カプリッツォの日 いらいらしている。というのは高嶺流々にとってはほとんど常のことだった。
太陽の光を眩しく感じながら、大股で進む。大学の研究室に籠っていると時間感覚を忘れるが、いかんせん今から向かうところは、夜には閉まってしまう。ギャラリー、というよりは、とある美術大学の卒制展示会だ。どうせ大したことはないだろうと思いながらも、新しい芸術があると見ずにはいられない。何しろ見てみなければ評価のしようもないので。
人通りの多い道。喧騒が非常にうるさい。聴覚が敏感な流々にとっては、日光よりよほど害だった。つけたヘッドホンを更に手で押さえていると、誰かにぶつかった。相手は恰幅の良い男性だ。体格が良いとは決して言えない流々は突き飛ばされるかのようにたたらを踏み、男を睨みつけた。だが、彼は反応のひとつもなく立ち去っていく。激情が膨らむ。
アンガーマネジメントという言葉が思い浮かぶ。施設にいた時、何度か受けられた講習だ。怒りの制御の方法。だが六秒じっと待つことなど流々にはできないし、怒りの記録をつけるのも毎回煩わしくなってしまう。だいたい、無理やり押さえつけたところで自分が壊れてしまうような感覚に襲われるだけだ。
とはいえ、一応はこの場で暴れるのはやめた方がいいだろう。歩きながらスマートフォンを取り出す。道の端に寄って、ミュージックアプリを開く。皆が使うようなサブスクリプションのものではない。インターネットの海から拾ってきた音源だ。
音楽がヘッドフォンから流し込まれてくる。完璧に美しい声がして、流々はほうと息をついた。メロディの音取りも、リズムの刻み方も、全てに瑕疵がなく、綺麗なグラフを描いている。パーフェクト。
ということを前に施設の職員に熱弁した時、彼らは戸惑い、喜んだ。何しろ、それまで流々はあらゆる芸術に対して積極的に触れてきたが、それらに怒らないことはなかったので。あの凡人たちは流々の説明を理解などできなかったであろうが、ともかく、その音楽をスマートフォンに入れて、いつでも聞けるようにすることを勧めてきた。流々にとっても、彼らの大抵が役立たずなアドバイスの中でもっとも有用だった。
人が増えてきて、音量を上げる。もう四、五年前に活動を休止したらしく、新曲はないらしい。だが、流々はいつまでも同じ曲を反芻した。美しいグラフ。完璧な複素数のような。虚数が混じる音は俗世を忘れられる……。
一曲を聴き終わり、次の曲を流しながら流々は再び歩き出した。展示会会場はもうすぐだった。
ほとんど予想していたが、結果は散々だった。建築デザインの展示会だったが、どの模型も、見るに耐えない。どんな数式に当てはめても美しい解は出てこないし、グラフはぐちゃぐちゃだ。さすがに作品を壊したりはしないが、我慢はならなかった。スタッフの腕章をつけている人間を探す。果たして、すぐに見つかった。顔に濃い疲労を浮かべながら、だるそうに会場内を見渡している。すぐ近くに階段があるような会場の隅にいることも気に食わない。
流々はほぼ反射的に、その男の前に立ち塞がった。彼は、ぱちぱちと瞬きをして流々を見下ろした。
「えぇと、どうしましたか?」
「どうしましたかじゃない!」
開口一番、体に見合わぬ大声を流々は発した。会場内に響き、何やら視線がいくつか飛んできたような気がしなくはないが、どうでもよい。
「あの駄作群を見て何も思わないのか? 馬鹿げている。最悪だ。よくもあんなものを卒業制作として出せるものだな!」
「え、あ」
彼は困惑しているようだ。きょろきょろと視線を辺りにさまよわせている。
流々の言葉の奔流は続く。
「所詮は学生のものだが、だからといってあれほどのクオリティを許せるとは脳を疑う。自分の作品を省みる能力もないということか。ブラッシュアップする能力もないのか。それとも未解決問題に挑んだ努力賞とでもいったところか」
「あの、すんません、他の人の迷惑になるんで」
スタッフが両手を掲げる。ばたばたと足音がして、周囲を他の人間たちに取り囲まれる。いつものパターンだ。こうやって会場を追い出される。だがそんなことは知らない。つまらないものをやれ芸術だと言って出されることが世の中でもっとも我慢がならない。世の中は全く醜い芸術で溢れている。
「ベルンシュタインの定理すら無視している! だからといって、反証したものでもない。ここの教授は基礎すらまともに教えられないのか!」
腕を掴まれる。思い切り払う。まだまだ言い足りない。怒りが全てを支配していく。流々はただ美しい芸術を見たいだけなのに、結局はいつもこうだ。それでも、希求を止めることはできない。ギャラリーや美術館・博物館を見ては追い出され、出入りを禁じられる。後ろから煩わしい声が聞こえる。なあこいつあれだよ。鬼クレーマーの。何それ? 能天気な声たち。全く、うるさい!
どさり。
と、奥から鈍い音が聞こえた。階段のある方だった。
男たちの動きが止まり、視線が音の方へ動いた。流々も一瞬だけはそちらに気が向いた。人間の塊が転がっている。つまり、丸くなって床に倒れ伏している。もぞもぞとそれは動き、まともな人間の形になった。つまり、起き上がった。ひどく不機嫌そうな顔でこちらを見る。
「あ、砥ベ口。起きたのか」
最初に流々が突っかかった男が、流々から視線を逸らす。起き上がった方の男に話しかけた。砥ベ口と呼ばれた男は、ゆるゆる立ち上がる。よれた服を着ている。普段からそうなのか、様子を見るだに長い間作業をしてそうなってしまったのかは解らないが。後者は流々にもよくあることなので、理解はする。
砥ベ口はそのまま、据わった目で流々を睨んだ。
「……だめだだめだ。ふざけんなよ。こっちは何徹しとったと」
囁くような、深酒をした翌日のような声だった。流々はまだ二十歳に届かないので酒を飲んだことはないが、いずれにしても飲むことはないだろう。それはさておき。
それはさておき。
流々は目を見開いた。その声に、聞き覚えがあった。かすれていようが、ヘルツが高かろうが、その声音の数字の羅列はごまかせない。音の波のグラフが見えるよう。
彼は、先ほど流々が聞いていた歌声の持ち主だ。
体が勝手に動く。最初に突っかかった男を突き飛ばし、ずかずかと砥ベ口の方に歩み寄った。そして、怒りとは異なる激情のまま、胸ぐらを掴んで引っ張る。
「お前、ここの人間か?」
「は? 見りゃ解んだろ。脳が沸いてんのか」
「なぜこんなところにいる?」
砥ベ口の頬が僅か、ぴくりと上がった。
「何言ってん」
「なぜ歌っていないのかと聞いてるんだ! 僕はずっと待っているんだぞ」
「……ハ」
いよいよ砥ベ口の顔が歪むのを見た。それは嫌悪にも見えたが、あいにく流々には人の表情を見分けるのは大層苦手だった。