夜の誘惑 ─くすりぐい──くすりぐい─
「俺は情報を伝え合意を得るというのは、人間関係において非常に重要なことだと思っている」
改まった態度で言われた言葉に はあ、となんとも気の抜けた返答をしてしまったのは、それを言った当人が何の事前情報も無く謀反を起こした上で説明を尽くさず誅伐を下命してきた人間だからだろうか。
それとも話し合いのテーブルの上に載せられた一枚の皿と横に添えられた日本酒の為だろうか。
「……まあ、晩節はいろいろありましたが 元々は説明を厭わず言葉を尽くす、そう言う方でしたよね」
「嫌な話を蒸し返すな」
蒸し返されたかつての謀反人は眉をしかめるが、成行としては何で今自分たちは謎のつまみ(多分)を挟んでこんな話をしているのか、全く流れがつかめずにひたすら困惑している。
「折角の金曜日だから晩酌でも、という話に何かインフォームド・コンセントが必要な要素ってありましたか?」
そう言いながら首をひねるが、いいや 思い返してみても全く無い。
というか、成行が「ひやおろしを頂いたので、金曜ですし今日は飲みませんか」と言ったところで急に同居人が真顔になって厨房から皿を持ってきて今この状況に至っているので、冗談抜きで今己には何の情報も無い。
「いや…どうしたものかと迷っていたんだが、いきなりお前が都合良く酒の話とかするからだな…」
蟀谷を押さえるその様子からは、実際にかなり迷っていたであろうことが見てとれた。
「……阿選さん、とりあえず確認なんですが、その皿に載っているのは食べ物で合ってるんですよね? そしてその食べ物について貴方には何か思うところがある、と」
成行の指さした先、皿の上には…何か─なんだこれ─海の物とも山の物ともつかぬ何かが三切ればかり鎮座している。
「まあそうだ」
たべものらしい、という一応の肯定を得たのでさらなる情報を得るべく、深掘りしていく。
「晩酌の肴にこれを、という話かと思いますが。これに何か問題が?」
んん、とかうん、とかいう呻きと共に眉間のしわが深くなった。
「もしや死んだと見せかけて箸でつまんだ瞬間襲いかかってくるタイプの悪性新生物ですか?」
「やめろ!驍宗特製黄海飯の話をするなここは日本だそんなやばい生き物いて堪るかきちんと死んでるわ!あんなものと一緒にするな、人間の食べ物だしあれに比べれば十分に旨い!」
目を剥く勢いで反論されて思わず成行はたじろいだ。
禁軍時代に合同訓練で左軍から提供された食事でどエライ目に遭った記憶はあったものの、幸か不幸か成行はエピソード記憶はあれど味などの委細は覚えていない。が、目の前の人物はその味までしっかり覚えているのだろう、口に出した瞬間拒絶反応がすごい。
しかし、あれに比べれば、ということは……
「何かを作ろうとして失敗なさいましたか?」
「いや、特筆するほどに旨いものでもないが、一般的な感覚としては多分 酒のあてで言えば烏賊ゲソの燻製くらい日本酒に合う」
「つまみ界の上位層じゃないですか…」
味に難があるというわけではないらしい。
「何に悩んでいらっしゃるのか位は教えて頂けませんか?」
「あー……まあ、そうだないつまでもこうしてるわけにも行かないしな…」
ざっくりといえば、という前置きの元で説明された内容は以下の通りであった。
小説のネタに使いたいと、随分前になじみの業者にとある珍味を求めており それがひょんなことから手に入ったらしい。どうも生薬の原料に使われるもので、生食できる状態で手に入るのは非常に希なのだとか。
「今朝届いたから、まずは自分で食べてみたんだが、正直さして旨いとも思わないし今に至るまで生薬としての効果も全く感じなくてな……」
正直このままだと何のネタにならない。
「で、生薬は精製薬剤と違って効果に個人差が大きいと言うだろう? そこでN数増やせばまた違う結果が出るかなって思ったんだが……人体実験みたいでなんか…なんかな…」
それは分かる。阿選自身 琅燦から実験の具にされた(言い方が悪いが)覚えがあるので拒否感が強いのであろう。
「ついでに言うと明日の午前俺は他社担当とオンラインミーティングがあるから万が一お前の体調に悪影響が出ても対応できない」
「そんな強い薬なんですか?」
いくら合わない薬だったとしても、大人が寝込んだりする可能性があるようなものがほいほい売られているとは考えにくい。
「全く効かなかった俺に聞くな」
じとりとした半眼で言われる。そう言われてはなんとも。
「むしろ『こんな効果が~』などと話してはプラセボ効果があるかもしれんからな。あまり詳細を教えるわけにもいかない、というのも事をややこしくしている要因だ」
「……なるほど」
デメリットを説明した上で同意を得るべきところだが、その説明を受けたことで思い込みの力が働くかもしれない、だから説明がしにくい、説明もなしに薬に類する物を食わせるのはどうなのか、ということか。
「わかりました」
小さく溜息をついて席を立つ。
厨房から戻ったところで何故か焦った顔の阿選と行き会った。成行が席を立った後に追って来たのか。
「……どうされましたか」
「いや、流石に怒ったかと……」
いや、ただ単に箸を取りに行っただけだ。今し方とってきたばかりの右手に持った箸で皿の上の物をつまんで口に放り込む。
「あ」
「これで、悩む理由はなくなりましたね? 私は折角なら酒は楽しく飲みたいんです」
そう言いながら謎の─なんだこれ─何かを咀嚼する。
「説明は先ほどの話で十分です。あとは貴方がただ私に『頼む』と仰って下さればいい」
口に入った何かはなんとも言い難い食感をしていた。キクラゲの様な、海鼠のような、ホルモンのような…
「……海産物ですか?」
「いや、どちらかというと山でとれるやつ」
焼けて縮んだ黒っぽい皮に脂身のような白く透明感のある何かがついている。野菜には見えないが見慣れた動物の肉とも思えないその見た目から何らかの海の生き物を炙ったものかと思ったが違ったらしい。正体の分からないものを食べているという不気味さはあるものの、油っぽい見た目に反してあっさりとしていて独特のうまみも在り、中々美味しい。
そう伝えると、どこか安堵したような微かな笑い。
「そうか……じゃあ、その調子で残りの二切れ分の食レポも、頼む」
言いながら下がった眉尻が訳もわからず愛おしい。
折角なので他のつまみも用意して、二人分の酒杯を用意した。
皿の上に残った二切れは、相変わらず来歴の分からぬ見た目で成行の箸を待っている。
ぱっと見た感じは 直径三センチ程度の、スライスされた円形である。海産物かと聞いたのは、まずその見た目で輪切りにされたナマコを連想したからだ。炙られて縮れた黒い皮に白っぽい身の部分、そう思うと鯨の皮にも似ている。
「特に臭みもありませんし……コリコリした歯ごたえは軟骨みたいですね。シンプルに塩で焼いているようですが、バター醤油で味付けしても合いそうです」
動物の肉のような、タンパク質のうまみは感じるが脂っ気はあまり無い。バターも良いがごま油も合いそうである。残った二枚の内の一枚を食べて、ぐい呑みについだひやおろしの日本酒を飲み干す。
口の中に漂っていたうまみをきりっとした日本酒が胃袋に流し込んでいく。旨い。
先ほど「特筆するほどには旨くない」などと言っていたが、これはむしろ特筆しても良い水準だと思う。まあ、そのあたりは個人の感覚と好みの話であろう。成行からしてみれば「珍しい物を食べた経験」という枠内であれば十分に話のネタになる味である。見た目のとおりにただ炙っただけで食卓に出せるのであれば、下ごしらえの大変な熊の手や鶏の足より一般うけしそうだ。
「そう言えば希少だと言っていましたね。あまり一般に知られていない物ですか」
合間に貝ひもやら酢の物をつまみつつ一献傾ける。
「いや、漢方とかで配合されてるのを知らない間に飲んでる者は案外多いと思うが……まあ一般的には食品だと認識されることはほぼないな。本来乾燥させて粉末にしたり酒に漬け込んだりするんだ」
入手元の業者が言うには、今口にしているこれも、冬になったら乾燥させるつもりで初夏にとれたものを冷凍保存してあったらしい。
「ああ、どうせ効かないなら朝食べずに俺も酒と一緒にやれば良かった」
酢の物を咀嚼しつつ無念そうに嘆息をこぼした。
「最後の一つ食べますか?」
「薬は用法用量を守って摂取しろ。具体的には一日三枚までだ」
既に三枚食べているのでそれ以上は食べれない。
「では申し訳ありませんが最後の一切れは頂きます」
「構わない、食え食え。それは元からお前の取り分だ。薬効が出るとしても多少時間はかかるだろうし、明日にでも何か普段と違うと感じる事があれば些細なことでも構わず教えてくれ」
もくもくと貝ひもを噛んで酒を干し、そう言った。
最後の一枚がその晩のお開きの合図になった。
翌朝である。
「何なんですか昨日のあれは!?」
血相を変えた成行がリビングに飛び込んできたのは朝六時。
休みの筈の土曜にも律儀にいつもの時間に起きてくるあたり勤め人根性が染みついている。
「おはよう。その感じだと何かしらの効果が出たみたいだな」
体調は? 最近肩こりがひどいと言っていたが変化は感じるか? 手足の体感温度に変化は?とメモ用の壁掛けホワイトボードを手に取り事細かに聞き取りを始めて来た。
「体調はすこぶる良いです。そろそろ整体にでも行こうかと思っていた肩こりが何故かましになっています。手足は少しぽかぽかしてます」
いやそんなことよりも、だ
「すごいな、フルコンボだ。いくら体質によると言ってもここまで効果が違うものか? 酒か? 酒と一緒に口にしたからか? それとも僅かな部位の違いで成分に影響が?」
メモをとりながらブツブツと口の中でつぶやいている。
裳の如く腰周りに巻いたタオルケットを踏みつけないよう裁きながら、前のめりの体勢でにじるように移動する成行が地獄の底から響いてくるような声を上げる。
「阿選さん……貴方、もしかしてこうなることを予想されてましたか?」
「いいや、半信半疑程度だ。実際に自分は全く効かなかったからな」
距離を詰めて成行のタオルケットに手をかけて捲ろうとする。
「やめて下さい!」
「いや、折角効いたんだし効果は確認しておきたい。普段との違いは? 角度とか硬さはどんなだ。物理的な変化の他に気分にも影響って出るのか?」
「どういう辱めですか!」
タオルケットを奪おうとする手を上から掴んで抵抗する。
「それで、あれは、一体何だったんですか……!」
噛んで含めるように一区切りごとに圧を込める。般若の様な表情になって、口の端から蒸気でも出てきそうな気迫である。
「鹿茸だ」
「───」
絶句。
「……禁止薬物じゃないですか!」
「流石に知ってたか。お前は狩猟免許を持ってるから見た目でばれるかと思ってヒヤヒヤしてたんだがばれずに済んで良かった」
ちなみに禁止薬物なのはスポーツ界の話であって、普通に食べて問題はない。ドーピング検査なんて風邪薬でも該当するものがある位だし。とありがたくない解説を付けてくれた。
「昨日殊勝な態度とっていたのはまさか罠ですか…」
「いや、きちんと説明した上で合意を得たいところなんだが、というのは本気だ。しかしああ言えばお前は詳細は伏せたままでも条件を飲んでくれるだろうなという打算は多少あった!」
なんということだ。まんまとしてやられた。
鹿茸。ろくじょう。茸と名はつくが茸ではない。見た目が茸のようだからそのように呼ばれているだけである。
端的に言えば鹿の袋角だ。一年に一回生え替わる鹿の角。春先から初夏にかけて伸びてくる、その年の角の生え初めの姿。ビロードの様な皮に包まれた角は、伸びきって中の角が硬化するまでは柔らかく、一般的な軟骨同様調理すれば普通に食べられる。
その効果は多岐に渡るが代表的な者を列挙するならば 滋養強壮、筋疲労の回復、怪我の治癒の促進、増血、そして 精力増強。
嘘か真か知らないが、一部界隈ではこう呼ぶ者もいるとかいないとか。
『まらたけりたけ』
タオルケットで隠した成行の下肢は…つまり、今そういう状態になっている。
「これだけわかりやすく実地検証してもらったところ申し訳ないが、昨日も言ったとおり今日は朝一で打ち合わせがある」
「つまり?」
「自己処理するか収まるまでがんばって耐えてくれ」
すまんな! と良い笑顔で言い切るとメモしたホワイトボードを片手に滑るような早さで自室へと駆け込んでいく。
その背中に恨みの籠もった視線を向けて、成行は返報を誓ったのだった。