさで持ち去られたか身分を示すような物は何も所持していなかったという。これで意識もなくては身元の確認のしようが無い。
    名が分からなければ仙籍から抜くこともできない。仙籍から抜けないからといって首を落として殺す訳にもいかず、忙しさも手伝って傀儡と同様の世話役をつけて放置されていたらしい。
    一人で立ち歩きができるようになり 近距離ならなんとか相手に聞き取れるだけの声が出せるようになった頃に漸く調べを受け、その際に素性を明かし裁判に掛けるべく訴え出た。
    しかし伝えられた決獄(はんけつ)は納得のいく物ではなかった
    曰く、名を変え 朝(ちよう)に於いて民のために尽くし贖罪に努めよ。赦免有るまで自らの意思で下野すること罷(まか)り成らず。と。
    そして与えられた職は秋官の庭氏であった。
      ─掌射國中之夭鳥(国中の妖鳥を射ることを掌る)。
    それが古い書に記される庭氏の職分である。
    夜に鳴く鳥を不吉としそれを射落とす官。
    とは言え、古くはそうであったという記録があるだけで実際の仕事内容は異なる。口さがない鳥がいれば調べ釘を刺す、早い話が悪意を持って流布される風説の取り締まりである。
    前(さき)に挙げた古書の一文を引いて「庭氏の職分だろう」などと言って戴国全土の次蟾狩りの指揮に駆り出されたりもしたが、これは相当に特殊な例である。
    ─便利に使われているだけという気もするが。
    そう考えたら思わず苦笑が漏れた。秋官長から今向かっている場所へ呼ばれているというのも、恐らくその手の便利使いの用事でも言いつかるのだろう。
    庭氏は下士の位にあり、低位とは言え仙だ。赦免あるまで死ぬことも許されず、それを服役期間として精々働けという事なのであろう。
    呼び出し前 書類を書いていた場所からぐるりと城内を移動して人通りの少ない場所に出た。ここに向かえと指定されたのはこの近くのあまり使われていない建物だ。
    入室の許可を得て扉をくぐれば、中には人影が一人分。
    「久しぶりですね。変わりないようで安心しました」
    秋官長が張参へ声をかける。
    穏やかで柔和な雰囲気だが、彼女が決してそれだけの人物でないことはとうに知っている。
    人当たりが柔らかく、優しげに見えるが彼女の中身は鋼である。
    「花影殿も、お変わりなく」
    掠れて聞き苦しい声を喉から絞り出す。立ち話に興じるような間柄でもなし、形式的な挨拶が済めば張参はただ黙って続く言葉を待った。
    「長話は辛いでしょうから手短に伝えます。凡(およ)そ一月後、朔の日に或る仕事を貴方に頼みます。詳細は当日伝えますので、日没後に必ずこの建物の同じ堂室を訪ねて下さい」
    手短に、とは花影本人の言ったことだが 情報が少なすぎて「この日取りに予定を入れてくれるなよ」ということしか分からない。
    「……つまり私に拒否権は無く、当日まで質問は一切受け付けないということですか」
    「察しがよくて助かります」
    苦笑の様にそう言った。その時の花影の表情からは何の情報も読み取ることも出来なかったが、張参には何某かの押し殺した感情が伺えた様な気がした。
    およそ一月後の朔の日、と暦に思考を向けた時に もうそんな時期かとふと気がつく。
    そうか、もう十月になるのか。
    張参は口の中でそうつぶやいた。


    特に変わりの無い日常を淡々と過ごしているうちに、その日はあっという間に来た。
    「まさか本当に 当日……今この時に至ってさえ何の連絡も無いとは思いませんでした」
    ぼやくような声が出たが、これくらいの不満は構うまい。日没後に訪ねよ、とは言われたが到着後にも随分と待たされた。日没はとうに過ぎて空はとっぷりとした暗さを湛えている。
    「遣いの者くらい寄越しても良かったのでは?」
    待ちかねて帰ることは想定していなかったのだろうか?
    まあ張参自身には翌日の登庁の時間にでもならない限り帰るつもりはなかったのだが。
    そんな内心を知っているのかいないのか、花影は静かに声を返した。
    「それはできなかったんです。今日のこの件は極めて限られた人間しか知らない、秘事なのです。貴方もこのことを生涯口外することは許されません」
    ついてきてください と言うが早いか、来たばかりだというのに踵(きびす)を返して外へと向かった。
    冷気を含む風が顔をなでていく。夜となれば尚のことだが、元からこのあたりは人気が少ない。
    ここいら一帯が今は使われていないからだ。事実上封鎖されていると言ってもいい。
    そうなったのは驕王の御代からなので、何に使われていた場所なのかを知らない者も多い。
    花影の後を歩きながら手のひらがじたりと湿るのを感じた。張参は此所が何か知っている。
    「一応聞きたいのですが」
    焼かれて乾いたかすれ声で訪ねる。
    「私の処刑ですか? それとも向かう先に罪人がいるのですか」
    一瞬 前を行く花影の足がぴくりと止まる。半ば鎌かけとして聞いたのだが 当たりらしい。
    「……なるほど、あなたはご存じでしたね」
    小さく嘆息混じりの声が聞こえた。
    「ええ。私は先王がここを閉鎖される前からおりましたから」
    「安心して下さい、処刑される罪人はあなたではありません……」
    そう、ここは今は使われていない処刑場だ。
    「事実上の封鎖」となった後は 表向き使われていないことになっているが、おそらく冬狩で秘密裏に罪人を処刑するのに使われた場所のうちの一つだろう。
    ─極めて限られた人間しか知らない、使われていない処刑場、罪人、生涯口外してはならない。
    それらの言葉を飲み下すと、なにか冷たいものが胃の腑に落ちた。
    なるほど 形は多少違えど これは冬狩と地続きなのだろう。誰にも知られず罪人を殺して埋める、今から自分はその仕事を任されるのだ。
    開けた場所に出ると、ざぁざぁと松籟が響く音が耳に飛び込んだ。
    視線を巡らせると 離れた場所で 夜に白く浮かぶような人影が目に入る。
    その姿を見た瞬間 霹靂に打たれたように張参の全身が硬直した。
    白い衣を纏い 縄を打たれた罪人。傍らには斧鉞を携えた兵。罪人は片腕が失われているらしく、右の袖が風に吹かれて小さく靡いている。
    顔は紗の面布で覆われて面相は分からない、しかし
    「秋官長、何故」
    張参は痩せて尖った喉を上下させ唾を飲み下す。
    「何故ですか……あれは、あの人は」
    なおも絞り出した掠れ声はみっともなく震えていた。
    「彼は、鶚(がく)鵩(ふく)。大逆の罪を犯しました。この度処遇が決まったので貴方を呼びました」
    「いいえ違う! あの人は……」
    幾ら面相を隠そうと、身体が損なわれようと、見間違える筈が無い。
    彼は主だ。
    私の 私たちの 誇り高き将軍、残酷な僭主、唾棄すべき懐かしい主公。
    彼の人が生きているという事実に両手が戦慄(わなな)いた。驚愕、愁嘆、懊悩、それらで覆い尽くすことのできない随喜が血と共に全身を巡っている。だというのに。
    「……何故私に教えたのです。何故知らないままいさせてくれなかったのですか」
    先程大司寇は言ったのだ。処遇が決まった、と。謀叛人の処遇など決まり切っている。
    生きていたと分かったところで、彼は今日にも死ぬ定めなのだ。
    「あなたの主は弘始九年の十月に死にました。今日処刑されるのは鶚鵩(ミミズク)、夜に鳴く鳥です」
    儀礼用の弓矢を差し出される。
      ─掌射國中之夭鳥(国中の妖鳥を射ることを掌る)。
    それは古い書に記される庭氏の職分である。
    「射よ、と言うのですか。よりによって 私に」
    「貴方は庭氏です。その役目は夜に鳴く妖鳥を射落とすことでしょう」
    「そのようなもの、古い書にあるだけです!」
    叫んだことで喉が破れるように痛み、音を立てて咳き込んだ。
    「実際の職務は風説の取締です、近頃は次蟾狩りなども有りましたがあれは変則的な仕事でしょう。まして一矢で落ちる次蟾と違い、彼は人です。射た後に首を落とす、違いますか」
    問われ、花影は頷いた。
    逃走の恐れもない 秘密裏に処刑されるだけの罪人の傍に 士卒が付き添う理由はそれだ。
    「横に控えたあの者が斬首を執行します。射た矢が中るか否かは関係ありません」
    「ならばこの矢はただの刑執行の合図でしかない。刑の采配……掌戮(けいり)の職務にあたるものだ。それを敢えて私に命ずるのは何の故あってのことなのですか」
    声にぜろぜろと湿った音が混じるのは血でも出たためだろうか。花影は静かに目を伏せた。
    「この役目を終えれば、貴方には恩赦が与えられます」
    その口から無感情とさえ言える平淡な言葉が紡がれる。眼の奥が殴られたように痛い。
    「仙籍を抜けて市井に降りることが許されます。貴方が希望するなら朝に残ることも」
    ふつふつと、湧き出る感情に何と名を与えたものだろうか。
    「……踏み絵という訳ですか。中(あ)てて見せよと。叛意が無いことを、ここであの方を殺すことで証(あか)せと!」
    困ったように眉尻を下げた大司寇は、離れた場所に立つ罪人に顔を向けた。
    やりとりが聞こえていたのかは分からないが、揉めているのは見て取れたのだろう。あるいは事前に言い交わしていたのかも知れない。顔を向けた花影に、罪人はひとつ 頷きを返した。
    こちらへ向き直ると、深く息を吸い、静かに声を出す。
    「……それが、約定だからです」


    花影がその罪人の生存を知らされたのは、乱から直(じき)に一年が経とうという頃だった。
    その日は朝議が紛糾し長引いていた。瑞州から余州へと伸びる大きな街道、その内のいくつかが今月立て続けに土砂崩れで塞がったという報告がありその緊急対策に追われたのだ。
    急ぎ対応すべしと諸官が慌ただしく退出していく中で 花影は一人呼び止められた。
    そこで「大司寇として、諸事対応してほしい」という委任とともに教えられたのだ。
    これまでに 逆賊を討ち乱は平定された、と国中に広く公布されていた。そして、白圭宮に攻め入ったその日に謀叛人は討たれて死んだものと花影は諒解していた。寝耳に水の話である。
    「どういうことです、生きているのであればそう公表なされば良かったでしょう」
    人払いの成された朝堂で主上から直々に申し渡された内容は花影には受け入れがたい話だった。
    主上の横に控えた台輔は表情を消して静かに佇んでいる。
    朝の首脳陣の中でも極一部にはその生存が知らされていたようだが、囹圄(ろうや)ひいてはそこに籠められた囚人を管理する立場にあるはずの花影にすら知らされていなかったのだ。民はおろか余官についても推して知るべしであろう。
    「広く知らしめる必要はありませんが死亡しているという誤情報を放置しているのは何故です。民や官にも隠して秘密裏に処理なさるおつもりですか」
    きつく拳を握りしめてそう問うた司法の長にむけ 主上は口を開いた。
    「謀叛の内情の全てが詳らかになるまで、殺刑を執行することはならぬ」
    『討たれた』と公示があり、戦乱の中で斃れる所を見たという証言も多数あり、国中の誰もが乱の首魁は既に死んだのだと思っている。そこに来て詳細が分かるまで殺刑はならぬとの命。
    もしや、という疑念が花影の胸に去来する。
    「……関わった者は多くとも その中に全容を知る者はほぼ無く、本人の証言がなければ決して全てが明かされるとは思えません」
    そして、牢獄で頑なに口を閉ざしているという当人が証言などするとは到底思えない。
    「ならば本人が明かすのを待つまでだ」
    その静かな声に、花影は確信した。
    初めから─おそらく瀕死の重傷を与えて捕縛した時点で既に─待つつもりで全てを整えていたのだと。
    しかしそれなら何故、今花影にその存在を明かしたのか……。
    その日の内に花影は罪人の元を訪った。
    見張りとして前室に控えていたのは兵ですらなく、耳の聞こえない胥徒(げかん)である。
    石壁で四方を囲まれた部屋に入って改めてその者と相対して、花影はなんだか 部屋にただ一人で放り出されたような心持ちになった。
    顔を見ればもっと、憎悪や悲嘆、そう言う感情が止めどなくあふれてくると思っていた。
    こんな、何の感慨も湧かないものなのか。
    「生きていたのですね」
    返答は無く ただ すん、と 小さく鼻を抜けるような笑いが聞こえてきた。
    格子越しにまじまじと見て、あることに気づいた。右の腕が無い。
    「……そうか、同じ右腕だったな。多少なり溜飲でも下がったか?」
    視線に気づいたらしく、罪人は皮肉気な色を声に乗せて花影に向け話しかける。
    友人の─李斎の失った右腕のことを言っているのかと気づき不快を表情に出す。だが挑発には乗らない。
    「戦闘で失ったものですか」
    将といわず兵と言わず、謀反の首魁が討たれて倒れたところを見たという証言が多くあった。
    大きな負傷を負ったところで辛くも命拾いをしたということだろうか。
    「そんな良い物ではない。奸計で落としただけだ」
    言って口の端を大きく歪める。
    「手傷を負わせた後に衆目の前で饕餮に食わせ、物証としてもがれた片腕を戦場に残しておく。『生きてはおるまい』という士卒の声が既成事実化するのを待つつもりだったのだろう」
    態々設置した『物証』は見つからなかったようだがな。
    楽しげにくつくつと笑い声を漏らす。
    「であれば主上の思惑は成功ですね。事実、今日の今日まで私もそう思っていましたよ」
    「驍宗では無いが…まあ残念ながら、そう上手くはことを運ばせるつもりはこちらにも無い」
    かぶりを振って、花影の方をじっと見る。
    「私の生存が司法に明かされたというのは、そう言うことだ」
    主上が隠していたものを、この男が公開させたというのだろうか。一体どうやって?
    「その口ぶりではまるで殺刑にされたがっているようですが」
    「そう言うそちらは、まるで殺すつもりが無いとでも言っているかのようだ」
    細く眇めた目が花影を射貫く。
    しばし睨み合いが続くかと思われたが、先に視線を外した花影から嘆息が漏れた。
    「私にはわかりません。ただ確実なのは、主上はあなたについて『真実が分かるまで死なせるつもりは無い』と 考えているようです」
    そうだろうな、と何の気負いも無い相槌が返ってくる。
    「だが私には語るつもりが無い。理解も歩み寄りも、私と驍宗の間には必要のないものだ」
    その頑なな拒絶の態度に頭が痛くなり蟀谷を押さえた。
    「もしや ずっとこれだから今になって私に話が……?」
    「そんな簡単な男なら楽だったんだが」
    半ば愚痴のつもりで独りごちた花影の言葉に苦笑が返される。
    「そういえば先ほど 私に生存が明かされたのには あなたの意図が働いていると言いましたね。それは一体どういう意味なのか、くらいはご説明いただける?」
    「どうもこうもない そのままの意味だ。いくらこちらが拒絶して帰れ殺せと言い続けたところで、私が死にさえしなければ驍宗は何らかの手段で切り崩しを図ってくるだろう。そんなことはお断りだ」
    「拒絶したところであなたは拘束されて牢の中、口を噤むくらいしかできないでしょうに」
    主上が本当に隠すと決めたのなら、自分程度なら容易に欺いて隠し通すことだろう。それが今になって教えられたというのは本当に目の前の囚人が手を回したからだというのだろうか、だとしたら一体どうやって?あるいは主上にも迷いがあったということなのか……?
    「一対一なら」
    考えのまとまらない花影に、謀反人が言う。一対一なら確かに時分にできるのは貝にでもなって根比べをすることくらいしかできない。そうなれば圧倒的に驍宗が有利な状況だ、と。
    そして小さく肩をすくめて続けた。
    「偽朝の時分に蒔いた種の一つが丁度芽を出す頃合いでな」
    「種?」
    「そうだな…基幹街道がいくつか塞がったりはしていないか?」
    頤に手をやり考えるような仕草をしてそんなことを言う。
    「……なんですって」
    「今の時期、各地の義倉を満たすために頻繁に輸送を行うことだろう。昨年の収量も十分ではなかった以上、食料は他国からの輸入に頼るほかない。例えばの話だが、購った穀物を各地に振り分けようとして 全ての街道が使えなくなればそれはそれは困るだろうな」
    背筋に戦慄が走る。何を言っているのだこの男は。どの面下げてそんなことを。
    「まさか、それがあなたの仕業だと? ……義倉を満たさねば民が死にます、そこまでしてこの国を害したいのですか」
    「例えばの話、と言ったろう。そうはならない」
    お優しい台輔に感謝するといい。などと不可解な言葉を続ける。
    「そこで何故台輔が関係してくるのですか。あなたは何をしようとしているのです?」
    しようとしているわけじゃない、もう し終わっている。と指先を組んで言った。
    「仕掛けが想定通り動き始めたと分かったときに、私は どこが土砂崩れを起こすのか教えてやろうと言った。王は不要だと言ったが、麒麟は聞きたいと言った」
    そこまで聞いて花影は理解した。
    その「土砂崩れを起こす場所」を教える条件として、自分の生存を花影に明かせと要求したのだろう。どうやってそんなことを可能にしたのか、その仕掛けとやらは分からないが。
    「私を捕らえるのに饕餮を使ったのは麒麟の策だろう、驍宗のやり様ではない。ならば生け捕りにするという点で結託はしていても、麒麟には麒麟の思惑があると言うことだ。…慈悲などと言う自分の感情よりも、実益をとる。全くとんでもない育ち方をしたものだ」
    ひどく楽しそうな顔で言う。その表情に怒りが湧いた。実益のために自分の感情を抑え込んでしまう……強さと呼べば聞こえがいいがそれは台輔の素直な優しさを奪った結果だ。
    「もう結構です。分かりました」
    三つ巴の思惑だ。
    知りたいと望み、生かしたい王
    語るのを拒み、殺刑を望む罪人
    この両者だけであれば膠着していた筈だ。あるいは長い時をかければその分王に有利に働いていただろう。それを 罠を張り自らを駒に変えることで、民を守りたい台輔を巻き込んだのだ。
    今や盤面は王の思惑のみでは進められない。
    おそらく仕掛けた罠はこの土砂崩れの一件で終わりでは無い。あるいは切欠が罠からであったとしても、台輔は取引に応じてしまったのだ。本人の自覚の有無までは分からないが、この罪人を「対価を代償に協力を要請することができる相手」にしてしまった。今後もこの男が仕掛けた罠をかわすために、あるいは関係が無くとも必要に迫られた時に、取引をすることになる。
    一つ頼みを聞けば一つ進む。進める駒は自身の命、自陣に全ての駒を送り込んだその先は死だ。
    死ぬための司法取引だ。
    「もういいだろう。私はお前達の求める『謀反の詳細な内実』とやらを語ってやる。それを驍宗に伝えてこんな茶番はさっさと終わらせるがいい」
    王の考え、台輔の考え、そして自分のことに思いをはせて、花影は首を横に振る。
    「……それは駄目。私は…私たちの考えた物語に只『そうだ』と頷いて欲しいのではありません。必要なのは真実を知ることです」
    「無意味だ。お前達の考えか、私の口から語られた話か、どちらであろうとお前達が真実と思った物が真実になるだけだ。ならばはじめから耳障りの良い適当な物語を用意して民の溜飲を下げてやればよい。こんな馬鹿げた時間に能吏の労力を費やすくらいなら、義倉を僅かなりとも満たすために割いてやる方が余程民は喜ぶだろうさ」
    牢の格子越しに、視線が投げかけられた。なんだか試されている気になる。
    「……たしかに何が真実でそうでないのかは天ならぬ人の身には判断が出来ません。しかし、そこに見過ごしてはならない何かがあるという感覚がある以上私は『耳障りの良い物語』に逃げ込むことはできません」
    きっと、そういうことなのだろう。今はそれが許される状況だ。主上がその状況を作ったのだ。もう違和感から目を逸らしてむざむざと不穏の芽を摘み損ねる様な真似は繰り返さない。
    向けられた視線を真っ直ぐに見詰め返せば、小さく舌打ちが聞こえた。
    「全く、厄介な人物を寄越したものだ」
    「……なるほど、主上が『内情詳らかとなるまで執行はならぬ』と言明された理由がよく分かりました」
    生半な者に対応を任せれば手管に巻かれて、真実など何一つ分からないままあっという間に彼は処刑台に送り込まれることだろう。
    しかし花影とて「それで何が悪いのか」と問われても明瞭な回答を持たない。
    「今日のところは帰ります」
    主上はこの人物の処遇について花影に「大司寇として対処せよ」と委任した。
    論断(しんり)を、進めなければならない。

    錯簡

    「それは愚かなことだと、分かっていたのでしょう? 少なくとも私が官として接してきた貴方は道理を弁えていました」
    「何を真実と思うかなど好きに決めろとは言ったが……。なるほど、目の前で好き勝手な解釈を垂れてお前の内情はこうだなどという顔で語られると中々に不愉快だな」
    「そうですか、それは重畳」
    けろりと答える花影に、小さな溜息が返される。
    「……愚かと分かっていても、そうしなければ生きられなかった。一国の命運と天秤に掛けて、私は己の生存に縋った、それだけだ」
    呟くように零した後、骨張った指が とん と卓子をひとつ打つ。
    「他を犠牲にするくらいなら死ねば良かったのだと、そう断ずるか?」
    感情のうかがえない視線と問いに、今度は花影が溜息を吐いた。
    「……この役目を申し付けられたのが私であって良かったと心から思いますよ。大勢を犠牲にするくらいならばお前が死ねば良かったのだ、などと友人たちに言わせないで済みました」
    「言わせれば良い。代わりに己で言う事になる」
    花影は 静かに、しかし確固とした意思で以て首を横に振る。
    「私は言いません」
    「潔癖だな」
    呆れたように返される言葉に眉を顰めた。
    「何か勘違いしているのでは? 私は貴方の自罰感情に付き合うほど優しくありませんよ」
    ただ、友人─考えて、豊かな赤茶色の髪が脳裡をよぎる─にそんな話をさせずに済んだという安堵は心からのものだ。
    「彼女であれば、苦しみながらも貴方の望みの言葉を言うでしょう。お前は愚かだ、自分一人のために無関係の大勢を巻き込んで、苦しめて、ならば最初から一人で沈めば良かったのだ、と。でもそれは彼女自身を抉る傷でもあります。だから私は言わない。それだけのことです」
    罪人は 意外なことを聞いた とでも言うように片眉を上げた。
    「まさか貴方は、私たちが何も諦めず 何も見捨てず 何も踏みつけにせずに貴方を追い詰めることができる程に、手を抜いて事に当たったとでも言うおつもり?」
    「随分と当て擦るような物言いをするな」
    「当て擦っているのです」
    花影は小さく溜息をつく。
    「…私が貴方ほどには多くを踏み躙らずに済んだのは、ただ運が良かったからに過ぎません」
    他国に苦難を強いることになると分かって、戴のために道を分かつた嘗ての友の背を思う。
    そして偽朝の王師と戦うことになった土匪を助けるために道を戻り、結果として主上を見失わずに済んだと聞いたときのことを思い出していた。
    「誰にだって苦しい選択を迫られるときがある。自分が何を選び取ったのか、その結果が正しかったか そう考えて苦しむ。だけど過去だけを見詰めて立ち止まっている訳にはいかないのです。私たちの背には多くの物が乗っているのだから」
    選択の結果 失った物、救えなかった者、何かを見捨てた腕で掬い取ったもの、それらに思いを馳せて瞑目した。
    「無(む)謬(びゆう)であることなど何者にも出来ない。ならば今は精々 過(あやま)った分を取り戻そうと足掻くのみです」
    静かな声で告げ瞼を上げた。そして、ふと 思いついた様に言葉を継ぐ。
    「ひょっとすると、そう言う意味では貴方の方が余程潔癖なのではなくて?」
    花影の意図を読み取った罪人は僅かに不快気な様子で鼻に皺を寄せる。
    「正しくない選択をしたと思い至った時、最早許されないと自ら思い定めてしまったのではありませんか?」
    「これは念のために聞いておくが、事実許されることではないというのは認識しているな?」
    眉根を寄せ、噛んで含めるように問うてくる。……というよりは、念押しだろうか。
    ええ、それは大前提です。と流すように花影は承(う)けた。
    「馬鹿馬鹿しい」
    つまらない物に一瞥をくれるような声だった。
    吐き捨てるような一言の後、続く言葉が無かったので花影は話を続ける。
    「許されないからこそ自家撞着を起こしたのでは。心有る官から救民の嘆願だってあったでしょう。でも血塗れの手で誰かを救う欺瞞に耐えられなくなって、政を放擲した。いかが?」
    伺う花影に眉間の皺を一層深めて嘆息を零すと 表情に「不愉快」と在り在りと示して応える。
    「今からでも担当官を変えてもらえないか?」
    そしてじとりとした半眼で続けた。
    「麒麟と言い、この国の司法にはおめでたい人間しかいないのか」
    「生憎、正当な王がお戻りになってこれから祝賀慶事が盛り沢山の予定なものですから」
    花が咲きこぼれるような笑みでそう言うと、ほほほ、ははは、と冷たく乾燥した笑いが二つ牢に響いた。


    錯簡


    「軍の者に明かせと言ったら即刻断られた」
    「それは…そうでしょうね…」
    生きていると知られたら、一年も経たずに何らかの形で死亡していたことだろう。


    錯簡


    「そういえば随分と髪が伸びましたね」
    もとより肩口程度の長さで髪を切りそろえていたが、公式に討たれたということになってからそれなりの年数が経っている。髪を切るから刃物を寄越せと要請したら却下された、といつだったか言っていたのを思い出した。
    不機嫌に顰められた目元がじろりと花影の方を向いた。
    「何故論断三回を終えたはずなのに未だに決獄が下らないのか理解ができないんだが」
    「残念ながら、私が今行っているこれは論断ではなく面会です」
    「拒否する」
    「三刺の申し立てをしてから来ているので貴方に拒否権はありません」
    「三刺だと? 巫山戯たことを……黒麒の指金か」
    三刺は罪を許すべきと申し立てるものがあればその量刑を見直すというものだ。主に民による世論、司法に関連する官吏の論述、被害にあった当事者や遺族の申し立てが力を持つ。
    「御明察。貴方の生存は極秘事項なので百官万民に問うことは出来ませんが、私も被害者ですから、三刺の申し立てのための面会を行う権利があるのです」
    言うなれば、戴国民の全てが被害者である。
    「真面目な官吏に下らん屁理屈を入れ知恵をしおって…」
    最近花影は気づいたのだが、この男が頭を抱えているのを見るのは大変に気分が良い。
    「私は近頃、主上が登極された当時のことをよく思い出すんですよ」
    「貴女はここに茶飲み話でもしに来ているのか?」
    「冬狩の時も私は秋官長を拝命していましたから」
    無視して話を続けた。当初花影は性急な王朝の動きに不安を抱えていた。
    主上と付き合いの長い麾下達の様に一体どういう意図でこんなことを行っているのか理解ができない。主上自身が言葉を尽くして説明をしてほしい。何故何も教えてはくれないのか、話してはくれないのか。ずっと不安と疑心が心にとどっていた。
    だがそれらの不安が冬狩を行う中で信頼へと塗り替えられていったのもまた事実である。
    信頼……いや、信頼という名目で「主上が行うことならばなにか理由がある」「きっと結果が出てみれば何もかもが上手くいっている」そう信じて目をつぶることにしたのだ。
    ……その結果が戴の現状につながっている。
    「例え理解が難しくとも無批判で居てはいけなかった。盲目的であることに安住などしてはいけなかった。そういうことなのだろうと」
    「批判を素直に聞く王ばかりでもなかろう。諫言の末偽王に粛正された麾下の例もある」
    皮肉を隠さなくなったな、と花影は変なところで感心した。
    驍宗がそうなるとは思わないが、過去の王たちのことを思えば分からない。
    「そうですね。でも彼らはせねばならぬと思って諫言したのでしょう。正しいと思ったことを、行った。過去に私は自らが正しいと思う道を選びましたが……」
    垂州で友と分かれた道を思う。
    「……きっと私の思う正しさだけでは戴は救えなかった。正しさをこそ疑うべき場面はこれからも出て来ることでしょう。だから私は、知らなければならないし、考え続けなければならないと思うのです」
    「殊勝なことだ」
    吐き捨てるような声とは裏腹に口角が上がっている。それは自嘲にも似ていた。
    「ええ、ですから別に休憩をしに来ているわけではありませんのでご承知おきを」
    「後から嫌みを言うくらいなら、無視して話しを進めるのはやめてもらえないか」


    錯簡


    これまでの取引で罪人が挙げた条件は以下の通りだ。
    一つ、司法に自らの生存を明かすこと
    一つ、偽朝に属した者を偽朝に在ったと言う理由で罪を負わせぬこと
    一つ、逃亡者は仙籍を抹消し、反乱を企てず只人として生きている限りその消息を追わぬこと
    一つ、協力を要請した場合論断を一つ進めること
    台輔が協力を要請したのは六回。
    残り二つ、可能な範囲で願いを聞くと申し入れがあったらしい。

    三回の論断が終わって今日は決獄を伝える日だ。が、
    「─本気ですか」
    最後の聴取の場、花影は罪人の申し出を聞き白く色を失った顔を上げる。
    「あまりに酷(むご)い仕打ちではありませんか?」
    「何故」
    返ってきた平坦な声に、思わず目を見開いて面前の表情を凝視した。
    いつもの様に何の色ものせない顔貌だが、本心からそう言っているのだと分かって絶句する。
    「既に許可が出ている。貴女の頭越しで申し訳ないが、決定事項だ」
    事も無く言われる言葉に はぁ、と重たい息を吐いて額に手を当てた。
    「真に悪辣な者というのは、あの赭甲などではなく貴方のような人間を言うのでしょうね」
    「過分な評価を頂き痛み入るな、秋官長殿」
    嘆息混じりの花影の声に、軽く肩を竦めて答える。
    「全く、そうやって捻くれた態度を表に小出ししていればあんなことにもならなかったでしょうに。拗ねるのはおやめなさい」
    眉間に皺を寄せてそう詰れば、返ってきたのは曰く形容しがたい表情。
    「何ですか、その顔は」
    「いいや。もう随分と古い記憶で能く思い出せないが、里家に貴女のような閭胥がいたな、と思い出していた」
    「そういう所ですよ」
    き、と眉根に力を入れて睨めつける。
    「思い出を語るのはおやめなさい、情けの有る振りなどなんのつもりです、傷付く心の有るような素振りを見せないで」
    ─当たり前の人間のように振る舞わないで。いっそあれは豺虎だったのだと、憎ませて。
    「……ならば、そのように扱えば良い。人の心など持ち合わせていない、畜生以下の外道であったと伝え、憎み、自分達とは違うのだと排斥すればいい」
    「それが出来ないからこうして八つ当たりをしているの」
    眉間に皺を寄せたまま語る花影に、彼は顔を伏せふっと肩をふるわせた。
    「人の怒りを笑うなど、失礼ではなくて?」
    「失敬、しかしそれを八つ当たりと言える貴女はなるほどお誂え向きだなと思ったんだ」
    なればこそ、驍宗は彼女にこの役目を任せたのだろう。感情を躾けて客観であろうと己を律する花影であれば怒りに任せて法理を疎かにすることも、心情に流されて道理を外れることも無いだろう、と。
    「これは、冬狩ではさぞかし疲弊したことだろうな」
    くつくつと収まらない笑いを噛み殺す様子を見て花影の柳眉がつり上がったが、きつく眉を寄せ溜息を一つ零すことで宥める。
    「……全く、貴方の麾下に同情します。彼が納得しなければ全て開示しますがいいですね」
    「必要も無いだろうが、構わない。但し一つ訂正を」
    口元に笑みを含んだまま加える。
    「元 麾下だ」
    「……貴方の 元 麾下に全部言いつけますからね」
    腹が立って、態と生徒を叱る教師の様な調子でぴしゃりと言うと、罪人は堪えかねたように腹を抱えて笑い出した。



    「…あの方がそう言ったのですか。私にその役目を与えよと」
    「相違ありません」
    花影から張参へ、ことの経緯と九年に及ぶ長い論断をかいつまんだ説明が終わった。
    視線を伏せた秋官長がちらと離れた場に立つ罪人に目を向け、また張参へ視線を戻す。
    「貴方が最も適任だ、と」
    花影には何を以てそう判じたのかは分からない。
    彼はそう決まった、という事実の他に内心を伺わせるようなことは何も語らなかった。
    震える手で張参は弓矢を取った。いつも僅かに引きずっている足で地を踏みしめる。
    軍にいたとはいえ己は武人ではない。だが儀礼としての弓射は大学で叩き込まれた。
    今もその動作の一つ一つは身に染みついている。
    左の手で弓を取り、反対の手指で矢をたぐる。
    軽い。
    儀礼用とはいえこんなに軽くて大丈夫なのかと思ったところで固く握りしめた弓(ゆん)手(で)が白くなっていることに気付く。無用な力が籠もって感覚が馬鹿になっていたらしい。
    自分は一体何にこんなに動揺しているのだろう。
    目前の彼が生きていたことか。
    それを己がこれから殺すことか。
    あるいはそれを彼が望んだという事実にか。
    気を落ち着かせるために唾を飲み込もうとして舌が上顎に貼り付き、そこで初めて口の中がカラカラに渇いていたことを自覚した。
    冷たい夜の風を吸って、焼け付くように痛い息を吐く。
    呼吸を落ち着けたところで手のひらを一度強く握って、ゆっくりと開く。
    現実の身体の挙動と在るべき動作の差異を算出して己を較正する。
    己は「人」ではなく、命を果たすための機構になるのだ。意に沿わぬ命など幾らでも諾けてきた、今更罪人の処刑程度なんだというのだ。
    だが
    こんな時に何故だろう、永らく思い出すことすらなかった過去の記憶が脳裡を駈けていく。
    泥中を駆けずるような戦陣。
    名を呼び、小さく頷く動作。
    遠い遠い昔に見た、才気煥発な少年の横顔。
    この震える指が何かの拍子に緩んで、番えた矢を飛ばしてしまってくれたら良いのに。
    そんな考えとは裏腹にぎちりと矢柄を挟む指は膠で貼りつけた様に頑固だった。
    いまのこの逡巡が、須(しゆ)臾(ゆ)の間のことなのか劫(こう)波(は)に及ぶのかも判然としない。
    「叔容」
    彼─鶚鵩が名を呼んだ。
    「己の職責を果たせ。─悪鳴の鳥を射よ」
    懐かしい名前、懐かしい声だった。
    瞬転
    渺(びよう)と手元で弦が鳴る。
    奔(はし)った箭(や)は吸い込まれるように主の胸に。
    罪人の傍に控えた兵により、首が 落とされる。
    宙を舞い 転がる首の面布がめくれ、

    微かに笑んだ口元が見えた気がした。

    Tap to full screen .Repost is prohibited
    😭🙏😭😭😭😭😭😭🙏🙏🙏🙏🙏🙏🙏👍🍼
    Let's send reactions!
    Replies from the creator

    xylophagous7

    PROGRESS乍朝右界奇譚拾遺集 ─阿墨・瑞州─

    全然進まない。全然はかどらない。
    ということで二編目の阿墨・瑞州の途中経過を晒します。
    めちゃくちゃもだもだしてるところで切れてる。
    ちなみに阿墨・委州で書いたようにぎょそぴは(その手の覚悟は早々に織り込み済みの上で)ヤッチマウ人間だと思います。

    故意に既出分の内容に対する矛盾に見える内容が仕込んでありますが、くどいなと思ったら修正するかも知れません。
    乍朝右界奇譚拾遺集 ─阿墨・瑞州─阿墨・瑞州

    ──瑞州にては 黥面の孤児を探す人在り 其れ、先王朝より仕ふる王師の将帥ならめ とぞ



    再び見つけた黥面の青年、阿墨。
    考え込むように、当代の瑞州師中将軍──友尚は 顎に手を当てた。
    前の阿墨は二十六で死んだ。
    そして黙考の後に答えを出す。
    此度見つけた阿墨、その全身を這う青い墨は「前」に見たときよりも随分と薄い。初めて出会ったとき、阿墨は十代で死んだ。その次見つけた時その痣は黒々として薄まった様子は全く見られなかったのも覚えている。二十六で死んだ次の生では、痣は薄くなっている?
    きっと今度の阿墨も、友尚が庇護下において危難を遠ざけたとしても二十六を過ぎれば死ぬ。
    何故かは分からないが、そこには疑問を差し挟む余地がなかった。(あるいはそれはただ単純に二十六を超えて年を重ねる彼を想像できないという自身の問題なのかもしれない)
    1565

    xylophagous7

    DONEひゅー!最低3編書いて纏めようと思ってた内の1が書けたぜいえー!!
    最低3編ってのは右界もの2本と全く関係ないついでに突っ込んじゃおうって思ってる無関係の1本です。1書けたから残2ー!
    でも右軍の内、弦雄宣施長天伏勝の話書いてない
    書けるなら書きたいけど十月間に合わないじゃん
    そして伏勝絶対このテンション似合わないじゃん
    伏勝は「限界報告書作成講座」とかの方が絶対に似合う
    …ん?それ読みたいな?
    乍朝右界奇譚拾遺集 -願いの叶う宿帳のこと-願いの叶う宿帳のこと

    明幟の二十年頃のこと。凱州北部に舎館(やどや)あり。
    主人 人柄温厚にして篤実、有識故実に明るいとのおぼえ也。
    近隣より請われて閑日私塾の体をなす。
    使ひ古して草臥れたる木簡、竹簡、よろづに継ぎ綴じ手習ひが為に供したるものをば設(もう)ければ訪れたる者みな筆のまにまに書き遊(すさ)ぶなり。誰からと無くいつしか宿帳と呼ばへり。
    さても一つの不思議なること、此の宿帳 見れば脱簡甚だし。
    よしなしごとを書き成して、簡牘(かんとく)失せたる者の言ふ。
    「亡父の形見の盗まれたるを宿帳内にてくねりたり。一月(ひとつき)の後、出でにける」
    「尋ね人より消息来たり」
    「故郷の酷吏の妖魔に遭ひ、官位返上し下野せると聞く。いとこころよし」
    8135

    recommended works