太陽よりも、顔も見たくない、なんて子供じみたことを思ったのはいつぶりだろうか。
キラキラと心身によくないオーラを放つ地獄から、「便所行ってくる」とだけ言って抜け出せば少しずつ親近感のある景色になる。ようやく肺に酸素を取り込めたような気分だ。
足取りも軽くなって、このまま友人に会いに行ってしまおうかなんて叶いもしない予定を立てようとしてひとり虚しくなる。だって、数少ない友人はみんなあそこに置いてきたんだから。
ここはもうリドゥではない。一時とはいえ確かに輝かしかった、あの世界の俺ではない。
明らかに金のかかっているあの場所には、少々不釣り合いな安いスーツ。少しでもマシにするために髭の剃り残しにはいつもより気をつかったけど、表情を隠すためにもいっそ伸ばしまくってやればよかった。そんな生えないけどな。
「そういや、キィの新曲が出たとかって盛り上がってたな…」
適当に動かしていた足を止め、端に寄ってスマホを弄る。最近貰った初任給で買ったワイヤレスイヤホンを取り出して、動画サイトに投稿されているそいつを聴こうとして、固まる。
「結婚式で流したい…か」
今、一番避けたかった単語がよりにもよってコメント欄の一番上にいた。普段コメントなんか見ないのに、なんだってこんなときに。こんなコメントが目につくなんて。
ああ、そうだ。確かこの動画が投稿されたのが昨日で。今日が、ブッチョの。結婚式だから。だから、キィの曲に珍しく恋愛がテーマのこれが話題になって。運命とか、まさかなんて盛り上がって。
動画の前の広告で一時停止を押したまま、ぼうっと数分前のことを振り返る。聞きたくないこと、見たくないものほど一度認識してしまえば、していないフリをしたって記憶に残る。
ハア、元々やや下を向いていた視線が更に下がって地面とぶつかる。最近工事したんだろう綺麗なコンクリートに二匹並んで歩く仲睦まじい蟻たちを見つけて、帰宅部に入る前の俺なら踏み潰してたな、感謝しろよ、なんて訳の分からないことを心の中で言って道を譲る。
スマホの電源を切って、もうこのまま帰ってやろうと財布の中身を確認する。行きも帰りもゴン太の車に乗るつもりで財布はスマホより軽い。当然タクシーには乗れないが、バスの片道ならギリ行けるだけの小銭はあった。
『…あの、十円足りません』
バスの運転手に引き止められたのがまさか自分だとは思わなかった。当たり前のように払った金額が、俺の財布の中の全てなのに、足りない。訳が分からず、この値段じゃなかったかと問えば、数年前増税の関係で値上げされたのだと返される。
「マジかよ…」
いい歳した大人が不足した十円を払うことすらできないなんて。現実に帰る前あんなにも強く決心したはずが、羞恥心からやっぱ帰ってくるんじゃなかったなんて考えながら頭を下げて小銭を返してもらう。遅延させてしまった乗客たちにも軽く頭を下げてそそくさと入口から降りる。
ここから家までは歩いて帰れない距離ではない。もうリハビリも済んでるし、むしろ体力作りの一環として歩いた方がよかったのかもしれない。でも。つい、戻ってきてしまった。ブッチョと、顔も覚えてないヤツの結婚式会場。
…どうすっかな。ゴン太に送ってもらうか?でもアイツ気づくかな、マナーモードにしてるだろうし。鍵さえありゃ勝手に帰れるのにな。ウソ、免許ねえからムリ。
あーとかうーとか言いながら無駄に広い駐車場をぶらついていたら、見慣れた男…女?いや、なんだっけ。まあとにかくノトギンがいた。
現実に帰ってそれぞれ療養して割とすぐにマリマリ以外のメンツで集まった。俺はほんの少しだけ、ほんの少しだけ気恥ずかしくて適当に名前だけ言って終わらせたけど、みんな結構ちゃんと自己紹介してた気がする。別に、実は人間じゃなくてネコでしたとかでもなけりゃどうでもいいと思ってた。今更俺に幻滅するヤツもいないしな。
それでも、聞いた事のない中性的な女性の声の持ち主が能登吟を名乗り立ち上がった瞬間、俺は目玉が飛び出るほどの衝撃を受けた。性別がうんたら話していたが、ぶっちゃけ今までの自分の言動を思い返して動揺して話はあんま聞いてなかった。胸元の膨らみをガン見して、マジじゃん、なんて思ってたらキリちゃんに殴られた。身体が衰弱してたせいか、リドゥにいた頃より痛く感じたのを今でもよく覚えてる。
…さて。脳内でセルフ回想を流していたが、先程から隠れて見ているノトギンは一向に顔をあげない。あげない理由はなんとなく想像がつくもんだから、声をかけることもできない。多分、俺と同じ理由だ。
やっぱゴン太に電話するか。ノトギンのいる場所──ノトギンの車が停まってるとことゴン太の車はそこそこ遠いし気づかないだろ。多分。
スマホを取り出そうとして、重みのない財布が飛び出した。バスで慌てて仕舞ったから小銭入れのチャックが全開で、俺の所持金が音を立てて散らばる。漫画でよく見るバレ方だが、出てくる小銭の数がショボイ。
「…こばとさん?」
「あーーー…」
正真正銘空の財布を片手に立ち尽くしていたら、ノトギンがすぐ近くにいた。顔の前に手を浮かべているが、誰が見ても気がつくくらいには化粧も崩れてる。
気まずい、小銭拾わなきゃ、ゴン太に電話。いや、そんなことよりハンカチとかティッシュだろ。ごそごそと鞄からポケットティッシュを取り出して渡す。向こうも気まずそうにティッシュを受け取ってペタペタ顔を拭いている。女性はこういうところを見られたくないはず。顔を逸らそうとして、今までと変わらず接してほしいと言っていたようななんて記憶が過ぎった。けど、別にノトギンが鼻かんでるとこ見たいわけでもないからやっぱり逸らす。
どれくらい時間が経ったか、適当にスマホを弄っていたらノトギンはすっかり泣き止んで化粧も直してたらしい。
「あの、小鳩さん」
「おー?」
好きなゲームの新作とか近くにできたカフェとか、変な顔の犬とかのネットニュースを閉じて、ノトギンを見る。
「小鳩さん、よかったら僕の車で送りましょうか」
「あーーー……頼むわ」
気を遣われている。そりゃそうか。普通、仲の良い友人の結婚式抜け出して用事もなく駐車場をふらついたりしないだろう。ゴン太と車乗るのもそれはそれで気まずかったし丁度いいや、とは思いつつも声は尻すぼみになった。
車の善し悪しなんて知らないし。いい匂いだなーこれなんの匂いだっけ、柚子ですよ、小鳩さん柑橘系好きなんすか?さあ、でもこれは好きだなー、とか。結構気まずかったはずが、喋り始めたらいつもみたいに適当な話題でそこそこ盛り上がれた。
そこ右に曲がって、向こうの信号まで真っ直ぐ。はーい。俺の指示に対応したスムーズな運転に、チョロいと思われるだろうけど大人っぽくてカッコイイなと思う。俺も免許と車欲しいなー、まあ当分無理か。くわあ、デカい欠伸をしたら隣から小さく笑いが溢れた。リドゥと変わらない距離感になんだか安心してそのまま眠気に抗うことなくストンと寝落ちる。
「…小鳩さん、起きて。ついたってば」
「……あ?え、もう着いたん?」
「もう、ずっと声かけてたのに全然起きなかったっすよ」
「あーー、わるい悪い」
ドアを開けて待っててくれたノトギンに急かされてのっそりと降りる。もう着いたのか、結構寝てたのか。…最近、寝れてなかったし後者か。
送ってくれたノトギンに礼を言って、続けてまた明日、なんて言いそうになって、もうお互い社会人だと飲み込んだ。…明日からまた仕事か。
軽く手を振りあって、ノトギンに背を向けて玄関まで歩き出す。
「こばとさん、これ、一応」
聞き逃しそうな小さな声で呼び止められて振り返る。突き出された小さな袋は小さいながらに綺麗な装飾があって、なんとなく本来式場で貰えたヤツかと感じる。袋を受け取れば、何も言わず会釈をしてノトギンは車に乗り込んだ。
発進した車の音を聞きながら袋を覗けば、紙で包まれた写真が目に入った。左手をカメラに向けて幸せそうに笑う男女の写真。
銀色の指輪も満面の笑みも、たかが写真のはずなのに、今の俺には太陽よりも眩しく映った。