タイトル未定(2) 就業後、後片付けを終えた伊東は、お疲れ様でした、と声をかけ、職場をあとにした。明日か明後日かが夏至だったかで、今の時間でもまだまだ日が高く、窓の外は明るい。一切の雲がない突き抜けたような青空が広がっている。
今日も随分と暑く、まだエアコンのつけてもらえない職場では俺を含めみな唸っていたが、出入口のプランターに咲く向日葵は嬉しそうに顔を上げていた。
この町にも随分と慣れてきていた。
人口約一万人、東京からは車で5時間以上はかかる田舎のまちで、農業と漁業が盛ん。田舎と言っても、伊東の住む地区は港町で、県道沿いにコンビニもドラッグストアもあるし、衣食住には困らない、住みやすいところである。特に何か思い入れがあるから選んだわけでもなかったが、家の近くにある、県内では有名な海岸からの景色が気に入っている。
現在、伊東はその町役場の支所で臨時の職員として働いている。更新して2年目。仕事にも慣れ、まだ住民の強い方言にはたまに対応しきれないものの、それなりに楽しくやっていた。それこそ、東京での生活を思い出す頻度が減りはじめているな、と自覚するくらいには。深酒する日もほぼ無くなった。
少し遠回りの海沿いの道を走って、帰宅する。右の窓を大きく開けて、西日でキラキラする青い海を眺めながら帰りたくなる日があって、なんだか今日はそういう日だった。
県道から一本入って、畑の間を抜けた先の集落に自宅はある。
今の家は、空き家になった一軒家を軽くリノベしてあって、一人で住むには少し広い。移住者向けに提供されている家で、本当はファミリー世帯用に整備されていた訳だが、誰も住まないと家はダメになるから維持管理の面でも助かるんで是非!と、移住担当の人にお勧めされた。決め手は、庭に家庭菜園できる小さな畑があったこと。せっかくなら、したことないことやってみようと思っていたので、手軽かつ気ままに土いじりできると選んだ。
伊東は、必要以上はせず、決して波風は立てず、器用な生き方をしてきたタイプだが、マメな性格なので畑仕事は意外に性が合っていた。簡単な野菜を年通して十数種類ほどつくっており、今は、ミニトマト、キュウリ、ピーマン、インゲン…と夏野菜が植わっていて、少しずつ実ってきている。2年目なので、すこし手際が良くなったのと、近所のおばあちゃんたちがいろいろと教えてくれるおかげで、だいぶ実りがいい。
食べる日が楽しみだ、と思いながら、楽な格好に着替え、水やりや軽い手入れをしていると、ピンポーンと玄関で音が鳴った。久しく聞いていない音だ。近所の人ならば、「伊東さーん、回覧板ー」などと大きな声で呼ぶため、玄関のベルなどは不要なのである。
今日は金曜日だが、明日は朝から自治会の清掃活動があるから、普段から自分気にかけてくれている班長の山本さんだろうか?とか考えながら、庭から顔を出す。
「はい、どちらさま………」
玄関ドアの前には、大きなリュックを背負っていた男性が緊張の面持ちで立っていた。
それは、やっと忘れられそうだった、朱色の髪の青年だった。
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こちらを見た瞬間に今にも泣きそうな顔をした青年―――喜一を、とりあえず家に上げ、居間に案内した。が、それから、沈黙が続いている。
まさに借りてきた猫、きゅっと正座し、そのまま。リュックも背負ったままだが、寛げよというのもなんか違う気がするので、どう声をかけたものか。
あの最後を考えると、彼は全く悪くないため怒り出しても無理ないのに、律儀に緊張しているらしかった。
ハッとした顔を此方へ向けたかと思えば、眉間に皺を寄せながら目を瞑ったり、下を向いたり…忙しない。おそらくはどう切り出そうかと、悩んでいるようだ。
お互い容姿はほとんど変わりなく、強いて言えば、喜一は髪が伸びただろうか、2年もの歳月をあまり感じさせなかったが、心の距離は想像以上に遠いように思わせる。
昔の彼を思えば、すぐにでも飛びついてきそうなものなので意外であるも、納得の姿だった。伊東がそうさせたのだ…と、越してきて直ぐの頃に抱いていた罪悪感やーーー重たいものがズシリと胸に思い起こされていた。やっと蓋を、いや感じぬフリを出来るようになりそうだったのに、そう簡単には楽にさせてくれぬらしい。
門前払いしてしまうのが正解だったのかもしれないが、伊東は喜一のあの顔にはどうしても弱かった。
とりあえずは客人なわけなので、ひと通りのおもてなしをしようかと席を立ちながら、声をかける。
「ひとまずリュックを置いたら。重たいだろ。飲みものは麦茶でいいか。」
まさか伊東から話しを振ってくれると思っていなかったのか、驚きの表情をしてから、安堵の色に移り変わる。
「は、はい!あの、その、お邪魔します……してます。」
喜一がペコリと軽く御辞儀する。
台所で冷蔵庫から取り出した麦茶を注ぎながら、もうあまりの可笑しさに、自然と笑みが溢れていた。変わらず、真正直で愛らしい、好ましい奴。そういえば、出会って初めて俺の部屋に来たときも、こんな感じじゃなかっただろうか。
ここまで来てしまった喜一の情熱に、伊東は既に観念していた。聞かれれば何でも話そう、突然いなくなった理由以外ならば。
さて、ふうと一息ついて、表情管理し直してから居間へ戻ると、喜一が真っ直ぐとこちらを見つめてくる。今から話しますから!と瞳で訴えられ、伊東は机を挟んで目の前に座った。
「まずは…また会えて本当に嬉しい。あと、突然来てごめんなさい。話したいことありすぎて、上手く言葉にできそうになか…」
真剣な表情で告げられる素直な言葉が、胸を衝く。初めに出る言葉が会えて嬉しいだなんて、どこまでデキた奴なんだよ、お前。
「この前ついに此処におるかもしれんってことがわかって、居ても立ってもいられなくて、すぐ来ちゃった…」
えへへと照れくさそうに笑う顔に応えるように、伊東の顔もほころぶ。結局、全然管理できやしない。昔ならもっとうまくできたろうに。
「最初は必死で伊東さんの知り合いに当たって、でもみんな詳細は知らなくて…、この前、ネット記事の移住者インタビューで引っかかって!写真も伊東さんだし、もう、もうすごい叫んで!両隣のお隣さんに怒られた」
喜一らしい語りが戻ってくる。表情がくるくる変わって、よく澄んだ声で話す姿は懐かしい。その時の興奮と、如何に嬉しかったかということを如実に伝えていた。
よく調べたもんだな、今の今まで。大したもんだ、とどこか他人事みたいな感想を抱く。
確かに例の移住担当者からそんなインタビューを半月ほど前に受けたが、もうネットにアップされていたのか。本人に最終確認含め掲載日くらい教えてくれてもいいのでは?と、ヤレヤレと肩をすくめる。
「今更ながらやってることストーカーだな…って思うたけど、どうしてももう一度会いたくて。
ねえ、伊東さん。どうして何も言わずに居なくなったの。俺がなにかしちゃって、嫌になった? それとも離れなきゃいけない何かがあった?」
「…言えない」
2年前からずっと、聞かれたときの言い訳はいくつか用意していた。しかし、ここまでしてくれた相手に対して、嘘や誤魔化しは、流石にできなかった。ただ、教えるつもりもなかった。
こんなに俺は優柔不断で矛盾した人間だったか?
「じゃあ教えてくれるまでここに居る!」
「は?」
そもそも大学は大丈夫なのか、と聞く前に、伊東さんが気にしてることなら大丈夫です!と喜一が胸を張る。
「内定も貰ってるし、単位も足りてるし、卒論はテーマ決めて教授からもOKもらってるし、問題ありません。」
「感心したよ。」
用意していた逃げ道は簡単に塞がれてしまった。いつの間に、随分と成長している。
「いいの?」
「言ったら聞かないだろ。好きにすれば。外に放り出すのも体裁悪いし、客としてもてなすだけだ。」
それを聞いた喜一が、はあああと大きく息を吐きながら、へにゃりと糸が切れたように床に倒れ込む。
おい大丈夫か、と声をかけると、眉をへの字にしてくしゃっと笑いながら、気の抜けた声でだいじょおぶ〜と返ってきた。
「門前払いされると思ったし、居るのも駄目って言われると思った。顔も見たくないとか、言われるのも想像してた。やっぱり伊東さん、優しい。何か大事な理由があったんだね。」
胸が苦しくなる。自分に甘いだけなんだよ、俺は。
「客間があるから準備してくる」
「うん」
立ち上がり、喜一の声を背に窓の外を見ると、すっかり日は傾いて、夕日を受けた見事な夕焼け空が広がっていた。この時期、昼間は長いが、日が落ちるのは一瞬だ。
朱色に燃えた空は眩しく、美しく、伊東の心を酷く揺さぶった。