タイトル未定(1)呼び鈴を鳴らしても、叩いて呼んでも、もう誰も迎えてはくれない灰色のドアの前で、百崎喜一は、立ち尽くしている。
思い返せば、予兆はあったようにも思う。
伊東さんは仕事がとても忙しく、もともと会える日は限られていたし、家にお邪魔しても数時間だけという日もあった。
それでも、できる限り時間をつくってくれていることは知っていたし、寂しさを感じつつも、一緒に居られる刹那の幸せを噛み締めていたものだった。少しでもいいから家に行ってもいいかと問えば、本当に会うだけになるけどと言いつつ、他愛もない会話と触れ合いを許してくれた。そんな優しさに甘えはしても、自分の都合ばかりを押し付けたことはなかったと思っている。いちばんはしっかり食べ、よく寝てほしかったし。
しかし最近は、週末であっても来てもいいけど調べ物しなきゃいけないからあまり構えないと宣言されたり、珍しく定時で上がれたらしいのだが帰りは遅かったり、前ほど会社の愚痴の話題がなくなったり。
隣で過ごす時間が幸せだったから、今にならねば気付かなかった。でも思い返せば、やっぱり、そういうことがあったのだ。小さな小さな違和感が。
数日前、責めるようなことをたくさん言ってしまった。また会って、話もできると思ったから。不安ながら、送り出したのに。
この一年で随分と仲良くなった隣の部屋のおばちゃんに「一昨日引っ越したよ」と教えてもらった、そのドアの前で、喜一は、ただただ立ち尽くしていた。
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「仕事辞めるからさ、田舎の役場で働くことになった。」
「なしてそがん大事なこと話してくれんの?!」
普段は方言のイントネーションが残る標準語で話す喜一だが、怒りか悲しみか、様々な感情のままに声を荒らげる。今にも泣きそうな顔をしていた。
今話してるだろ。素っ気なく返した言葉の裏で、思った通りの喜一の反応に、正直、嬉しく思う自分がいた。
転職しようと思っていたことは嘘ではなく、ずっと考えていたことだった。
きっかけを与えてくれたのは喜一だ。あの時、勝手に推してた「百崎さん」がまさか俺を見てくれていて、声をかけてくれたから、生活を見直そうと思えたし、今がある。感謝しかないし、愛おしくて仕方ない。
ごめんな。本当に好きだから。そう言えたらいいが、言えば何も意味がなくなってしまう。
いろんなことにかこつけて、俺はお前と離れるんだ。ズルいやり方だって分かってる。
もう決めてしまった。
決めなければいけないと思った。喜一の未来に、俺の存在は邪魔でしかないだろう?世間一般、「普通の幸せ」と呼ばれる道のりに帰してやるのが喜一のために一番良い。
わざと時間が無い時に、なんともない世間話のように話したから、喜一が絶句したあとに隙も与えず話を切り上げた。
「仕事行かなきゃ。帰るとき、鍵はいつも通り郵便受けに。」
「まだ…!終わってな……!」
「じゃあな、喜一。大学頑張れよ。」
玄関を出る前に見た最後の喜一の顔が、悲しそうな、でもこちらを心配するような、切羽詰まった顔だったことだけが、唯一の心残りだ。
西へ向かう新幹線に揺られながら、その顔を思い出し、決心とは裏腹に目尻に滲んだものを指で乱暴に拭った。