月も照らさぬ闇夜の中、指先から凍りつくような凍風が吹き、辺りを取り囲む針葉樹林を揺らす。何かが落ちたような鈍い衝撃音と共に、数羽のカラスがバサバサと音を立てて飛翔した。
目の前には横たわる一人の男。相手の顔はよく見えないが、白い息を吐きながら咳き込んでいる。
私の腕は男の胸ぐらを掴み、その体躯を持ち上げると、勢いよくそれを地面へと叩きつけた。
「ーーーッ!!」
彼の胸元から微かに聞こえる、ミシミシというヒビの入る音が痛々しい。彼は抵抗せずとも、なぜだか分からないといった様子で苦しげに喘ぎ、私の腕に土で汚れた両手を添えていた。
私は何故、こんなことをしているのだろう?自分の身体をコントロールできないまま、この手は彼の胸をどんどん圧迫する。自問自答を繰り返すたび、嫌でも掘り起こされる憎悪?は私の胸の奥底を燻る。それは抗う私の理性を少しずつ蝕み、やがて視界を覆い尽くした。
こんなの、まるで、私じゃあないみたいだ。
彼の胸のなかで淡い青の光が鈍く光り、辺りを照らし始める。
「やめて……ッ」
今にも泣き出してしまいそうな、ーーーの悲痛な掠れ声は、とうとう私に届く前に、暗闇に溶けていった。
やめろ、やめてくれ。やっと手に入れたんだ。何を?わからない。とにかく、彼が!
「ッッやめろ!!!!」
自らの咆哮により、現実に意識が呼び戻される。まだ仄暗い中、白く塗られた天井と突き上げた自身の腕が視界に入り、漸く己がいつものソファーベッドの上にいることに気がついた。
「夢……」
荒い息を落ち着かせようとその腕を胸へとやり、いくつか深呼吸をする。壁掛け時計の針は午前6時を指しており、外は季節外れの雪が降っていた。
身体を起こし、向かいのベッドへ歩み寄る。布団から脚を出しつつも、その腹をしっかりと守り、無防備な顔で寝る同居人の身体は、寝息とともに微かに上下に動いている。先ほど見た恐ろしい夢とはかけ離れた光景に、嵐のようだった胸中は少し落ち着きを取り戻した。
たまには私が朝食の準備でもしよう。ベッドのある居間からダイニングキッチンへ、重い身体を引きずりながら移動した。
6枚切りの食パン2枚をトースターに入れる。トーストを焼いている間にフライパンに油をひき、卵とベーコンを入れコンロの火をつける。背後からペタペタとスリッパの足音が聞こえてきた。
「おはよう」
同居人……カップ頭の青年は、頭に挿した赤いストライプのストローを揺らし、目をこすりながら私の方へ近づいてくる。彼は冷蔵庫から牛乳を取り出すと、徐に自らの頭に注ぎ入れた。
「初めて見た時から思っていたが、……そこに飲み物を淹れるってどういう感覚なんだ」
「感覚だけで言えば飲むのとほとんど変わらないよ。けれど、ここに何か入ってないと落ち着かないんだ」
青年は微笑みそう言うと、自らの頭をノックするようにコツコツと叩く。
「飲み物はオレに力を与えてくれるんだ。頑張りたい時はコーヒー、ピンチの時はシュガーで回避。強気に攻めるならチャージポーションだね」
「攻めるって……ならばその牛乳は?」
「一番しっくりくるんだよなー、だから、好きな自分でいたい時」
そんなことを大真面目に語るものだから、思わず吹き出しそうになるのをグッと堪え、
「つくづく不思議な体だな」
と、一言だけ。
「オレもそう思う」
鈴を転がしたように笑う彼を脇目に、出来上がった目玉焼きとベーコン、トーストを均等に2枚の皿に乗せ、その一枚を彼に手渡した。
「もし私が君なら、コーヒーがいいな。カフェインを四六時中摂取できるのは心強い……」
中身のない会話を続けるうち、夢のことなどすっかり忘れるほどにまで、不安は和らいでいた。
……