夜、呼吸を聞くマイキーの体調は落ち着いたとは言えず、少し元気になって飯を食ったかと思えば次の日にはやっぱり吐き戻して、離れていてもケロッとしていると思えば次の日には片時も傍を離れようとはしなかった。そういう、不安定な日々を過ごすことにももう慣れてきている。
もう二ヶ月は仕事を休んで、そうしていたら、少しずつだがオレにしか出来ないことが嵩んでいく。イヌピーはほとんど一人でよくやってくれていると思う。オレのわがままにすら付き合ってくれるのだから、相当いい同僚だろう。
だけど、そればっかじゃやってられねぇ。こうしてマイキーと過ごしている間にも、仕事は溜まってく。例えば、イヌピーを何故か毛嫌いしている上客のメンテ、とか。
「どーすっかなあ……」
ぽつり、漏れた声にマイキーは反応しなかった。最初は怖がって逃げ惑っていたドライヤーも、今では大人しく座っている。ゴオオ、と音を立てるそれにかき消されているのかもしれない。
オレにとって、一番の優先順位はマイキーだった。それは、今も、これから先も多分変わんねぇだろう。だが、仕事をしない訳にはいかない。イヌピーに食わせてもらう訳にはいかないのだ。
「なあマイキー、留守番できるか? 」
「……ヤ、」
「だよなあ」
少しずつ意思表示をするようになったマイキーは、言葉を覚えたての赤子のように単語しか喋らないものの、こうしてオレに伝えてくる。いい兆候だ、なんて笑う医者の言葉には半信半疑であるが。
笑いも泣きもしない、能面のように表情を消したマイキーは、それでもきちんと話しかければ答えてくれる。そうでなければ流石にそろそろ心が折れていたかもしれない。
なんとかして行くのを辞められないか、と頭を巡らせてみるものの、上客を失うのは惜しい。そもそも、イヌピーに迷惑かけっぱなしだって言うのにさらに売上まで下げちまうのは流石に忍びない。かくなる上は、行くしかないのだ。
「なあ、ちょっとだけ。朝一で出て行って、夜には帰ってくる。だから、な? 」
正直日帰りで行くにはちときつい。行くだけならまだしもメンテだなんだって時間に追われるのも目に見えてる。それでも、昼間はともかく夜のこいつは、いつも消え入りそうな眼をしているから。
機嫌が悪いと暴れ回るマイキーは、夜になるとパタリとそれを失った。生きる屍のように冷たい目をして、星を眺める。ベッドから抜け出すことはしょっちゅうで、部屋を出てキッチンに座り込んだりするもんだから気が気でない。
まだ一度も外へは出ていないことが救いと言うべきか。この広い東京の中へ紛れ込んでしまったら、オレはもうこいつを探し出せないかもしれない。
「たい焼き、買ってくるよ。近くにうめぇ店があるんだ」
「……たい焼き? 」
「ああ。何回か買ったけどすげぇうめえよ。おまえ、好きだったろ」
頷きはしない。それでも、反応があるということはたい焼きのことは記憶にあるわけだ。こいつの頭ん中は穴ぼこだらけで、覚えてることと覚えてないことが混在してる。それだけ、思い出したくない過去があったんだろうが。
ここに来てから今のところは、正気を無くして暴れる時以外に記憶が飛ぶことはない、はずだ。マイキーは言葉数が少ないから正確なところはわからない。
件のたい焼き屋はマイキーを連れ帰る前、懐かしんでなんどか食ったことがある。中々に美味い店で、あの店ならマイキーのお眼鏡にも叶うだろう。
「そういえば、こっち来てから食ってねえか? 」
「粥ばっか……」
「消化にいいもんをだな……まあいい、買ってきてやるよ、楽しみにしてろ」
中々外に出ることも無く朝から晩までマイキーのそばに居るもんだからたい焼きすら食わせてやれなかった。今んとこ買い物もイヌピー頼みだ。そろそろ身体訛りそうだし散歩なりランニングなりしたいもんだが。
オレがそばにいなくてもある程度平気になれば、仕事も増やせるだろう。そのうちマイキーを外に連れ出したら、どんな顔をするだろうか。病院とこの家の往復じゃ、息も詰まるだろうし。
すっかり乾いた髪を撫でつければ、笑いこそしないもののなんとなく嬉しそうだった。こういう変化が見えるのは楽しい。少しずつでも、オレたちの間は縮まっているような気がする。
「さ、寝ようぜ」
「ん、」
マイキーは決してオレの前を歩こうとはしない。手を引かなければその場から動くことも少ない。いつか、いつか自分の意思で、歩けるようになれば。そう思うが、いつか自分の足でここから出ていってしまうんじゃないかと考えると怖い。
今は、そうならないように、ただこの手を離さないでいることしか。後悔は多分一生消えない。それでいい、オレはこの罪と共に、マイキーのそばにいる。
キッチンで睡眠薬を飲ませた。ごくん、と喉が動いたのを確認してから口の中をくまなくチェックする。もし薬を飲まないまま貯められたら困るからだ。今は落ち着いても、こいつが何をしでかすかは誰にもわからない。
「えらいえらい」
頭を撫でてやれば、マイキーはもっと撫でて、とでも言うように目を細めた。こうしていると猫みたいだ。実際はそんな可愛いもんでもないが。
もう一度手を引いて寝室へと向かう。先にベッドに上がって手を広げれば、いつものように少し躊躇したのち腕の中へと収まった。体温が低い身体は、布団にいるだけじゃなかなか温まらない。
「眠れなくてもいいから目、瞑っとけ」
オレの腕を枕にして、胸に耳をつけたマイキーが目を瞑っているかは見えないからわからない。だけど多分、マイキーはオレの言うことを聞いているだろう。今日のマイキーは機嫌がいい。
眠りを促すために背中をトントン叩く。小さい呼吸の音だけがオレの耳に入ってくると、ああ、生きてるんだって毎晩実感した。この手の中にもう一度こいつを抱きしめられてよかった。この幸福は当たり前なんかじゃない。
明日のマイキーはどうだろうか。飯、ちゃんと食えるといいけど。来週にはこいつの元を一度離れなければいけない。マイキーは、ちゃんとこの家で留守番してくれるだろうか。
~・~・~
朝、マイキーが目覚めるまで一緒にいれば、愚図られるのは予想が着いていた。だから、早朝にイヌピーを呼び寄せて、二人分の朝飯と昼食を作り、薬のおかげか目を瞑ったままのマイキーの瞼に口付けを落とす。
深い眠りについたマイキーは目を覚まさなかった。よかった、と思う反面、その瞳をみたいとも思う。今晩帰ってくればまた二人、たった十数時間の話。
「悪ぃけどあと頼むな、行ってくるわ」
「泊まってくればよかったのに」
「いや、心配だし、あんまりイヌピーに迷惑かけるわけにもいかねぇし」
「いいいい、一日くらいなんとかする」
早く行け、と面倒くさそうに言ったイヌピーが、その実面倒見が良い奴であることはとっくに知っている。こいつにだから任せられるんだ。
踏み出した外は明るくて目が眩んだ。部屋の中で過ごすうち、時々自分がどうしてこうしているのかわからなくなる。頑なにカーテンを締め切ったマイキーは毎日こんな思いをしているのかもしれない。
分かってやりたい、分かってやれない。同じ人間じゃないから、オレたちは別々の人間だから。それでも、隣にいたい。手を繋いでいたい。そのために、できることはやっていくしかない。
今日のこの一歩は、今はまだ病院へしか行けないマイキーが自分の足で外を歩けるようになるためだと、そう信じて。早く済ませて早く帰ってこよう。何事もなければ、それが一番いいが。