中央から戻り、一応、と英に帰還を告げたのが数十分前。重はまだ、英の部屋を出られずにいる。報告が済んだならすぐ自室に戻れば良いと思うだろう。もちろん、重自身もそう思っていた。しかし、訳あって、未だにこの部屋を出られずにいるのだった。
「もー、離してくれん?」
重は呆れ返ったような声をあげた。首を捻って、背後から自分を抱え込んでいる人間を見る。そいつはなんだか機嫌が悪そうだ。まぁ、いつも機嫌のいい顔などしてはいないのだが。
背後の男は、すん、と重のうなじに寄せた鼻を鳴らした。獲物を押さえつけるようにがっちりと胴に腕を回して拘束し、ふんふんと香りを確かめている。
「・・・・・・知らない奴の匂いがする」
背後の男、英は低く唸るように言った。不機嫌丸出しな声にも臆せず、重はため息をつく。
「そりゃしますやん、人の多いとこ行ったんやから・・・」
「違う、これは・・・石鹸だな?詰所のものじゃない・・・」
「わぁお、英わんこ、鼻が効くやないの」
「貴様、まさか向こうで風呂に入れられて来たのか・・・?」
ぶわ、と背後で殺気が膨れ上がったのを感じて、重はにんまりと唇を吊り上げた。ぎち、と腹に食い込んでくる腕すら愉快だった。
「どうやろ?向こうには風呂屋さんもあるし、寄り道しただけかもしれんよ?」
のらりくらりとかわす重に、英は喉の奥を震わせて唸る。不機嫌も不機嫌。お気に入りの玩具を取られたと思っている猛犬は、腕を片方解くと重の双丘を鷲掴んだ。
「貴様が何をしてきたか、ここに聞けば分かるか?」
「やん、痛い、乱暴にせんとって」
「そうやって、向こうでも甘ったれた声を振り撒いてきたのか?」
けらけら笑いながら身を捩る重。英の怒りなどお構いなしだ。むしろ、怒らせて喜んでいるようにすら見える。
英はぐっと体重をかけて重の身体を折り畳もうとするようにして覆い被さると、もう片方の手を重の胸元に這わせた。白い指が真っ赤な紐を掻き分け、ふっくらした胸に食い込む。
こねるようにねっちりと触れられながら、重は身体を震わせた。言いようも無い愉悦が背筋を掛けていく。
うなじに鋭い痛みが走った。ぎり、と犬歯の食い込む感覚。英が噛み付いているのだ。整った歯と食いつかれた皮膚の間から、低い唸り声が漏れる。
はっきりと浮かぶ噛み跡に舌を這わせて、英は低く囁いた。
「不愉快だ・・・貴様は、そうやって、誰彼構わず触らせて・・・」
「俺が他所で寝るの、嫌なん?」
「飼い猫が外へ出るのを喜ぶ飼い主が何処にいる・・・」
外飼いの猫もおるよ、と重は思うが、今はそんな事どうでもいい。肩に顔を埋めてきた英に、重は額を擦り寄せた。
「英はん、怒ってはる?」
「・・・愉快そうな声を出しおって。腹立たしい・・・」
ぎゅう、とまた英の腕が重に巻き付く。重はくふくふと笑った。
これだから朝帰りはやめられないのだ。
・・・
仕事をほったらかしての昼寝は最高だな、と重は長椅子の上で身体をぐっと伸ばした。窓から差し込む日差しは暖かくて、外からはささやかな生き物のの声が聞こえる。
ぐーっと伸ばした手足を長椅子に収めるようにもそもそと折り畳むと、身体の上に掛けた羽織を引き上げた。
「・・・・・・ふふっ」
重は羽織を鼻先に近づけると、小さく笑った。すん、と息を吸い込めば、うっすらと睡蓮を思わせるような香りがする。清廉ながらも薄甘い香りを嗅ぐと、月色の髪や鋭い白銀の瞳が脳裏を掠める。
見た目の割に独占欲の強いその男は、外の匂いをつけて帰ってきた重がよほど気に入らなかったのか、隅から隅まで、重に纏わりつく匂いを全て塗り替えた。どうやって上書きしたか?それは推して知るべしである。だが、大層気分も心地も良いものだったとだけ明記しておこう。
羽織からも、自身の身体からも、そこかしこからその男の匂いがした。
「あぁ面白、くく、ふくく・・・っ」
他人と呼ぶには近過ぎる人間の匂いに包まれて、重はくつくつと肩を揺らす。
この匂いの持ち主は、重が執務室にいないことにもう気づいただろうか。
いつになったら見つけてくれるだろうか、と、眦を吊り上げて飛び込んでくるであろう男の姿を想像しながら、重は目を閉じた。
ほの甘い睡蓮の香りに包まれて。