リーマンパロ巽マヨ02 礼瀬マヨイには夢がある。
死ぬまでに一度、アナルセックスなるものを体験してみたいのだ。生まれてからこの方好きになる相手は同性ばかり、自身の性的志向がマイノリティであるという事に気が付いたのは中学生の頃だ。それが世間的にあまり受け入れられていないという事実に行き当たったのはやはり中学生の頃で、初恋の相手に勇気を出して告白した時だ。
「オレもお前も男なのにおかしくね? なんていうかキモいよ、礼瀬」
思春期真っ盛りのマヨイにとって、この言葉は何よりも彼自身を深く傷つけた。今から思えばその心ない言葉を発した相手も、咄嗟の防衛反応だったのだろう。その場で泣いてしまった自分を謝りながら慰めてくれた彼はクラスの人気者で、教室の隅でひっそりとしていたマヨイを何かと目にかけてくれた人だった。結局当時はぎくしゃくとしてしまい、学校に行く勇気をなくしてしまった。
いじけていても仕方がないと何とか立ち直ったマヨイはそこからは一切の恋愛感情を心にしまい、高校、大学と過ごしてきた。恋愛はそれなりに重ねてきたけれど、全て片思いだ。自分が好きになる相手は自分をそういう目では見てはいない。悲しい事に毎度そうなのだ。片思いの失恋に慣れてしまった頃には、すっかり大人になってしまっていた。合間に何度か自分の選んでしまった茨の道に傷つきながら、少しずつ諦める事を学んでいった。それでも映画やドラマで、漫画で、男女の恋愛や同性同士の恋愛を眺めては内心でいつかは、と夢を見てきた。
社会人になってからはいよいよ気持ちに焦りが生じた。何度かそっち系の出会い系サイトなんかにも登録したものの、ビビリな性分が先行してしまい、結局勇気が出せずに誰にもリアクションを起こさずにアプリを消してしまうを繰り返している。それでも夜な夜なゲイの動画を漁りながらエネマグラの存在を知り、初めて大人の玩具を通販で手に入れた。
尻の穴の開発はしばらくは違和感しかなかったが根気よく前立腺を開発し、今ではすっかり後ろだけで達せる身体も手に入れた。あとは、そんな自分を抱いてくれる生身の相手にさえ出会えれば、マヨイの夢はかなうのだ。
今年の初詣では、思い切って奮発して紙のお金を賽銭箱に入れた。初詣で願うのは常に『恋愛成就』だ。最近のお気に入りは、会社のCMや広告を手伝ってくれる制作プロダクションのアシスタントの仙石忍という男の子。デザインチームにいるマヨイとはしばしば打ち合わせで顔を合わせる事があるが、言葉を交わしたことはまだない。
(し、忍きゅんとプライベートでご飯行ったりできますように…い、いいえっ忍きゅんとデ、デート……できますように……)
パンパンと手を打ち鳴らして、目を閉じる。今年でアラサーに足を踏み入れる年齢なのだ。いい加減恋人いない歴=年齢を卒業したい。そんなマヨイのささやかで切実な願いは、半年経ってから別の形で、思っても見ない相手と叶ってしまった。
いつも通り、マンションの郵便受けにささっている広告を抜き取って近くに設置されているごみ箱に落とす。居住階のフロアのボタンを押しつつ、マヨイはスマホの通知をチェックした。通知には、ご飯の準備をしています、というシンプルな用件の文字が並んでいる。開いたエレベーターから足早に自分の部屋に向かう。鍵を開けると果たしてそこには、マヨイ以外の人間がいた。
「おかえりなさい、マヨイさん」
にこりと爽やかに微笑む彼の眩しさにマヨイは思わず目を細める。世の中にはこんな眩しい人間がいるものなのだ。じめじめした日陰人生を歩んできた自分とは対極の存在にすら感じる。
「た、ただいま帰りましたぁ……。あの、お早かったんですね、今日は」
「ああ、せっかくの金曜日ですから。定時で帰れるように必死で仕事してきました。出来るまでにはもう少しかかりますから、先にお風呂に入ってきて下さい」
出汁の匂いがふわりと漂う1DKの狭い部屋に、エプロン姿で立つ男。名前は風早巽という。つい最近までマヨイは彼とは知り合いではなかったが、ひょんなことから知り合い、何故か知り合った次の日には恋人になりましょうと迫られ、マヨイも喉から手が出るほど同性の恋人が欲しかったので、あっさりと受け入れた。初詣に奮発したので神様がついにマヨイにご褒美をくれたのかもしれなかった。
そうして巽からの告白で恋人になってから一か月。毎週金曜日に巽がマヨイの家に泊まってゆっくりと週末を過ごす事三度。今の今まで、初日に深酒のせいで足がもつれた巽を半分不可抗力で抱きしめた以外に、二人に何の進展もない。そういえば最初の頃にマヨイを女性だと思ったなどと言っていたのを思い出しながら、マヨイは着ていたシャツを脱ぎ、脱衣所のかごに投げ入れた。
(巽さんは……どうして私と恋人になろうなどと言いだしたのでしょうか)
自分の事を男性だと理解している上での、巽からの告白だ。それでも一か月も経って何も進展がないというのは、さすがに遅すぎるのではないだろうか。という話を、昼休みに先輩兼コイバナ相談相手の藍良に持ち掛けて二人で頭を悩ましていたところだ。
それでも、とマヨイは思い直す。風呂の支度は既に整えられていて、いたれりつくせりだ。巽は何かと世話を焼くのが好きな性分らしく、最初は遠慮していたマヨイもさすがに慣れてきたので彼に甘えようと決めた。彼が泊まると暗黙の了解になっている金曜日の夜は、こうやって夕飯や風呂の支度をして待っていてくれる。毎週金曜日にデザインチームの進捗レポートをまとめる仕事があって遅くなるマヨイには、家で誰かが自分の帰りを出迎えてくれる事だけでとんでもない幸せを享受している心地だった。
風呂に身体を沈めながら、薄っぺらい自分の体躯を眺める。巽が求めていたのは間違いなく女性だった。自分が彼の望んでいた身体を手にしていればどれ程よかったのだろう。知らず、ため息がこぼれる。昼間に藍良と話していたところでは、曰くまだ同性に向き合うまでに時間がかかっているのではとか、実は身持ちが固くて一ヶ月経つまでは手を出すつもりがないんじゃないかなんて話を二人で交わしては重たいため息をついていた。
キスもまだって相当だよねぇ、なんて藍良はのんびり笑っていたが、マヨイは愛想笑いでごまかすので精一杯だった。そうなのだ、相当何か事情があって手を出してこないとしか思えないのだ。風呂場の鏡には濡れてぺたりと貼り付いた髪の毛の自分がよりいっそ貧相に映っていて、マヨイは眉を顰めた。
こうやって週末を過ごしている中で粗末に扱われたと思った事はない。二人で美術館に出掛けたり、興味があったけど入る勇気のなかった、カップルだらけの可愛いパフェを食べれるお店に行ったりもした。巽は案外はしゃぐとあれもこれもと突っ込んでいくタイプのようで概ね予定以上の場所にでかけていて、引きこもり体質のマヨイにはややハードだが、デートは楽しい。明日は旬を迎えつつある薔薇園の薔薇を観に行く約束をしていた。
巽の気持ちが嘘ではないと信じていたい。それでも進展のない恋愛に、マヨイは内心で焦りがあった。いっそ自ら求めた方がすんなりと進むのでは、と思いつめて、いえいえはしたないと思われてしまいますよ、マヨイ。などと自分を戒める。
こんな時に思い出すのは中学生時代につけられた、初恋の苦くて深い心の傷だった。自分を長らく縛っているトラウマでもある。
一ヶ月過ごしてきて、どうして彼のような人が自分を恋人などと定めたのか分からない。二人で歩いていても女性の目線を強く感じて、マヨイは体を縮める事がしばしばある。そういう時は決まって彼女たちの目線は巽に向いているのだ。社内の評判だってすこぶる良い。彼を恋人にしたい女性は数多いるだろうに。
万に一つでもマヨイの側にいてくれる彼から、否定されるような言葉を聞いてしまったら今度こそ立ち直れないかもしれない。だから巽の真意に踏み込めないまま、一ヶ月が過ぎてしまった。
本当に男相手に気持ちが向けられず、やさしさだけで側にいてくれているとか。何らかの理由で女性避けのために自分の側にいるとか。
悪い方向へ流れそうな思考を慌てて断ち切ると、マヨイは風呂からあがってダイニングに向かった。
二人のご飯は楽しい。一人用の小さな折り畳みの机に目いっぱい食器を並べて向かい合って、今週あった事なんかをお互いに話をする。同じ社内だからこそ共有出来る情報もたくさんあるし、何より巽がマヨイの仕事の話を巽は聞きたがるので、拙いながら自分の仕事を話せる範囲であれこれと説明する。頷いて微笑んでくれる巽のとろけるような笑顔に、マヨイの感情もとろけるようだった。同じ部署の藍良以外にここまで話をする相手は巽が初めてだ。
巽が用意してくれた魚の煮付けと根菜の煮物も美味しくて箸が進んだ。ご飯の後にはわざわざ近くのパティスリーで買えるプリンのデザートまである。巽曰く、前から食べたかったから目をつけていたらしい。マヨイも実は気になっていたスイーツだった。少し前にグルメ雑誌の片隅に記事が載って以来いつ見ても売り切れだったはずだ。
「これっていつも夕方には売り切れちゃってますよね」
ところどころ巣のある硬めのプリンは、レトロ喫茶さながらの素朴な仕上がりだ。それでもしっかりと濃い卵の味と甘すぎないカラメルソースが絶妙にマッチしていて、一つ食べ終わった頃にはもう一つ食べたいという気持ちになっている。プリンにしては旬のフルーツと生クリームが少し添えてあるのも、贅沢だった。
「実は今日直行の用事があったので、仕事に行く前にこのプリンを買ってマヨイさんちに置いておいたんです」
営業は基本的にその辺の時間は自由が利くらしい。常に社内か在宅かで黙々と机にかじりついている自分とは同じ社内でも環境は相当に違うようだった。
「営業さんって数字抱えてるから何となく圧がありそうな仕事って思っちゃいますけど、そういうのを聞くとちょっと羨ましいです」
食べ終えたプリンの器を巽の手から受け取ってシンクに置いて座り直すと、巽が机に肘を置いた。
「数字はさほど厳しくないですよ。部署で達成出来ればいいだけですし、うちの部署は特に結構先輩が案件を後輩に譲ってくれるので、俺なんかは助けられてばかりです」
狭い折り畳みテーブルは巽が肘をつくと、あっさり向かいに座っているマヨイの腕に指が触れる。思わず緊張で体を固くするが、嫌なわけではないので、マヨイは緊張で固くなる身体を落ち着かせるために、深く息を吸った。
「マヨイさん」
巽の桔梗のような柔らかい色の瞳がこちらを見ている。
「俺はあなたに謝らないといけないことがあるんです」
ワントーン低くなった巽の言葉に、マヨイは息が止まりそうになる。もうじき一か月。一向に進展しない自分たちの関係性。今までは女性としか付き合った事がないという巽。考えは悪い方向にしか転がらない。心臓がばくばくと音を立てていた。
「なななな、な、なんでしょうかぁ……」
緊張で舌がもつれる。まともに巽の顔を見ることが出来なかった。
「あの、あなたと会った初日の夜に一緒に過ごしましたよね? 実はあの時の記憶がほとんどないんです」
そんな話が突然降ってきたので、いよいよ別れ話かもしれないと構えていたマヨイは、へ、と間の抜けた相槌を打ってしまう。
「それで、実はずっと気になっていたのですが」
確かにあの日の巽は随分と酒が回っていたようだった。シャツとスラックスのまま最後にはマヨイの家の床で転がって寝始めた事を覚えていなかったらしい。
「俺は、あなたに何か……その、無理やり……嫌がる事をしてしまったのではないかと」
いよいよ話が思ってもいない方向へ進む。
「そんな事は一切ありませんでしたよ」
「でも朝起きたら俺はほとんど裸でしたし」
「それは服が皺になってしまうと思って。僭越ながら私がその、脱がせましたので……」
巽が顔の前で祈るように自分の手を握りこむ。
「あのでは、何か……マヨイさんのコメントでは俺が何かしてしまったかのような感じだったのは一体」
巽が苦しそうな表情でマヨイを見ているのは何か良からぬ想像上の冤罪で自分を罰しているからだという事にようやくマヨイは気が付いた。
「巽さん、巽さんが何か考えているようなやましい事は一切ありませんでした。あなたは、私の家で寝ただけです。ああ、えっと……その、抱、抱きしめられた事は一度だけありましたけど」
巽が目を見開いてまさかという顔をするので、どうやらそこも記憶にないらしい。
「それは、事故というか。あの靴を脱ぐ時によろけたのを支えただけですし……巽さんにはそんな意図はなかったと思います。ああでも、それでは、その後の事も?」
「お恥ずかしながら……」
「あとはそうですねえ、ご実家の話とか色々お話下さって……あとは私を励ましていただいたり、あの、そこらへんについてはその、あまり自分で言葉にするのは恥ずかしいんですけど、あんなにその、褒めていただいたのは生まれて初めてでしたので……」
「それでは、質問を変えますが。マヨイさんは、俺の事が怖いと思っていますか?」
さらに困惑する。マヨイは首を横に振った。
「俺が触れようとすると、緊張なさっているのが分かりますから」
「それは」
単純に人と触れ合う機会がなかったばかりに、いまだに巽が詰めてくる距離に慣れないのは本当だ。でもそれは怖いからではない。ただひたすらに、緊張をしているだけなのだ。
「だから、初日に……やはり記憶のない中で何かあなたに法に触れるような事をしてしまったのではないかとずっとこの一か月、聞きたかったのです」
噛み合わないパズルのピーズが突然マヨイの中でぱちりとはまる。
「あ……」
言葉が続かない。
初対面でお泊りをした次の日、鍵を返してもらった時に話がある、と言われた。仕事が終わってから改めて二人で会うと、その場で付き合って欲しいと告白されたのだ。あの時の巽も難しい顔をしていた、ような気がする。今この目の前で見ているような、まさにこういう顔だった。彼はマヨイに無体を働いたという思い込みがあって、その責任を取る為にこの一か月贖罪を続けてきたのではないか。そう思えばあまりにも自然だった。つまり、勘違いからわざわざマヨイのような相手にあれこれ世話を焼いたりしてくれていたのだ。それが分かってしまった。
思考に沈むマヨイとの沈黙を破るように、巽は軽く息を吐いた。
「良かったです。俺はずっとそれが気になっていて」
触れていた手を強く握られて、マヨイは慌ててその手を離した。
「あ、そ、その……!」
巽がぽかんとした顔をしている。一か月悩んだり舞い上がったりしてきた全ての事象がマヨイがはっきりさせなかったせいなのだと思えば、もはや目の前の彼は自分に振り回されただけの被害者ではないか。
「やっぱり急には、だめですよね。すみません」
はは、と笑いで濁すが、巽がショックを受けているのは明白だった。違う、そうではない。巽は何一つ罪を犯していないのに、勘違いで自分に縛られてしまっていたのだ。それを分かってしまった今、彼がここに留まる理由もマヨイの傍にいる義務もない。
「巽さん。今日は、……帰ってもらってもいいですか?」
絞り出すようなマヨイの声に、巽が息を飲み込む音がした。それから数秒の沈黙があって、分かりました、と彼は頷くと立ち上がった。
ぱたりと閉まる扉の音。しばらくしてから、カチリと控え目に鍵が閉まる音がした。浮かれていたのがバカみたいだ。シンクに並んだ空のプリンの容器に、マヨイは唇を噛みしめる。心優しい清らかな彼は何一つ罪を犯してはいない。贖罪のためだけに、自分に縛られるような人ではないのだ。もっと、もっとふさわしい女性がいる。ただただ、その事実が悲しかった。
恋人が欲しいとずっと願っていた。一か月の甘い甘い夢はあっという間にからっぽになってしまった。音もなく頬から零れた涙はシンクを静かに叩いて排水溝へ滑って行った。
続く