The happiness is over(あなたのいない世界で) 薄汚れた天井には見覚えがあった。壁のしみが特徴的だ。まるで血痕のように円から放射状に広がっている。実際血痕なのかもしれない。何しろここは病院だ。暴れた患者の血が飛ぶことくらいあるだろう。あるいは単にここで流血沙汰があっただけかもしれないが。
夢人の体は重い。覚醒した後瞼を開くのでさえ、結構な労力を必要とした。倦怠感が何もするなと訴えている。それに逆らうことなく、ただ腕も脚も投げ出して、ベッドの上に転がっている。片腕には点滴とおぼしき針が刺さっていてわずらわしく思ったが、もちろん取る気力もない。
ぼんやりと、ぼんやりとすることに努める。頭を真っ白にする方法については、かねてよりずっと模索していた。ドラッグや酒が簡単だが、すぐに吐いてしまうのであまりよくない。だいたい、あんなものは体の腐敗を勢いよく促進するものに過ぎない。ただでさえ寿命はあまりなさそうなのだから、少しでも長く生きる努力をしなくてはいけない。少しでも、長く、生きる、努力を。
違う。そんなことを考えるべきではない。
素数を数える。円周率を数える。まともな教育を受けてはこなかったが、多少のことは後になって独学で覚えた。算数は生活の上で重要だが、高等数学に関しては、少なくとも夢人にとってはほとんど意味がない。ということに気づいてからは、積極的に勉強をすることはなくなった。だが、数を並べて頭を埋め尽くすのはなかなか悪くない手法のように思えたので、勉強を再開するのはよいのかもしれない。2a分のマイナスbプラスマイナスルートb二乗マイナス4ac……。
がちゃりと個室の扉が開く音がした。次にぴ、という電子音。それから光。電灯がついたのだった。
顔は動かさず、目玉だけをぐるりと巡らせる。闖入者を視界に入れるのはなかなか困難があったが、向こうからこっちにやってきてくれた。
「起きたか」
それも聞き慣れた声だった。知り合いの医者。免許は持っていないらしいが、腕は確からしい。少なくとも、夢人がこれまでにしてきた多くの怪我を綺麗に治してきたのだから、そう間違いではないだろう。
ゆっくりと口を開く。唇はかさかさになって、少し割れていた。痛みを感じる。どうでもいい話だが。
「いま……何日?」
「お前をここに運んでからは二日だよ。どうせシラフなら、お前の記憶もそんなもんだろう?」
「そか」
その通りだった。といっても、直前の記憶はだいぶ混濁している。
仕事もなく、どうしても食事を取る気になれなかった。決まった時間になるたび、次は食べると思って飛ばしてしまっていた。それが何度続いただろうか。だんだんと意識レベルが低下していき、思考が麻痺し、それが心地よいと思っていた。腹が減った時、腹が減ったという気持ちだけが脳の中を浸していくから。水分だけはなんとか取っていたはずだ。でなければ、死んでいただろう。そして、今はおそらく、点滴によって強制的に栄養を流し込まれている。
もっとも、それも全て夢人の選択だ。医者と多額の金で契約し、自分の生存を担保させる。
金は溜め込んでいた。暗殺稼業というリスクが高い代わりに報酬の多い仕事をしている割に、使う当ては夢人にはあまりなかった。いつか。いつか自分の相棒が晴れて表の世界の住人になった時に渡そうと思っていた。それが今、夢人の生存に当てられる。世界でもっともと言ってよいほど馬鹿馬鹿しいが、やはり他に使う当てはない。一括で払ってしまえば医者は自分を殺しかねないので、毎月毎月払うのが鬱陶しくはある。
とまれ、家の中にセンサーをいくつかつけ、それが反応しなくなれば、医者は(あるいはその助手が)合鍵を持って夢人の家にやってくる。意識を失った夢人を回収し、病院に収納する。治療が必要なら施す。今回は栄養失調だけだったので、点滴を入れるだけで済んだだろう。あまりに雑なシステムだ。いつ死んでもおかしくはない。だが、それ以上のことを考えるのは面倒が過ぎた。
「厄介なサブスクもあったもんだ」
医者が心底呆れた調子で言う。近くに椅子があったのだろう、どっかりと座っている。
「こんな訳の解らん契約をしたのはお前が初めてだし、思った以上にめんどくさい」
「うるさいわ……」
目を閉じる。部屋の電灯が眩しかったのもあるし、話を遮断したかったのもあった。だが、医者は後者を受け取ってくれなかった。気づかないわけではないだろうから、ただ無視をしたのだろう。不満が伝わってくる。ぴ、ぴ、とリモコンを操作する音。
「部屋は少し暗くした。会話くらいさせろ」
「病人やぞ」
「今はもう大したこたぁない。金に目は眩んだが、これ以上面倒が続けば来月以降の契約はなしにしてやってもいいんだぞ」
「ああそう……」
仕方なく目を再び開く。段々と体が動くようになってきたのを感じる。頭を動かす。きちんと医者の表情が視界に入る。やはり、ひどく不機嫌に見えた。
「そんなに生きたくなきゃ死ねば?」
「生きたくないわけやない」
「生きなきゃいけないんだろ。少なくとも俺のところに来たときはそう言ってたぜ」
黙る。それも正解だ。しばらく言葉を見失う。先ほどまで数字と数式に埋もれていた脳がぐるぐる回り出す。生きなければいけない。それが彼の願いで、そして。
「…… 約束だから」
「約束ねえ」
医者はまじまじと夢人の顔を見ている。調子を図っているのだろう。顔色は(もちろん)自分でもよく解らない。
「本当にそんなこと言ったのかな」
ぐるりと頭を回す。めまいがするが、気にしない。近くのローテーブルに自分の銃が一丁だけあった。これも契約のうちだ。武器がないと安心できないから、少なくとも一丁は持ってくるように言ってある。
「なんや」
「お前が真っ当な生活を送れないのなんて、目に見えてるからな。これじゃむしろ」
「黙れ」
一瞬で無理矢理起きる。針が抜けて飛ぶ。先ほどまで寝ていたにしては、体はきちんと俊敏に動いた。ローテーブルから銃を取る。流れるような動作で安全装置を外し、医者に銃口を向ける。彼は緊張感なく両手を軽く上げた。
「信用関係は壊さない方がいいぜ。まー、もう慣れてるが」
「余計なこと言う方が悪いわ」
まだ栄養が足りないのか、僅かに銃口がぶれるのが気持ち悪い。めまいがひどくなる。視界がぐるぐると回って、銃を取り落とす。間抜けな音を立てて、シーツの上に銃が横たわる。
「家探ししても金は見つからんし」
「あほ……。合鍵、他人に渡し、ておいて、そん、なところに、置くか」
「そういう気は回るんだよな」
ため息が聞こえる。こちらはもう息切れしているから何もかも放棄して眠りたかった。いまなら、またすぐに意識を飛ばすことができそうだ。
医者は銃を再びローテーブルに置いた後、点滴の針を刺し直した。夢人の頭に手をやり、ベッドに押さえつける。
「とにかく、あと一日くらいは寝てろ。そんで栄養食でも買って帰れ」
もう答える気にもならなかった。思考が低迷していく。
仕事が早く来てほしいと思った。一番何かが頭を埋め尽くしてくれるのは、人を殺しているときだ。興奮と快楽の物質が頭を満たしてくれる。あるいは、我慢ならなければもう、仕事など関係なく。
薄汚れた天井を、全てを、視界から消した。