断章:幸福論　相棒の焦った声が痛覚とあいまって、夢人の脳を揺らす。
「夢人！」
　敵、マフィアの下っ端の一人の繰り出すナイフが、相棒である貝然の死界に入ってきていた。彼は刀で同時に数人を捌くのに手一杯だった。敵を配分するのに間違えたのは、夢人の責任でもある。
　とまれ、夢人は駆け出し、そして間に合った。銃を持ったままの右腕をナイフに押し付ける。本当は銃で受けるのが万全だったが、そこまではできなかった。肉厚の刃が筋肉に食い込む。がつりと骨に当たる音がする。痛み。
「貝然、そっち頼むわ！」
　だが、今はそれどころではない。戦闘の高揚が夢人の頭を覆っている。ナイフの自由を自分の筋肉で奪ったまま、もう片方の銃の引き金を引く。至近距離で撃った弾は、うまく敵の肩を撃ち抜いた。両利きでない限り、おそらくこれでほとんど無力化できただろう。
　これで一人は終わり。こちらは二人なのに対し、敵は五人。それも、こちらは殺さないという縛りがある。特に貝然の武器は日本刀であるため、ある程度距離を縮める必要がある。その事実に夢人はいつもひやひやさせられる。彼の腕が確かなのは解っているし、それを伝えたところで何も変わらないのも知ってはいる。それでも。
　視界の隅で、刀が閃いた。マフィアの事務所の中、LEDの光を反射した。貝然もまた、致命傷にならない傷を負わせている。
　最終的には殺す。彼らは全員、二人の殺害対象だ。だが、絶命する前にどうしてもやらなければいけないことがあった。遺書を書かせる。そうしてから、殺す。
　貝然と夢人は、『遺書屋』と呼ばれる特殊な殺し屋だった。

　戦いが終わった。
　貝然が応急手当を夢人にまずしようとするのを制した。二人ほど、結構な深い傷を負わせてしまった。そちらの方こそ早くことを済ませてしまわなければ、死んでしまうかもしれない。眉根を寄せる相棒に、夢人はうっすら笑った。
　遺書がまず二つ、書かれている。きっと『しょうもない』ものだろうが、少なくとも貝然にとってはそうでないのだろうし、夢人も書くこと自体には意義があると解っている。傷口の上を傷のない方の手で圧迫する。完全な止血は難しそうだが、やらないよりはマシだ。動けなくなっては困る。何しろ、あの敵たちが遺書を書いた後、殺すのは夢人の役割なのだから。
　貝然の後ろ姿が見える。背筋が伸び、綺麗な立ち姿をしているのを見て、安堵する。少なくとも彼は深い傷は負っていない。自分が守ることができたから。
　自分が傷を負うことで、大事な人を守ることができたから。
　その思考にたどり着いたとき、脳が突然揺れるのを感じた。味覚ではないのに、鈍い甘さをじわじわ感じる。それは次々に増殖し、脳裡をいっぱいに満たしていく。
　嬉しい。
　それに限りなく近い感情だった。名前を思い出そうとする間も、いっぱいに広がりきった甘さが、今度は糖度を増していくのが解った。守れた。痛み。痛み。守れた。二つの事項は強く繋がっている。熱さに似た痺れるような痛みは、温かさに似た柔らかな甘さに置き換えられていく。
　ようやく、思い当たった。これは、幸福だ。
　夢人は嘆息した。久しぶりの感覚だった。それも、あまり思い出したくはない頃の。かつていた『教団』で刷り込まれたことだ。信仰のための苦痛は、喜びである。まだ、体が、脳が、しっかりと覚えていた。
「しょうもな……いや」
　掠れた声が出る。少し離れてはいるものの、貝然に聞かせたくはなかった。
　最悪や。
　遺書を書き終わらせたらしい。焦った顔をして、相棒がやってくる。きっと、それは殺しを促しに来たわけではないだろう。夢人を心配してやってきている。優しい男だ。その彼は、本当に大事に思っている。たった一人の友人。大事なひと。彼を守ることができた喜び。
　だが、まずは自分の役割を果たすべく、重い上半身を起こした。甘い感覚に包まれていたままだったから、それは全然嫌ではなかった。そのことが本当に嫌だった。
　相棒に自分の気持ちを悟られたくないと心底考えながら、伸ばされた手を取った。