たかのぞみ 気がついたら宿に帰ってきていた。
閉めた戸に寄りかかりながら、ずるずると座り込む。自分がどうやってここまで来たのか思い返そうとして、先程見た光景が脳裏に浮かび、視界がぼやけた。
──町中で、品が良く育ちの良さそうな妙齢の女性の隣で、柔らかな表情を浮かべその女性をエスコートしていたルディス・フィグの姿。
いつ頃からか、雰囲気が変わったという彼にたくさんの縁談が舞い込んでいるという噂は聞いていた。養子とは言え、貴族であった先生の息子なのだし、何より彼はとても善い人なのだ。相手がいなかった今までの方がおかしかったのだ。
だから、いつかこんな日が来るだろうと思っていた。覚悟していた。…そのつもりだった。
だと言うのに、実際に彼が他の誰かの隣にいるのを目の当たりにしたらこの有様だ。なんて無様なのだろう。彼のあの笑みが自分以外の誰かに向けられているのを見ていられなかった。
自分は誰かのただひとりになんてなれないことくらいとっくの昔にわかっていたのに。
最初はただ隣にいることを許されるだけでよかった。そばにいて彼が平穏に過ごしているのを眺めて居られれば、それで良かった。でも、堪えきれずに手を伸ばして、それが振り払われなかったのをいい事に、欲を出してしまった。
彼の中の熱に触れて、暴いて、乱してしまいたいという、醜く浅ましい欲を。
そしてそれさえも許されて。
だから、思ってしまった。
他でもない、彼のただひとりの存在になれるのではないかと。
本当に、なんて愚かで浅ましい。
「…ぅ、うぅ、──ぅあ…」
耳障りなうめき声が聞こえて、聞いていられなくて、耳を両手で握って塞いだ。自分から漏れ出ているのだから、そんなことをしても声が小さくなることは無い。
止めようとしてもとめどなく零れるくぐもったうめき声は次第に、頭の片隅に捨ておいていた絶望を鮮明にする。
そう、彼に好い相手が見つかれば、きっともう今までのように会うことは出来ない。触れることは許されない。
理解している。だから、それはまだ、いい。いいのだと、そう思い込める。
でも、彼から明確にそれを、優しく名を読んでくれたあの声に、決別と拒絶を告げられたらと思うと、とても耐えられそうになかった。
不要だと捨てられ、邪魔だと見捨てられることにはとっくに慣れていたはずなのに。
「い、やだ、…きき、たくない。いやだよう…」
いつの間にか目からは冷たい涙があふれて、床にいくつものしみを作っている。
苦しい。痛い。…悲しい。
きっとこれは不相応な高望みを抱いた自分への罰だ。
僕なんかが彼の1番大切な人になれるなんて、そんなわけがなかったのに。