なんでこんなことに。
内心愚痴りつつも、引きつりそうになる口元を無理矢理押さえつけて、微笑みの形を作る。
隅々まで手が入れられた庭園、小さいながらも精緻なつくりの東屋。差し込む日差しは柔らかく、吹き抜ける風も心地よいというのに、噴き出る冷や汗は止まらない。
目の前には少年がいる。長い金の髪を三つ編みにまとめて、黄金の瞳を楽し気にきらめかせた少年だ。身にまとう衣服は聖職者じみている。まあ、男が調べた限りでは、"じみている"どころではないのだが。
予定にない接触に、危機感ばかりが増していく。
つまり、目をつけられている。
男の内心を見通しているかのように、少年はくすりと微笑んだ。
男の名前はジョン・ドゥ。便宜上そのように名乗っている。
男は探偵だ。といっても、名ばかりの探偵だ。
事務所の家賃は滞納しっぱなしであるし、依頼を受けるかどうかも気分次第。にっちもさっちもいかなくなってしぶしぶ仕事をするが、内容は探偵というよりかは便利屋のそれ。
どうにかなっているのは、事務所を貸してくれている大家がおおらかであるからなのは疑いようもない。であるからこそ、大家の頼みは断りづらく、厄介な依頼を受けなければいけない時があるのだが。
大家に紹介されてきた依頼人を前にして考えることではないが、さわりを聞いただけでも面倒そうな依頼の予感に現実逃避くらいはしたくなる。
なんでも知人が宗教にのめりこんでしまったので、どうにか正気に戻してやってほしい。という内容の依頼であった。
その知人はすでに家財を処分して、今はくだんの宗教施設で住み込みで働いているなどと言い出すものだから、手遅れの四文字を必死に飲み込む羽目になった。その知人のことなど忘れて、自分の生活に戻った方がいいと思う、と何度口走りたくなったことか。
なにぶん大家の機嫌をそこねて追い出されたら家なき子である。
死んだ目で依頼を受け、依頼人を見送ったあと、ジョン・ドゥはしぶしぶと身支度を整えた。
くそっ、人の弱みにつけこみやがって……。
家賃を滞納している方が悪い? それはそう。
さて、ジョン・ドゥは心底嫌だったが、調査に乗り出した。
今回の依頼は説得して連れ帰らないといけない以上、説得材料は多ければ多いほど良い。
しかし情報を集めれば集めるほど、くだんの宗教がなんなのか、はかりかねていた。
特になんの主張もしていないのだ。信者の勧誘も積極的に行っていない。まあ、金をつぎ込んでいる信者の話は出てくるので、金銭が目的、なのかもしれないが。いまいちしっくりこない。
どうにも得体が知れない。
外側から調べるだけでは、いまいち深い情報が出てこないとなると、潜入も視野にいれなければいけないだろう。
ジョン・ドゥは憂鬱そうに調査した事柄をメモしている手帳を懐にしまった。
あんまりにも憂鬱である。そうだ、景気づけに今日はもう酒を飲みにいこう。がんばるのは明日からでいいや。
心機一転、ジョン・ドゥは軽やかな足取りで歩き出す。
この男、夏休みの宿題は後回しにして、最終日に泣きながらやるタイプの男である。
彼らが慈善活動を行っているので、安直ではあるが、彼らの活動に感銘を受けたという体裁で、入信希望者のふりをして潜りこむというジョン・ドゥの策は、半分成功で半分失敗だった。
ジョン・ドゥの入信手続きを行った者は、あきらかにジョン・ドゥの不信心さを看破していた。だというのに機嫌を損ねた様子もなく、寛容さを見せてジョン・ドゥを受け入れた。
我々の信仰をいずれ君も理解するよ。言われた言葉を口の中で転がす。
いずれ理解するよ、と言われてもジョン・ドゥはろくでなしである。そのような感情とは無縁だ。そうは思いつつも、どうしてかその一言は脳裏にこびりついた。
いずれ理解するよ。そういった者が、あまりに貴いものに心を奪われたような表情をしていたからだろうか。
慈善活動に参加しつつ、サボりつつ、聞き込みをしたジョン・ドゥは、彼らはどうやら現人神が存在すると心底信じているらしいという情報を得た。
この世のものと思えぬ美しさを備えた少年だという。まあ、胡散臭い。
子供を神輿に担ぎ上げているものは、ろくでもないと相場が決まっている。
目的が一向に見えてこない得体の知れなさで保ち続けていた緊張感が、一気に途切れる。別段目的を達成したわけではないが、ジョン・ドゥは帰りたくなった。事務所のソファで酒をなめながら、だらだらとする時間が恋しい。
頑張ったけど無理でしたで依頼人許してくれねえかなあ。だめかなあ。
いささか面倒になったジョン・ドゥは夜闇に乗じて忍び込み、なんかてきとうに証拠をあさって仕事をした感を出して帰ろう、そう思った。
深夜、足音を殺して施設に忍び込んだジョン・ドゥは、ふと響く足音に気が付いて緩んでいた気を引き締めなおした。足音の軽さからして、子供だろうか。大人にしては体重が軽そうだ。
さすがに下手をすると通報される状態で腑抜けてはいられない。忍び込むと言ったって、別にそんなあからさまに不審者ですと全身で主張しているような服装ではない。まあ忘れ物をして取りに来て……なんて、ありきたりな言い訳を考えているうちに、廊下の角から出てきた存在に、ジョン・ドゥは我を忘れて立ち尽くした。
灯りがない薄暗い廊下で、その少年はみずから光輝いているようであった。そのせいか、廊下の壁にかぶさる少年の影が異様に大きく伸びて見える。
光をより合わせて織り上げたような金糸。蕩けた黄金の瞳。白磁の肌。ジョン・ドゥに気が付いて、見上げてくる顔の、その造形の美しさよ。聖職者然とした服装も相まって神々しい。
少年が軽く微笑む。途端にジョン・ドゥの思考はすべて吹き飛んだ。
「おや、初めてかな、卿に会うのは」
なにを言われたのかさえあやふやで、ジョン・ドゥはとにかく無視だけはすまいと、とりあえずうなずいた。
「ふふ、そう緊張する必要もないのだが……」
微苦笑を浮かべて、少年が首を傾げると、肩に流した三つ編みも揺れる。
視線がつられてそちらに向き、そのまま下に向かう。少年は手に皿を持っていた。皿の上にはプリンが乗せられている。
そういえば、少年が歩いてきた方向には厨房があった。
持っているものに気が付かれたことに、少年はそっとはにかんでこう言った。
「私は出歩けないから、カールが買ってきてくれたものでな。みんなには内緒にしておいてくれ」
言いつつ、ちらりと視線をあげた少年に気が付いて、その先をおいかけたジョン・ドゥは、一気に冷水をあびせられたような心地になった。
少年の影だと思っていたものに、目がある。いや、目どころではない。それは人の形をしていた。少年よりもずっと背丈の高いそれは、ぴたりと少年の背後に寄り添っていた。長い、長い黒髪が垂れ下がって、少年にまとわりつくくらいには距離が近い。
先ほどとは別の意味で、心臓がうるさくなった。
「私はそろそろ行くよ。……卿もあまりやんちゃはしないようにな」
くすくすと少年が笑って、歩き出す。影もまた当然少年の後をついていった。
ジョン・ドゥの本能はひたすらに警鐘を鳴らしていた。いますぐここから逃げ出して、二度とここに来るべきではない。そう訴えた。
それが昨夜のことである。
そうして冒頭に戻る。
来るべきではない。
まんじりともせず夜を明かして、ずっとその一言が頭の中でぐるぐると回っていたというのに、けれどもあの少年の美しさが忘れられなかった。
気が付いたらジョン・ドゥはまた慈善活動に参加していて、なぜだか呼び出されたのである。
少年の前に立つと、さきほどまでぼんやりとしていたかのが嘘かのように意識が冴えわたって、危機感が正常に騒ぎ出す。
「だから、そう緊張する必要はないというのに」
「あ……いや、その、なんの御用で?」
「面白いことをしているようだからな。少し卿の話を聞きたくなった」
蕩けた黄金の瞳がきらきらと輝いている。と促されるまま、少年の対面の席に腰を下ろす。
冷や汗は止まらない。背中の布地がぐっしょりと濡れていることだろう。
「俺の話、ですか」
「ふふ、潜入捜査か。私もあまり経験はないな」
まあ、その面ではどこにいこうがすぐにバレるだろうな、と脳の一部が妙に冷静に言った。
そして体もっと妙だった。いつだって猫背気味だったはずなのに、今日のジョン・ドゥは少年の前に立ったその時から、ぴしりと背筋を伸ばしているのである。
「さあ、聞かせてくれ、卿の話を」
すこしずつ話始めると、少年は実に慈愛にみちた表情で相槌を打つ。それがなんだかこそばゆくて、ジョン・ドゥは守秘義務だとかなんだとかすべてすっぽぬけて、なにもかも話した。
それから、ジョン・ドゥは定期的に少年に自分がかかわった事件の話をすることになった。
せっせと過去の事件を振り返って、おもしろく聞こえるように話し方を考えて、いつ呼ばれるのか楽しみに施設に足を運ぶ。
何日もそれを繰り返して、ジョン・ドゥははたと気が付いてしまった。
なるほど、俺はあの少年に良く見られたいのか。
そうして、目的が見えてこなくて、得体がしれない集団といったが、つまりこれなのだ。目的は。
この神の如き少年に、跪いて許しを乞いたい人間の集まりなのだ!