乍朝右界奇譚拾遺集 ─阿墨・委州─阿墨・委州
──委州に曰く 墨の入りたる子を探すもの在り。其は白髪紅瞳の神仙なり、と。
日射しがきつく、されど短い戴の夏、どこかでじりじりと虫が鳴いている。
強い日光に目を細めたところで風が吹いて 夏らしい涼しげな白地の袍が翻った。
荷を地に置くと、彼は白い髪に紅い眼を目深に被った笠に隠して友人宅の戸を叩いた。
「阿墨、居るか?」
声をかけてから家の中をのぞき込む。陽光に照りつけられた屋外に比して、影でぽっかりと切り取ったように暗い室内はただ しん としている。
思いあたって あぁ、と声が出た。途中の畑にも姿を見なかったので、おそらく上庠へ行っているのだ。以前にも同じことがあった。その時は戸外で待っていたのだが、不審者がいると近所で騒ぎになったらしい。戻るまで中で待たせてもらうかと考えたところで背後から声がした。
「久しぶりに顔を見せたと思えば、お前はまた木剣なぞ持ってきて……。いい加減俺を稽古に付き合わせるのは止めろ驍宗。これだけ実力差が開いていては相手にもならんだろう」
「なんだ待つまでもなかったか。大丈夫だ、剣は教えるのが楽しくてやっているだけだから勝負にならんのは端から承知している。お前は筋が良い」
そう忌憚のない本心を述べれば、相対した友の眉間に深い深いしわが寄る。
「文句の一つ二つは言ってやりたいところだが、今はとりあえず中に入れ。お前は目立つからな。自分が近隣でなんて呼ばれているか知っているか?」
「知らぬ」
「何年か前に二軒隣のじいさんが戸外に立ってたお前を見かけて『ついにお迎えが来た』『白い髪に白い袍、あれは間違いなく北斗星君だ』って騒いでから、この近辺じゃ陰で北斗星君と呼ばれている」
北斗星君。南斗星君と一対の神で人の寿命を司ると言われている……言ってしまえば死神である。普通に考えれば陰口の類だ。
が、彼の目がきらりと光るのを見て阿墨は天を仰いだ。
「いいな、それは」
「相変わらずお前のその感性は全く理解できん」
そう言われてむっと口を引き結んだ後に、驍宗は口を開いた。
「「不吉も過ぎれば縁起が良い」」
異口同音が見事に重なった。
「─と、言うんだろう?」
「なんだ、よく分かっているではないか」
いいや全く理解らん。語調も強く言い捨てて 阿墨はさっさと入れと彼を屋内に招いた。
佩いた剣をごとりと壁に立てかけ、土産だ と反対の手に持った瓜を阿墨に渡して座った。
「さて今更ではあるが、改めて成人を祝わせてもらおう。自分の土地を耕す気分はどうだ」
「どうもこうも、給田を受けたところでやることは里家に居た頃と変わらん。里の土地に空きがあったのは助かったが、ここまで代わり映えがないといっそ成人を機に遠くに移っていても良かったのかも知れんな」
そう言って肩ごと竦められた首元には、薄くぐるりと一回り、紅い線が入っていた。
「少学に行くなら州都に近いここらの方が都合が良かろう」
先ほどまで上庠に行っていたのだ、推挙の話があるなら頃合いだろうと話を向ける。
「残念ながら、老師に推挙はできんとつい今し方すっぱりと言われてきたところだ。今となってはもう、此所である必要は無くなった。一年前に……いやせめて播種より前にそう言ってくれていれば許配に依頼する手もあったというのに」
阿墨はやれやれと首をふるうが、言に反して表情に落胆の色はかけらも無かった。
「何故だ。塾や個人教師は付けられずともお前の才なら学力面の問題は無かっただろう」
実のところ何故と言いつつその理由は半ば以上理解していた。が、確認するように問うた。
苦笑と共に阿墨は 指先でとんとん と頬骨を─正しくは、そこに疾る痣を─叩いた。
「分かっているんだろう」
分かっていた。そう──この国の民心の変化は、間に合わなかったのだ。
「少学へ行けば、いずれは官吏になる。選士はいわば郡の代表だ、瑕疵のある生徒を そうと分かって選ぶ者はおるまい。むしろ上庠まで行けたこと自体が僥倖だろう」
諦めたように笑う阿墨の顔を見て、彼はふうと一つ息をついた。
ならば結論は一つだ。面を伏せて目を閉じれば指の先にちりりと痛みが走るようだった。
「それで、お前の用事はいいのか。本題にはいつ入る?」
土産の瓜を食ったらか、お前の剣の稽古の時か と茶化すような声が頭上に降ってきて、思わずちらりと視線を上げた。
「……何故」
何故尋ねた。何故分かった。そう聞きたかったがこれは愚問だろう。自分でも自覚がある。
「戸の前に立っていた時からずっとどこか思い詰めた顔をしていた。おまけに、あの剣」
建物に入ったとき驍宗が剣を立てかけた壁を顎で示した。
「今日のは真剣だな、いつもの木剣と違って音が重い。これで何もない筈がないだろう。辛気くさい面をいつまでも眺めているような趣味も根気も俺には無いのでな」
案の定、ただただ苦笑いが返されただけであった。
こう言われては今更言い淀むのも馬鹿らしい。小さく息をついて、顔にかかっていた白髪を耳の上へと掻き上げた。
「そうだな、訪ねた用件の話をしようか。まず……」
まず、どこから話したものだろう。
彼が何を企図して訪ったのか、それを阿墨は察している。だが結論が通じているからと、結果を急いてはいつぞやの二の舞だろう。
お互いわかり合ったつもりで、その実何一つ理解せぬまま殺し合った。
そして、碌々言葉も交わさずに終ぞ解り合えぬままに首を落とした。
驍宗はそこに後悔があった。何を思って起ったのか、知りたかった。それと同じくらいに己が何を考えていたのか知って欲しかった。自分という人間を理解して欲しかった。
「まず…今まで黙っていて悪かったが、私は……この国の王、泰王乍驍宗だ」
素性を明かしたからといって態度を変えるような人間では無いとは分かっている。
だがこれまでの気安い関係性が壊れてしまうかもしれないという一抹の不安を捨て去るように意を決して名乗りを上げた。
が、何故だろう。目の前の男は藏沙狐の様な顔をしている。
「だろうな。出会ってからこちらいっかな歳をとった気配がない、つまり仙だ。住まいは鴻基だとも言っていたな。やってくる時節が大体定まっている、祭祀が無く国が主導するような事業もない時期ばかり、よって飛仙とは違う国官に類する者だ。鴻基に位を持つ仙で、白髪、紅目、字が驍宗。これで気付かれていないと思っていたのならむしろそれに驚く」
「まあそれもそうか」
説明を受けて頷いた。それだけの情報があれば自分でもそう判断するだろう。
「近所に『もしやあれは』と聞かれて『立場ある人間が、一人で気ままにこんな田舎に度々来るほど暇なわけが無い、あいつは高官の家族の誼で仙籍に入っている道楽息子だ』と誤魔化したことが何度あったかお前に分かるか? 北斗星君の陰口が無ければ今頃は陰で『暇な乍氏』と呼ばれていただろうよ」
「黙ってはいたが別に素性を隠しているつもりも無かったからな」
「逆に 少しは隠せと何度も思った」
胡乱げに見つめてくるその表情に、却って安堵が湧いてふうと息を漏らす。
「すまない、このような迂遠な言い方は礼を失していたな。信用されないのでは無いかと」
「これでもそれなりに人を見る目はあるつもりだ」
言外に、しかしまっすぐな信頼を示されて思わず ふはっ、と息を吐いた。
いつかの時にも、こんな関係を築けていれば。
「そうだな。もっと直截に話そう」
苦笑と共に息をつく。
しかし、本題より先に前提の共有は必須だ。
「八年後、お前は二十六歳で死ぬ」
「待て」
「それより前に没する可能性もあるが、二十六を超えることはない」
「おい待て」
「仮に次のお前の死に立ち会えば私が看取るのは四度目なわけだが」
「待てと言っているだろうが、聞け」
「このまま次の二十六歳を迎えて死ねば、お前の墨はおそらく消える」
「頼むから一旦口を閉じろ。なんなんだそれは、仙ならではの冗談なのか? お前の冗談はどこが面白いのか理解できた試しがないが、せめて常人にも理解できる範囲のやつを頼む」
「冗談ではない。真剣な話だ」
「尚悪い」
じとりと半眼を向けられる。何故だ。
こちらの内心が顔に出ていたのか、目元に手を当てた阿墨が溜息を落とす。
「人を見る目があるつもりだと発言した事を、若干後悔している」
「何故」
「お前が自分のことを泰王乍驍宗だと心底から思い込んでいる狂人の可能性が出てきた」
「心外だ」
あまりの言い様である。
「別に私が泰王ということについては信じなくても良い」
「いや、そこまでは信憑性がまだあった」
「これまでに私は『生まれつきの痣のある者』という特徴を頼りにお前を、あるいはお前と思われる者の消息を十一度見つけた」
「そら見ろ、いきなり胡散臭くなったぞ」
「事実だ。何度見つけても二十六を超える事は無かった。そして二十六で死ぬ度に、お前のその痣は次第に薄くなっていった。次があったとて、もうお前を探すことはできないだろう」
まっすぐに阿墨の眼を見る。
「あいにく生まれ変わりなぞ信じていないし、道観へも寺院へも布施をするほどの金も無い」
「信心の勧誘ではない」
自分は話を真面目に聞いて欲しいだけである。信用はともかく信仰はいらない。
「それで? 天命の記された帳簿を見て、おっと間違えたこれまでは二十六だったが今生の俺は十八が寿命だと命を取りに来たか、北斗星君殿」
「それは実在も定かでない天仙の名だろう、私とて神籍に名を連ねてはいるが赤の他人だ」
「では、暇な乍氏でもいい」
「私は真剣に話しをしに来たんだ、お前に……」
なおも重ねようとする言葉を片手で遮って、阿墨は顔を伏せたままくつくつと笑った。
「すまん、実のところ途中からはわざとやっていた」
今度は驍宗が藏沙狐の顔をする番だった。
「悪かった、冗談だ。さっきも言ったとおりこれまでに知ったことを総合すれば お前が仙で、おそらくは先王朝の時代すら見ている国の枢要で、白髪赤目であることは事実でしかない。そんな人間が二人も三人もいる訳がない。まぁ、ごく僅かの確率をかいくぐった狂人である可能性は無くはないが少なくともお前を信用したことを後悔はしちゃいないさ」
さっぱりとした口調と共に、諦めによく似た笑みが顔に浮かんでいた。
「いいだろう、お前の妄想に乗ってやる」
驍宗の眉間のしわが深くなる。
「何の話をしているか、本当に分かっているのかお前は」
「自然死する前に剣の錆になれという話だろう」
「私の我儘でお前を殺すという話だ」
急に話がすとんと纏まりかけて、無意識下の反発が首をもたげる。何故だろうか、物わかり良くこちらの話に諾と応じる相手に怒りが湧いた。
急にこんな話をされて何故すんなり飲み込んでしまうのだこの男は。今生への未練とか将来への展望とか、何かないのかそういうのは。
我ながら理不尽な言い分だとは分かっているがそんな言葉が胸中に渦巻いている。
「どうせ二十六で死ぬなら今死んだとて大差は無かろう。……仮にそれが嘘だったとして、別に永らえたいとも思っていない」
「……今生は大差なくとも、徒に刑期を長引かせることになる。また同じような人生を繰り返すことになるかも知れんぞ」
「あいにく、俺は生まれ変わりなぞ信じちゃいないんだ」
先ほどと同じ言葉を繰り返した後、阿墨はふいに口元に手を当て いや、違うか そう口の中でつぶやいた。
少し考えた後に顔を上げると、淡く、あるかないかの笑みを刷いて言った。
「信じちゃいないがそれがお前の頼みだというなら聞いてやる、と言っているんだ」
─ああ、だがそうだな
静かに瞑目して言葉を継ぐ。
「代わりに……というわけでもないが、二つ頼みがある」
驍宗は小さく頷いて先を促した。
「まず、身辺整理くらいはさせてくれ。これは一年猶予があれば十分だ」
「……では二十五になった時また来る。それまでは待っている」
「七年か、猶予にしては大盤振る舞いだな。待っている間に逃げるかもしれんぞ?」
「……二つ目はなんだ」
問われて開きかけた口を閉じ、阿墨は視線を横にやった。
「次に来たときでいい」
驍宗はそうか、と独りごちるように答えて返す。
「また 来る」
言って立ち上がった拍子に白い袍の裾が翻る。それきり会話を終わらせると壁に立てかけた剣を取って、傾きかけた昼下がりの日射しの中へと出ていった。
しばし歩いて、そういえば瓜を食うのを忘れていたなと陽光を仰いだ。口の中が渇いていた。
その廬を北斗星君が訪わなくなってから、いくつも季節が巡った。
種を蒔き、水を汲み、実れば禾黍を収穫し、雪の間は縄を綯い、また種を蒔く。
どこかしら違うものの代わり映えが無い日々が繰り返される。
両の手で僅かに余るほどの年月を数えた頃、冬を間近に控えた秋の日に阿墨の元に客が訪ねた。
斜めに差し込む日射しが部屋を朱く染めている。
「久しぶりに顔を見せたかと思えば……。出会い頭にあからさまに落胆した面をさらすな」
憮然とした表情の阿墨にそんな言葉で出迎えられて、驍宗は首をかしげた。
その様子を見て阿墨は眉を顰める。
「無自覚か? 当てが外れたとでも言いたげな顔をしている」
「そんなつもりは無いが」
そうは言いながら、なるほど戸を叩いて応答があったときの自分の気持ちはたしかに落胆と呼ぶにふさわしいものであったかもしれないとどこかで納得していた。
戸を潜って入った室内は、前に廬の家を訪った時よりもさらに物がなくなっていた。
僅かな食料と竈にくべる程度の薪の他は何の備えも無い。土間を見ただけで、この冬を越すつもりもないのが分かる。
「まったく、二十六の直前まで一回も来ないとは流石に俺も思っていなかった」
─逃げるかも知れないとか本気で思わなかったのかお前は。
ぼやくようにそう言ったその横顔は、昔日の右将軍と瓜二つだった。
「……逃げるなら、それでもいいとどこかで思っていたのだろうな」
己にとっても不可解な自分の行動について考えると、きっとそういうことだったのだろう。
「結末を賭けに委ねるようなかわいげがあるとは知らなかった」
「そうだな、自分でも驚いている」
やろうと決めた事はやり遂げる質である。遂行すべき事柄は、選択肢は複数用意すれど偶然の入り込む余地など残さず人事を尽くす。そんな自分が、敢えて穴を塞がずに置いておいたのだ。
「私としたことが、この期に及んで逡巡があったというわけか」
思わず自嘲を漏らした。
だが、憎いから殺したい訳ではない。生きていて欲しい。生きていて欲しいから殺すのだ。
矛盾と倒錯に満ちた望みと行動、それ自体にそもそもの迷いの萌芽がある。
「流石に冬までには来るだろうと、備えもしていなかったからいずれにせよ雪が降れば早々に死んでいたと思うが」
「思いのほか見通しが甘いな」
思ったままのことを言えば、無言の渋面で頭をはたかれた。
はたかれた驍宗は思わず不服の滲む視線を向ける。と、目が合った阿墨がにっこりと拳を掲げた。お前が言うな、発言内容は選べ、次は拳骨でいく。笑顔がそう物語っていた。
「さて、来て早々に悪いが見ての通り荷物は粗方片付けてしまってな。衾褥も一組しか無いので泊まりは遠慮してくれ。俺を殺した後に一組しか無い衾褥をお前が使ってくれても構わんが死体と同じ部屋に宿泊というのも寝覚めが悪かろう?」
視界を朱く染める太陽は、刻一刻、こうして話している今も地平線に向けて沈んでいくところだ。幾許もせず夜が来るだろう。
「なんとも、慌ただしいことだ……」
溜息と共に、ゆっくりと首を振るった。これでは久闊を叙する間とて無い。
「お前の来るのが遅いんだ。もう少し早ければ飯くらいは用意してやったものを」
朱から紺碧へ、昏くなりゆく部屋にくつくつと笑い声が滲んだ。
それが解けた後は虫の音一つ響かない。互いの呼吸の音すら拾えそうな静寂が鼓膜を打つ。
ざわり、剣を鞘から引き抜く音が無音を削いだ。
驍宗の剣の腕は知っている。徒に苦しませることはしないだろう。
「……ああ、いや、忘れるところだった。二つ目の頼み事をまだ聞いていない」
日が落ちて 火も無い室に声がする。暗い中驍宗の白い髪だけがぼんやりと見えている。
「二つ目の? ああ……そうだったな」
頼みが二つある。一つは一年の猶予。もう一つは、次に来たときで良い。
阿墨が自分でそう言ったのだ。
躊躇うような間を置いて、阿墨の声が耳に届いた。
「また、痣を頼りに俺を探すと言っていたな」
白い影は 微かに ぎゅ と手のひらに剣柄を握り込んだ。空気が揺れる。
「生まれ変わりなど信じてはいないが」
暗い視界に青墨の様に凝った影が自嘲する
「次に俺を見つけた時は、どうか友人になってやってくれ」
空がそのまま落ちたような青く暗い夜の部屋。顔は見えない。
「私はお前を友だと思っている。ずっと、昔から」
「そうか、では次も友人になってやってくれ」
微かに笑う気配と同時、白い影が相手の頸を掻き切った。
それからまた年は流れる。いくつもいくつも季節が巡る。
人はまた種を蒔き、水を汲み、実れば禾黍を収穫し、春が来ればまた種を蒔く。
どこかしら違うものの代わり映えが無い日々が繰り返されて、幾星霜。
また、縄目模様の捨て子が二十五を迎えた歳に白髪の武人が剣を携えて友人の許を訪ねた。
「次も、友人になってやってくれ」
「約束する」
そう言って、王は笑う阿墨の頸を掻き切った。