「神の庭の秘め事」.
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新緑が風にそよがれさわめく。
この神の庭は乱れる事無く、今この時も眼を魅かれる神業を携えて清明とした息づく声を漂わせる。季節ごとに纏う衣は冴える萌黄の色だ。
私が一等動きやすい季節である。
「んんっ」
ぽかぽかと陽が温める縁側で伸びをする。こんな日は貴方の膝が一番心地が良いのだ。くぁっと一つ欠伸をすると、クスリとまた笑みを溢された。
「こんなに心地よく、温かなのだから仕方ないじゃない」
はしたないと怒られてしまいそうだが、今の私に怒る人間など居ない。だから存分に、陽に温められたその膝で上半身を横たえ、深みのある色合いの座を撫でる。指先の爪がこつりと音をたてた。
「貴方の創りだすこの庭を眺めながら、心地の好い膝の上で眠るのが大好きなのよ。……それに、」
照れくさそうに頬が染まる。
「夫の傍で眠ったって、悪い事ではないでしょう?」
少女が一人、無邪気な笑みで楽しそうにほころんだ。きしりと家が音を成す。
私の夫は雨風や寒さから其処に棲む者達を守り、心の安寧と共に居場所をくれる尊大な存在。家屋の付喪神だ。だから穢れから、浸食から、人間から。この神を守るのは家守で、そして妻である私の役目だ。〝守神〟として私は此処に居る。
私の夫は優しすぎたのだ。
人間は夫を〝マヨイガ〟と呼ぶ事もあった。遠い昔に、ふと迷い込んだ人間に優しさを与えてしまったが為に、その後に話を聞いた幸を求める貪欲な者達が夫を探し求めたのだ。愚かしくも、残忍に。
その副産物とでも言うのか、その末に私が生まれた。私の骨も身も魂も、この土地に溶けた。けれど、私はそれが嬉しくもある。貴方の傍に居られるのだから。
✤ ✤ ✤
幼い頃から高い霊気を持っていた。それに目を付けられたのだ。とても貧しく、母は無く、お荷物で枷になる私を父は手放したがっていたのだから、とても都合がよかったのだろう。それを探す道具として。
私が持つ高い霊気を、〝マヨイガ〟を探し出す為に使うのだと男達は言った。穢れを知らない霊気の高い少女が必要だったのだと。
景色を映しだす為に、清めたという丸く程よく大きさのある鏡を私に持たせ、山の中を歩かされる。逃げないように、私の細い首に縄を括りつけて。
何を勘違いしたのか、それをすれば探し出せると男達は思い込んでいたのだ。そんな事をしても見つけ出せないと感覚で分かっていた。恐らく向こうから招かれるか、その資格がある者でないと其処へは辿りつけないのだろうと。ただ、それを男達に告げると頬が痛むだけだったが。
長くほの暗い山道を幾度と歩き続けた。それしか私に出来る事が見つからなかった。幼さを無くし、知恵を携える事が出来ていたならば、それ以外に動ける事があったのかもしれない。ただ、そう思ってもどうしようも無い事なのだが。
母が居なくなってから今まで碌に食事がとれず、体力も肉もない私にはその進みは苦しくて仕方がなかった。陽が沈んだ後に吐かれる悪態に恐怖するのも嫌だった。
けれどそれは唐突に終わった。一向に見つからず、これでは上から報酬が出ない、期日に間に合わないと、男達が癇癪を起し始めたのだ。父がそれをする事はよくあった。だけれど私よりも大人な筈の者達が怒号を上げるのを、どうすればいいのか何時も私には分からなかった。
鏡を抱え込み、膝を合わせて震えながらどうすればいいのか考え続け、濡れた眼を伏せては回らない頭の中では「どうしよう」という言葉だけが回り続けていく。そうして気がつくと、目の前に一人の男が立っていた。私の首の縄を離さず持ち続けていた男だ。その手が縄を引く。私の身は地に転がりだされていた。
さっと血の気が引いた。
転がり落ちた鏡に映し出されたその顔が、今まで見た事が無い程黒く潰されていた。父や男達の顔が黒く見えづらくなる事は多々あったが、此処まで塗り潰されているのを見たのは初めてだった。耳が音を拾わなくなっていく。吐き出され続ける言葉の中にはお前が得る事も出来ない不良品なのがいけないのだと言うのもあった。
「いや、そんな事は無いよなぁ? お前は今まさに使える有用品だろう?」
穢し、貶め、切り捨て。非情と暴虐の末に肉が足らない細身を軽々抱えると、液が滴る肉を崖下へと放り捨てる。落下していく身体を崖際で見下げた男達が、視界から遠く離れていく。
恐らくこれが、私がまだ人だった頃の最後の記憶だ。
✤ ✤ ✤
絶え絶えの身と、絶え絶えの息がどさりと庭に迷い込む。
精神が外壁に付着したままの遺骸が、突然意も知れなければ空間の繋がりもおかしな場所に落ち、目の前に家屋が現れた時は相当驚いたのを辛うじて覚えている。怖くて、液を飛び散らせた肉に必死に揺らぐ火をしがみ付かせたのだ。
泣くように零れる青い火のこがか細くぱちぱちと弾け消えていく。まだ私が瞼を携えていたら、粒を垂らしながら赤く腫れあがっていたかもしれない。まだそこにまともな首があったなら、出もしない嗚咽と堪えに飽き飽きして、喉の奥に言い知れぬ痛みがじんと留まり続けていたかもしれない。私は必死に小さな揺らぎでもう私ではないものにしがみ付いていた。小さな手でぎゅっとしがみつく。
ぎしり――
――骨と身と魂が地に溶け込み、悲惨の末に朽ちるだけだった筈なのに。夫は〝その地〟から一体の家守を作り上げた。優しさを持っていたが為に、娶る(契る)事で私を神格にのし上げた。私は夫の番になり、守神になった。
話を聞いた夫は自身の行いが廻って私が酷い目にあったと言うが、夫の優しさを踏み躙った人間達が悪いのだ。
現に私は夫のその優しさに掬い上げられ救われた。
あの人間達に道具として使われずとも、元より環境下が悪かったのだから、何れ別の形で悲劇を迎えていたかもしれない。
人間に踏み躙られても、こうして何者かを屋根の下で守り続ける夫は、人間よりも愛情深いと私は思う。だから私は夫を守りたいのだ。その優しさが踏み躙られない為に。
〝マヨイガ〟と、今ではどう認識……そもそも忘れる事しか脳の無いような人間という種が、人間とは違った者達の存在を覚えているかすら怪しいが。何にせよ、あの世からこの神の庭に訪れられる人間が減ったのはある意味で良い事なのかもしれない。私達の安寧を脅かす可能性と穢れが減ったのだ。特に夫が元々居たこの隠世の山奥に移ってからは、私は粗悪な人間に会った事が無い。今や訪れる者は神や精や妖の方が多い。そして自然の中から生き物が顔を覗かせては、時々隠世に棲んでいる〝人〟が訪れる程。
神域を荒らさないのならば歓迎だ。夫は賑やかな宴が好きなのだ。その夫を楽しませてくれるならば歓迎しよう。
きしり。
微睡、何時の間にか眠っていた私はその声で目を覚ます。萌黄色を纏っていた衣は、何時の間にか夕の陽に照らされ色を変えていた。季節が変わったとはいえ、まだその空気は帳ごとに冷気を含む。寒さで身を震わす前に声を掛けてくれた様だ。
家のきしみも、庭のさわめきも、全てが私にとって愛おしい声だ。何時も貴方は私の想いに耳を傾けてくれる。私の声は、貴方にしか理解が出来ない。貴方の声は、私にしか理解が出来ない。いつか、貴方にもっと恩を返せたらいいのに。
「すいませーん! 誰かいますかー!」
突然現れた掛け声に、辺りが一斉に静まり返る。先までの温かなさわめきが嘘のように感じ、少し寂しい。その人物の本質を探る為に耳を澄ませているみたいだ。
即座に立ち上がり、家屋の奥影へ身を沈める。ぺたりと、貴方の温度が通う壁に寄り添う。貴方に溶け込むのではないかと言う程にぴたりと触れて気配を探った。すると、きしりと優しく此方へと声を掛けてくれた。此処ではそうまでする必要はないのだと。
「貴方を守る為に、私は此処に居るの」
応える様に愛おしい声がする。心を落ち着け、ほっと息をつきたくなる優しい声だ。けれど、招いてもいない不明な尋ね人が来たのだから気など抜けない。
「迷い込んだ〝悪い蛾〟は、私が払うから」
粗悪な人間が迷い込む事は無いこの隠世で、私の役目は無用なのかもしれない。だけれど――
私は貴方と共に居たいから。
「貴方と私だけの秘密」
『しー』っと指を口元に宛てると、神と神の秘め事を、内緒話を二人でする。その内に、一体の家守が声の方向へと気配を這わせた。
大丈夫。絶対に奪わせない。
- 了 -
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エブリスタ「三行から参加できる」用に新しく書いたもの。お題は「夫婦」。
※ポイピクの仕様上で、拡大するとなぜか題と本文が詰まって読みづらいので、出だしに点をうっています。特に本文とは関係が無いので気にしないでください。