無色透明の赤「赤い糸って、目に見えないのにどうして赤いと分かるんでしょうか」
あかい、いと?
霊幻は思わず、傾けた急須を落としそうになった。なみなみと注がれてしまったお茶の入った湯呑を丁寧にお盆にうつしながら、その言葉の意味を反芻してみた。今までの会話の流れが何だったのか思い出す必要があるほど、それはあまりに唐突な発言だったからだ。
ええと、たぶん、天気の話をしていたような気がする。それか、今日の宿題の話とか。たしか、その程度のことではなかったか。
「不思議じゃないですか、可視化されていないものを形容して」
律から文脈に応じた返事はない。霊幻は、あかいいと、から思考が動かない。最近流行りのなにかか、昔流行ったホラーテイストのなにかか、それとももしかして、いわゆるの"運命の赤い糸"の話をしているのか。ひとり、掴めないでいる。イメージも、相槌も、糸口も。
しかし、霊幻の動揺など微塵も伝わっていないらしい。影山律少年はひとり、喋り続ける。
「それを運命などと宣う文化は、やはり不可思議なものだと思います」
どうやら、いわゆる"運命の赤い糸"の方の話であったようだ。そして、ひとりで完結してしまったらしい。霊幻はそういう多感な時期だとやり過ごすべきか、それともこの持論に拍手でもすべきか悩みながら、律に無言で湯呑を渡した。
湯気がゆらりと律の存在そのものをくゆらすように揺れている。読んだ本の感想か? テレビドラマの影響か? 単語の意味がわかっても、会話の意図はやはり霊幻には見えなかった。
間の悪いことにここには悪霊も芹沢もいない。たったふたりの空気が、十二月の外の気温のように冷え切っている。
「有り難くいただきます」
律が丁寧にお礼を述べ、湯呑に口をつける。
「おう、熱いから気をつけろよ」
わからない。何もわからない。首を傾けながら、霊幻は定位置のデスク前に腰を落とした。表情一つ浮かべず茶を啜る律は、いつもの律のように見えた。
変わっていることといえば、律がこの一週間、ひとりで相談所を訪れることだ。それも毎日毎日。決まって十八時になると「それでは」と帰っていく。だが特に理由も述べず、特に何か目的がある様子でもなく、霊幻や芹沢と世間話を数回交わすのみで律の行動は終わる。
相手は中学生である。そして品行方正文武両道を画に描いたような人物で、そうともなれば悩みのひとつやふたつくらいあるのだろう。いつか自分からなにか言い出すかと思って、今日の今まで霊幻は何も聞かず、律の訪問を受け入れていた。ちょうど雨が続いて、客足の途絶えていた頃でもあった。
ええと、結局何だったのか。霊幻は、なぞなぞの答えをひねり出すように普段使わないような脳の部分をフル回転させて考えた。赤い糸。運命。それを不可思議、と評する。そんな話を急に、しかも霊幻相手にするほどこの少年はロマンチストであったのか。意外だな、と思いながら湯呑を冷ますよう息をふきかけた。
「恋の相談なら、最初の一時間は無料で聞いてやるぞ」
まずは場を解きほぐそう。そう考えて飛ばした言葉は冗談のつもりであった。足元が冷えて、そのままデスクの下で脚を組む。
「僕の脚にも、きっと括られているんだと思います」
やはり文脈を完全に無視した律の淡々とした言葉が、ふたりにはすこし広い事務所に響いた。
「なんだ、足枷か? 悪いことでもしましたって懺悔ってわけか?」
「いえ、見えない色のついた縄の、昔話です。」
それだけ答えると、律は再度お茶をすすり、飲み干したあと、黙りこくってしまった。霊幻はもはや禅問答にすら思えるこの返答にどんな意味があるのか、三秒考えて、やはり多感な時期の少年が考えることはわからない、と思考を放棄した。
しばし、静寂が訪れた。誰も、何も、喋らなかった。客も来ず、電話ひとつ鳴らない。
膠着状態の少年と大人のあいだには、まるでお互いがお互いの行動を監視しているような、妙な緊張感すらあった。
そろそろか、と霊幻が袖をすこしだけ捲り腕時計を確認する。時刻は十七時五十五分を指している。
「もう帰る時間だぞ」
いつも以上に様子のおかしい律を急かすように、霊幻が静かな声音で告げた。律は帰る様子もなく、窓の外を見る。すると、夕刻までは止んでいた雨が、急に窓をぱたぱたと叩きはじめた。
「もう少し、居てもいいですか。傘、持ってなくて」
傘なら貸すけど、と喉元まで出かけた言葉を霊幻はゆっくり飲み込んだ。うつむいて小声でそう訴えた律の様子があまりに普段より弱々しく、どこか矮小に見えて、妙に庇護欲を掻き立てられたからだった。
「いいけど」
安心したのか、顔を上げた律は霊幻を見もせず、そのまま窓の外を見つめる。その先には曇天の空と、徐々に激しさを増すばかりの雨だれだけが見えている。
「明日も、来てもいいですか」
律が問うた。霊幻の答えは決まっている。断る理由が特にないからだ。
「まあ、いいけど」
そのまますっかりぬるくなったお茶をずず、と派手に啜った。
今日も結局何もわからなかったな。そんな顔をして、霊幻は律と同じように窓の外を見つめるしかなかった。その先には、まだらなモノトーンを積み上げた鉛色だけが広がっていいる。
まるで少年のこころのありようのようだ。霊幻はひとり思って、静かに目を閉じた。