『オータム・レトロニム』 春は出会いの季節で、夏は思い出が色濃く残る季節、冬は終わりと始まりの季節。じゃあ、秋は何の季節なんだろう。自分の人生のアルバムがあるとすれば、秋のページだけ少ないんだろうな。不凌忠仁は自転車で通学路を走りながらそんなことを思う。
高校に入学して半年が過ぎ、この道も随分と見慣れたものだ。二学期が始まって一ヶ月が経とうとしていた。
「お前、山岳部に入らないか?」
放課後、職員室。忠仁は「ハァ?」と怪訝そうな声を出した。担任の陣之内亮二は、いつもの軽薄な笑みを浮かべて続ける。
「山だよ、山。登んの」
「それくらい俺様にだってわかる」
「そうか、それじゃあ話は早い」
「早くない!」
「何回も言ってんだろ? オカルト部を作りたきゃ、あと二人集めてこいって。うちは三人いりゃあ部として認めてんだから条件優しい方だぞ」
「ただのオカルト部じゃない、不凌王国(フェニックス・キングダム)だ!」
そう、忠仁は一学期すべてを費やして不凌王国(フェニックス・キングダム)の【眷属】を探したが、誰一人現れなかったのだ。それもそのはず、不凌忠仁といえばこの辺りでは有名人だ。……悪い意味で。
「忠仁お前、中二あたりまでは随分荒れてたのが急に大人しくなったって聞いてるが……友達、ちゃんといるか?」
亮二のその言葉に忠仁は、ぐ、と苦虫を噛み潰したような顔をした。
「別に、この学校にいなくたって他にいたらいいだろ」
忠仁は隣町の高校に行ってしまった親友の顔を思い浮かべる。彼は忠仁を不良の道から救い出し、厨二病にジョブチェンジさせたツワモノである。
「まあそりゃな、学校がお前の世界のすべてじゃない。ただ、これから三年間の大半を過ごすのは残念ながらここだ。お前の好きにすればいいが、その時間を楽しまないのは勿体ないと思わねえか?」
亮二の提案は揺るがない。山岳部に入らないか、だ。
十月。夏の名残が消えて、一気に肌寒くなってきた。夏と冬の間でしかない秋。そんな季節を、忠仁は退屈に思っていた。この手を取ることで何かが変わるのだろうか。そんな淡い期待を胸に宿して、小さく頷いた。
亮二に連れられていったのは、西館第三教室だった。扉の先には二人の生徒が待っていた。
「先生、遅かったですね」
そう声をかけてきたのは容姿端麗と言っていい少女だ。
「朗報だ、新入部員だぞ」
二人の視線が忠仁へと集まる。忠仁は自己紹介があまり得意ではない。名前を言えば、ああ、あの不良の、と言わんばかりに皆の目つきが変わるからだ。
ほら、忠仁。と亮二に促されてやっと、渋々口を開く。
「……一年、不凌忠仁だ」
「二年の穂高梓よ。山岳部の副部長をしているわ。よろしくね」
先ほどの少女はそう言って微笑んだ。
「鵜久森杜人だ。同じく二年生。部長をしている」
眼鏡をかけた寡黙そうな少年が落ち着いた声でそう告げる。
「あとひとり一年生の部員がいる。もう少しで来るはずだ」
杜人はぶっきらぼうに付け加えた。
「三人しかいないのか?」
「ああ。三年生はこの夏の大会で引退したんだ」
「大会? 山岳部にもそんなものがあるのか」
「あるさ。登り方から天気図、装備の扱い方まで登山のすべてを競うんだ」
「ふうん」
「忠仁くん、登山経験は?」
杜人に代わって梓が尋ねる。
「中三の、遠足で。一回登った程度だ」
女子と話した経験がほとんどない忠仁は内心ドギマギしていた。
「そう。ところで今週末は空いてる?」
「空いてるが……」
「それじゃあ、ちょうどいいかもしれないわね」
何が、と忠仁が続けようとした瞬間、教室の扉が勢いよく開けられた。
「おい! 今日はこっちの教室だったのかよ!」
入ってきたのは金髪碧眼の少年だった。
「もう、ちゃんと言ったじゃない。今日は今週末のことを話し合うから西三だって」
杜人くんと話して決めちゃったわよ、と梓は呆れたようにため息をつく。
「コージー、自己紹介。新入部員が来てる」
「新入部員だぁ?」
コージーと呼ばれた少年の視線が忠仁を捉え、まるで品定めするかのようにじろじろと見てきた。
「……不凌忠仁。一年」
忠仁は先ほどと同じ最低限の自己紹介をする。
「あー! お前たしかヤベェ不良だった奴だろ。なんでこんな奴が山岳部に来てんだよ」
忠仁は思わず眉間に皺を寄せた。
「貴様に教える義理はない。そもそも俺様はもう不良じゃない」
「おーおー、逆高校デビュー的なやつか?」
「ちげぇよ。そもそも貴様は誰なんだ」
「俺の名はコージー・オスコー。一流のアルピニストであり、この山岳部の次期部長。お前の大先輩だ!」
「確かに登山経験はあるだろうが、お前もまだ一年生だろうが」
亮二が思わず突っ込みを入れる。
「なんだ貴様も一年か」
「俺はお前と違って山岳部に入ってもう半年なんだぞ。それに登山も昔からやってる。お前、どれくらい登れるんだよ」
「いや、山は遠足で登ったくらいだが……」
「ハッ初心者じゃねえか」
「そういう貴様はさぞ経験があるんだろうなあ?」
「当たり前だ。俺は物心ついた頃にはピッケルが遊び道具だったくらいだぞ」
ドヤ顔のコージーに対して、それは普通に危ないだろ……と杜人が呟いた。
「さて、今日の本題!」
梓の咳払いで忠仁とコージーの不毛な会話は終止符を打った。
「今週末は夏の大会の打ち上げも兼ねて近くの山へ一泊二日でキャンプしようって話が出てるんだけれど、忠仁くんも来ない?」
「お、俺も……?」
「ええ、新歓ってことでどうかしら。初心者にもちょうどいい山だし」
「なら、まあ……」
誰かと出かけるのも、週末が待ち遠しくてソワソワする感覚も、忠仁にとっては久しぶりのものだった。
土曜日は快晴無風の登山日和だった。時刻はもうすぐ朝九時。忠仁が集合場所の校門前に着いた頃には、杜人、梓、亮二、そして見知らぬ白髪の男性が待っていた。
「ああ、君が忠仁だね。私は山岳部コーチのケヴィン・キングストン。皆にはK2と呼ばれてるよ」
白髪の男性は優しげで落ち着いた声とともに忠仁に握手を求めてきた。よろしく……K2、と忠仁はまだ慣れない様子で彼の名を呼び、その手を握り返す。
「K2はプロの登山家だ。わからねえことがあったら俺なんかよりもK2に聞くことだな」
「亮二もここの山岳部のOBだし、これまでかなりの山をやってきているだろう」
「いやいや、プロには到底敵いませんよ」
亮二は両手を軽くあげて肩をすくめた。
「あとはコージーだけね」
「アイツいつも時間ギリギリだからな」
梓と杜人がそう話していたまさにその時、平凡な住宅街には似つかわしくない高級車が現れた。
「悪いな、主役は遅れて登場するもんだ」
車から降りてきたコージーは、見る人が見ればわかるハイブランドの登山ウェアに身を包んでいる。
彼は忠仁を見た途端、指をさして笑い始めた。
「お前、学校のジャージかよ! ダッサ!」
「ハァ?! 動きやすい服装って言われたら普通ジャージで来るだろうが!」
「登山に対する意識がなってないな。ま、それも当然か。俺のような一流のアルピニストであれば身につけるものすべてが一流でなければならないが、三流には学校ジャージがお似合いだ」
「三流じゃなく初心者なだけだ! そもそも月曜に参加が決まってそんなすぐ買い揃えられるわけないだろ。貴様の方こそ、服に着られてるんじゃないか?」
「なんだと?」
「やんのか?」
「「痛ッ!!!」」
コージーと忠仁が痛む頭を押さえて同時に振り返ると、そこには仁王立ちした梓がいた。
「もう、そこまで! 早く行くわよ」
気づけば二人と梓以外はもう車に乗り込んでいた。運転席では亮二が欠伸をしている。
二人は先ほどまでの勢いを失い、はい……と項垂れた返事をした。
車に乗り込むと、亮二の「しゅっぱつしんこー」という気怠げな声とともに発車する。
三十分ほど経っただろうか。背の高い建物が少なくなった先に、彩り豊かな山嶺が姿を現した。
「おお……」
コージーは窓からの景色に釘付けになっている。
「せっかくキャンプするなら紅葉シーズンがいいと思ったの。打ち上げの時期をずらして正解だったわ」
忠仁は正直あまり紅葉には惹かれなかった。たしかに綺麗だとは思うが、これはそんなに心動かされる景色なんだろうか。
そう思っているうちに車は山の麓へと到着した。外に出ると、空気が澄んでいるのを感じた。思わず背筋が伸びる。
「登山と言っても今日は遊びみたいなものだから、紅葉でも見ながらのんびり行こう」
K2のその言葉を合図に皆で歩き出す。山道は少し狭く、自然と二列になった。コージーは自信満々に先陣を切って歩いており、隣には亮二が付き添っている。その後ろに忠仁と杜人、そして梓とK2という順番になった。
前後二組の会話が弾んでいるのに対して、忠仁と杜人の間には重い沈黙が続く。ぶっちゃけ気まずい。何を話していいのかわからない。忠仁は頭を悩ませた。
「杜人は、なんで山岳部に?」
なんとか話題を絞り出せたことで、忠仁は少しホッとした。
「僕は……同じ中学の先輩に誘われたのがきっかけだったんだが、そこからその人の背中を追って登山にのめり込んでいって。最初の頃は一人で登る方がいいと感じていたから山岳部で活動する必要はないと思っていた。でも、人と登る楽しさを知ったんだ。だからここにいる」
忠仁は驚いた。杜人がこんなに饒舌になったところを初めて見たからだ。
「好きなんだな、山が」
「ああ。将来は登山家になろうと思っている」
「将来の夢か……すごいな」
「忠仁は何かないのか?」
「俺は……」
忠仁は言葉に詰まった。自分には、何もない。ただ人を傷つけて傷つけて生きてきた。そして、人を傷つけた分だけ自分も傷ついていたのだと気づかせてくれたのは親友だった。彼が自分へと向ける憧れの眼差しに応えたくて、たくさん見栄を張った。その度に彼は素直に「忠仁くんは何でもできるね」と褒めてくれた。それだけで良くて、それだけが自分のすべてで。彼と離れてしまった今、忠仁には目指すものなんて何も見えなかった。
「まあ、これから見つければいい」
杜人の声が普段より優しく聞こえた。
「ここの人間は、俺のことを怖がらないから不思議だ」
忠仁は視線を前に向けたまま、ぽつりと呟いた。
「怖がる理由がないからな。今すぐ殴りかかってくるわけでもあるまいし」
「それでも避けてくる人間の方が大多数だ」
「みんな過去のお前しか見てないんだな。今の忠仁を見ようともしてない」
「今の、俺」
「そう」
「俺は、自分のことがわからない」
「山が教えてくれることもある」
「貴様は、山の話しかしないのか」
「そうかもしれないな」
杜人は珍しくその仏頂面を崩した。今度の沈黙は、居心地の悪さを感じないものだった。
一時間半ほど歩いた一行は、休憩をとることにした。
「喜べ庶民。オスコー家からの施しだ」
そう言ってコージーがザックから取り出したのは、マフィンやスコーンの数々だった。袋には「オスコーマート」の文字がある。オスコーマートといえば、全国的に展開している高級スーパーマーケットだ。
「三流!お前にも施してやろう!」
皆が続々と受け取るのを後ろで見ていた忠仁にも、コージーがマフィンを手渡した。
「三流じゃない、不凌忠仁だ。俺様は貴様なんかから施しを受けない」
「上流階級の人間は庶民に施すのが務めなんだよ。ノブレス・ブリオッシュってやつだ」
「それを言うならノブレス・オブリージュだろ。さては貴様、馬鹿だろ」
「ちょ、ちょっと間違えただけだろ?!」
「"三流"に指摘されて恥ずかしくないのか?お坊ちゃん」
「お坊ちゃんと呼ぶな!コージー様と呼べ!」
「誰が呼ぶかよ。それを言うなら、ノブレス・オブリージュもわからない馬鹿には忠仁様とでも呼んでもらわないとなあ?」
「呼ぶわけないだろ、このヤンキー!」
「なっヤンキーじゃないっつってんだろ!」
「昼飯もあるから、あんま食べ過ぎんなよー」
キャンキャンと喧嘩している二人から少し離れたところで、煙草を吸っている亮二が間延びした声をかけた。
クソがクソがクソが。初対面のときも思ったが、あのコージー・オスコーとかいう男とは馬が合う気がしない。
忠仁は先ほどのことを思い出して苛立っていた。休憩が終わり、また二列になって山頂を目指している。忠仁は最後尾で亮二と歩いていた。
「山はどうだ、忠仁」
「……まだ、良さはわからん」
「そうか」
「この山岳部はどれくらい、なんだ、強いんだ? 大会がどうとか言ってたから」
「そうだなあ、俺が現役だった頃は所謂強豪校だった。部員もたくさんいたし、優勝したこともあるくらいだ」
「それに比べたら、今は随分と寂しい人数だな」
「それでも落ちぶれたってわけじゃない。ちゃんと山が好きな、山に登りたいやつが集まってる」
「そうだな……」
忠仁は山のことを話していたときの杜人の横顔を思い出す。
「公式の大会は四人一組が条件だからしばらくは出られないが、まあいろんな山をやろうぜ」
「四人一組なら、ちょうどいるじゃないか」
忠仁、コージー、杜人、梓。ちょうど四人だ。忠仁は頭に疑問符を浮かべる。
「あれ、お前聞いてないのか。梓は今回で引退だ」
「え? そう、なのか」
「ああ」
まあ理由は本人に聞くといい。亮二はそう言うと首からかけているカメラの調整を始めてしまった。
小休憩を何度か挟み、あと少しで山頂に着くかというところ。忠仁は、コージーと坂道を全力疾走していた。
「山頂を一番に踏み締めるのはこの俺だ!」
「させるか!俺様が一番だ!」
「ちょっと、転ばないでよね」
「他の客にぶつかんじゃねえぞー」
「はは、元気でいいことだな」
「元気というか、体力バカというか……」
山頂にたどり着く頃には、二人とも完全に息切れしていた。
「俺、が、一番……だ、」
「俺様、の、方が……早かっ、た……」
ゼェハァと肩で息をして今にも倒れ込みそうになるが、膝をついたら負けな気がして忠仁は踏みとどまった。顔を上げることができず、視界は一面地面だ。
二人の息がやっと整ってきたとき、残りの四人も追いついて来た。
「わあ、綺麗!」
梓の声に釣られて顔を上げると、そこには極彩色の紅葉と小さくなった街、そして水平線を引く海が広がっていた。
「すげえ!」
コージーも興奮した様子で見入っている。
一方、忠仁は戸惑っていた。山頂からの景色を見てもなお、忠仁の心に響くものはなかったからだ。これを綺麗だと言って感動する人がいることはわかる。しかし、理解はできても共感ができなかった。
「なんで、そう思うんだ」
それは思わず口をついて出た言葉だった。
「え?」
コージーは意表を突かれたように目をまんまるにした。
「いや……この景色に、なんでそんなに惹かれるんだ」
忠仁は一文字紡ぐごとに後悔の念が積もっていった。なんでこんなこと、よりによってコイツに。
「高いところから世界を見下ろすんだ。ワクワクしないわけがないだろう」
コージーはそれが当たり前といったように答えた。
「はは、貴様らしいな」
「!」
「……? 何をそんなに驚いてるんだ?」
「お前、そんな風に笑えるんだな」
「俺、そんなに笑ってなかったか……?」
忠仁は自分の口元に手を当てる。
「ああ。ずっと、全世界が敵、みたいな顔してたぞ」
「それは言い過ぎだろ」
「あながち間違いじゃないんじゃねえか」
後ろから亮二が会話に交じる。
「俺が見る限り、高校来てから今日が一番表情柔らかいぞ」
忠仁は急に恥ずかしくなって二人に背を向けた。
「俺様はクールなだけだ!勘違いするな!」
叫び声が山にこだました。
秋の日暮れは早い。あっという間に陽は沈み、辺りは夜の色を帯び始める。
昼間に忠仁が杜人に教わりながら張ったテントの前で、六人はバーベキューを始めた。調理は主に亮二と梓が担ってくれている。
「忠仁、隣いいかな?」
無言で肉を頬張っていた忠仁に、飲み物を持ったK2が話しかけてきた。
「ん」
「ありがとう」
肉と野菜が香ばしく焼ける音と、周りの人々の会話が心地よく響き渡る。ふと、K2が忠仁に問いかけた。
「忠仁はどうしてこの山岳部に来てくれたんだい?」
「亮二に、誘われた」
「それだけ?」
「……退屈だった。ここに来れば、何か変わるんじゃないかと思った」
するりと本音が出たのは、K2の眼差しが優しかったからかもしれない。
「そうか。じゃあ、来てよかったね」
「どうだろう。俺様はまだ、山の良さがよくわからん」
「でも、仲間ができたじゃないか」
仲間。K2が当然のように言ったその言葉は、忠仁にとって新鮮な響きをしていた。
「そうかも、しれないな」
「山に登る理由は人それぞれだ。登る過程が好きな人もいるし、山頂の景色を見るために登る人もいる。もちろん仲間と登ることが楽しい人もね」
「……景色には、あまり惹かれなかった」
「今日がそうだっただけだろう。山は毎日、毎秒、表情を変えるから。もしかしたら明日は違うかもしれないよ」
「そんなもんか」
「そんなもんだ」
二人がそう話していると、ぽつり、ぽつりと雨が降り出した。急いでバーベキューの片付けをして、一行はテントへと避難した。テントは教師陣のものと、梓のもの、そして忠仁、コージー、杜人の三人用の三つに分かれている。少し時間は早いが、外に出ることもできないため就寝することとなった。
忠仁は寝袋に入りながら、今日一日のことを思い返す。目指すもの、大切な人。どちらもかつて親友が教えてくれた存在だった。彼は、元気にしているだろうか。去年の秋に入院をしたこともあったから心配だ。連絡は取り合っているが、それでも以前のように毎日会えるわけじゃない。あの日々は忠仁にとって宝物だった。
──自分は今、彼との思い出に上書きをしようとしているのではないだろうか。
今抱いている感情は確かに、秋が退屈ではなくなるような、期待していたもののはずなのに。忠仁は心がぐちゃぐちゃにかき混ぜられる感覚を遮るように、瞼を閉じた。
翌朝、早くに忠仁は目を覚ました。スマホを確認するとまだ六時にもなっていない。杜人とコージーを起こさないように、寝袋を脱いでテントの外へ出た。
外に出ると、梓が晴れた空を見上げていた。
「ああ、忠仁くん。おはよう」
「お、はよ」
忠仁はぎこちなく返事する。
「……女」
「梓よ」
梓は眉を下げて苦笑いをした。
「……梓、は、今回が最後だと聞いた。引退にしては早くないか?」
「私、医学部を目指しているの。私の頭じゃ、人一倍勉強しないといけないから」
副部長になったばかりなのにいなくなってしまうのは、みんなに申し訳ないんだけれどね。梓はそう付け加える。
「医者になるのか」
「ええ」
みんな、夢があるんだな。焦りに似た気持ちが忠仁を駆り立てた。
「山岳部はどう?」
「みんな良い奴だ、と思う。コージーはムカつくが」
「ふふ、仲良くなってよかった」
「仲良くない!それに……」
忠仁は昨晩考えていたことを思い出す。
「なにか、悩んでる?」
「いや、悩み、というか……」
「戸惑ってる」
今の感情をまさに言い当てられてしまって、動揺した。
「なんでわかる」
「なんとなくかなあ」
「……例えばの話だ。自分が過去に大切に思っているものがあって、それに代わるような新しいものが出てきた。それを大切にするのは、過去のものを上書きする行為だと思うか?」
「結構難しいわね」
「まあ、例え話だ」
そうねえ、と梓はしばらく考え込んだあとに、忠仁の方へと向き直る。
「レトロニムって言葉、知ってる?」
「レトロ……なんだ?」
「たとえば、紙の本。昔は、本といえば当たり前に紙だったでしょう。それが、電子書籍が出てきて本の定義が広がった。だから私たちは今までただの本と呼んでいたものを『紙の本』と呼ぶようになった。フィルムカメラもガラケーもそう。そういう、時代の移り変わりで新しいものが出てきたときに、これまであったものを再命名することを、レトロニムって言うの」
「ふうん」
「どうしてそういう現象が起こると思う?」
「それは……そうしなきゃ不便だからだろ」
「それもあるかもしれないわね。でも、それだけじゃないって私は思うの」
「どういうことだ?」
「新しいものが出てきたことで古いものがなかったことになるんじゃなくて、古いものは古いもので今までとは違う形かもしれないけれど、大切にされるからこそ名前を付け直すんじゃないかなって」
「……そのレトロニムってやつは、人間の気持ちにもあると思うか」
「ええ、あるんじゃないかしら。大切にしたい気持ちは、ひとつじゃなきゃいけないわけじゃないもの」
「そう、か……」
忠仁は、絡まっていた感情の糸が解けてゆく心地がした。
「ありがとう、梓」
「いいえ、どういたしまして」
「あれ、お前らもう起きてたのか」
頭に寝癖をつけたコージーが欠伸をしながらテントから出てくる。それに続いて杜人や亮二たちも起きてきた。
「おい、あれ見ろよ!」
コージーが指さす方向を見てみると、水平線から朝陽が顔を出し始めたところだった。日の出だ。
柵から身を乗り出しそうなコージーとは反対に、忠仁は三歩、後ろに下がる。
朝の澄んだ空気。木々の揺れる音。鳥の鳴き声。朝陽に照らされた皆の後ろ姿を見て、ああ、いいな、と思った。
この人たちと、山を登りたい。
帰り支度をして、途中何度か休憩したり食事をとったりしながら下山をした。学校に着いた頃には、もう陽が落ちかけていた。どこからか、金木犀の甘い匂いが漂っている。
「昨日は雨でできなかったからな」
そう言って亮二が取り出したのは、手持ち花火だ。
「え、学校でやっていいのか……?」
「職権濫用だ。今日くらいいいだろ」
亮二は悪い笑みをする。
「ここは全部俺のものだ!渡さん!」
コージーがガバッと花火を鷲掴みする。
「貴様ずるいぞ!その七色に光るやつを俺様にも寄越せ!」
「ちょっと二人とも喧嘩しないの!」
「こいつら小学生なのか……?」
忠仁の花火から火をもらいながら、十月の花火も悪くないわね、と梓が言った。こんなに大人数で花火をしたのは、忠仁には初めてのことだった。
亮二とK2は壁際で煙草を吸っている。
「忠仁、すっかり馴染んだな」
「彼は体力もあるし、これからが楽しみだよ」
「色々教えてやってくださいよ」
「ああ、もちろん。亮二も、これで心配は晴れたかな?」
「心配?」
「私には山岳部の人数が、なんて言いながら、忠仁のことが心配で山岳部に誘ったんだろう」
「はは、お見通しか。K2には敵わないなあ」
「私が山のことばかり考えてると思ったら間違いだよ」
「はいはい、恐れ入りました」
花火も終盤に差し掛かったとき、忠仁は亮二たちのもとへ行く。
「なあ、亮二」
「おー、なんだ」
亮二は煙草の火を消した。
「その……山岳部に誘ってくれて、ありがとう」
亮二は予想外だったのか、珍しく目を丸くした。
「ようこそ、山岳部へ」
普段はどこか感情が読み取れない声が、弾んでいるように聞こえた。
春は出会いの季節で、夏は思い出が色濃く残る季節、冬は終わりと始まりの季節。
そして秋は、
「おい忠仁、線香花火やるぞ!俺と勝負しろ!」
雲ひとつない空を溶かし込んだような瞳がこちらを呼んでいる。
「ああ、今行く」
去年の秋は無色透明だった。今年の秋は極彩色だった。来年の秋も、きっと違う色だろう。それでいい。それがいい。
過去も今も大切に抱えたまま、忠仁は新しい色を知ってゆく。
『オータム・レトロニム』・完