リーマンパロの巽マヨSS それは、一目惚れだった。開け放った窓から舞い込んだ一陣の風で舞う花びらを見ている時のように――風早巽は目が離せなかった。
「風早先輩、今日からデザインコンペの会議に出るんすよね。そんだけしか食べなかったら会議中にお腹減りません?」
話しかけてきた同じ部署の後輩の漣ジュンの手には、てんこ盛りの親子丼のトレイが運ばれている途中だった。自分といえば、次の会議のためにと数日前に渡された膨大な資料をコンビニのサンドイッチ片手に社内のカフェテリアで読みふけっているのだから、彼の昼飯に比べると随分と粗食に見えてしまうのだろう。
「大丈夫ですよ、終わったら食べますから」
高い天井の吹き抜けのガラス張りのカフェテリアにはあたたかな春の日差しが差し込んでいる。ともすれば美術館や大学のキャンパスのカフェのような空間だが、ここはれっきとした社員用の食堂エリアだった。傍に社員価格で買える食堂が併設されていて温かいご飯も食べれるが、巽は昼飯の事よりも目の前の資料に忙しい。仕事の合間に読んでおくようにと言われたが、昨日は飛び込みの新規案件があって、急遽懇意にしているディーラーの元に飛んで行って打ち合わせをしなければいけなかった。
大学院の工学部を卒業して3年、就活当時に某自動車メーカーの営業職を選んだのはたまたま通っていたゼミの教授の紹介だった。車メーカーという国内でも安定しているであろう業界であることと、自身が車好きであるということが、この会社への就職の決め手だった。
自分に営業が向いているとは思ってもいなかったが、案外この会社の営業というのはさほど個人で成績を争うものでもないらしく、心配していたような体育会系のような職場でもなかったために、巽のようにどちらかといえば物静かなタイプでも知識と愛嬌で案外乗り切れている。
というのも、この春先に業績を認められ、晴れて主幹という役職を手に入れたからだった。同期の中では巽が一番だった。それでもたまたま大きい新規案件を自分が運よく貰えただけで、自分の功績だとは思ってはいない。それよりも何よりも、主幹以上になると参加が認められる社内の新車のデザインコンペの会議に初めて臨むのだ。まだまだ学ぶ事だらけの自分には、とてもじゃないがジュンのようにがっつりと昼飯を食べている時間はない、というのがもっぱらの本音である。
「今時こんなに紙の会議資料たくさん読まなきゃなんねえのって何なんですかね、部署内だとペーパーレスばっかなのに」
「まあまあ、確かに地球には優しくはないですが。この量だと今の俺には紙の方が読みやすくてありがたいんですよ」
暗に年かさの世代を揶揄った発言を諫めつつ、最後のページまで何とかたどり着く。材料の輸入価格の推移グラフまで見届けて、巽は書類をとじた。
「では、行ってきます」
「えっ早くないですか? あと30分有りますよ」
「遅刻するわけにはいきませんから」
30分前は確かに早すぎるが、この時間は概ねの社員が昼休みを過ごしているので、早めに会議室に入っても怒られる事はないだろう。とにかく広いビルの中で移動でもたついて遅れるなんて事があってはならない。口を膨らませながらがっついているジュンに別れを告げて、巽はカフェテリアを後にした。
予約されていた会議室をノックして開けると、すでに先客がいた。長い髪の人だった。広い会議室の隅っこの窓際にぽつりと立っているので、一瞬気が付かなかった。女性にしては随分と身長がある。窓の傍でブラインドの隙間を指で弄んでいたその人は、巽のノックで気が付いたのだろう、振り返ると驚いたような表情を見せる。髪の毛を三つ編みで束ねて肩から首元にゆるりと流しているその髪型は、何となく奥ゆかしさを感じた。こぼれんばかりに開かれた瞳が瞬きをすると、綺麗な翠色の瞳が日差しを受けて煌めいたのと同時に、その煌めきが巽の感情を大きく揺さぶった。
「ああ、すみません。もしかしてこちらで昼食を? ここは昼から会議がありますが」
「ヒィ……そ、そうじゃないんですぅ……そ、そのお昼からの会議のために私もここにいまして……」
いくつかある営業の部署内では見ない顔だった。そして開かれた口から零れ落ちた声は存外低い。
「もしかするとデザインチームの方ですか?」
巽は足早にその人の元に駆け寄った。もっと近くでこの煌めきを見て見たいと思ったのだ。体が熱い。心臓がどきどきしている。どうしてだかその人は巽が近寄ろうとするとさらに窓際の方へ逃げるように下がってしまった。
「は、はい……デザインチームで仕事している礼瀬です」
「俺は営業二課の風早です。あの、あなたのような方がデザインチームの方におられただなんて……」
出会って数秒でこんな歯の浮くようなセリフを言うのは生まれて初めてだった。在学中には恋人もいた事はあるが、地方の大学から都内で就職してしまったがために、距離が理由でその女性とはそこで関係が切れてしまった。合コンの数合わせに呼ばれる事もあるが、同世代でそういう場所に集まる女性の中で自分が好むような人とも出会えずに、適当に飲み食いをして一人で帰る事ばかりだった自分には、都会の女性は向いていないのかもしれないなどとため息をついていたところである。風早巽はこれが恋だという明確な自覚が、今このわずかな間であっという間に芽生えた。恋と分かればとにかく連絡先を知りたい。巽は慌ててポケットの中から名刺ケースを取り出して、その中の一枚をその人に差し出した。
「ああっ名刺……私はその、外に出ないのでそういうのは持ち合わせていないのですが」
「そうでしたか。では、貰うだけ貰ってくれませんか? これも何かのご縁ですし」
慌てて首を横に振るその人の手を取って、名刺を握らせる。自分でも強引だという自覚があったが、どうしてもこの機会を逃したくないという焦りがあった。握った手は随分と骨ばっている。
そこでようやく、巽はおや、と違和感を覚えた。目の前のその人はおろおろと目線を下に泳がせて、巽の方をまともには見ていない。それをいいことにじっくりと頭からつま先までを眺める。
(この人は……男性か……)
心がしおしおとしぼんでいくのを巽は感じた。平な胸板に、くびれのないまっすぐな腰。肩幅は男性にしては細身なので判断は難しいが、この肉のなさは女性と言う方が難しい。
「あ、あの……では、いただいておきますぅ……」
ぼんやりとした思考のまま手を握っていると、手を振り払われてしまう。春雷のような恋はその光が一瞬であるのをなぞらえるように、瞬く間に巽の中で恋が散ってしまった。
その先に自分とその彼がどんな会話をしていたのか、巽は思い出せない。衝撃で砕け散った心をどうにか取り繕いながら、会議の開始時刻まで何となく世間話をしていたはずだった。ああ、そういえば下の名前をマヨイという名前だと教えてもらった。名前を聞いても性別の分かりにくい名前故に、まだ彼が男だというのは信じがたい。デザインチームの先輩だという別の男性が来てからはマヨイは渡りに船といった具合で巽の傍から離れてしまった。
今日初めて出会った自分と比べればその先輩の方が心安いのは当然だが、巽としては面白くない。
(面白くない? 嫉妬でしょうか)
会議はオンライン中継で各拠点とも繋がっているが、あちこちの拠点の声が飛んでくるのを右から左に聞き流してしまう。巽は新米なので、この場での発言権がないのは幸いだった。デザインチームらしきメンバーが室内の壁のスクリーン画面の傍に固まっているのをいいことに、巽はマヨイを盗み見る。自分の座席からは横顔しか見えない。睫毛にかかる長い前髪が、彼の顔に憂うような影を落としていた。
彼は隣の男性と何か小声でやり取りをしている。距離が近い。先ほどの自分にはあの距離では話をしてもらえなかったというのに。
男だ、彼は男だ。理性はそう巽を諭してくるが、感情が首を横に振っている。同性を恋愛の目で好ましいと思う事は今までなかった。この感情をどう整理すればいいのか、今の巽には分からなかった。整った目鼻立ちは控えめに言っても相当に麗しい。女性であればこんな迷いはしなかった。そもそも彼に恋人がいるかどうかすら自分は確認していないというのに。
会議の議題はデザインコンペへと流れていく。マヨイが資料を差し出しながら、傍にいる男性が発表を行う。そこでようやく、思考のスイッチが仕事へと切り替わった。
新しい車のデザインを見るのは楽しい。この場で紹介されたものの大多数は日の目を見ないが、デザイン画の一つ一つに設計者のこだわりが見てとれる。これは、と思うものに参加者が投票していく。スクリーンに映し出されるデザイン画のすみに、礼瀬という名前があるものがあった。ああ、彼はもうデザインを手掛けるような人なのか。彼のデザインをじっくり見てみたいのに画面は説明と共に足早に切り替わっていく。内部構造、概ねのコンセプト、コストパフォーマンス。彼の理想が詰まっているであろうその画面を、巽は夢中で眺めていた。
「お疲れ様でした」
会議が終わる頃には午後の仕事もそろそろ定時という時分だった。巽はそそくさと席を立つと、エレベーターを待っているマヨイの傍に行く。恋は砕け散ったはずだが、未練がましく話していたかった。6基あるエレベーターは、油断しているとすぐに彼を別のフロアへ連れて行ってしまう事は明白だった。
「ああ、風早さん」
「巽でいいです」
「じゃ、じゃあ巽、さん……」
柔らかなテノールは巽よりもやや低いが、心地よい響きがある。
「マヨイさんのデザイン、素敵でしたよ。俺はああいう少しスポーツカーっぽいデザインが結構好きでして」
ちょうど開いたエレベーターへ揃って乗り込んで、フロアを確認する。自分は4階を押してから彼にフロアを確認すると、彼は8階だという。なるほどデザインチームはそこに部署があるらしい。
「そんな、まだまだです。今のうちの会社ではこういうデザインは好まれないなとも思ってましたし……でも……」
マヨイのコンペは結局その場では落選してしまったが、巽はいいデザインだと本当に思ったのだ。お世辞ではなく、本音だった。巽を見上げるマヨイの目が瞬く。
「……その、お世辞でも嬉しいです」
「っ…」
少し照れたように目を伏せる彼が男であるという事を、巽は心の中で念仏のように唱える羽目になった。あまりにも動作が愛らしい。愛らしいという言葉以外で表現が出来ない。
失礼ですが、マヨイさんはもしかして女性なんじゃないでしょうか、などと不審な事を口にしそうになる程度には、動揺している。
「マヨイさん、今日の夜は何か予定はありますか?」
断りにくいずるい聞き方だ、と内心で巽は自分を責めた。
「え……」
「良かったら一緒にご飯に行きませんか?」
この際恋愛がどうなどという邪な気持ちはない。いや、ないという事にしたかった。純粋な興味で彼と仲良くなりたいと思ったのだ、と必死で言い訳をするのが内心むなしかった。ああ、神よ。俺はもしかして道を踏み外そうとしているのでしょうか。咄嗟に実家の宗教にすがるが、マヨイが控え目にこくりと頷いた事で、巽は一瞬で罪の意識を思考の外へ追いやった。
定時になった瞬間にタイムカードを打刻した巽は、会議の感想を聞きたがる隣のジュンをなだめつつ、交換したばかりの連絡先にロビーでお待ちしています、と書き込んだ。議事録をまとめる仕事はこの際後回しだ。明日残業すればいい。存外早く既読のついたメッセージの下にぽこんと音を立てて『了解です、もう少しで終わりますので。』という事務的な返事がある。
「風早先輩、まさか彼女さんすか?」
「えっ」
「スマホ見てすげー嬉しそうにしてますし」
「ああ、そういうんじゃないんですよ。今日の会議で知り合った方と会食に向かうので、今のはその連絡ですな」
ジュンが納得いかないという顔で首を傾げているが、別に嘘はついていない。その会食に自分の下心が詰まっているということは伏せてはいるが。お先にとフロアを後にしてそそくさと出口に向かう。
1階には訪問客を待たせるための机とソファが並ぶロビーがある。受付嬢がすでにいないこの時間は、帰宅のために足早に外に出ていく社員ばかりでソファはがら空きだった。分かりやすいようにとエレベーターの近くのソファに座っていると、しばらくしてから目的の人物がエレベーターから降りてきた。昼間見た時はネクタイのないシャツとパンツスタイルで中性的に見えたが、薄手のグレージャケットを羽織っているマヨイはしっかり男のシルエットをしている。立ち上がって手を振ると、彼はぺこりと頭を下げた。
「あの……お待たせしました」
「いえいえ大丈夫です。さて、苦手な食べ物とかないですか?」
「は、はい……」
「では、俺の知っている店に案内しますね」
こくりと頷くマヨイはきょろきょろと落ち着きなく左右を見ている。
「どうしましたか?」
「はあ……あの……すごく人の視線が突き刺さるというか……巽さんは気にはならないのですか?」
不安げな色をしのばせた瞳がこちらを見上げてくるので心臓が大きく跳ねた。
「そ、そうですか?」
平常心という文字を脳内で反芻しながら、返事をする。実際に人に声をかけられる事も普段から多いし、社内なのだから知り合いがいるのかもしれない。人の目線など社内で気になった事はなかった。とはいえ、マヨイが居心地悪そうにしているロビーに長居する理由もない。とっととロビーを出ようとマヨイの手を握ると、マヨイが喉の奥でヒィ、とか細い悲鳴を上げた。
向かった先は、よく世話になるビストロだった。メニューはこじゃれていて美味しいが値段は手ごろだし、お酒の種類も多い。繁華街から少し入った場所にある割にはとにかくいつも賑わっているが、安い酒を飲むような居酒屋よりはよほど落ち着いていて、定期的にジュンと訪れる店の一つだった。案内されたカウンターの頭の上には吊り下げ式のワイングラスホルダーにグラスが並んでいて、店内のぼんやりとしたオレンジ色のあかりを乱反射してきらきらと輝いている。
「お酒は飲めますか?」
「少しだけなら……」
ここのビストロの看板メニューが魚介なので、白のスパークリングを一本入れてもらうと同時にいくつかメニューを注文する。マヨイは何でもいいのでとこちらに任せきりだが、誘ったのは巽だし、この店の美味しいメニューを知っているのも自分なのでむしろここは自分が采配してしまって良いのだろう、とめぼしをつけて全て決めていく。
「マヨイさんはあまり外でご飯はなさらないのですか?」
手元に早速届けられた鯛のカルパッチョとブラックオリーブのアンチョビ和えを目の前に乾杯する。選んだ果実味の強いワインはカルパッチョと相性が良い。
「そうですねぇ……むしろ私なんかを誘って下さる稀有な方があまりいませんし自炊ばかりです」
マヨイはどうやら一人暮らしをしているらしい。場所も相当会社から近いようで、それなりに近くに住んでいるつもりの自分よりも近所のようだった。あとはお互いに同じ会社の中で別の仕事をしている者同士、ひとしきり会社の話題で盛り上がる。最初はずっとおどおどしていたマヨイも、しばらくすると少しずつ笑うようになってくれた。そうなると案外しっかりと自分の事は話をしてくれる。車の外装のデザインや内部構造の話は営業の自分よりも断然彼の方が詳しくて、話に夢中になった。
「営業二課の風早さんって実は有名人なんですよ、巽さんはご存じでしたか?」
そんな事を言われたのは二人でワインを一本空けて、それなりに腹も満たされた頃合いだった。
「言われた事はないですが……」
首を傾げると、マヨイはふわりと笑った。
「先ほども気にならないようなそぶりでしたけど……あなたはすごく目立つ容姿をなさっているので。デザインチームの事務の子も以前からあなたの噂をしていたんです」
関わりのない部署で自分の名前が出ていたなんて初耳だった。
「そうでしたか。あまり言われる事はないんですが、一体どのような噂を?」
もしかするとマヨイも以前から自分を知っていたのだろうか。マヨイは少し言葉を区切って考えるように人差し指を顎に当てた。
「ええと……どうすれば連絡先を貰えるのかなとか」
「社内の連絡先なんて社内情報を確認すれば開示されてますが、そういう意味ではないんですか?」
「勿論、プライベートの連絡先です。だから今日あなたの目の前に自分がいるのが何だか不思議な気持ちで……どうして私をお誘いになられたんですか?」
自部署の女性が既婚者ばかりなので、そういえば社内で若い女性との接点というのは巽にはなかった。たまに連れていかれる合コンでようやく知り合う程度だ。
「それは……」
言ってはいけないという気持ちと、言ってしまった方がスムーズでいいという葛藤が一瞬あった。気が合いそうだと思ったので。同世代の友人が増えて嬉しいので。建前なんていくらでも作り出せる。しかしこの目の前の人を知れば知るほど、早く手に入れたいという焦燥が心に生まれていた。
「あなたの事を最初は女性だと思ってしまって……正直、すごく俺の好みでしたので」
言ってしまった。数年人の肌に触れあわない寂しい生活をしてきたせいもあるし、少々飲み過ぎた酒の勢いもあった。マヨイは目をぱちくりさせている。
「ああ、えっとその。今は……男性だと理解していますから」
言ってしまってから無性に恥ずかしくなって、巽は慌てて弁明した。何を言っているんだ自分は。マヨイは何度か何かを言いかけては口ごもると巽から顔を背けてしまう。少しの間静寂が流れた。
「巽さん……もしかして私に興味がおありなんですか?」
「え」
カウンターで並んだ座席ではこちらに顔を向けないマヨイの表情も感情も、その言葉からは読み取れない。
「お、男と分かっても、興味がおありなんですか?」
「っ…!」
スラックスのパンツの上に音もなくマヨイの指が降りたかと思うと、するりと腿をなぞられて、肌がざわつく。ようやくマヨイがそこでこちらを振り返った。彼もそれなりに酒を飲んでいたはずだ。赤らんでいる顔は、それでも目にはしっかりとした意思がある。照明の暗い店の中で、翡翠の色が昼間に見た時よりも煌々と輝いていた。
巽は何かを考える前に、喉元に突きつけられたあからさまな欲の感情にごくりと喉をならす。それが合図だった。
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起きると、喉がからからだった。緩慢な仕草で腕を伸ばしてスマホを確認するとまだ出社までは時間がある。室内にいつもと違う角度から朝日が差し込んでいて、違和感があった。よく見ると時計を確認したスマホも自分のではない。そこまで考えて、巽はここが自分の家ではなかった事を瞬時に理解する。
「あ……」
慌てて立ち上がるが、上半身は何も着ていない自分に唖然とする。布団をめくると、かろうじて下着は身に着けているがパジャマのズボンすらはいていない。そこまで考えてようやく昨晩の事が頭に蘇ってくる。昨日は、そうだ。マヨイさんの家に行って。それで。……それで?
「おはようございます。巽さん」
ガチャリ、と扉が開く音がした。音の方へ振り返ると、髪を後ろに流したままのマヨイがぺこりと頭を下げる。その動作は昨日の夕方にも見たが、見えている周りのものも自分と彼の状況も全く変わっていた。シャツと黒のストレートパンツを穿いている姿はもうすっかり仕事に行く彼のスタイルのように見える。一方でこちらはほぼ裸だ。
「あの……替えのシャツです。私のだと合わなさそうでしたので、買ってきました」
白いビニール袋を渡されて中身を確認すると買ったばかりであろう、未開封のシャツや靴下や下着が入っていた。
「あ、ありがとうございます。あの……昨日は、俺はあなたにその、一体……」
一体何を。昨日の記憶がおぼろげだったが、状況があからさますぎる。マヨイは巽の言葉に頬を赤らめた。
「あの、す、すごかったですぅ……巽さんがあんなになるとは知らなくて……」
まさか、まさか。マヨイの言葉に必死で記憶の糸を辿るが、どうしても玄関にたどり着いた後の記憶が手繰り寄せられない。
「ああっすみません……お着替えとかしたいですよね。ゆっくりなさって下さい、ここからは10分前に出れば会社に間に合いますから。私は朝コーヒーを飲んでから出社するので、少し早めに出ます」
「あ、はい……」
肝心の自分がしでかしたことを確認する前に、マヨイは慌ただしく外へ出ていってしまった。サイドテーブルに置かれたビニール袋に朝の支度に必要なものが過不足なく詰まっている。彼は準備がいい上に、それなりに酒にも強いらしい。昨日二人で飲んだ時は同じくらいの量を飲んでいたように思う。
一方、自分はといえば体が重たいのが、昨日は飲み過ぎた証左だった。ただし頭は随分と冴えている。それもそうだった。先ほどの意味深な彼の態度、この状況。自分は何かとんでもないことをやらかしたに違いなかった。
「ああ……俺はどうすればいいんでしょうか」
彼の様子を見るに、何か嫌がるようなことはしていない、と信じたい。信じたいが記憶がない。そしてあまりにも意味深過ぎる態度だ。そう、まるで例えば、勢いで一線を越えてしまったようなそんな。巽は頭を抱えてため息をつく。
正直性別の事を考えなければ、マヨイの容姿も控え目な言動をしつつも博識なところも、巽の好みだった。しかし同性と恋愛をしたことがないので、勝手がわからないのだ。例えば自分には組み敷かれるような趣味はないが、彼とてそれは同じかもしれない、となるとそこも話し合いが必要だった。そもそも将来結婚したいと思っても今のこの国の法律ではそれがかなわない。色んなことへのハードルが巽の気持ちを鈍らせている。
それでも、先ほどの彼の様子を見るに自分は何らかの責任を取るべきだし、彼を選ぶことに対しては自分自身は後悔しないのだろうという何となくの回答が心にすでにある。
さて思考に沈んでいても支度はすすまない。気持ちを切り替えて周りを見渡すと、アンティーク調のクラシカルなサイドテーブルに添えてある椅子に、自分のスラックスが丁寧に畳まれていた。昨日と同じスラックスでも問題はないだろう。ちょうどクールビズ期間が始まったばかりの時期で良かった、と巽は着替えながらため息をつく。
下着はありがたく買ってきたものを借りる事にした。ネクタイをせずに出社しても咎められない期間なのは助かった。二日も同じネクタイをつけて出社するのは何かだらしなさを露呈するようで抵抗があるからだ。
冷静になってくると、部屋の中の様子が気になった。濃い紫のカーテンに、黒いベッドカバー。床に敷かれたラグも黒だ。彼は随分と濃い色味が好きなようだ。ベッドカバーもカーテンも光に当たると浮かんでくる刺繍が美しい。彼がこだわって家具を選んでいるのが良く分かった。自分の家はといえば、無地のカーテンに生成りのベッドカバー。床はめんどくさがってフローリングのままだ。
部屋は1DKの間取りで、寝室を出るとダイニングキッチンがあって、すぐ傍の扉を開けると玄関がある。マヨイが単身で住んでいるのは明白だった。巽が昨日着ていたワイシャツとインナーシャツがわざわざ洗濯されて室内に干されている。まだしっかりと濡れているので、これは後日にでも取りに来る必要があった。
部屋の鍵は玄関の靴箱の上に置いてあり、可愛いクマがついたアクセが添えられている。これを使って戸締りしてくれという事なのだろう。今日中に彼に返しにいかないといけない。とりあえずは休憩時間にでも一度デザインチームのフロアに顔を見せるべきだろう。支度を終えると巽は玄関に置かれていた自分のカバンを手に取り、部屋を後にした。
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「それでマヨさんさあ、昨日はどうだったの?」
白鳥藍良は年上の後輩に、朝から気になっていた言葉をかけた。同じデザインチーム内でマヨイより先に入社していたのが藍良である。
マヨイはと言えば、学生の頃に引きこもり過ぎて何年か留年したとかで、藍良より年上だが、実際は自分の可愛い後輩……なのだが、当のマヨイはマヨイ自身より藍良の事を可愛いといってはばからない。たまに、おれ一応先輩なんだけどぉ?! などとツッコミを入れつつもチーム内では年が近いこともあって仲が良かった。その仲のいい後輩から昨日とんでもない事が起きたという話を聞いたばかりだ。
ランチは藍良はカップ麺の焼きそば、マヨイはおにぎり二つ。二人して新しいコンペの打ち合わせがてら、今日の昼食はお互いに自分の机で、となっている。
「ああ、それが……す、すごかったんです……」
マヨイは頬を赤らめる。なになに⁈ ほんとにマヨさんに春が来たんだ⁈ と、併設されている給湯室でカップにお湯を注ぎながら藍良が煽ると、マヨイはぐふぐふ、と鼻を鳴らして笑った。そういう挙動は勿体ない、と思っていたので藍良はよくマヨイに注意をしていた。彼はちゃんと見ればすらりとした体型の美人の部類に入る男なのだ。言動さえ怪しくなかったらモテるだろうに、と常日頃藍良は思っている。
でも本当に春が来たのなら、もうその注意すらいらなくなる。なんせこの彼の言動があっても彼を好きだと思ってくれる人が出来たのだから。
マヨイ曰く、恋人いない歴=年齢らしいが、そもそもマヨイが同性愛者であるという事を藍良は教えてもらって、知っていた。だからなのだ。たまに女性に声をかけられても、怯えるような挙動しか見せず、その割に藍良の事にはやたら触れたがる。このデザインチームに出入りしている制作プロダクションの仙石忍の事を、影で忍きゅんと呼んで愛でているのも藍良は知っていた。今のところ何かマヨイに嫌な事をされたわけでもないので、特に好きにはさせているが、時々自分の貞操が心配になる瞬間がある。
美人なのに、性的指向が特殊な上に、言動が残念すぎて恋人が出来ない男。藍良の中でのマヨイの印象はそれである。しかし昨日急に、デートに誘われてしまいましたあああ、どうしましょう! などと慌てふためいてフロアに帰ってきたので驚いた。しかも相手は『あの』風早巽だ。嘘でしょ~⁈ なんて盛り上がっていたのだ。
風早巽と言えば、営業二課の新人の中でも抜群の営業成績をあげて、いち早く昇進した期待のホープだ。会社からの評判も高ければ、人当たりの良さで男女問わず、人気もすこぶる良い。本人に浮いた噂が一つもないので、色んな部署の女性が彼とどう接触するかを虎視眈々と狙っている……などというのはデザインチームの女性から聞いた話だが。
藍良も実は一度カフェテリアで同席した事がある。空きテーブルがなくてうろうろと探していると、相席で良ければどうぞ、と声をかけてくれたのが巽だった。その事を彼が覚えているかどうかは定かではないが、とにかく見ず知らずの相手にもそうやって親切にしてくれるような人なのだ。
モテるには違いないだろうどころか、熾烈な恋人の座争いが水面下で行われているような、その相手から直々に誘われたのだというから、青天の霹靂だ。
「ご飯に行ってきただけじゃないの?」
「ああいえ、ご飯に行ってきただけではあるんですけどぉ……その後私の家で巽さんが泊まる事になって」
「えっ早すぎ!!」
カップ麺のお湯を抜いてる最中に動揺させられ、藍良は慌ててカップ麺のふちを掴み直した。ここでシンクにぶちまけてしまっては今日の昼飯がなくなってしまう。
「泊まるって、まさかアレ……」
一瞬でよぎるすけべな妄想をマヨイで想像しかけて藍良は慌てて首を振った。いやいや想像してどうすんの、おれ?
「色々あったんですけど、最終的には宗教勧誘を受けました」
「えっ! やばすぎ……!?!?!?」
予想だにしない展開に今度こそシンクに焼きそばをぶちまけるところだった。危ない。驚きのあまり、ツッコミを被せてしまった。宗教勧誘を受けて頬を染める男がどこにいるんだろう、いやここにいるけど。
「あの風早先輩って……なんかそういうやばい人なの……?」
ソースの粉を振りかけてざくざくと麺を混ぜる。そういえば大学に入りたての頃に掲示板に、サークル勧誘に見せかけた宗教勧誘には注意、なんて紙が貼ってあったんだっけ。藍良の中での宗教勧誘といえば、それくらいの知識しかない。
「宗教勧誘は最後の最後に出てきたというか。彼はご実家が教会だそうで、工学部出身みたいですけど、色々と神学も学んでいるようでしたねぇ……」
ほう、とため息をこぼすマヨイの瞳は心なしかいつもよりうるうると潤っている。
「私はその……こ、恋人は欲しいなって思ってるので……昨日は思い切って誘ってみたんです、自分から」
「へえ~~~~マヨさんが。へえ~~」
常に日陰にいてすべてにおいて引っ込み思案の彼にすれば、相当に勇気がいっただろう。
「それで家に来てくれて……ハグされて」
「ひゃ~~~……」
藍良個人としては、宗教勧誘には引いてしまったが、マヨイと巽はヤる事はヤった、という事なんだろうか。
「そこからはもっとその、私に自信を持つべきですという話ですとか、あの、私の容姿をやたら褒めちぎってくださったり……烏滸がましい言葉ばかりいただいてしまって」
「マヨさんの見た目はいいってのはおれも日頃から思ってるよぉ」
便乗で褒めてもマヨイは首を横に振る。そう、とことん自分の評価に対しては低い男なのだ。
「そこから人生相談になっていって……色々話をしているうちに宗教の話なんかも入ってきて。宗教的思考が救いになる、という事を考えた事がなかったので、新しい知見を得れました。ああ、本当に巽さんは救世主のような……天上の人でしたねぇ……話している途中で巽さんが寝てしまったので、服がしわにならないように脱がせたりはしましたけど、昨晩はそんな感じでしたぁ……」
おにぎりをようやく一つ食べ終えて桃色のため息をつく美少女、いや美男子。
「すごかったってのは、その、会話が……ってコト?!」
なんだか流行ってる構文を使ってしまった気になるが、これは本当にたまたま出た、素直な藍良の本音だ。
「そうですそうです。人生で言われた事のないような言葉の羅列に、もう脳みそが溶けちゃいました……」
うんうんと頷くマヨイは満足げだが、現場を知らないといまいち想像がつかない。とにかく一晩泊まったけど、キスすらしていないということだけは理解出来た。何というか、カフェテリアで一度同席しただけの相手だが、その堅実さは本物だったらしいと知れて、藍良も内心でほっとする。本当に噂通り、印象通りの人らしい。
「失礼します」
軽いノックの後に、人が入ってくる。昼休みにチームメンバー以外の人が来るなんて、珍しい。振り返って、藍良は、あっと声を上げた。今まさに噂していた本人、風早巽がそこにいた。
「マヨイさん、すみません、あの」
手招きで呼ばれたマヨイが慌てて立ち上がる。フロアのブースを仕切っている壁の近くで二人で何やら話をしているのを、藍良は見守る。
美少女と美男子、という画面に、藍良は無意識にため息をついた。マヨさん、美人って言葉が本当に似合うんだよなあ。身長の高い二人が並んで立っているのはお似合いという言葉がしっくりきた。通りすがりの人が振り返るほどには、二人が揃っているのは絵になる。
巽の方も、普段よりも随分と相好を崩しているように感じる。元々人当たりはいい人だが、それ以上にマヨイ相手にだけの、何か特別に近しい距離感がすでにありそうだった。
(へえ、ほんとに春が来たんだぁ)
いくつか会話をしてから、巽は会釈をして立ち去る。戻ってきたマヨイの頬はぽかぽかとしていて温かそうだ。ちょうど春の陽気が、フロアの窓からも差し込んでいる。お腹も満たされて、いい感じに眠気も来ている。
結局二人そろって昼休みはぽかぽかの陽気に当てられ、コンペの打ち合わせが進められたのは午後の仕事時間になってからであった。
終わり