常世のあのね目次
常世のあのね
常世のあのね 二冊目 蒿里のはなし
常世のあのね 三冊目 阿選のはなし
常世のあのね 四冊目 驍宗のはなし
分冊 常世のあのね 一冊目
分冊 常世のあのね 二冊目
分冊 常世のあのね 三冊目
一年後のあのね
分冊 常世のあのね 四冊目
常世のあのね
「こうかん日記をしてくれませんか?」
よく晴れた気持ちの良い午後、白圭宮の園林を散策している最中に傍らを歩く黒麒が言った。
「交換日記…ですか?」
阿選にはそれが一体如何なるものか分からず返答できずにいると、困っていると思われたのか付け足すように話が続けられた。
「うん、その日にあった出来事なんかをね、ノートに書いて次の人に渡すの。そうしたら次の人はそれにお返事を書いたり、自分のその日の出来事を書いたりしてまた次の人にわたすの。小学校ではおともだち同士でやったり、先生に出したりするんだよ。」
つまりは文のやり取りを一冊の帳面で行うということだろう。
「…やっぱり、忙しいからだめかしら。」
遠慮がちに言い、軽く俯いて沈んだ様子になってしまった。
「いいえ、駄目などということはありません。しかし一日の出来事を報告するのであれば、私などではなく主上となさるのが宜しいかと存じます。」
忙しさで言えば王の方が忙しいだろうが、半身とも言える麒麟との他愛もないやり取りの時間も取れないほどではない。最近は泰麒も正頼と共に州侯としての政務を学ぶようになり驍宗といる時間が減っている筈だ。ならばやはり、情報の共有は王とすべきだろう。
そう考えていると、泰麒は鋼色の鬣を横に振った。
「ううん、違うの。阿選と驍宗様とでこうかん日記をしてほしいの。」
言っている意味がよくわからない。
「…おっしゃる意味が理解できないのですが。」
ううーん、と小さな手を胸の前で組んで考え込んでしまった。どう説明したものかと迷っている様子だ。
「えっとね、まずは何も言わずにこれを読んでみて。」
袍の懐から小さな帳面を取り出し、阿選に手渡す。表紙を捲ると、習いたてのたどたどしい、しかし丁寧に書かれた文字が見えた。泰麒の字だ。
次の項には太く黒々とした力強い筆致が見える。こちらは驍宗の手だろう。
なるほど、これが泰麒の言う交換日記というものか。
他者の文を見るというのも気まずいが、本人が構わないと言っているので目を通す。
─驍宗様へ、きょうは李斎といっしょに飛燕のおさんぽに行きました。どこにいくのか聞いても教えてくれないのでどきどきしていたら、お花がたくさんさいている原っぱへ着きました。李斎におくったお花のお返しに、この景色のきれいな場所へつれてきてくれたんだそうです。とってもすてきな景色でした。李斎のとっておきのひみつの場所だそうですが、驍宗様になら教えてもいいって言ってくれたので今度いっしょにいきましょう。
─とても楽しみだ。今日の昼餉は豆の羹だった。とても美味だったので今度夕餉を共にする時蒿里にも出そう。
─驍宗様、とってもおもしろいことがあったので聞いてください。正頼と英章が囲碁の勝負をしていたのですが、正頼がとちゅうで英章の目をぬすんで碁石をひとつかくしてしまったの。正頼があんまりニコニコ笑っていたので英章もすぐに気づいたのですが、かんかんに怒って今度は正頼に見えないように碁石をそっと正頼のお茶の中に入れてしまったんです。
碁盤を見ていた正頼は気づかずにお茶を飲んでしまってものすごくむせていました。正頼の口からすごいいきおいで石が飛んでいくのを見て、僕、とてもびっくりしました。そこからは、どうにかしてあいてに分からないように碁石を隠す勝負になってしまって、最後には碁盤の上に一個も碁石がなかったんです。僕はじっと二人の手元を見ていたのに、いつのまに碁石がなくなってしまったのか分からなくて、まるで手品を見ているみたいでした。
─蒿里が楽しそうでなによりだ。今日は計都に視養を持って行った。退屈そうにしていたので時間ができたら共に遠乗りに行こう。
「・・・・・。」
泰麒の書く、その日の出来事とそれに対して自分がどう感じたか、拙いながらも丁寧な、読み手に対する気遣いに溢れた文。それに対して、驍宗の文章はひたすらに簡潔を旨としており、しかも話の内容がほぼ、飯、騎獣、飯、騎獣、時々政務、飯、騎獣である。
「驍宗様がお忙しいのは分かっていたんだけど、もしかして僕は驍宗様に嫌われているのかしらって思っていたら、正頼が主上はじょうちょがひんしでいらっしゃるから、って」
情緒が瀕死。なるほど言い得て妙だ。
軽い頭痛を覚えて蟀谷に手を当てる。
「僕はまだよくわかっていないけれど、王様って、他の国の王様にお手紙を出したりすることもあるのでしょう?この感じで大丈夫なのかしらって不安になってしまって。」
いや、さすがに国書に飯と騎獣の話は書かないだろう。…書かないよな?
「正頼はとってもお手紙書くのが上手だから、先生になってくれないかって聞いたら『文官は元より文章を書くのがお仕事な所がありますからな。私の文がお手本では主上もやりにくいでしょう。同じ武人である丈将軍は先王の時分より墨跡流麗で美文を書かれると評判でしたので、お手本にするのであればそちらの方が方向性が近くてやりやすいと思いますよ。』って教えてくれたの。」
先の王は風流を愛する所があったので、宴の趣向によく詩歌や文を取り入れていた。武官といえど階級が上がれば参加させられることもある。
だがしかし、己のそんな評判は聞いたことがない。
感性が捻転している主公の世話役を押し付けられるのを忌避してこちらに振ったのだろう。切実に巻き込まないでほしい。
…いつのころからか驍宗が歌会には出席を求められないようになったのは、てっきり態度の悪い州侯を殴り倒したせいかと思っていたが、まさか作ったのだろうか。飯と騎獣で詩歌を。
不意に「驍宗は風雅を解する心と可愛げがない」と驕王が嘆いていたのを思い出す。
「…台輔、私とて不調法者ですので、到底主上に文をお教えするような立場にはありません。まして御多忙の身、台輔と主上とでしたら兎も角、一臣下に貴重なお時間を割いて個人的な書簡のやり取りなど他の者からすれば面白くないでしょう。」
仮朝の時分よりは減ったが、未だ口さがない者は多い。要らぬやっかみを買うのは御免だ。
「僕と、驍宗様とだったらいいの?」
「台輔と主上は戴を支える二つの柱です。お二人の親睦が深まるというのに文句を言うような輩はおりませんよ。」
だから、がんばれ。泰麒のひたむきさにいつか驍宗に情緒が芽生える日が来るかもしれない。遠いいつの日にかは。仙なのだから百年単位で考えればきっと。
若干遠い目をしつつ、泰麒に微笑みかけた。
「じゃあ、僕も一緒にこうかん日記書くから、三人でやろう!」
ん。
阿選の笑顔が音を立てて固まる。何かがおかしい。
阿選:台輔と主上と(の間で書簡のやりとり)であれば兎も角
泰麒:僕と、驍宗様と(一緒に交換日記)だったらいいの?
待ってほしい、誤解だ。何も三人で交換日記がしたくて言ったのではない、ただただ穏便にお断り申し上げたかっただけなのだ。
「それじゃあ今日は僕が書くから、これからよろしくね!」
この小さな台輔に、弾けるような眩しい笑顔で言われて断れるものがあるだろうか。
ひきつった顔のまま、阿選はただ微笑んでいた。
常世のあのね 二冊目
─今日から僕と、驍宗様と、阿選と三人でのこうかん日記がはじまることになりました。今までは驍宗様と二人で書いていたのでかわりばんこでしたが、三人だとぐるぐる回して順番こでいいのかしら?何かいい方法を思いついたら教えてください。僕はまだ字が下手なので、字が間違っていたりしたら正頼がするみたいに朱墨を入れても構いません。正頼は間違っている所に朱墨でぺけをつけて、正しいお手本を書いてくれるのですが、その字がとっても上手です。でも、絵は少し苦手みたい。この前、上手に書けた場所にかわいいイワトビペンギンが描いてあったのでうれしくなってこちらにもペンギンがいるの?と聞いたらこれは飛燕ですとにが笑いされてしまいました。正頼に悪いことを言ってしまいました。
それでは二人ともこれからよろしくおねがいします。次は、阿選の番です。
─この度僭越ながら主上と台輔の交換日記に参加をさせていただくことになりました。
この日記が台輔の手習いの一環で、傅相である正頼が多忙のためこの件についてのみの代理を務めさせていただくという立場になりますのでご無礼を申し上げることもあるかと思いますがなにとぞご容赦いただきたく存じます。
台輔は字が下手だとご謙遜なさいますが、慣れない中でも読み手に分かりやすいよう丁寧に書かれていることが筆跡からわかります。私はとても好ましく思いますよ。
講評に飛燕の戯画をつけたという正頼もおそらくは同じ気持ちでしょう。
末尾になりましたが、宜しくお願い致します。
─蒿里から阿選も日記に参加すると聞いたときは驚いたが、夏官が阿選の献策書は字が綺麗で論講が分かりやすいと言っていた。教師役には向いていると思う。
時に、二人で帳面の往復をしていた折の当日の出来事を読めるという即時性が捨てがたいので可能なら順回しではなく一人書き終わる度に一読の機会があると嬉しい。
─わかりました、じゃあ僕の日記を書く前に阿選に一度渡します。そのあと僕に戻してもらって、僕が書いたらまた阿選と驍宗様に読んでもらって、次に阿選が書いたら驍宗様が書く前に僕も一回読んで…あれ?えっとすみません分からなくなってきました。あ、僕がここでお返事を書いてしまったら普通に日記を書いてしまったことになるのかしら?
─台輔、そのお考えであっております。読んだということが分かりやすいので相手の記載に評注をつけるのは良いのではないでしょうか。阿選
─こうかん日記にコメントが付くってなんだかうれしいですね。宿題に先生がお返事くれてるみたいで楽しいです。
今日は景台輔からお手紙が届きました。
以前白圭宮にいらっしゃってお庭をご案内…というより一緒に探検した時のことが書かれていて、お手紙と一緒にきれいな布と葉っぱで作られたしおりが入っていました。なんと景台輔の使令のお耳に絡まっていた白圭宮のお庭の木の葉っぱだそうです。なんだか捨てがたくって時々ながめていたら、景王がご自身で織った布と合わせて押し花にしてくださったのだと書いてありました。ふたつ作ってもらったのでもう片方を僕に、と送ってくださったそうなのですが…王様から頂いた大切なしおりを僕がもらってしまってよかったのでしょうか。今度景台輔と景王に何かお礼をお送りしたいと考えています。こういうことって誰に相談すればいいのでしょう。礼典や儀礼のことは春官にと聞きましたが、お礼とは意味が違いますよね。外交は秋官がやっていると言いますが、外交って、偉い人がほかの国に行って仲良くしましょうって挨拶をするイメージがあるので、それも少し違うような気がするんです。
少し悩んでしまったけど、おくり物を考えるのはとても楽しいです。
─景台輔と懇意にされているとは聞き及んでおりますが、年の離れたご兄弟のようですね。あくまで私的なお礼を、ということであればまずは寺人にご相談されれば手伝ってくれますよ。阿選
─景台輔には私からも改めてお礼を申し上げたい所だ。公式に送っては大仰になるので蒿里が送る時に紛れ込ませてもいいだろうか。驍宗
─所用があって冬官府を訪ねたところ、大司空が天官と揉めていたので仲裁に入ることになりました。いずれ正式な報告が上がるでしょうからここでは仔細は省きますが、どうやら先王が香入れに用いていた紫檀の小箱を細工物に加工したということで、その連絡の行き違いがあった模様です。
一体何に用いたのかと尋ねてみると、趣味で自鳴琴を作っていたのだとか。揉めた相手の目の前で趣味でと明言してしまうのは如何なものかと思いますが。
自鳴琴を見たのは初めてですが、中々よくできていて感心致しました。元は海客が作り方を伝えたものと聞いていますので、台輔は馴染みがおありでしょうか。
─オルゴールのことですね!おうちにもありました。ぜんまいを巻いて丸い部分がぐるぐる回るのを見るのが好きです。蒿里。
─琅燦か。事後承諾はやめるようにとよく言うのだが、あいつは自由だからな。驍宗
─厩舎に行って計都の毛並みを梳ってやると毛玉がごそりと取れた。どうやら秋が深まってきたようだ。もうじき冬が来る。
─騎獣も季節で毛が生え変わったりするんですね。むかし、ご近所にいたしば犬が冬になるともこもこになっていました。もこもこの計都、楽しみです。蒿里
─主上、ご多忙なのはわかりますが、ご連絡がある時は朝議以外で台輔とお話をなさった方が宜しいかと。阿選
─寒くなってきたから、と李斎の邸の奄が新しい旗袍を届けてくれました。しっかりした布で作られていてとても暖かかったです。直接お礼を言いたかったので李斎の居場所を聞いたら、花影のお家に行ってると言われました。僕も行ってもいいか聞いたら、お茶のおさそいをしてもらったので、午後のお仕事が終わってからおかしを持って潭翠と一緒に行くことにしました。みんな最近は忙しいみたいで、花影も少し疲れていたみたいです。でも甘いものが大好きだっておかしを喜んでくれたので僕もうれしくなりました。
花影がやさしいふいんきだから、一緒に並んでいる李斎がなんだかかっこよく見えてしまって、そう言うと「それは李斎が軍隊式でがさつだからですよ」とからからと笑われました。でもそう言って笑う李斎はやっぱりかっこよかったです。
─台輔、ふんいき、が正しいです。確かに寒くなってまいりました。神仙は滅多なことでは病気などしませんが、御身ご自愛ください。阿選
─確かに、花影と一緒にいると李斎の凛々しさが際立つな。驍宗
ぱたん、と読み返していた日記を閉じて泰麒はふうと息をついた。まだ文字を読むのは少し疲れる。しかし二人とも、泰麒に分かるようになるべくやさしい言葉を選んでくれているのが分かるので、こうして何度も読み返して勉強をしている。
相変わらず驍宗の書く日記は端的だし文面がぶっきらぼうだけど二人だけで日記を交換して書いていた時より少し距離が近くなったような気もする。日記の内容とは別でコメントをつけてもらえるのもうれしい。
日々の出来事を書くのは大変だけど正頼に教えてもらった字を早速使ってみたり、朝議の時に出てきたちょっと難しい言葉を文章に入れてみたり、実際に何かを書く機会があるというのはとても勉強になる。それにこうやって読み返すとその時にあった出来事が鮮明に思い出されるようで、このノートは泰麒にとって大事な宝物だ。
「さあ、今日は何を書こうかしら。」
常世のあのね 三冊目
─暫くの間沙汰も無く申し訳ありません。ご存知かとは思いますが、来春より築堤の任にあたる予定箇所の視察に行っておりました。本格的に雪の降る前に、想定される領域の規模の把握と人足の必要数の検討をしておきたかったので。
長期任務に就くこともあるため私が鴻基に居ない時はお二人で日記を回して下さいと言って出立したつもりでしたが、まさか鴣摺が日記を運んでくるとは思いませんでした。
さて、今回訪れたのは川幅のある大きな河川ですが、この季節は流れも穏やかでとても氾濫するような暴れ川とも思われず天の働きと言うものに思いを致しました。
只の事前視察ですので予定は滞りなく済みましたが、変わったことと言えば、視察に同行していた師帥の友尚が台輔の背丈ほどもあるハクレンを捕りました。視察の間に滞在していた里の閭胥の家に持っていくと大層喜ばれました。
─ハクレンは濃い目の味付けで米と一緒に炊き込むと旨いな。驍宗
─僕ぐらい大きなお魚が川にいるの?すごい、見てみたいです。蒿里
─昨日の阿選の話ではないが、今日は昼餉に川魚の焼物が出た。やはり少し臭みがあるので大型の家魚は焼くよりも羹に入れるか揚げる方が好きだ。
─大型ということはそのお魚も大きいんですか?お庭の池にもいるでしょうか。蒿里
─私としては調理法よりも友尚の健闘に注目して頂けると嬉しいのですが。阿選
─大きなお魚を釣った友尚のお話を聞いてみたくて、お昼休みの時間に右軍府へ行ってみました。阿選も友尚もいなかったので少し残念でしたが、軍吏の恵棟がお茶を出してくれました。白圭宮で普通に使われているお茶っぱのはずなのに、とてもいい香りがしてびっくりしました。恵棟はお茶を美味しく入れるのが上手なんですね。何かコツがあるの?と聞いてみたら「飲んだ人が美味しいって言ってくれる顔を想像することくらいですよ」と笑っていました。蓬莱にいた頃「料理の一番のかくし味は愛情」ってよく言われていたのでそれと同じ感じなんでしょうか。
恵棟は友尚のお友達だそうなので、今度お話を聞きにおうちに行ってもいいか相談してみたらなんだか…ええと、なんでしょう、とにかくすごい顔をして「友尚の邸は人を呼べるような場所ではないので今度台輔のお時間のある時に友尚を向かわせます」と言っていました。もしかしてとっても遠かったり、険しい山あいのおうちに住んでいるのでしょうか?
─ご足労頂いたのに申し訳ありません。後ほど恵棟を褒めておきます。阿選
─霜元から友尚の邸の話は聞いたことがある。「あれはあれで中々壮観」だそうだ。驍宗
─後ほど友尚を叱っておきます。阿選・再
─本日は大変良く晴れていて見事な白陽でしたね。庭院に突然正頼と台輔のお姿が見えたときは驚きましたが、あの後雲海のご様子は見られましたか?そして主上はきちんと台輔とお話はされたでしょうか。
─大事ない。驍宗
─…はい。禁門の外に出たときに漣に行くお話を聞きました。蒿里
─昇山以来、野営をする機会もなく長いこと料理などしていなかったので久しぶりに何か作りたくなった。蒿里も食べられるものをと考えているが何が好きだろうか。
─驍宗様がお料理をされるんですか!?そういえばご飯のお話をされることが多いので作るのも好きなのでしょうか。僕は揚げた花巻とおかゆがいっしょに出てくるのが好きです。楽しみです!蒿里
─台輔、絶対におやめ下さい。主上、やめてください。阿選
─日記を僕にもどす時に阿選は怖い顔で「絶対にダメです」と念押しをしていました。
なんだかそれ以上くわしく聞けなくてあいまいにしてしまったんですが、ここで理由を聞いてもいいかしら…?なまぐさは食べちゃいけないというのは分かっていますが、食べていいもの、いけないものは文遠からちゃんと聞いていますし、驍宗様もそこはごしょうちされていると思うの。
…ごめんなさい、お忙しいのにわがまま言ってはだめですよね。
─読みました。阿選
─蒿里、私としても話に出した時点で政務の調整の目途は立っている。わがままなどということはない。使う食材も黄医に確認したものを使うがそれでもだめか、阿選。驍宗
─誤解なきよう申しておきますが、台輔はもっとわがままを仰るくらいで丁度良いです。
しかし矛盾するようで恐縮ですが、主上の手料理は絶対に駄目です。
もう随分前の事です。
主上が黄海から禁軍へ戻られた後の合同訓練で、黄朱から伝え聞いたという料理をおつくりになったことがあります。どこででも採れる食材を用い、栄養価は大変に豊富、日持ちもして携行にも便利ということで黄海にいる間主上は好んでそれを食していたとおっしゃっていました。合同訓練でしたので右軍へも提供され皆で食べましたが、軍馬の糧秣さえ平気で食べる兵卒が、泣きながら食事をしている所を見たのは後にも先にもあの時だけです。左軍の古参麾下に訪ねたところ「下野する前も相当だったがまだしもここまでではなかった」と遠い目をしておりました。その訓練に参加していた兵卒の中には心に傷を負った者もおります。どうぞご理解ください。
主上の名誉のために調理の手技だけは惚れ惚れするほど見事であったことを付記しておきます。
─心に傷…。それほどか。驍宗
─ええと、つらいことを聞いてしまったみたいでごめんなさい。蒿里
「やあ、丈将軍。次蟾はご入用かい?」
人通りのない走廊を歩いていると、突如声が掛かった。
「琅燦、その件についてだが…… そういえば天官と揉めた件、ちゃんと報告は出したのか?」
言われて琅燦は眉をしかめた。報告書は出していなかったようだ。
「その節はどーも。すっかり忘れていたよ。まさか、あの時わざわざ冬官府まで来たのは今の話に関係あったのかな?」
言われて、はたと考える。
いいや、まだあの時は心が決まっていなかった。ただ、用ともとも呼べないような用で冬官府を訪れたのはたしかだ。あの時に琅燦が天官と揉めて─というか一方的に天官が怒っていただけだ─いなければ同じ話をしていただろう。
もしも迷いのある状態で今と同じ質問をされていたら自分は何と答えていただろうか。
「どうだろうな。ただ、不要だ、と伝えておく。」
言うと相対する琅燦は片眉を跳ね上げる。
「へぇ、そりゃまた意外だ。てっきり話に乗ってくるだろうと思っていたからね。どういう心境の変化か聞いても?」
心境の変化。
言葉に出されて初めて、自分が今あの言い様のない息苦しさを感じていないことを意識した。
驍宗の様だ。驍宗がいないなら仕方ない。驍宗ならもっと上手くやる。驍宗の紛い物。
周りの比較する声に息が詰まっていた。
さらには自分は驍宗の目には映ってもいないという事実。例え目に入っていたとしても、道義に悖るような命に諾々と従うような男としてだ。
驍宗に侮蔑の目を向けられるのは歯牙にもかけられないよりも一層耐え難い。そうして鬱屈したものを腹の底に溜め込んでいた。
しかし
「よく、驍宗と私は似ていると言われてきた。」
「まぁ、そうだね。年が近くて経歴が似通っていて、背格好はほぼ同じだ。」
ぽつりと話し出した阿選に、琅燦は相槌を打つ。
「最近気づいたんだが。」
すっと一拍、息を吸う。
「その三つ以外、全く似ていないな?」
ああ、空気がうまい。
それを聞いて琅燦は大笑した。
「ああ、ようやく気づいてくれたようで何よりだよ。あんたと驍宗様が似ているってなら、あんたとあたしもそっくりだってもんさ。」
「流石にそれは無いだろう。」
眉をしかめるが、琅燦は目じりに涙を浮かべるほど笑っている。
「あぁ、おかしい。いいや一緒だよ。胴体から手足と頭が生えていて、目耳鼻が二つずつ、おまけで口は一つだけ。どうだ、蠱雕や賓満と比べれば瓜二つじゃないか。似ている、似ていないなんて、そんなもんだ。結局言う方の勝手なのさ。」
全くだ。皆好き勝手を言う。
「ついでに言わせてもらうと、驍宗はあまり物を深く考えていないな。…いや、違うそうじゃない。深くは考えているし先見も鋭いのだが、なんというか…」
「人心に頓着しないだろう?」
「そう、それだ。」
驍宗は良くも悪くも人の心の機微に疎い。
相手の感情自体は明敏に感知しているであろうに、それに全く頓着していない。
他人がどう考えるか、どう感じるか、自分と他人をすっぱりと分けて顧みない。
相手の考えを尊重する態度であるともいえるが、はっきり言えば大体の場面で「お前は人の心が分からない」と言われるものだ。
おそらく、驕王の宣旨を拒んだのは自分がそうしたかったからそうしただけで、命に従った阿選を見ても特に何も思いはしていなかっただろう。
視野にないという意味では胸は痛むが「そういうやつだから仕方がない」と思える程度には気が軽くなっていた。ほぼ野生の虎と思えばいい。
「そういう訳で、大司空殿のお申し出は有難くも丁重にお断りさせて頂きましょう。」
慇懃に言って肩をすくめる。
「はは、なぁに。先日も吹っ掛けられた喧嘩を丸く収めてくださった右将軍殿が、御自ら決めたことだ。気にすることはない。天意を試すことができないってのは残念だけど、その方がよかったと思うよ。」
琅燦がそう明るく言い放つのを阿選は意外な心持で聞いた。
「まさか嗾けておいて『やめてよかった』などと言われるとは思わなかったな。」
「そりゃあね。興味には勝てないがこの国が嫌いな訳じゃない。進めば不幸になると分かってるなら留まれれば幸いさ。面白いことは他にもいくらでもある。」
ああ、そうそう。琅燦は思い出したように続ける。
「あんたがそう思うに至ったのは、あの麒麟さんと一緒に何か書きつけてる帳面、あれが関係しているのかな?」
台輔の交換日記。確かにあれがきっかけの一つではあった。
常々驍宗が何を考えているのかと思いをめぐらせていた。
驍宗が「どう考えるか」は何もせずともよく分かる。思考の流路がよく似ていたから。
だが心の裡までは分からない。
その点で、直に相手の日々を、その目を通して文字に起こされたものを読むことで、何を見て、何を感じて、何を思うのかに触れられるというのは新鮮だった。
お前、あんな大ごとがあった日に書く日記の内容がそれか、とか。この話を聞いてそんな感想書くか?とか、思いもよらない一面だったように思う。きっと自分の日記もそのように読まれているのだろう。
「ああ、そうだな。台輔は面白いことをなさる。」
渋々始めた交換日記だったが、今となって少し楽しんでいる自分を自覚する。
今日の日記には、何を書こう。
思うと自然と口角が上がっていた。
常世のあのね 四冊目
─久しぶりの日記の再開に柄にもなく嬉しくなってしまった。蒿里、長旅ご苦労だった。疲れてはいないだろうか?漣は随分と暖かかったと聞いた。急な変化に体調を崩さないように気をつけなさい。
─僕も嬉しいです!旅の途中でも、漣でも、面白い事がいっぱいありました。この日記と別のノートに旅日記をつけておいたので、また今度お話しますね。蒿里
─主上に於かれましては、この一月恙ないようで安心いたしました。台輔もご立派にお勤めを果たされましたね。しかし気が張っている間は気づかなくとも、旅の疲れは溜まっているはずです。暫くご無理はなさいませんよう。阿選
─聞いてください!庭院の梅の木に、小さな緑色の小鳥が飛んできました!とってもかわいかったです。窓からじぃっと見ていたら潭翠が「よいものがありますよ」って橙を持ってきてくれました。最初僕は潭翠のおやつなのかしらって思っていたんですが、その橙を三つに切って窓の近くにおきました。なるべくしずかに橙を見ていてください、と言われたのでじっと息を止めて見ていました。途中で潭翠が「息はしてください!」とあわてていました。じっとしていると、すこししたころに切った橙の上に小鳥が来たんです!目の前で見るととってもふかふかしていて丸かったです。小鳥って果物が好きなんですね。
─この季節だと、目白でしょうね。野生の鳥は果実を用意してもすぐには寄ってこないものですが、相手が台輔なので鳥も安心したのでしょう。阿選
─そういえば霜元が漣からの土産物に日持ちのしそうな青果や糖蔵したものを沢山買って配っていたな。その一部だろうか。驍宗
─本日は変わった場所で台輔にお会いしましたね。台輔が成行に手を引かれて練兵場にいらっしゃったときはどうした事かと思いました。かくれんぼをしていて正頼とはぐれてしまったとのことでしたが、どうか宮城の範囲を超えての探索はお止めください。弓射を行うこともありますし、場に怪我人などおりましたらお身体に障りましょう。
既に正頼共々、李斎から散々言われたでしょうからこれ以上は申し上げませんが。
…お会いした際、成行の方を幾度か窺っていたように思います。顔は殺し屋の様かもしれませんが、厳しい表情は実直故ですしあれで可愛いところもあるのであまり怖がらないでやっていただければと思います。
─正頼が妙にしおれていたと思ったら、その件で李斎にしばかれたせいか。驍宗
─あの、違うんです成行は怖くないです。またはぐれないようにって手を繋いでくれましたし、僕と一歩の大きさがちがうから僕に合わせて小さく歩いてくれましたし、優しかったです。ただあの、すれ違う文官がみんな「かどわかし!?」「誘拐…」ってぎょっとした顔で言うので、傷ついてないかなって…。蒿里
─蒿里、直接話しても「なんでもない」としか言わないのでここに書かせてもらう。
今日は様子がおかしかった。何があった?
─本当に、なんでもないんです。蒿里
─言いたくないのであれば無理に仰らなくとも結構です。しかし何かしら問題が生じているのでしたら、主上でなくとも構いません、誰かに相談なさってください。阿選
「台輔が居室よりお出でになりません!」
そう、天官より報告があったのは朝議の後、常であれば正頼と共に州侯としての政務について学んでいるはずの刻限であった。
「そうか…。」
厳しい顔で頷く王、そこに慌てたところが全くないことに却って女御は困惑していた。
昨日から奇妙な点はあったのだ。
まず、常であれば姿勢を正して真っ直ぐ前を見ているのに、俯きがちで、言葉少なであった。さらには目を合わせることをせず、偶さか合えばすぐに逸らしてしまう。
時折見せる怯えとは違う。しかし何かを恐れている、そんな表情だった。
怯え、そう考えた時ふと脳裏に過ぎるものがあった。
麒麟が最も怯え、忌避するもの。民の流血。─相談できないと思いつめた顔。
「どこから漏れ聞いたのか…。」
おそらくは冬狩について、知ってしまったのだろう。
「なんという…なんということを!」
李斎は冬官府の一室で、声を上げた。目の前にいる琅燦は何かの呪具を弄っており李斎の方を向いてもいない。
「すぐ傍にいるんだ、大きな声を出さないでくれないか。」
「何故冬狩のことなど台輔のお耳に入れたのですか!」
そう告げれば、漸く向き直り琅燦が応えた。
「私は、聞かれたことに答えただけ。台輔はここに来た時点で、ある程度の確信を持っていたよ。確信を持っているのに、この人ならと考えて聞きに来てそこでまたすげなくされたんじゃあ疑心を深めるだけだろう。誰にも頼れないとなって抱えた不安はどこに遣ればいい?王への不信を育ててしまったら?そのまま病んでしまう可能性は?あんた方は納得できないかもしれないけど、私は最大限ましな選択をしたつもりだよ。」
そう真剣な瞳で答えられれば、続ける言葉が無い。
「驍宗様から冬狩について話されたあの時、大司寇は言っていた。後から自分が蚊帳の外に置かれていたことを知ればその衝撃はいかほどか、予め教えるべきでは、と。私としちゃあその言に賛成だ。だがしかし冬狩は既に断行された。台輔に秘密のままで。」
顔を李斎から背け、どこか遠くを厳しい目で見つめながら言った。彼女は驍宗の麾下だ。正しくないと思っていても主公が決めれば否やは無い。しかし、納得できるかと言われたら簡単には割り切れない。
「驍宗様は大好きだし信頼もしているが、条理に合わないことは嫌いなんだ。」
台輔は正しく知るべきだった。例えそれが優しさ故の気遣いであっても、そうすることで民が安心するのだとしても。優しく温かい嘘などより、峻厳な真実の方がずっと価値がある。少なくとも琅燦はそう考えていた。
「しかし、台輔はまだ…」
「そうやって、いつまでも子ども扱いするのはどうなんだい。仮に、成獣になれば冬狩について改めて開示した?違うだろう。きっと、今を逃せば冬狩については触れることすらできなくなる。塞がった傷を予後が悪いからと暴くのは悪手だ。今だからまだ、傷が浅くて済むんだよ。」
琅燦は強い目でそう言った。その真摯な顔に、李斎は何も言えなくなってしまった。
「お、お許しください!此度の件は確かに私の部下のやったこと…。しかし、しかしあの者は決して悪意から台輔のお耳を汚したわけではないはずです!斯くのごとき事態になってしまったのは私の目が行き届かず指導がいたらなかった故。よもやこのような暴挙に及ぶなどと…彼奴の犯してしまった罪は軽くはないかもしれませんが、どうぞ寛大なご裁定を下してやってくださいませ…!」
春官長、張運の涙ながらの奏上に、堂室の面々は白けた空気を漂わせている。
朝議の後、泰麒が琅燦を訪ねたことがわかり李斎は琅燦に事情を聴きに行った。そこで判明したのは、意外な人物の関与であった。
泰麒は琅燦に話を聞きに行った時点で冬狩があったという事実についてはほぼ確信を持っていたという。琅燦は「これは本当にあったのか」と聞かれて「是」と答えただけだ。
泰麒が聞いたという話はいささか誇張されていたようなのでそこは訂正し、補足もし、これによって泰麒は冬狩の正確な全容を知ることになった。
琅燦は泰麒へ聞いた。「誇張含みの冬狩の話を、一体だれが吹き込んだのか。」と。
そこで上がった名は張運の子飼いともいえる官のものであった。
話を現在に戻すと、未だ張運はくどくどと部下の弁護という名の己の弁明を並べ立てていた。白けた空気は最早冷め切ったものになっている。一見部下を庇う様な物言いをしているが、一貫して言っていることは一つだ。
部下が勝手にやったことであって自分には関係ない。
これだけ遠回しなのに、その場に居る誰もが過たずに真意を汲み取れるというのも中々見事なものだ。対峙する驍宗も些かうんざりしている様に見える。
「…私は春官に対して当たりがきつい、という話があるらしい。」
驍宗としてはそのようなつもりは全くないのだが、登極直後、朝を整えている際春官の管轄である楽士が大量に免職された。その時に他の官と同様に当時の春官長も人選を考えねばと口にしたことがある。それを一時とはいえ留任したのは、然したる落ち度もなかったことと、泰麒のそんなに急がなくても、という不安げな言葉があった故である。そのことを、おそらく張運は知っている。
「冬狩を見て怖気づき、いずれ自分がその対象にならぬよう蒿里を傘にし庇護を受けようとでも考えたか。」
王の言葉は冷静であった。それだけに、確信を持って話していることが伝わる。
「いいえ、決してそのようなことは!」
なおも言い募ろうとする張運を片手で制し、退がらせた。処置については後でいい。
いつまでも益体もない自己弁護を聞き続ける義理もない。
「蒿里が居室より未だ出てこない。これは、よくよくのことだな。」
まずはその胸の裡を知らねばなるまい。
「…台輔、李斎です。入室してもよろしいでしょうか。」
「・・・・・」
戸の向こうから返ってくる沈黙が胸に痛い。
やはり、駄目だろうか。主上が来ても駄目だったのだ。自分が声を掛けたとて変わりはないだろう。
「…李斎、ごめんなさい。」
戸を隔てたすぐ近くから声がした。
「みんなに迷惑をかけているってことは分かっているんです。」
潤んだ声に、息が詰まる思いがする。今、誰よりも心を痛めているのは泰麒なのだ。
「迷惑などとは少しも思ってはおりません。主上も、皆も、台輔のことをご心配申し上げているのです。」
「うん…それも…わかって、いるんです」
しゃくりあげるような、涙で湿った声が聞こえる。ついに堪え切れなくなって泣き出してしまった様だ。
「僕が小さいから…。僕が子供だからみんな心配してくれるんです。でも、心配してもらって、大事にしてもらって、それなのに僕は何の役にも立ててない。きっと何か大変なことがあっても、僕は『子供だから』ってみんなが守ろうとしてくれるでしょう?それが、とても辛いんです。本当はきっと僕も何かをしなきゃいけない。今はできなくても、できるようにならなきゃいけない。なのに、僕は本当に、やくたたずなんです…。みんな僕のためを考えてくれてるんだから、こんな風に思っちゃいけないのに…。」
─そんな、そんな風に、感じていらっしゃったのですか。
李斎は胸衿を手で強く掴んだ。心の臓を突かれた様に苦しい。
惨いものは見せない、辛いことは隠す、李斎はその方が泰麒のためだと納得していた。
驍宗の様に、民の目を慮っての事ではない。ただ幼い泰麒に心労を与えたくなかった。
しかし、今泰麒を苦しめているのは、冬狩それそのものではなく、ただ目をふさがれ蚊帳の外に置かれたという事実なのだ。
琅燦が冬官府で言っていたように。当時花影が進言したように。
「ごめんね、李斎。きっと今李斎の顔を見たら僕、甘えてしまうから。扉越しにこんな風にごめんね。」
涙を止めようと懸命に務めながらこちらに謝る泰麒に、どうかそんな風に言わないで、泣かないで、と声を掛けたかった。
しかしどの口でそのようなことを言えただろうか。冬狩において、この手を血で汚し、死者を葬る穴を掘り、そして今の今まで泰麒に黙して平気な顔で接していたのだ。
酷いどうしてそんなことを、と罵られた方がいくらかマシだったろう。宙吊りになった罪悪感の処し方が分からない。
「台輔、李斎に失望しておいででしょうか。もはや、台輔の信には足りませぬか。」
自分で思っていたよりも情けない声が出た。
「そんなことない。李斎はやさしいから、僕が悲しくないように隠してくれたんだよね。それに、悪いことした人には罰がないといけないんだって、蓬莱で、おばあちゃんが言っていたの。だから、可哀想だって思うけど、悪いことしたからなんだって分かってる。」
本当に、この麒麟は優しい。優しく、思慮深く、他者を責めずに自分を責めてしまう。
「だけど、僕は知っていなきゃいけなかったんじゃないかしらって思うの。だって、僕はこの国の麒麟でしょう?良いことも、悪いことも、知っていなきゃいけないんだって。知らなければ考えることもできないでしょう?」
知らなければ考えることもできない。しかし知る機会を奪ったのは李斎らなのだ。
決して泰麒の落ち度などではあり得ない。自分を責める必要などないのだ。
「旅の中で言われたんです、今はまだできることが少ないから、色々なことを知りなさいって。大きくなった時、それが財産になるよって。漣王さまにも、言われたんです。僕のお仕事は見守ることなんじゃないかって。僕は、それを聞いてほっとしたんです。僕にもできることがあるんだって。」
その安堵感、それはいつもどこか不安そうにしていた泰麒が、漣から帰った時に明るい顔を見せてくれた理由の一端だったのではないだろうか。─だというのに
「僕は、何も見えてなかったんです。帰って来た時、少しおかしな感じがしたのに、何も分かっていなかったんです。」
その心の柱を折ってしまったのだ。
「ごめんなさい、李斎。」
「─台輔!…っ。」
この方が自分を卑下するのを見ていられない。しかし自分がここにとどまっていても堂々巡りを繰り返すだけだ。
「…いつまでも李斎がここにいては台輔のお気が休まらないでしょう。本日は、これにて御前を離れます。ですが、どうか、どうか謝らないでください。ご自身を責めるのはお止めください…。」
どうにかそれだけを言うと、悄然と辞去していった。
その日の晩、ずっと部屋に籠ったままの泰麒をそっと訪ねるものがあった。
「台輔、起きていらっしゃいますか?」
囁くように掛けられた声は、どこか主上に似ている。
「…阿選?…ごめんね、今はまだ顔を出したくないの。」
「大変申し訳ないのですが、とても重大な荷を持って肩が抜けてしまいそうなのです。これを放って帰っては正頼や霜元から叱られます。どうか、助けると思って戸を開けてはいただけないでしょうか?」
懇願するように言われて慌てて扉に駆け寄った。
急いで戸を開けると、そこには居室の前に膝をついた阿選の顔と、まだ温かい花巻とがあった。
「夕餉もお取りになっていないとか。膳夫が作って持たせてくれました。」
目を白黒させていると、入室しても?と許可を求められる。
釈然としない物を感じつつも顔を見てしまっては無碍に断ることもためらわれて、戸惑いながら部屋に招き入れた。
「重たい荷物って、花巻のこと?」
すこし拗ねたような声になってしまったが、致し方あるまい。なんだか引っ掛けられたような気分だ。
「いいえ?台輔に花巻をお渡しするという重大な責任の事ですよ。」
涼しい顔でしれっと言われて思わず口がへの字に曲がってしまう。
くうううぅ
花巻の甘く柔らかい匂いにつられたのか、お腹が鳴った。野菜が練り込まれており色鮮やかでとても美味しそうだ。
阿選と目が合うと、どちらからともなく笑いが漏れた。
「どうぞ、おかけになっていて下さい。茶を淹れましょう。」
卓子に花巻を置くと、泰麒が座りやすいようにと椅子を引く。そのまま茶の準備にかかる。
「阿選も知っていたの?」
正頼、霜元から叱られる、と先ほど言っていた。潭翠も合わせて漣を訪問した時の顔ぶれだ。自分と同様に旅に出ていたのであればもしやと思った。
「ええ、冬狩の事でしたら存じ上げておりました。」
事も無げに言われて悲しくなった。やはり自分だけが知らなかったのだ。
「ただ、漣に行った者全てに言えることですが、あったということを知っていても、詳細については知らされておりません。おかげで戴に残った事情を知る者が揃って台輔に合わせる顔が無い言う中、随行者の中で一番面の皮の厚い私がこうして参じた次第です。」
言われてキョトンとした顔になった。
「僕以外はみんな、全部知っているんじゃないの?」
「白圭宮全体で見れば、知っている者の方が少ないでしょうね。」
泰麒はなんだか納得のいかないような、難しい顔で椅子にちょこんと座っている。
「信用なりませんか?」
茶を淹れながらそう問われて、慌てて頭を振るが軽く笑って制止される。
「構いません、私はうそつきですから。先ほども、台輔をだますようにしてお部屋に入れて頂いたでしょう?」
先ほど自身が憮然とした表情を浮かべていたことを思い出したのだろう、気まずげに俯いた。
「ごめんなさい。」
「おかしなことを仰る。何も悪いことをしていない台輔に謝られては、私の非礼をお詫びする機会を逸してしまいます。台輔がすべきは謝ることではなく、私をお叱り頂くことですよ。」
穏やかに言いながら、暖かい茶を差し出す。
茶をうけとると、手を合わせて頂きますと小さく唱えた後に花巻をまふまふと頬張り始めた。空腹に、仄かな野菜と小麦の甘味が優しく沁みる。
「ここから先は独り言です。」
黙々と食べる泰麒の斜向かいに立ち、阿選は静かに言った。
「信用できないものは、疑ってよろしいのですよ。疑って、調べて、過っていると思えば正せばいい。疑うことを悪徳だと感じて疑念を野放しにするほうが、余程悪い結果を招きます。相手のあることなら、言いたいことは伝えて構わないんです。思っていることは、ただ自分で抱えていても解決しません。あまり思いつめない方がいい。」
独り言とは言っていたけれど、最後にはどこか遠くに向けて言っている様だった。
「…僕、明日の朝議までには、ちゃんとします。」
食べ終わった泰麒は、ごちそうさまでしたと小さく呟いて手を合わせた。
「驍宗様、いらっしゃいますか?お部屋に入ってもいいですか?」
聞こえてきた幼い声に驚いた。ほぼ丸一日顔を見ていなかった半身の訪問を受け驍宗は泰麒を居室に招き入れる。
「あのっ」「蒿里」
ほぼ同時に声が出た。
驍宗は眉尻を下げ苦笑すると、委縮する麒麟に発言の先を促した。
「…まずは、ご心配をおかけしてごめんなさい。」
幼い麒麟はぺこりと頭を下げる。
「僕、悲しかったんです。それと、怖かった。」
「怖かった…?」
慈悲の獣たる麒麟が粛清に怯えるのは当然のことだ。だが、それとは何か違うものを感じて思わず問うた。
「はい。上手に言えないんですけど、僕がお役に立てないことが、怖かったんです。何もできないぼくなんて、必要ないんじゃないかしらって。もちろんみんながそんな風に思うわけがないって分かっていますよ。けど、考えるのがやめられないんです。僕はここに居ていいのかしら、僕は居ない方がいいんじゃないかしらって。」
袍の前を握りしめてそう言う麒麟の姿に胸を突かれる。
「そんな訳がない。」
「うん、分かっています。驍宗様はきっとそうおっしゃって下さるって。だけど、僕が、僕に、お役に立てない僕なんて必要ないんじゃないかって、そう言うんです。」
冬狩について知ってからずっと自責していたのだろう。自分が頼りないから教えてもらえなかった、きっと知っても役に立てない、だけど知らないでいることは良くないことだ、そう思考の千日手に陥っていたのだろう。もとより自罰的なところのある子だがその聡さ故に自家中毒に陥っていたのだ。
涙の落ちそうな目を袖口でごしごしと擦ると俯いていた顔を上げて、真っ直ぐにこちらを見た。靭い瞳だ。
「でも、ずっとそんな風に思ってても、何にもならないので、もう悩むのはやめます。明日の朝議にはちゃんと出ます。」
そう決意をして、心に決着をつけるべく今日の内にとここに来たのだろう。驍宗は目を瞠っていた。
自覚はなかったが、どこかでまだ小さく弱い子供だという、侮り─のようなものがあったのだろう。しかし、戴の麒麟は、小さくともこれほどに強い。
「驍宗様、こうかん日記、書いてきました。」
お渡しします、と小さな手が冊子を大きな手に渡す。
「おやすみなさい。また明日。」
そう挨拶すると、真っ直ぐに、去って行った。
王の手に一冊の交換日記を残して。
─驍宗様ひどいです!僕に隠し事をしないってお約束したのに!僕は怒っています!
まっすぐぶつけられる怒りの言葉に、不謹慎かもしれないが思わず笑い声を立ててしまった。麒麟を怒らせるなど、大層なことをしでかしてしまった。
さて、この返事は、なんと書こう。
分冊 常世のあのね 一
─今日は広徳殿に行くとちゅう、秋官府に主上と阿選がいるのを見かけました。珍しいなと思ってすこしの間、見ていました(のぞき見していたみたいでごめんなさい)。主上は何かの書類を渡して帰って行ったみたいですが、もしかしてそのあとも阿選だけ秋官府にいましたか?一緒の部屋にいたのは、典刑と司刺のみんなでしょうか。
声をかけてお話を聞きたかったのですが、正頼を待たせていたので聞けませんでした。
二人とも秋官府で何をしていたんでしょう?
─台輔にはあまり馴染みがないでしょうが、司法の受持ちとは別に、捕縛した関係者の取り調べを軍の管轄で行う場合があります。典刑と司刺は似た様な任を受けることが多いので、年次の浅い官に取り調べについての教導を行っておりました。阿選
─私が持って行ったのは個人的に記録していた過去の事例集だ。私にも要望は来たようだが断った。尋問で口を割らせるのは阿選の方が得意だ。丈師帥の無言の微笑耐久十一刻は未だに禁軍で語り草だぞ。驍宗
─主上、本日の御政務は如何なさいましたか。何故本日も秋官府にいらっしゃったのでしょうか。事例集については課程が終了し次第お返し申し上げると予めお伝えしておりましたし、主上にもお話を伺いたいという要望は大量に寄せられていたにも関わらずご多忙を理由に断られたはずでは。いえ、そもそも軽々に官の指導など行うお立場ではありませんので断られたこと自体は問題ではありません。問題は、何故、秋官に混じってわざわざ目立たぬ朝服を着込んで、あの場にいらっしゃったかという点です。御髪の色で分からないようにと冠の下に黒巾を巻いておられたようですが、髪色などなくともご自身が人目を引くというご自覚はお持ちか?あれだけ覇気を発していては一目で分かります。両隣の者が哀れでなりませんでした。何故、あの状態でばれていないと思われましたか。大事にせぬようにと知らぬ体で通しましたが、あの場にいるものは皆主上がいると分かった上で講義を受けておりましたよ。何かの査察かと勘繰る向きもあったようです。今一度書かせていただきます。何故、あの場にいらっしゃいましたか。
─怒るな。悪かった。面白そうだったのでつい。驍宗
─あの、無言の微笑耐久十一刻って何ですか?その授業僕も受けてもいいですか?蒿里
─丈師帥の無言の微笑耐久十一刻は、乱の平定後に捕縛した首謀者に裏から資金を融通した者について尋問を行った際のことだ。横柄で尊大な態度をとっていた首謀者が最後には泣きながら自白し聞いていない資金提供者の背後関係まで喋り出したという。どんな取り調べをしたのかと同席していた者に聞いたら「只管、終始無言で微笑みを浮かべていた。時折軽く頷く以外には何の応答もなかった。そのまま十一刻。」と。
─喋らないでずっと笑っていた、それだけですか?なぜその人は泣き出してしまったんでしょう、ふしぎです。ええと、十一刻は…蓬莱では五か六時間ですね。疲れて泣いてしまったんでしょうか。蒿里
─人は相手からの積極的な働きかけが無ければそこに自分自身の影を見るものです。相手が静かに笑っていれば、平穏な心持であれば安堵を、疚しいことがあれば不安を、自ずと増幅させます。そして横柄で尊大な者ほど心根は臆病であったりするものです。
台輔、この件については差し障りないと判断しお話ししましたが、本来尋問など仁の神獣たる麒麟にお聞かせするような事柄ではありません。出席はなりません。阿選
─授業は駄目といわれたけれど、今朝、今日の授業で使う予定のお話から、僕が聞いても大丈夫そうなものを書き出したものを渡してくれました。まだ全部は読めていないけど探偵の出てくるお話みたいでとっても面白いです。驍宗様が承州の州城に乗り込んで悪い官吏の企みをあばくお話が好きです。最初は鴻基で街の人のお話を聞いていただけなのに、次々に何も関係のなさそうな、国中のいろんな場所を飛び回って、そこで色々なお話を聞いているのを「なんでこんなこと聞くんだろう?」って思いながら読んでいたんですが、最後に承州でこれまで関係ないと思っていたものごとが全部わーって集まって、悪い官吏が言い逃れするたびにこれまでに聞いてきたことや用意した物で嘘をあばいていくのがすごくかっこよかったです。まさかお茶屋さんと駮の話があんなことにつながるなんて思いませんでした。最後に悪者が反省して終わるところも好きです。お話の中に巌趙にも出てきたので聞いてみたら「あったなぁ、そんなこと!」って楽しそうに笑っていました。「全然脈絡のない所ばかり連れまわされるので目を回していたら、最後に あぁそれでか!と思う様な事ばかりで、その場に居てもまるで朱旌の小説を見ているようでしたよ」ってとっても懐かしそうに教えてくれました。いいなあ。僕もそこにいたかったな。このお話、劇とかになっていたりしませんか?
─喜んでいただけたようで何よりです。徹夜した甲斐があったという物です。阿選
─意趣返しだな。阿選、今日の講義いくらなんでも引いてくる事例の九割が尋問担当官:乍はやり過ぎだ。まさか昨日の今日で内容を変更したのか。蒿里向けに書き出したというのも。驍宗
─主上、九割ではなく十割乍です。担当官を明記したものは四割程度です。今回講義を受けた者は皆任官して二十年に満たない者ばかりですので斯様に古い事例の担当が誰かなど存じ上げませんよ。引用した全ての案件を同じ官が担当したと理解し気まずいとか居た堪れないとか思うものは居ない筈です。その場で本人が講義の内容を聞いていない限りは。阿選・再
─本日で私の秋官府への出向は終了いたしました。さすがに今日は眼の紅い出席者は居なかったようなので安心いたしました。ともれば、英章あたりに怒られて執務室の椅子に縛り付けられていたのかもしれませんが。台輔、もし秋官の仕事にご興味がおありであれば花影に詳しい話を聞かれると宜しいでしょう。司法の話は加害と被害のあることなので御身には少し辛いかとは思いますが、花影であれば信が置けます。
─縛り付けられてはいない。真横で終始見張られていた。驍宗
─おつかれさまでした。花影に…そうですね、今度一緒にお茶をする時に、お話を聞く時間をもらえないかお願いしてみます。あの、驍宗様、正頼もちょっと怒ってましたよ。政務をさぼったり抜けだしたりっていうのは、本当なら主上ではなく僕がやってそれを正頼が見つけてしかるのがあるべき姿じゃないのかって。たぶん、じょうだんなんだろうなとは思うんですけど。蒿里
─阿選、ずるくないか。お前が担当した案件を蒿里向けに書き出してみようと事例集を引いていたら、横から見ていた臥信に麒麟に読ませるにはえぐすぎるってすごい勢いで止められたぞ。
─えぐ…?悲しいお話が多いってことですか?蒿里
─主上、そろそろ怒りますよ。阿選
─まだ怒ってなかったんですか!?蒿里・再
分冊 常世のあのね 二
─今日は李斎と潭翠と一緒に、鴻基の街へ行ってきました。街の人の生活を見るため、ということだったのですがお仕事じゃなくてお休みの日だったので、街の人には僕が麒麟だってことは内緒です。とてもどきどきしました。今日は転変しないという約束だったので、折角だからと浹和が髪を結ってくれました。首のところが涼しくて、髪の短かった蓬莱にいた頃のことを思い出しました。鴻基ではいろんなところを歩きました。
漣の重嶺みたいに暖かくてのんびりした雰囲気とは違ったけれど、街で会った人はみんな、驍宗様がいるからきっとこれから国がよくなっていくねって、うれしそうに話していました。お茶屋さんに寄った時にはお店の人がおまけだよって、干した果物にあめをかけたお菓子をくれました。あまくて美味しかったです。とってもきれいな赤い色をしていました。李斎はお土産にお花の入ったお茶の葉っぱを買っていました。よく、李斎と僕と花影とでお茶をしているのですが、今度花影がお茶菓子を作ってくれる約束なんです。その時に持っていくんだって笑っていました。おうちでお菓子が作れるなんてすごいですね。街の様子を見るってなんだかお仕事みたいだなって思って張り切っていたのですが、いつの間にかすっかり楽しく過ごしてしまいました。花影が作ってくれるお菓子も楽しみです。
─とても良い一日だったのですね。良い治世が永く続けば、いずれ重嶺の様に民が一年を通して穏やかにのんびりと過ごせるようになりましょう。阿選
─飴のかかった果物、花の香の茶…もしや大通りに面した、赤い瓦の茶店だろうか。たしか潭翠の気に入りの店だったはずだ。あそこは焼き菓子も美味い。驍宗
─結構な騒ぎになってしまったのでご存知かもしれませんが、本日は外宮にて猫の捕り物騒ぎがありました。普段ならば猫が入り込んだところで大した話題にもなりませんが、どうやら間の悪いことに春官が式典に用いる飾り幕の点検を行っていたらしく…。
見事な白地の刺繍に真っ黒い肉球の跡が大変よく映えておりました。
騒ぎになった折に丁度、軍司の叔容と共に赴いた所だったので捕獲に協力することになったのですが、叔容に猫の扱いについての心得があったため早急に確保することができました。春官の怒り様は大変なものでした。しかし、叔容の抱きかかえた猫に向かって春官が説教をする様はなんというか、大変面白い絵面でした。一見すると叔容が説教されている様にも見えるので本人としては堪ったものではないでしょうが。
見た所、飾り幕の汚れは土埃の様でしたので、早めの処理をすれば綺麗に落ちることでしょう。ただ、どうやら飾り幕以外にも書庫や作成途中の献策書など他にも被害がありそうで、全容については現在調査中です。
毛並みがよく、よく肥っていたのでどこかの邸から逃げてきたものかと思われますが今の所誰も名乗りを上げないので右軍府にて預かっております。
─どんな猫だ?見に行ってもいいか。驍宗
─猫可愛いですね!もしもおうちが見つからなかったらそのまま右軍にいるんでしょうか?でもきっと飼い主の方も心配してますよね。早く分かるといいですね。蒿里
─昨日捕まったという猫を見てきた。すまない、あの黒い縞模様は間違いなく計都の厩舎に住み着いていた黒縄だ。騎獣の世話をするついでに時折肉などやっていたら居ついてしまってな。計都がよく毛繕いをしてやっているので見事な毛並みだったろう?
─えぇ…驍宗様、隠れて勝手に動物飼ったらだめですよ…。蒿里
─今からお話を伺いにまいります。阿選
─今日からしましま猫の黒縄が正式に驍宗様の飼い猫になることになりました。驍宗様の、というよりは白圭宮の猫になるのかしら。驍宗様はお忙しいのでみんなで世話をします。昨日のこうかん日記では「くろなわ」って読んでたんですが「こくじょう」なんですね。猫の話を聞いた春官のみんなが喉におまんじゅうがつまっちゃった様な顔をしていたのが少し気のどくでした。あと、みんなに黒縄のお話をされる驍宗様の目の下にくまがあったのが気になりました。もしかして昨日遅くまで阿選に怒られてましたか?
─私は二刻ほどでお暇しましたよ。ただし、献策書を台無しにされた英章と書庫の整理と修繕の指揮を任されていた正頼に告げ口させて頂きましたが。阿選
─三名から代わるがわる怒られていた…。英章の説教が一番効いた…。驍宗
─広徳殿に伺った折に、台輔が御髪を結われてご政務をされているのをお見掛けいたしました。朝議の際はいつも通りでしたので宮に戻られた際に結われたのでしょうか。葛巾も冠も着けない簪のみの纏め方でしたが、細かく編み上げてあったので鋼色の鬣が陽光を燦然と反射してとても見事でした。転変される際の邪魔になるため御髪は結わないと伺っておりましたが、宜しかったのでしょうか?
─そうだったのか、夕餉の際には解いていたので私は見ていない。蒿里が髪を結うのは珍しい。折角なので見たかった。驍宗
─広徳殿に黒縄が来ていて、前髪にじゃれついて困っていたんです。そうしたら臥信が簪でまとめてくれました。すごく器用であっという間にやってくれたのでびっくりしました。休憩の時にちょっとだけ簪を抜いたら全部ほどけちゃったので、ご飯の時はいつものままでした。今度臥信にやり方を教えてもらおうと思うので、できるようになったら驍宗様にもお見せしますね!実は、たまに髪が肩から落ちて硯に入ってしまいそうになっていたのでお仕事するときは結びたいなあって思ってたんです。蒿里
─午後の政務中に蒿里が茶菓子を持ってきてくれた。折角なのでそのまま休憩にして茶を共にしたが美味だった。話を聞くと、花影と共に蒿里が作ったのだとか。まるで店で売っているものの様だったので驚いた。
─よろこんでいただけて嬉しいです。僕が作ったというよりも、花影が作るのを横ですこしお手伝いしただけなんですよ。明日李斎と一緒にお茶の約束をしているので、そのお菓子だったんですが、李斎には内緒って言って出来立てを少し分けてくれました。香ばしい匂いでカリカリしていて美味しかったです。蒿里
─主上の執務室から仄かに胡麻油の香りがしていたのはそういう訳でしたか。部屋から出てきた巌趙が「なんだか腹が減ってきた」とぼやいておりました。台輔に来ていただけると主上の肩の力が抜けるようで、そういう日は諸官の仕事も捗ります。阿選
分冊 常世のあのね 三
─今日は大変な一日でした。広徳殿のお部屋で正頼に瑞州のことを教えてもらっている時、巻物を一つ落としてしまったんです。それを拾おうとして屈みこんだ正頼が突然声をあげて固まってしまいました。どうしたの?って顔をのぞき込んだらすごい量の汗がだらだらだらだらと流れていて、僕はぎょうてんしてしまいました。何か良くないことが起きてるんだって分かったんですがどうしていいか分からないでしばらくおろおろすることしかできませんでした。潭翠がいればさっと動いてくれたんでしょうけど、丁度小臣のみんなへの指示のために席を外していたので、その時部屋にいたのは正頼と僕だけだったんです。正頼ごめんなさい…。僕じゃ役に立てないから誰か呼んでこないと、と思って部屋の外に出ると近くに霜元がいて駆けつけてくれました。僕、その時泣きそうな顔をしていたみたいで、霜元はすごい緊張した顔をしていましたが部屋で前向きに屈んだまま脂汗を流している正頼を見つけると、思わずと言った感じで吹き出していました。咳払いをした後に「ぎっくり腰ですね」って教えてくれました。霜元が正頼をゆっくり榻まで連れて行ってくれている間に、下官にお医者さんを連れてきてってお願いしたら、僕の言葉が足りなかったせいか、しばらくしてから黄医の文遠が来ました。「黄医にぎっくり腰など診させるわけには」って正頼は言っていましたが、文遠は「正頼殿、これは仙の穢瘁ですね。仙は酒と甘いお菓子と茶で穢れが蓄積されますのでそれらを暫くお控えなさい。」とまじめな顔を作ってすごくそれらしい感じで言っていました。もちろん仙の穢瘁なんてじょうだんなんですけど、正頼が悲壮な顔で「なんと!そのような事が!?しかし菓子は、菓子だけは!」なんてはく真の演技でのっかるので僕はいっしゅん信じそうになってしまいました。横についてた霜元が口元を抑えて肩をふるわせていたので、そのおかげでなんとか「じょうだんなんだな」って分かりました。
正頼もそういうところがありますが、文遠も結構お茶目です。今日からしばらく正頼はおうちでお休みです。正頼がいないのは不安ですがそれよりも、痛そうにしていたので心配です。
─なんと…ぎっくり腰ですか。軍に所属していると縁遠くなるものですが、文官などは仙であってもなる者が多いそうですね。正頼には災難でしたが…黄医とのやり取りを見る限り案外と余裕がありそうに見えますね。阿選
─そう案ずるな、良く効く痛み止めを届けさせた。いつも本人は年寄りだ老人だとお道化て言うが、仙の身は回復も早い。心配ない。驍宗
─主上、正頼が療養している間台輔の補佐を何名か交代で…という話は聞いておりましたが、本日の補佐役が冬官長に見えたのですが気のせいでしょうか。
…能力に不足があるとは申しません。畑は違いますが優秀であることに疑いは有りませんし元は正頼と同様に主上の許で軍吏として働いていたことを思えば、着任の経緯はそうおかしくもありません。が、琅燦が傅相役で…大丈夫なのでしょうか。何がどう問題で、という訳ではありません。しかし台輔の横に立つ姿が漠然と不安を煽るのです…。
不敬な物言いになりますが、面白い観察対象を見ている様な…読んだことの無い本を見つけた学生の様な…新しい玩具を見る子供の様な…。
─実は何人かの文官に声を掛けたところ琅燦からその場で是非にと返答があったんだ。蒿里に対して興味津々なのは見ていれば感じるが、害意はないから就いてもらうことにした。琅燦にも己の仕事があるから毎日の事でもないしな。驍宗
─大丈夫ですよ、今日は琅燦と一杯お話して楽しかったです。久しぶりに蓬莱の事が話せてちょっと懐かしかったです。琅燦は向こうの事も少し知ってるみたいで「こう聞いたんだけどそれって本当?」「昔会った海客がこんなこと言ってたけど今もそうなの?」って色々質問されました。いつも教えてもらってばかりの僕が今日だけは先生になったみたいでなんだか可笑しかったです。蒿里
─阿選、急ですまないが右軍の軍吏の中から明日の蒿里の補佐役を誰か推挙してもらえないだろうか。冬官府から今日も琅燦がいないと苦情が来た。今日は別の者に補佐を頼んでいたんだが、興味本位で付いてきたらしい。明日再び琅燦に補佐を頼んでいたが今日放擲した仕事は明日埋め合わせてもらわねばなるまい。
─あ、やっぱり琅燦ったら、おさぼりしてたんですね…。蒿里
─…先に口頭にてお伝えしましたが、承知いたしました。台輔とも面識がありますので恵棟が適任かと。こちらで都合をつけておきました。阿選
─きのう言っていた通り、今日は恵棟が先生をしてくれました。「今日は一日よろしくお願いします」ってお辞儀をしたらとても慌てていました。いつも周りにいる人たちはもう僕の蓬莱式の挨拶に慣れていたので忘れていたけど、ひさしぶりにびっくりさせてしまいました。前に会った時にも思ったのだけれど、軍の人だからでしょうか、他の文官の人たちよりもぴしっとしていて、とてもきちんとした感じがしました。(みんなまじめできちんとしていますが、その中でも特に、ということです。)
でも正頼や琅燦も元々は恵棟と同じで軍吏だったって聞いたんですけど、恵棟は二人とは全然違うのでなんだか不思議な感じがします。
そういえば、瑞州でのお仕事について教えてもらっている最中に琅燦から教えてもらった「財源が確保できない時に相談する相手」と「秘密の合言葉」の話をしたら、すごく引きつった顔をしていました。琅燦に教えてもらった合言葉はちっとも怖くもなんともない、普通にお話しするときにも言う様な言葉だったんですが、恵棟には「それは脅迫に当たるので絶対にやってはいけません」と言われました。
しばらくしたら阿選が様子を見に来てくれました。ちょっと恵棟が嬉しそうで、なんだか授業参観の日みたいだなあって思うと楽しくなってしまいました。
休けいのために恵棟がお茶を淹れてくれてる間に、来たついでということで阿選が僕の書いた作文のてんさくをしてくれたんですが、朱墨をいれるときに小さく絵をつけてくれました。これって驍宗様が贈って下さった子馬ですよね?すごく嬉しかったです。
絵が上手なんですね。正頼の腰が治って戻ってきたら正頼にも見せてあげようと思います。
─以前、良い箇所に正頼が戯画を付けたのが嬉しかったと仰っていたので。実は、ぺんぎんと言われぬようこっそり練習しました。台輔も随分と字が上達され日記に朱墨を付けることも無くなりましたし、もう機会も無いかと思っておりました。練習していたことは正頼には内緒にしておいて下さい。阿選
─今度計都も描いてくれ。驍宗
─主上は正丁を迎えていらっしゃるのでご自身でお描き下さい。阿選・再
一年後のあのね
泰麒が汕子の白い腕に招かれ蓬莱から常世へ渡ったのは冬だった。
女仙に囲まれ己は人間では無く麒麟なのだ、王を選定する神獣なのだと驚くような話をされて戸惑っている内にあっという間に半年が過ぎ夏至を迎えた。
王気とは何か、天意とは何か、それすら知らずに、王ではないと思いながらも震える内心を隠し驍宗に額づいた運命の日。
今はその選定の日からも、一年が過ぎていた。
季候の穏やかな雲海の上でも暑さを感じられる。下界はもうすっかり夏だった。
「奏上いたします、先頃の長雨により文州の鉱山道にて地崩れが起こり付近の里閭との連絡が断絶しているとの報告がありました。」
夏官長である芭墨が、朝議の場で一報を齎した。
「現在は先遣として空行師より数名を派遣しておりますが、荷の搬出停止による鉱夫の収入途絶と、なにより生活物資の運び込みが行えず近郷の民は困苦欠乏に耐えております。一刻も早い道の復旧が必要と愚考いたします。」
文州には鉱山が多い。
それ故産業は偏っており、里によっては自活できるだけの作物を作る基盤が無い。
そんな里閭では他所から食物の買い入れが出来なければ即ち飢えが待っている。
長く続いた先王の奢侈と空位のために街道の整備や各種の災害対策は永らく捨て置かれてきた。人の往来はそこそこにあっても手入れの行き届かない草臥れた道の他には、獣も通らぬような山と谷しかない、という場所も少なくない。
一つしか無い道が閉ざされれば、閉じ込められた彼らに出来ることはもはや無い。
そして整備がままならないのと同じ理由で、民間に余力は無く、各々の里に備蓄があるなどと楽観視することは出来ない。王朝末期に重税に喘いでいた民は、十年続いた空位の時代のために、未だ不作の余波を受けている。
困苦欠乏に耐えるという大司馬の言は誇張でもなんでもない、事実である。
長雨に地崩れとなれば怪我人に病人も出ているだろう。
丹薬一つを取っても、平時より入り用のはずだ。
夏のことなので炭が無くとも生命に関わることがないのは不幸中の幸いだが、薬に食料に、大量の物資を運ぶならばやはり道の整備は急務だ。
空行できる騎獣で多少の物資は運べるが、一頭が携行できる量など高が知れている。
文州師から空行師の兵員を救護に割くのであれば、近い分掛かる日程も騎獣の負担も少なく済む。しかし元より文州は土匪の力が強く、虎視眈々と行政の隙を狙っている輩は多い。
州師の力の大多数を民の救済に振り分けることなど、文州には出来ないのだ。それをすれば睨みを利かせて押さえ込んでいる火種に風を送ることになる。
かといって、瑞州より派遣するには文州は遠い。
旅程を考慮すれば騎手自身の荷に騎獣を養う飼料だって必要となる。
そもそも身を軽くせねばならない飛行種は輜重に向かないのだ。
緊急性の高い物を少量程度であればともかく、人々の生活を賄う物量を騎獣に運ばせるのは無理がある。
文州に拠点を築き、王師より空行師を動員したとしても複数の里を養うには絶え間なく拠点と複数の里との往復を続ける必要があり、それをすれば騎獣の疲弊は避けられない。そんな非効率なことを長くは続けられない。
そうなれば、拠点を築く手間と時間を道を塞ぐ土砂を取り除く方へ注力したほうが結果的に助かる命は多かろう。
「では物見より報告が届き次第、夏官府は急ぎ本隊を編成せよ。作業指導には地縁のある者をあて、人足として職を失した鉱夫を優先的に雇用するように。並行して道が開通してすぐ物資を輸送できるよう、近隣の義倉の状況確認と必要量の確保を。」
驍宗の言を受け、俄に場の空気が浮き足だった。
元より土木は夏官と軍の管轄である。正式な下知を受け、芭墨は早々に仕事にかかるべく胸先で算段を付ける。規模の大小はあれど落盤も地崩れも数年に一度は起こるもので知見は蓄積されている。打つべき手は大凡決まっているが、それでもやるべき仕事は多い。
「琅燦、冬官府より五名程度人員を出せるか。芭墨、琅燦の推薦者を編成に組み込め。」
続いた王の言葉に、ざわつきだしていた場の空気が水を打ったようになる。
「人は出せますが、うちですか?」
急に名を呼ばれ、琅燦は怪訝そうな顔を返す。
冬官府には高い技術を擁した手先の器用な者は多いが、土木に必要とされるのは手先の器用さよりも体力と、作業を行う人夫に対する指導力である。そう言う意味では宮城で技巧を高めることに腐心しがちな冬官には向かない仕事だ。
「予算は付けるので、必要があれば適宜申請せよ。」
場の困惑を置いてけぼりにして続ける王に、戸惑いの空気はより増す。
「主上、畏れながらお伺いしたい事がございます。」
人々の当惑を受けたように、右軍より固い声が響いた。
「今後に備え、行程の見直しと支援機材開発を目的として冬官府と夏官府に連携して事に当たるべし、とのご意向で宜しいでしょうか。」
「ああ、そうだ。物事の本質を捕まえて改良と工夫を加えるには冬官が最適と判断した。」
言われてみれば何のことはない、管轄の府庁内で完結してしまいがちな職務に他所の目と発想を入れろ、ということか。
「そういう目的でしたら、粗探しが得意な奴と、変な発想の豊富な奴と、大型器具の大好きな奴らがいるので声をかけておきます。癖は強いが腕は確かです。」
驍宗より名指しされていた琅燦は、得心がいった様に請け負った。
「頼んだ。芭墨、一度面通しの上で相性の良さそうな奴と組ませてやってくれ。」
苦笑と共に王が言えば、今度こそ、人々は己の仕事を成すべく動き始めた。
─大雨で閉じ込められてしまったまちの人たちは、大丈夫でしょうか。蓬莱にいたとき、テレビで土砂崩れのニュースを見たことがあります。とても怖くて悲しかったことをおぼえています。おうちが埋まってしまったり、誰かけがをしていたりしないでしょうか。とても心配です。ただ、あんまり僕が心配そうな顔をしていたせいか、芭墨がそっと「みんな慣れているので、きっとすぐに助けてみせます」と言ってくれました。みんなががんばってくれているんですから、僕が不安そうにしていたら駄目ですよね。何も出来ないのが悲しいですがせめてしゃんとしていよう、と思いました。そういえば、驍宗様が琅燦に声をかけたときにみんなが「え、なんで?」みたいな顔をして困っていて、僕もよく分からなかったんですが阿選は驍宗様が冬官に何のお仕事を頼みたかったのかなんで分かったんですか?というか、僕はみんなが困っていた理由もよく分かっていなかったのですけれど…。普通、こういうときは冬官にはお仕事は頼まないものなんでしょうか?
─管轄的には夏官府が持つ仕事なので、あまり冬官に声はかけませんね。敢えて編成に組込むのであれば相応の目的があるのかと。災害は仁獣たる台輔にはお辛い話かも知れませんが、台輔が御心を割いて下さっているという事実は民には励みとなるでしょう。阿選
─そうか、あれは「え、なんで?」と思われていた顔か。驍宗
分冊 常世のあのね 四冊目
─今日は、潭翠に乗馬を教えて貰いました。僕、驍宗様からおくっていただいた子馬とも、もうすっかり仲良しになりましたよ!最初はくらの上に座っているだけで高くて怖かったのですが、今は歩いていてもぐらぐらしなくなりました。ただ、駆け足はまだちょっと怖いです。僕が怖がっているのが分かるのか、動くときはゆっくり歩いてくれます。ぽっかぽっかって足音がするのがとってもかわいいです。
僕が潭翠と一緒に練習している日には時々英章が様子を見に来てくれます。今日も顔を出してくれました。霜元から、英章はとっても乗馬が上手だって聞いたので、見てみたいってお願いしたら「構いませんが、決して真似しようなんて思わないで下さいよ」って少し渋い顔でした。なんでかな、お手本にしちゃいけないのかなって不思議だったのですが、英章が厩舎から馬を連れてきて乗り始めるとすぐに納得しました。
馬の背中に立ったり、両手を離して馬のおやつの果物を放ってまたキャッチしたり(本当は弓を射るために両手を離すんだそうですが、僕にえんりょしてくれたんだと思います)、馬の背中から消えたりしました。本当に消えちゃったんです。最初落ちたんだと思って悲鳴を上げてしまったのですが、地面に落ちた音もしないしどこにも英章が見当たらないしで本当にびっくりしました。しばらくしたらまた馬に乗っていたので、魔法でも見たのかしらって目を白黒させてしまいました。一通りやって見せてくれた後、英章は乗馬が上手になるこつを教えてくれてお仕事に戻っていきました。英章が消えてしまったのがあんまり不思議だったので首をひねっていたら、後で潭翠が「あれは鐙に足を引っかけて、台輔から見えない様に馬の身体に隠れてたんですよ」ってねたばらしをしてくれました。でも本当にそんなことができるのかしら?どうやるの?って聞いたら「決して、真似しようなんて思ってはいけないお約束でしょう。」と笑われてしまいました。
見た後にはとうていまねなんて出来ないなってよく分かりました。
─中々、希有な物をご覧になりましたね。英章の曲馬はすごいと噂には聞いたことがありますが本人は見世物の様に扱われるのを嫌って滅多に実演はしないそうです。それが見れたというのは、幸運ですよ。阿選
─良かったな、私も一度見たことがあるが、計都で同じように騎乗してみようとしたのがバxレて以来どれだけ頼んでも見せてくれなくなってしまった。驍宗
─本日は、何故か天官と春官の揉め事に呼ばれ仲裁に当たっておりました。あまり衝突するような職分ではないのでどうしたことかと思えば、主上の礼服と装飾具の紛失について、互いの責を問うていたようです。祭礼の際に使用したものの、その後行方が分からなくなっているとのことでした。滅多に使用するものではないので使用後に元の場所へ返却されていないのが原因だと主張する天官と、確かに戻した記録があり管理が悪いのではないかと怒る春官とで、呼ばれて着いた頃には掴み合わんばかりになっておりました。春官が言うには返却の記録があるという事だったので書類を確認すると、受け取りの確認の横に但し書きで〝修繕の要あり〟とあったので冬官府へ照会し、修理のために預かっているという返答が得られました。春官府としては返却し受け取りの確認を得た事で己の管轄を外れたものと判断し、天官府では手元に戻っていない以上未返却であるとしていたために、宙に浮いてしまっていた様です。罵り合って職分について責めるより、共に事情を検めていればすぐに分かったことと思うので宮中にて騒いだことに関しては両成敗ですね。互いに謝罪し、各々の上長へ通達することで決着といたしました。
─また仲裁に駆り出されたのか。相変わらずだな。驍宗
─ちゃんと謝って仲直りできたのなら良かったです。ところで、なんで天官と春官の喧嘩に阿選が呼ばれたんでしょう?気のせいかも知れませんが、よく喧嘩の場で間に入っていませんか?禁軍って鴻基のおまわりさんみたいなものだからでしょうか。正頼は「昔取った杵柄というやつなのではないでしょうか。大体主上のせいですが。」って言ってました。蒿里
─蒿里、流れ矢を当てるのは止めてくれ。驍宗・再
─以前蒿里が花影と共に作ったという菓子が大層旨かったので、花影に作り方を聞いてきた。さほど難しい菓子でもない様なので明日空いた時間にでも作ってみるつもりだ。
─お米の粉の生地をごま油で揚げたお菓子ですね!僕あれ大好きです。蒿里
─明日より二日ほどお暇を頂きたいと思います。…冗談です。阿選
「あ、杉登!」
こちらに声を掛けて走廊にぱたぱたと足音を響かせる小さな姿に、杉登は頬の表情を緩めた。
何かを探す様子だが、正頼とかくれんぼだろうか。大僕の潭翠も近くに控えている。
「ねえ、どこかで巌趙を見なかったかしら」
探し物は左将軍だったようだ。
巌趙は杉登の上役である。当然今日就いているはずの任は把握している。
「軍府の方へはもう行かれましたか?少し前までは騎獣を見ていらっしゃいましたが、本日は他国の使節を迎える際の警護の打ち合わせが入ったので今頃は左軍の執務室に戻られているはずですよ。」
「わあ、ありがとう!えっと、それじゃあ英章もどこにいるか知っている?さっき項梁に聞いたら今日は朝議の後から見かけてないって言っていたの。」
おや、と 杉登はひっかかりを覚えた。
先ほどまで己は巌趙と共に厩舎の前にいた。巌趙は執務室へ戻り、自分は夏官府へ報告書を持って行くべくここまで歩いてきたのだ。もう一刻程も前になるが、巌趙と共に厩舎へ向かうまでの間に英章とすれ違った記憶がある。その際隣にいたのは英章麾下の項梁ではなかっただろうか。
「時に台輔、巌趙様に英章殿、お二人を何故お探しになっているのでしょう?禁軍の左将軍に中将軍をお召しになるような大事がございましたか?」
禁軍三軍の内二軍の将を台輔が探しているなど、余程のことか。
三軍の内の二軍、と断じたのは残りの一つ、右軍の将は今日白圭宮にいないことが分かっているからだ。
警護の計画を立てることになった巌趙だが、本来であれば本日は警邏の視察で鴻基に出向くことになっていた。その代わりを買って出たのが右将軍の阿選だ。
警備計画は余人を以て変えるわけには行かぬが視察であれば問題無かろう、丁度良いので代行する、と言って予定をつけたのが昨日だ。丁度良いとは?と思わないでも無かったが視察は中止するほか無いかと思っていたので、実際のところ助かった。
少し思考が脇道に逸れたが、二将軍、もしや、宮中にいないと分かっていなければ三将軍を台輔が直々に探していたかもしれない可能性を考え、どのような事態かとわずかに身が固くなった。
「ううん。大変なことは起きてないよ、大丈夫。」
台輔は朗らかに微笑んでいる。
傍らの潭翠にちらりと顔を向け視線を合わせるが、固い顔のまま黙している。その目が若干悲壮な色を湛えているのが気になった。
「驍宗様がね、お菓子を作って下さったの!だからいつものみんなに、ちょっと休憩してお茶にしようよって声をかけてるの。」
聞いた瞬間に杉登の顔からざっと音を立てて血の気が引いた。
「主上、が、…ええと、台輔。申し訳ありません、主上が何と?」
きょとんと小首をかしげる泰麒は大層可愛らしく、また稚い。しかし杉登は、その泰麒からの言葉をまるで打ち震えるようにして待っている。
「お菓子を作って下さったよ?」
がくりと膝から崩れ落ちる杉登。泰麒はそれを見て慌てる。
「どうしたの?どうしたの、杉登、ねえ、どこか痛いの?顔が真っ青だよ大丈夫?」
何が起きたか分からず、泣き出しそうな顔の泰麒を見て杉登は正気を取り戻す。
「ご、ご無礼をいたしました、大丈夫です、台輔。」
地についた膝を立て、狼狽する小さな子供を安心させるべく顔に笑みを浮かべた。しかしその笑みは引き攣っている。
「…英章殿であれば、一刻程前に厩舎の近くで見かけましたが、もしやするとお出かけになるところだったのかも知れませんな。」
嘘ではない。厩舎の近くですれ違ったのは本当だし、出かけている可能性も無ではない。
「そっかあ…それじゃあ仕方ないね。杉登は今日まだ忙しいかしら?」
ぐ、と冷や汗をこらえてつばを飲み込む。
「ええ、折角ですのでもし宜しければ後ほど巌趙様と共にご相伴にあずからせていただいても宜しいでしょうか。ああ、そういえば臥信殿が夏官府にいらっしゃいましたのでお声をかけられては如何でしょう?本日は日次業務程度しかないから手透きだと仰っていました。」
杉登は心の奥で臥信に詫びる。
「うん、ありがとう!結構いろんな人に声をかけたんだけどみんな忙しいみたいですこし寂しかったんだ。待ってるね!」
ぱっと明るく笑って泰麒が去って行く。隣を行く潭翠の背中はわずかに煤けて見えた。
杉登は再び、生贄の様に差し出してしまった臥信に心の底から詫びた。だがしかし、この場で言うには最適な人選だったと思う。
主上の料理はまずい。
まずいというか、やばい。
食べたことのある将兵の大凡半数が心に深い傷を負った。
「食える物ならなんでも食べる」と言われる士卒が、である。
主上が将軍職を拝命していた頃、王師の合同訓練の際に糧食として供されたことがあったが一般の兵の中には軍を辞そうとする者も出た。二度と驍宗様の料理は軍で出さないから大丈夫だと必死で慰留した。せねばならない量の人員が辞表を出そうとしたためだ。
将帥は流石に主上の料理が原因で下野する様なことは無かったが、全員が全員一様に絶句していた。中でも酷かったのが英章と阿選である。
余程口に合わなかったのか、口元を押さえて涙目になりながら必死に嚥下していた姿は今でも思い出せる。
矜恃故か、両者とも必死で平静を装っていたが生理的に滲む涙は止められない。
弱みを見せまいとするその姿がいっそ痛々しかった。
臥信の様に「まっず!主上これ酷いですよ食材に対する冒涜です。あんまりですよ、私が調理される食材だったら化けて出ますよ謝った方が良いです本当に。」程度のことが言える人間であればまだ大丈夫だ。
ともかくも、この二名が茶に誘われていないのは僥倖である。いや、あるいは事前に情報を得て予め声が掛からぬように立ち回ったのかも知れない。
あ、丁度良いってもしかしてそういう?
視察の代行を買って出た右将軍の朗らかな遠い目を思い出して、杉登は自らも視線を遠くへ遣った。
まさかいたいけな台輔を主上の料理の犠牲者にするわけにはいかない。毒物では無いのだから、後学のためにも一口くらいは召し上がっていただいた方が良いだろうが、台輔はご無理をなさってでも完食しようとなさるだろう。止めるべき人間が必要だ。
─巌趙様、お恨み申し上げます。
黄海に連れ立って、共に黄朱に弟子入りしていた主公は、主上ほどではないがそこそこに味覚がやばくなっている。そのため地獄の驍宗料理に耐えられる希有な人材である。
そして味覚を矯正することも無く野放しにのびのびやばい調理人を育ててしまった責任感からか、犠牲者になるのは大概が巌趙とその麾下である。
そこに主上にも遠慮会釈無く毒舌を叩けて、あの料理を食した後にも口をきける程度の耐性を持っている臥信を加えれば、台輔の護衛陣としてはまずまずだろう。
杉登の自己犠牲の精神と、臥信への信頼感(と若干雑な扱い)によって成立した「台輔を主上の料理からなるべく守る会」はこの後塗炭の苦しみを味わうことになる。
─驍宗様、今日は、ええっと、有り難うございました…。
あの、今度から驍宗様がお腹をすかせてお菓子を食べたくなったら、僕が作りますね。
僕、花影から他のお菓子の作り方も教えて貰ったんです!驍宗様がお腹いっぱいになるように、ご自分で作らなくても良いように、おいしいお菓子を作れるようになります!
あと、あの、阿選、大丈夫ですよ。帰ってからものすごい勢いで叩頭礼されましたけど、お仕事で鴻基の街に行ってたのは知ってますから。出会い頭に叩頭礼でいきなり謝られたの二人目だったのでちょっとびっくりしただけなんです。
あ、そうだ、驍宗様あの後杉登は大丈夫だったのでしょうか。大きな男の人があんな風に泣いているの初めて見たので、大げさに驚いてしまってごめんなさい。明日になったら元気に戻っているといいんですが…。
墨が乾いているのを確認してから泰麒は ぱたん、と帳面を閉じた。
今日はすごい一日だった。
いや、今日に限ったことでは無いのかも知れない。蓬莱に居た頃のどこか茫洋とした日々に比べて今は驚くほど日常が色鮮やかだ。
今でも家族のことを懐かしく愛おしく思い出すこともあるが、その寂しさを勢いで押し流されるような日々に少し喜んでいる自分もどこかで感じている。
白圭宮ではいつも何かしら起きているような、そうでもないような。
穏やかで賑やかな平和な毎日、そんな生活が自分にとっての日常になりつつある。
知らず、頬が笑みを形作っている。
「明日は、一体どんなことがあるかしら」
終わり
常世のあのね
発 行 日 令和三年八月十日
発 行 者 xylophagous
連 絡 先 twitter: @xylophagous7