西からきた天狗 その風の妖精は偏西風に乗ってやってきた。
西洋で何百年も風の精として仕事をした後、他の姉妹と共に世界へ散らばっていった。風の精は金の髪をなびかせてのんびり気ままに浮かび、気に入った土地で足を止めようと考えていた。
その途中、大きな河に出た。幅が広い上に、水面は渦を巻いたりうねったり、とても危険な激流だ。何の気なしに目を落とすと、とんでもない光景を目にする。若い夫婦が、柔らかい布に包んだ何かを小さな船に乗せて流したのだ。夫婦がそそくさと立ち去ると同時に、その布からあどけない赤子の声と小さな手が伸びた。
(嘘……赤ちゃんを捨てたってこと⁉︎)
風の精は仰天して、すぐにその赤子の元へと飛んでいった。赤子を乗せた小さな船は激流に揉まれて今にもひっくり返りそうだった。風の精は思い切り腕を伸ばし、布ごと赤子を拾い上げる。小さな船は転覆し、そのまま藻屑となって消えた。
「あ……危なかったですわ!」
安堵していると、赤子の笑い声がした。顔を覗き込み、風の精は鋭い悲鳴をあげた。
赤子は、赤子の姿を成していなかった。手は何本も無尽蔵に増えたり減ったり、ウネウネと秒単位で肌の色や髪の色が変わったりと忙しなく変化している。そしてその顔は目も鼻も口もなく、黒い渦のようになっていた。
風の精が恐怖に身をこわばらせていると、スルリとその手から赤子が落ちてしまった。慌てて掴み直そうとしたが、あっという間に激流に飲まれ、赤子は姿を消してしまった。
「なんてこと……!」
風の精は顔を青くし、慌てて探し出した。隅々まで飛び回り、河に沿って下流へ移動してみたりと一刻ほど探してみたものの、結局赤子は見つからなかった。
段々と西からの風が弱まってきた。風の力が無いと空を飛べないため、風の精は苦い思いでその地を後にした。
(酷いことをしてしまいましたわ……どうか、どうか無事でいて……)
勝手な願いではあったが、風の精は泣きそうな顔で飛び立った。
その夜、とうとう風が止み凪となった。小さな島国に降り立った風の精は、一晩の宿として崖の下の洞穴に身を寄せた。
昼間の赤子のことを思い出す。例え不定型の異形だったとしても、手を離すべきではなかったと風の精は考えていた。一度手を差し伸べておいて、無責任な行いをしてしまったことを恥じて、背を丸めて無理矢理眠りにつく。
次の日そっと洞穴を出てみたら、ここの島の住民と思しき人間と鉢合わせてしまった。海の近くに住む人間らしく浅黒い肌をしていて、しかし風の精や故郷の国の人間とは違って平たく黒い目の控えめな顔立ちをしていた。小さな目を可能な限り大きく見開き、
「うわああ!なんねコイツは!」
「て、天狗じゃあ!」
と叫んで逃げて行ってしまった。
「テング……?」
聞きなれない言葉だが、どうやら何か恐ろしいものと間違われてしまったらしい。まるで化け物を見るような目だったので若干腹を立てるも、とりあえずここら一帯を見て回ることにした。
昨晩風の精が降り立ったのは針葉樹林がビッシリ生えた高い山だったが、麓へ降りていくと荒々しいが美しい海が広がっていた。漁で生計をたてている村なのか、海にチラホラと船が浮かび、陸に残っている人間たちは穫れた獲物を加工している。人々は活気があって楽しそうだ。
山も海もあるとはなんとも贅沢な土地だ、と風の精が感心していると、遠巻きに住民たちがこちらを見てヒソヒソしている。風の精が手を振りながらズカズカと近づこうとすると小さく悲鳴を上げて逃げてしまった。
(感じ悪いですわね……)
フンと鼻を鳴らし、身につけていたチュニックの埃を少し払うと、また風に乗って宙を舞った。試しに風を起こす練習をしてからまた立ち去ろうと考え、扇を取り出し何回か仰いでみる。たちまち心地の良い風が立ち、人々の体を優しく撫で付けた。
人間たちが驚いて見上げるのを無視して次々と風を起こす。周りに姉妹たちがいた頃と違って、思い切り練習ができるのでいい気分だ。
やがて漁師たちが漁から戻ってきた。
「今日は良い風が吹いたのう」
「おかげで船がよう動き回れたわ」
そんな漁師たちに、陸に残っていた人々が上を指差した。怪訝に思って見上げれば、少女が浮かび上がっているではないか。金の柔らかな髪に、陶器のような白い肌、青い目をキラキラ輝かせてふわふわ浮いている。扇であおげばたちまち柔らかい風から鋭い突風まで操ってみせるものだから、漁師たちは仰天した。
「あれはまさか、天狗様ではなかろうか⁉︎」
「おらたち人間の前に出てくるなんて、何があったんかいね⁉︎」
そんなふうに騒がれているとは知らず、練習に夢中になっていた風の精は疲れたのでまた洞穴で眠ることにした。
次の日、風の精が欠伸を噛み殺しながら起きると、洞穴の外で大勢の村人が正座をして待っているのを見つけた。驚いていると、かしこまった姿をした者が前に出て、頭を低く垂れた。
「天狗様。貴女は大層立派な風使いと見ました。どうか我々の土地の風の神として、ここに留まってくれませんか」
村人たちの思いとしては、神様がここにやってきてくれたなら自分達の心の拠り所となってほしい。風の精が住むための社も立て供物を捧げて、年に一度は盛大にお祭りをするとのこと。そして自分達の為に良い風を起こし、助けて欲しいとお願いしてきたのだ。
風の精は驚いたが、もしかしたら姉妹の中で初の神様になれるのかもしれないと思い至る。空いていた口がじわじわと笑みを含み始め、盛大に高笑いをした。
「よろしいですわ!このあたくしにお任せあれ!」
二つ返事で快諾すれば、村人は一斉に喜び、諸手を上げて祝福した。天狗様万歳!と騒いだ時、風の精が遮る。
「テング?とかいう呼び方はやめて欲しいですわ」
「では、何とお呼びすればええですか?」
村人たちが傾聴する。風の精はそうねぇ……と斜め上を見上げ、
「あたくしはお祭りが大好きですわ。だから、「マツリ」と呼んでくださいまし」
とキリリと言い放った。村人たちの顔が一斉に笑顔になり、マツリ様、マツリ様と口々に呼び始めた。
この日から風の精はマツリと名乗り、この地の風の神として残ることに決めた。
マツリは大変世話焼きな性格だった。人間が困ってマツリの社に願いを伝えれば、待ってましたと言わんばかりに助けてやっていた。たまにはお節介が過ぎる時もあったが、彼女の明るく勝ち気な振る舞いや、一生懸命な姿勢が村人達には頼もしくも可愛らしく、社にはいつも人がやってきた。
毎日供物をもらっていたが、その中の漁師たちが持ってきた供物であるノドグロ、松葉ガニ、シジミは不気味がって手をつけなかった。しかしそうすると漁師たちが落ち込むので、ある日こわごわノドグロの煮付けを口にした。それからは大層気に入り、大の魚好きとなった。
村の女たちはマツリに着物を拵えた。山伏に似た服装ではあるものの、マツリが元々着ていたチュニックに寄せた可愛らしい服だった。マツリが跳ねて喜ぶと、村の女たちは新しい服を用意するのが楽しみになっていった。
子供たちも、マツリが吹かす風が大好きだった。社の境内で遊び、マツリが姿を表せば嬉しそうに周りに群がる。マツリも子供たちを浮かせたり鬼ごっこやかくれんぼの相手をして過ごした。
マツリが頑張れば村の人も大層幸せそうに笑ってくれた。初めは表情がわかりづらかった黒い目も、笑うと糸のように細くなるのがとても愛おしく思えてきた。
マツリはここで神様をやっていて、とても幸せだった。
百年経った頃、港で不気味なものがかかったと言われ、マツリまたすぐに向かった。船の周りに人が群がり、皆怯えたようにオドオドしている。
「あぁマツリ様、見てくれんかね⁉︎」
「いっつもみたいに沖で漁をしとったら、こんなもんが網にかかったんよ!」
「ぶち怖かったわぁ…岩みたいに重かったんよ」
「こりゃあ人魚ゆーんかいね?じゃけぇ、牛みたいな角がついとるけど……」
マツリが到着するやいなや、村人たちは安堵したように口を開く。
見れば、ぐしょ濡れで周りを呆然と見回す女がいた。大変美しく上等な着物を身につけている。しかしその細い首には上へ登ろうとする羽衣が絡み付いており、頭には牛の角が生えている。
どう見ても人ではなさそうなその女にマツリは驚くが、怯えている村人たちの為に一歩前へ出る。女はおずおずとマツリを見上げてきた。
「貴女ね、何の妖怪か知らないけど、村人を怖がらせたらダメですわよ!このマツリ様が許しませんわ!」
胸を張り啖呵を切ると、村人たちもワッと声援を送る。
女はしばらくマツリを見上げてポカンとしていたが、不意に体調を崩したようで呻きながら地面に突っ伏した。
「ああっ!ちょっと、ちゃんと聞きなさいよ!……しょうがないですわね。社に運びますわ。手伝ってくださいませ!」
村人たちは言われた通り、戸板に女を乗せて社へ運ぶ。マツリは道すがらに村の女たちに声をかけ、ちょうど良いお湯や体を拭く手拭い、替えの服などを用意する。マツリと女たちは海水や砂に塗れた女をひとまずお湯に浸からせ身を清め、服を着せた後に社の寝床へ寝かせてやった。
やがて他の村人が供物と共に、女が食べれそうな 夕食を持ってきてくれた。自分から手をつけないので、痺れを切らしたマツリがお粥をひと匙、口元へ持っていってやる。女は首を振るが、
「良いから食べなさいよ‼︎このお粥のお米は村の人が作ってるんだから、残したら許せませんわよ‼︎」
とマツリが顎を掴んでこじ開け、無理矢理食べさせた。格闘の末、お粥は残さず平らげることができた。
「……どうして」
女が呟いた。どう見てもこの国の服装ではないのに、日本語を話せることにマツリは驚いた。さっきまでのマツリの言葉や、村人たちの言葉から素早く学んだらしい。
「どうして助けたアルか?私には生きている価値なんてないのに、どうしてこんなに親切にしてくれるアル?もう私にできることなんて何もないのに。役立たずなのに……」
そう言うと、女はしくしくと泣き出してしまった。あまりに悲しそうに泣くので、何か訳ありなのだろうか。
マツリは食器を片しながら、
「何があったか知らないし、話したくなかったら言わなくてもいいですわよ。今はとにかくお布団に入ってよく休みましょう」
と話しかける。女はグスグスと泣き続けているので、いつもと違って二つ並べた布団に手を引いて連れていった。
「あたくしはマツリ。あなた、お名前は?」
「……ミンミン」
ミンミンはやがて静かに寝息を立て始めた。
マツリはふと、いつかの異形の赤子を思い出した。あの時は咄嗟に取った行動に覚悟が追いついていなかった。今目の前にいるミンミンを見捨てず拾い上げる覚悟を持とうと、マツリは硬く決心した。
「捨てる神あれば引きあぐる神あり……ならばその神にあたくしがなってみせますわ」
ミンミンも社の神として加えられてから何十年も何百年も経った。その間に日本は目まぐるしく変わっていった。それは神と人の間柄もそうだった。
人々の暮らしは科学の発展により、豊かになっていた。そのおかげかそのせいか、人々は昔ほど不思議な存在に興味を示さなくなった。神社へ人が訪ねて来るのも数えるほどしかない。オマケに、マツリとミンミンがいる神社の地方は若い人がどんどん都市へ出てしまい、人そのものが少なくなってしまった。今でもマツリを慕って社の手入れをしてくれている老人たちも、徐々に足腰が弱まり来れなくなってしまった。
マツリは数日考え、ミンミンにある頼み事をした。
その晩、年老いた村人数人が、不思議な空間に集められていた。老人たちは不安そうに辺りを見渡すが、前方からマツリがやって来ると安心したような笑顔で深々とお辞儀をした。
「それはミンミンに頼んで、みんなを夢の中に集めたのですわ。これからの神社のことを話したかったから……」
老人たちはマツリの言葉に耳を傾けている。マツリは一つ息を大きく吸った。
「あたくしはここからいなくなるから、もう神社の手入れを気にしなくて良い。これでみんな、ゆっくり休めますわよ」
老人たちは驚いて、涙を流し始めた。
「マツリ様、なしてですか⁉︎」
「我々が何か失礼を働いてしもたんかいね⁉︎」
「マツリ様がいなくなってしまったら、おれたちどうしたら……!」
マツリが手を挙げると、シンと静かになった。
「あたくし、別に村のみんなを嫌いになったわけではございませんの。元々他の国から旅をしてきた身なの。だからまた旅をしたいと思いましてよ。あたくしはどこにいたって、この土地の住民を想っていますの」
マツリが言うと、老人たちは不安げに見上げた。
「信仰の形が、見えるものから見えないものへ変わるだけ。あたくしのことが好きならば、あたくしを信じてくださいまし。それがあたくしの力となる。例えどこへ出かけても、あたくしはすぐに助けに帰りますわ」
やがて老人たちは、マツリに向かってしっかりと頷いた。信じている、と目が語っている。
マツリはニコッと笑う。
「ありがとう。あたくし、みんなのことが大好きですわよ!」
パチ、と目を覚ますと、
「起きたアルか。ちゃんと話せたネ?」
とミンミンが欠伸をしながら言った。マツリは頷き、少ない荷物とミンミンと共に社をでた。
マツリは風に乗り、ミンミンは雲に乗って浮かんだ。空から見る社は、古いがとても立派だ。マツリを思い、村人たちが立ててくれた、長年の住まい。
「これで、終わり!」
マツリが盛大に扇をあおぐと、突風が吹き荒れる。それは真っ直ぐ社を打ち、砕き、舞上げた。社を形成していたものが跡形もないほどに崩れ去ると、マツリはようやく歯を見せて笑った。
「はー!スッキリしましたわー!」
「何も壊すまでしなくても良かったんじゃないアルか……?」
ミンミンが困惑しながら問うと、マツリはため息を吐きながら肩をすくめる。
「わかっておりませんわね!あれが残ってる限り、村の人たちに気がかりが残ってしまいますわ。足枷になってしまうくらいなら、綺麗さっぱり片付けた方がいいでございましょ?」
そういうもんアルか、とミンミンが微妙な顔をしていたが、
「さあ!早く東京へ行ってみましょ!待ってなさい、渋谷、原宿、竹下通り〜‼︎」
とマツリが勢いよく飛んでいくので、慌てて追いかけていった。