阿墨
いずれの頃、いづこの話にやあらむ。
吾が朝の貴人、某州のほとりにて 面に黥、脚腕に縄目の如き墨の入りたる小童の 物に襲わるるを見つ。此を助け給ひて名と、幼き身に墨の入りたる由を問ふ。
「我が身の墨は生得の物也。此の痣が故、人は我を阿墨と字す」
貴人思ふかた在りて、以後此を陰に日向に後ろ見つ。されど阿墨二十年(はたとせ)を経ず失す。
復(ま)たある年、貴人 別所にて墨の入りたる幼童を見付くる。その姿形、先の阿墨とあやしきまでぞおぼえたり。貴人此を阿墨と字しまもらひ給うも成人より幾年もせず絶ゆ。
その後にも墨入りたる童を尋ねあひては夭折すること重なりぬ。
巷説に「痣の在る子は北斗星君よりもて隠すべし」と言ふはこれが故なり。
─いづくともなし
明幟になって百年も過ぎた頃だったろうか。
普段雲海の上、白圭宮の燕朝に詰めているはずの彼がそこを訪れたのはほんの偶然だった。
人里もまばらな辺鄙な土地の、道と呼ぶのも憚る様な獣道を歩いていると不意に妙な緊迫感を感じ取った。僅かに血のにおいが漂っている。
一体どうしたことかと物音と生き物の気配を探りながら足早に歩を進めれば、僅かに開けた場所に出た。視界が開けると同時に目を瞠った。
いきなり目の前で子供が熊に襲われているところに出くわせば誰でもそうなるだろう。
即座に熊を追い払い、地に座り込んでいた少年に手を貸した。どうやら目を庇った腕に熊の爪がかすったらしく、左腕から血がだくだくと流れている。また距離をとろうと後じさったか、右足をくじいた様子も見られる。出血量は多いが熊に襲われた事を考えれば軽傷で済んだ方だ。
「……ありがとうございます、助かりました」
少年の伸ばした手をとって助け起こしたところで、はっとした。
その少年の顔には黥面を思わせる模様が、首には一文字に墨で引いたような線が、また粗末な袍子から覗く細い手足には縄目の様な痣が黒々と入っていたのだ。
そしてなにより、その面差しに見覚えがあり ひどく胸がざわついた。
「……なんの犯罪も犯していませんよ、この痣は生まれつきです。嘘みたいな話ですけどね」
彼の顔色に何を思ったのか、少年は「これは黥刑を受けたものではない」と説明を付した。そう言いながらも、どこか諦めたような色が見えていた。
「……名は?」
「この見た目ですから、里の人達からは阿墨と呼ばれています」
怪我を負った阿墨を家まで送り届け、片手では難しいだろうと血を拭い布を当てるのを手伝った。その際に右腕には痣のないことに気がつくが、それ以外四肢のどこを見ても黒く痣が這っているのが痛ましい。
「別に、悪いことばかりじゃない。右腕以外であれば、どこか一カ所食い残されれば熊に襲われたのは自分だと分かって便利でしょう」
などと言うので彼は眉間にしわを寄せ、阿墨の頭をはたいておいた。
手当をする傍らで様々な話を聞いた。
阿墨は旌券と共に里の里木の下に捨てられていたらしい。旌券に記されていた姓名は朴高。
本当ならばまだ里家の世話になっていておかしくない年の筈だが、どうやら閭胥がその外見を気味悪がって里の外れの土地と家を貸し、小作という名目でそこへ追い出されたらしい。農閑期は山で山菜や薬草を採って売っているのだとか。この辺りの道観では、持って行けば薬草を買い取ってくれる。また、今は冬を前に薬の備えを始める時期だった。今日熊に襲われたのは道観に納める薬草を採りに山に入った為だと言った。
阿墨本人からそれを聞いた彼が閭胥の対応に不服を覚えていると
「家と土地を貸してくれただけ温情がある方でしょう。この歳、この面では追い出されたところでまっとうな商家は雇ってくれず、黥者と思われては兵卒にもなれない。沮墨を使う黥刑の刺青は十年もすれば消えると聞くけれど生まれついての痣では消える事も無い。そう思えば身寄りも無い子供でも、できる仕事があるだけ上々です。それに怪我をしたところで薬草なら売るほどある。まぁその薬草を得るために負う怪我が殆どなんだけれど」
そう、からからと笑った。
以来、彼は年に数度 阿墨を訪ねた。
訪ねる度に阿墨は「お前は暇なのか」と呆れた顔をする。敬語は早々にどこかへ行った。
年を経るごとに、阿墨の顔貌は見覚えのある誰かに似ていく。ふとした時に出てくる仕草や声変わりで低くなった声音も、記憶の中にある人物にどんどん似てくる。
だが胸中をざわつかせる様なその思いとは別に、自分の素性に頓着せずに他愛の無い話をし、時には大いに笑って気楽に過ごせる阿墨を 彼はいつしか歳の離れた友人の様に思っていった。
薬草を卸しているなら役に立つだろうと本草書を持って行けば、小学程度の読み書きで専門書が読めると思うかと呆れた顔を返される。そう言いながら、教えれば砂が水を吸うように知識を吸収していくので物を教えるのが楽しかった。
同時に、その優秀さにまた誰かを思い出した。
成人して給田を受けたと聞いた年には酒を持って行って、祝いと称して飲み明かした。
そうこうしている内に、知り合って十数年が過ぎていた。
「阿墨」
半年ぶりに彼が訪ねてみれば、廬の阿墨の家はがらんとしていた。
季節は秋だ、収穫も終わって冬に備えてじきに里に戻ろうかという頃の筈である。
だというのに手入れもされていない畑は一夏の間放っておいたかのように草が伸び放題に伸びて荒れている。家屋の中には人の住んでいる気配もない。
里へ行って阿墨の消息を訪ねると
「ああ、少し前に病にかかってぽっくりいったよ。縁故の者が無いから家は里の者達で片付けたが、あんた知り合いかい?」
……仙とは生きる時間の違う只人である。いずれ、という覚悟はしているつもりだった。が、あまりに突然の別離に彼は何も言えず立ち尽くした。
それから数十年が経った頃である。
彼は偶然、阿墨と同じように全身に墨の様な痣を持つ子供を見つけた。
それとなく近づいて聞いてみればやはり生まれつきだと、旌券と共に里木の下に捨てられていた子供なのだとわかった。旌券に記されていた名は同じ。以前に出会ったときよりなお幼いその顔には、それでもやはりどこか見覚えが在る。
こんな偶然が在るだろうか? そう考えたところでふと思い立って「全身に刺青のような痣のある子供」そんな噂がないかと調べれば、国の全土、各地でそんな話がちらほらと見つかった。
そのいずれもが里木の根元に置かれていた捨て子で、妖魔に食われて死んだだの、山で動物に襲われて墨の入った小さな体の一部が見つかっただの凄惨な噂話が一緒について回った。
「阿墨」
彼は此度見つけたその子供を引き取って育てることにした。
とはいえ彼自身、諸々煩わしい事情のある身である。正式に養子にとるわけにも行かず、信頼の置ける家に養育を頼み、自らも度々阿墨と字を付けたその子供を訪ねることにした。
阿墨は病気らしい病気もせず、すくすくと育った。
長じて家の商売を手伝うようになれば非常に優秀で、一を教えて十を覚える、この痣さえ無ければ国官にもなれたろうにと家の者からは惜しまれた。
成人した頃に、子供であればまだしも顔に墨の有る正丁が居ては外聞も悪かろう家を出ると言い出す一悶着もあったが、育ての親からはこのまま家業を手伝ってほしいと慰留を受けてそのまま阿墨はそこの養子に収まることになった。彼は後になってその騒動の話を阿墨から聞いたのだが、面映ゆい様な、申し訳ないような、そんな顔で報告する阿墨は幸せそうに見えた。
八年が経つ頃に、唐突に阿墨は死んだ。病で倒れた、と聞いた。
彼には予感があった。国の各地の里家に尋ねて、刺青の様な痣のある子供を探した。
探し始めて十数年が経った頃に、同じく、旌券と共に里木の下に捨てられていたという縄目模様の痣の在る少年を見つけた。乱の多い、荒れた時期だったので生活のために戦場で死体拾いをしていた。
見つけたときにはもう里家を離れて一人で生活をしていたので、知り合う機会でも無いかと様子を伺っていると余程不審だったらしく随分と警戒された。
年単位で数ヶ月に一度住んでいる里を訪ねていた程度で、特に本人に接触を図ったわけでも無いのに不審者扱いは不本意だ。と、親しくなった後に言えば
「数ヶ月おきにやってくる知り合いでもない人間に何をするわけでも無く年単位で周囲をうろつかれてみろ、逆に怖い」
と言われた。不本意である。
この阿墨は成人を待たずに、匪賊に刺されて死んだ。いつものように乱があった後兵卒の装備や馬を集めていたところを突如襲われたそうだ。濁って血走った目をした匪賊は手の付けられないほど暴れ、余罪もあったためその場で射(い)殺(ころ)された。賓満に憑かれていたらしい。
彼はまた黥面の子供を探した。子供はまた見つかった。何度も探しては幾たびも見つけた。
あるときは「数年前まで墨のような痣の子供が居た」という過去だけが見つかった。
そうでない時は知り合ってまもなく、あるいはそれなりの年月を共にしてから、様々な理由で姿を消してはまた見つける。治世が荒れれば妖魔に襲われ、時折には地崩れに飲まれ、あるときは病で突然に。目の前で死ぬのを彼が看取ったこともある。
何度も生まれては、決して三十を数える事無く死んでいく阿墨。
いつだったか、彼は阿墨に官吏になる気は無いかと問うてみた。
仙になれば、あるいは。
だがそれを聞いた阿墨は笑って、己の顔に引かれた紫の痣を指し言った
「知らないのか、墨の入った者はまず役人にはなれない。この国では黥刑が廃止されて久しいが、後ろ暗い稼業の連中の間では私刑として墨を入れる風習が一般的になってしまっている。生まれつきの痣だと言ったとしても到底信用されるまい。小さな市の刑吏や、兵士の補助をする端役程度ならまだしも昇仙するような高官はまず無理だ」
聞いた内容を調べてみれば、それは事実だった。
歴史をひもとけば 一度は全ての国において廃止が趨勢であった黥刑だが、かつて柳のとある王朝で教化主義に基づく刑(けい)辟(ほう)の施策が一定の成果を収めたのを切欠に一時流れが変わった。
柳に倣って時間の経過と共に消える沮墨を用いた黥刑を採用する国が増え、ここ戴国においても一度は導入されている。が、今は戴での黥刑は再び廃止されていたはずだった。
しかし、阿墨の言った様に、刑として廃止されて以降も匪賊や荒っぽい稼業の者達の間で私刑や見せしめの為に相手の顔に刺青を入れる……ということがまま起きているようだった。
そのため刺青者は忌避される。つまり、顔にある刺青は「真っ当でない」という意味の目印になってしまっているのだ。例え無実であっても市井の「普通の民」からの白眼視を受けては実生活の障害となる。だからこそ今もなお懲罰として用いられる。
いくら黥刑を廃止し雲上から墨と犯罪の関係性を否定しようとも、民の中から忌避感情が拭い去れる訳ではない。一度人の心に根付いてしまった偏見は、世代を経てもいくらでも再生産される。感情は制度で取り締まれるような物ではないのだから。
白眼視されている当人の口からそれを聞かされたことに気づき、彼は暗澹とした。
だが、取り締まれないからと言って放っておいてよいものでもない。無意識の先入観は強固ではあるが根拠となる実体がない、時間をかければいつかは。今度の阿墨の寿命には間に合わないかも知れないが、いつかの時を見据えて動けばどうにかできるのではないか。
沮墨が開発された地、かつての柳の刑辟を思い起こす。黥刑に用いられる墨は、特殊な工夫がされており十年かけて消える。今なお沮墨が用いられている国では、阿墨の様な色の薄い紫の墨が示すのは身を慎み罪を遠ざけている証だと見なされる。
黒々とした刺青はやはり忌避感をもたれるが、消えない刺青を入れられるよりは沮墨の方が更正はしやすいはずである。
いっそ私刑として他人に墨を入れることを罪として取り締まった上で、官制の黥刑を復活させた方が──
そこまで考えてふと、彼は気づいた。紫色の墨痕。
初めて阿墨に会ったとき─熊に襲われている少年を助けたあのときと比べて、阿墨の墨が薄くなっている。気づくと同時、訳も分からず 毛の太るような不安が脊椎を駆けていった。
さらに時を経て、彼は法則を見つけた。
阿墨が二十六を過ぎて死んだとき、次に見つけた阿墨は墨が僅かに薄くなっていた。
それより前に死んだ時、墨の色は変わらない。
二十六歳。
それは彼の知る「或る人物」が只人をやめ昇仙した年齢である。
彼は、自身が阿墨にその面影を見ていることを痛いほど理解している。
もしも昇仙することを「只人としての人生を終えて仙として生きること」と考えれば、二十六というのは仙のまま死んだ「その人」の享年であるとも言えた。
黥面の沮墨は十年かけて消える。おそらくは二十六まで全うできた一生を一年分として、阿墨の墨は次第に薄くなっている。
彼はもう、いつかに感じた理由の分からない不安の正体に気づいていた。
これまで痣を頼りにして数奇な輪廻を繰り返す友人のことを探してきたが、この標(しるし)がなくなればもはや探し出す術は無い。否、それよりももっと根源的な疑問がある。
仮に、嘗ての罪科の故に阿墨がこの不自然な生と死を繰り返しているのだとしたら── もしそうなのだとすれば、痣が消え、刑期を終えた後に再びこの世に生を受ける保証は無い。
此度見つけた阿墨の痣は、もはや赤く消えかかっていた。
─あと二度か……一度か。
それが終われば、もう阿墨を探すことはできない。
突如彼の脳裏に、泡沫が水面に浮かぶように一つの考えが浮かんだ。
二十六を待たずに死ねば墨は薄まらない。
そうなればこの次も、その次も──理論上、永遠に──阿墨を見つけることができる。