いずれこの身が焼き尽くされようとも 呆然と父の亡骸を抱きかかえた義兄。
場に満ちる死の気配を感じながら、便宜上ガイア・ラグヴィンドは人生で初めて、生の実感をかみしめていた。
おのれを拾い育てた義父の死を悲しみつつ、思考は加速してゆくばかりだ。
義父が操ったという正体不明の力、これから先アカツキワイナリーに降りかかるだろう諸々。
考えるべきこと、すべきこと、あらゆる難事が訪れる未来を思ってガイアはいっそ愉快さすら感じて微笑んだ。
義兄と俺が揃っていて、出来ない事など少ししかないだろう。
ガイアは土砂降りの雨に紛れてそっと吐息を落とした。
ああ、俺には生きている意味がある。
生の実感がガイアの胸のうちを満たしていた。
ガイアにとって人生とはまこと曖昧模糊としたものであった。
実の父親のもとにいたときでさえ、なにごとも幕を一枚隔てた向こう側で起きているようなあやふやさ。実感を持てなかったのだ。死んでいるかのような生だった。
お前こそが最後の希望であると説かれたところで、だからどうしたというものだ。
ガイアのこころのうわべを滑っていくだけの言葉で、刺さるものがなかった。
であるから、そういうものかと言われた通りに振舞いはしても、そこに真面目さはあれども、真剣さなど欠片もない。
では、育ての親に拾われてからはどうだろう。
実の息子のように接してくれた義父、優しく高潔で思いやりのある義兄。双子とさえ言われるほど仲良く育った生活。
これはこれで、実感がわかなかった。なにぶん狙って拾われに行ったのだから、ガイアの方が一線を引いてしまう。ラグヴィンドを名乗るたび、本来であればここにいない異物であることを感じた。ここにいる意味を見失うのも仕方のない事だろう。
そして今、ガイアは初めておのれがいる意味をひしひしと感じていた。
義兄は高潔な男である。義兄はまがったことが嫌いな男である。義兄は優しい男である。陰謀めいたことは苦手な性質であった。
義父が健在であれば、アカツキワイナリーを経営していくうえで、そういった陰謀事との付き合い方を義兄に段階を踏んで学ばせ、ガイアがそういった面でしゃばる必要もなかっただろう。
だが偉大なる父はすでにない。
ガイアの領分、ガイアが義兄のために、役に立てる分野だ。
騎兵隊隊長となった義兄のために行うささやかな手助けではなく、人身を蝕む正体不明の力だのなんだのと垣間見えた闇を追うだろう義兄のため、アカツキワイナリー存続のために苦労するだろう義兄のために。
やる気と活力が満ち溢れているなど、初めてのことであった。
義父の亡骸を屋敷に運び、義兄が亡骸を安置しているころ、ガイアは気を抜けば跳ねてしまいそうな足取りを押さえ込みつつ、義父の執務室に飛び込んだ。
時は金なり、今しか分からないこともあるかもしれない。しかし義兄はまだ義父のそばにいたいだろう。ガイアは自分で調べられることは先に調べておくつもりだった。義兄が十分悲しめるように、こころの整理をつける時間をつくるくらいは、おのれにも出来ることなのだと思っていた。
義父の最近の手紙のやり取りなど、どのような手がかりであれ見逃さないようにじっくりと見ていく。
使命感というのはこういうものだろうか。おのれをこのモンドに置いていった実父のことを久方ぶりに思い出す。もはや姿かたちもうろ覚えだが、お前こそが最後の希望なのだと説く際にらんらんと輝く瞳だけが浮かび上がる。
かつての無感動さではなく、ゆるぎなき誇らしさを胸に懐いて、ガイアは記憶の中の父に「だからどうした」と微笑んだ。
俺は義兄の選んだのだから、勝手にかけられた期待など知ったことではなかった。
ガイアのこころに突き刺さったのは、己が父を苦しませないためにと自ら泥を飲む覚悟を決めた義兄の姿であったから。
一通りめぼしいものに目を通したガイアは、ふとおのれが抱えている秘密を義兄に打ち明けるべきか悩んだ。
黙っていても別に良いわけだが、ガイアはもはや義兄を選んだのである。であれば、みずからが持っている手札を共有しておくのも、良いことではないだろうか。そう考えた。
すべて打ち明けて、そうしたら、ラグヴィンドを名乗るたびに感じる後ろめたさ、罪悪感から解放されるのではと、そういった考えがなかったとは言い切れないが、それでもその時のガイアには打ち明けることがもっとも良い選択であると思えた。
後から思えば、大義名分を得て、それにかこつけて胸のうちに飼い続けていた秘密を明け渡してしまいたいだけだったのだろう。ガイア・ラグヴィンドとなんの憂いもなく名乗りたかったのだ。他に名乗れる姓がないからとか、自身の気持ちはどうあれその姓を名乗らないといけない立場であるからとか、そんなものではなくて。
今日、ガイア・ラグヴィンドは正しく生まれてくるのだと、義兄の部屋を訪ねるまでは妙な確信をもっていた。
ガイアの一世一代の告白は、果たして破滅を招き寄せた。
義兄の答えは赫怒である。目の前に立つ義兄はもはや生ける炎であった。
突如現れた火によって、室内の空気が激しくうねる。舞い上がったカーテンのすそを飛び散る火花が侵蝕した。
正しき怒りだ。一点の曇りもない。汝、罪あるものならば、この光に焼かれて死ねよと、生ける炎の目が伝えていた。
なんと美しいことだろう。恐れず、揺らがず、確固たる意思を持って立つその姿。その姿勢の高潔さ、精神の美しさを、なんと例えればよいのだろう。
ああ、やはり俺はこの男の役に立ちたかった。はじめての悔いだ。
じりじりとおのれの指先が焼けているというのに、ガイアは身を焦がす光に見とれた。
焼け死ねというなら、納得を持って受け入れるつもりであった。
だというのに、義兄の操る大剣を咄嗟に避けたのは、打ち返してこいという義兄の無言の圧を感じたからだろう。打ち返してこい、否定しろ、言葉にせずとも伝わってくるものがあった。
困った、とガイアは人生で初めておのれの不甲斐なさに打ちのめされた。
否定できるものがなにもなかった。わざと拾われたこと、スパイとして活動していること、その他もろもろ、打ち明けた秘密はすべて事実なのだ。
神の目を持つものと、持たざるもの。数合打ち合えば、たやすく追い詰められる。
びりびりと痺れる腕。いまだに剣を取り落としていないのは、気合とか根性とか、そういったもののおかげだった。
弱いままではいられない。せめて義兄と戦えるほどの力が必要だった。そう望まれているのだから。
途端、ぱきりと音がなる。焦げた指を守るように、氷がガイアの指に生えた。
翌日、ガイアはひとりかなり開放的になった義兄の部屋で寝ころんでいた。
ぼうっとした心地でいやに鮮やかな晴天を見上げる。
義兄はもうどこにもいなかった。出て行ってしまったと知らせてくれた使用人の顔色もひどいことになっていた。
どうしたものかな、と寝ころんだまま考える。考えたところでどうしようもないのだが。
ガイア・ラグヴィンドは死んでいた。生まれたかすらさだかではないが、確かにガイア・ラグヴィンドは死んでいた。
実に短い夏だったと、ガイア・ラグヴィンドの屍は昨日のことを思い返した。
「ま、そのあとは知っての通り、モンドでのらりくらりと騎士をやっていたわけだ」
「うわあ……」
自分から聞いておいて、そんな反応とは。ひどいなあ、とくふくふと笑うガイア。
それ以外にどんな反応をしろというのだ、この男は。
天理だとか、カーンルイアだとか、すべての片がついたあと、和解のきざしすらない義兄弟たちの関係に首を突っ込もうと思ったのは、旅人自身はきょうだいと無事に仲直りできたからである。その結果がこれであった。
旅人はなんとも言い難い気持ちで口を開いた。
「それで、その……」
二の句が告げず、口を開けたり閉じたりしている旅人を、面白げに眺めてガイアは答えた。
「自己紹介が必要か? いまさら」
旅人は慎重に首を横に振った。
旅人の前にいる男は、ガイア・アルべリヒであった。
「ここだけの話だが……絶対に受け入れてもらえると、思いあがっていたんだ」
すこしの恥じらいを分かりやすく表情に乗せて、さらりと語られた心情に、旅人は己の表情が歪むのを自覚した。
「そんな深刻そうな顔するなよ。俺はそんな気にしてないしな」
ほんとかなあと疑いの目を向けられて、ガイアがひょいと肩をすくめる。
「俺がそうしたいとしても、相手が嫌だって言ってるのにやることでもないし」
それはそうなのだが。いまいち納得がいかないと旅人は口を尖らせた。
そも、おのれもきょうだいを持つ身。たとえば片割れが今語られたような心境であると知ったら、おのれは正気でいられるだろうか。
旅人はここにはいない赤髪の男、アカツキワイナリーのオーナーの顔を思い浮かべた。