幼馴染じゃないっ(という設定)1 幼馴染じゃない
黒龍というチームに加入した理由は、中学のクラスメイトである柴大寿から誘われたからだった。柴といえば、名門と言われるこの中学では相当な問題児で、教師たちも手を焼いているし、クラスメイトだって彼を恐れて何一つ口答えもできない状況の生徒。そんな彼と対等に話ができるのは唯一オレだけだし、チームに参加することで彼に恩を売ることができるのなら、相手は大富豪の息子だから、なんらかのリターンがあるだろう、という損得感情込みでの結論である。中学三年になったばかりのオレにとって、今一番興味があるのは金儲けのみ。周りが思春期に突入して異性を意識しだすのを横目に、毎日のように株のレートを眺め、図書館に通って勉強ばかりしている。そんなオレが、生粋の金持ちとのつながりを大事にする意味くらいは説明しなくても察してもらえるはずだ。
「オレに何しろってんだ?」
大寿と話をしているだけで、周囲はオレをも恐れるようになる。わかっているからわざとらしく人の目に触れるように彼との会話をもち、あたかも友人であるかのように振る舞う。中学生なんて、自分含めてただのガキだ。この程度のことで学校における自分の地位を盤石にできるのなら、気の向かない、興味のない相手とだってそれなりの関係性を築く価値があるというものだろう。
「今すぐ仕事しろってんじゃねえ。ただ、オマエのココは、役に立つだろうってだけだ」
言いながら、柴大寿は自分の頭を指差した。自分だって相当頭のキレるヤツだってのに、わざわざオレを頼ることもねえのに、と内心思ってそれを飲み込む。
「まあ、いいぜ。最近暇になったところだ」
独自のルートを作り、金儲けにやっきになっていた一年前までと違って、最近のオレには多少時間の余裕がある。もし、チームを利用して金儲けの話があるというのなら願ったり叶ったり。一人で危ない橋を渡るには限界を感じていたこともあって、オレはすんなりとそれを了承した。このときは、彼の率いる黒龍というチームにどんな顔ぶれが並ぶのかすら知らなかったし、興味もなかった。
数日後、大寿が直々にバイクでオレを迎えにきて、深夜にまで及ぶ集会に参加させたときの、チーム内のどよめきは、オレを多少心地よくさせた。大寿の率いるチームにおいて、大寿の存在は絶対のようだ。彼が到着するやいなや、散り散りになっていた面々は勝手に集合して並び、号令もないのにそろって挨拶をすることで大寿を出迎える。
「新入りだ。出ろ」
言われて、渡されたばかりの特攻服を身につけたオレは彼の隣にたった。おそらく、それすら初めてのことなのだろう。大寿とオレを囲んでいる面々が顔を見合わせている。オレは怯む様子を見せぬように周囲を厳しく見渡して挨拶をした。
「九井一だ。よろしく頼む」
あとは大寿がどうにかするだろう。オレは、残った時間を持て余すように大寿のそばにいて、挨拶にやってくる面々と多少の会話をかわしつつ、その時間を過ごした。
総員三百人が全て揃うことはまずない、と大寿が言う。そして、周囲を軽く見渡してから、一人の男を呼びつけた。坊主頭のいかつい男が近くなり、大寿にへこへこと頭をさげる。オレよりずっとガタイも良く強面のくせに、大寿の前じゃまるで子犬だ。
「乾はどうした」
「あ、はい、イヌピーくんなら寝坊したらしくて……」
「ったく、しょうがねえヤツだな。遅刻ばっかしやがって」
大寿が苦い顔をする。
「だれ、イヌピー君って」
オレが横から聞くと、子犬は黙り込んで、大寿がオレを見た。
「うちの特攻隊長だ」
「……特攻隊長」
「別に何するってわけでもねえが、一番長く黒龍にいるヤツだ。オレよりもな」
なるほど。名目上の地位を与えた、ということか。一番長いのにソイツが総長じゃないってことは、まあ、大寿には敵わなかったということなのかもしれない。
見渡す顔ぶれは、ガラの悪い、いかつい奴らばかりだ。デザインだけは洒落た揃いの特攻服を身につけているのに、目が合うだけで因縁をつけてきそうな雰囲気を持ち、普通にしていれば絶対に関わりたくないような風貌の男たちばかり。
だからオレは、その「乾」とやらもここにいる複数の男と大差ない無骨な男だと思い込んでいた。ホーンを鳴らして遊ぶもの、女をはべらせて高笑いをするもの、オレからすればバカみたいにしか見えない集まりの中に、自分自身が身を投じているのもアホらしくなったころ、遠くからバイクがこちらに向けて走ってくるのが見えた。直前で急停車したバイクを見て、周囲の男たちが頭を下げている。当たり前にノーヘルの男は適当にバイクを停めるとこちらにやってきた。特攻服の裾を風になびかせ、颯爽と歩いてくる男は、明らかにその他大勢と違う雰囲気を纏っていて、オレはしばらくの間あっけにとられて、言葉を発せずにいた。
「……乾、遅かったじゃねえか」
大寿が声をかけると、相手は面倒そうな、眠そうな顔で答える。
「寝てた」
「新入りがいるから早くに顔出せって言ったろ」
「悪りぃ」
乾という男は、一応口では詫びたものの、その「新入り」には興味のない様子だ。
「悪りぃ、じゃなくて挨拶くらいしたらどうだ」
大寿の声にはニヤニヤとした笑いが含まれている。この笑いはどう考えてもオレに向けられている気がした。きっと、誰しもがこの「乾」を見ると同じ反応を示すのかもしれないと思った。
「……乾青宗だ」
彼は、そうとだけ言った。視線は一応オレを見たが、興味もなさそうにすぐにそらされる。
「……九井一」
「ふーん。で、何するヤツ」
その質問は、大寿に対するものだったようだ。彼の視線も言葉も何もかもが、オレではなく大寿に向いている。
「親衛隊長にする」
オレも聞いていなかった言葉が、大寿の口から漏れた。
「……親衛隊長だぁ?」
『乾』が不満そうな声をあげる。
「なんだ? 特別に扱われるのはテメェだけだとでも思ってたのか?」
大寿が聞くと、彼はふいと顔を背けた。
「別に。興味はねえ」
「いいか? 九井……ココには丁寧に接しろ。他のヤツと同じにすんなよ?」
「なんで。どんな理由がある」
「オレのダチだからだ」
大寿が言うと、無表情だった『乾』の眉根がぴくりと動いた。
「よろしく頼む」
改めて差し出された手を少し見つめたあと、オレは彼と握手を交わした。これがオレと、のちに親友となるイヌピーとの出会いだった。
それから二、三ヶ月が経って、その間、オレと『イヌピー』の間に会話は一切ない。集会に顔を出すとき、オレは常に大寿のバイクに乗せられての参加だったから、声をかけてくるメンツも限られるようになった。イヌピーとは挨拶程度は交わすものの、彼はいつでもどこかぼんやりと眠そうで、集会だと集まったところで適当な場所に一人で座り込み、ぼけっと時間をやり過ごしている場合が多い。
「アイツっていつもあんななのか」
大寿に聞くと、大寿は呆れた顔をする。
「まあな。喧嘩のときだけ役に立てばいいからほっとけ」
「強いのかよ」
「そこそこだな。あの見た目の割には強ぇだろ。だから相手が油断する」
「ふうん……」
オレはそう返事をするにとどめた。大寿とは常にそばにいるが、会話を持つほど親しいわけじゃないのが現実。紹介されるときには「ダチ」なんて言うけれど、個人的に連絡を取るほど親しいわけでもなかった。実際、大寿は誰とも親しくはしていないはずだ。こんな、集会なんて名前をつけたところで、単に別段接点もないワルが集まってくだを巻く時間を過ごしているだけ。
遠目にイヌピーの姿をつい眺めている。彼はいつも一人だ。声をかけるヤツがいないわけじゃない。でも、無口なのだろうか、一言二言会話を持ってもそれ以上にはならないようで、相手が挨拶をして立ち去るのを見た。
座り込んでぼけっとしているだけなのに、絵になる。そう、乾青宗は随分と絵になる男だった。こんなヤンキーの集会に置いておくよりも、テレビにでも出しておいたほうがいいんじゃないかと思うくらいの。
じっと見つめていると、大寿が横から面白そうな声で言う。
「なんだ、乾が気になるか」
「……は? 別に……ただ、こんなとこにいるのが似合わねえと思っただけだ」
顔だけなら美少女然としている。染めているのか、伸びっぱなしの金髪に色素の薄い瞳。どこを探しても無骨さなんてみじんもないような整った横顔を眺めて思う。長いまつ毛を瞬かせ、たまに眠そうにあくびをする姿すら絵になるような造形をして、それでヤンキーだなんて勿体無い。
「乾!」
大寿が彼を呼んだ。
「おい、オレは用はねえぞ」
慌てた声で言うと、大寿が笑っている。
「オレに用があんだ」
イヌピーが立ちあがってこちらにやってくる。オレには目もくれずに大寿の前に立ち、大人しく指示を待っているようだ。
「なんだ?」
「オマエに仕事だ」
「喧嘩か?」
イヌピーがちょっと気色ばんだ。見かけとは裏腹に血の気が多いのか、喧嘩、という言葉を口にした途端、目に表情が宿った気がした。
「違う。コイツ、ココを任せる」
大寿がオレを見ずに、親指でオレを示すと、イヌピーはあからさまに嫌そうな顔をした。
「任せる? どういうことだ」
「コイツは兵隊じゃねえ。喧嘩に巻き込まれねえようにしろ。何かあればオマエが盾になれ」
「おい、オレだって喧嘩くらい……」
オレが口を挟もうとすると、イヌピーの鋭い視線がオレを睨んだ。ボスに口答えをするな、と言わんばかりだ。
「ココ、そういう話じゃねえ。オレがオマエに喧嘩はさせねえって言ってんだ。できるできねえじゃねえってことだ。大人しく従え」
「……大人しくって……」
オレが文句を言おうとすると、イヌピーがそれを制止するように視線をよこす。
「わかった」
イヌピーはそう返事をした。その視線に気圧されたのか、彼の似合わない容姿に気をとられるからなのか、オレは口を閉ざす。
イヌピーは、元の場所には戻らずにオレの隣に腰を下ろすと、先ほどまでと同じように眠そうな顔つきになって、ただ興味もなさそうに周囲で遊んでいるワルたちを眺め、オレには一言も言葉をかけぬままだった。
***
黒龍は、大寿を中心に全てが回っている。オレは参謀のような状況で、大寿から命じられたことに多少のアドバイスはするものの、基本的には周りと同じように彼に従っている。大きな問題は今の所ないが、あの日以来、いつでもイヌピーがオレのそばにいるようになって、オレはいささか落ち着かない気持ちでいるのに、この感情を共有できそうな相手が大寿一人とあって、複雑な心境を吐露できずに、若干のストレスを抱えていた。
オレを守れ、という命令を受けた大寿の忠犬は、言いつけ通り、何度かの小さな喧嘩からオレを守ることで自分が多少の怪我をした。彼が、その見目に反して強い男であることに間違いはない。黙って座っていると美少女にしか見えないような外見をしておきながら、喧嘩となると形相から変化して、別人のように凶暴な男になるのだと知った。暴力を振るうのに少しの躊躇もない。オレに危害が加わろうものなら、何十倍にもして相手に返す。オレが止めなければ殺していたのではと思うほどだ。
「……何でそんなに大寿一筋なんだオマエ」
喧嘩の後でオレが聞くと、彼は浴びた返り血を確認しながらつまらなそうに言った。
「ボスを呼び捨てにすんな」
「……はいはい」
これ以上聞いても返事なんかしねえだろう、と諦めて口を閉ざすと、白い特攻服についた血を確認した彼がオレを見た。
「オレはボスに命じられるままに動く。それだけだ」
なんと、主体性のない男だろう。では、言われたら人殺しでもするということか。こういう輩がチンピラになって、命じられるままに殺人事件なんかを起こすんだろうなあ、なんて思った。そして、指名手配犯として顔がテレビに乗るや否や。下世話な妄想をしながら、オレは彼をちらと見る。彼の視線はオレにはもうない。喧嘩を終えた後では、いつ命令があってもいいように大寿を見ていて、こちらのことなど少しも気にしない様子だった。
集合がかかってボスに近づく。イヌピーの視線はボスに釘付けのまま。オレは少し離れたところで彼の様子を伺っていた。ボスの命令からこちら、付かず離れずでいつもオレのそばにいる。でもその視線はいつでもボスを見ていて、決してオレを見ることがない。
ボスはボスで、イヌピーの功績を認めて適当に労っている。大寿にとって、黒龍など遊びの一環だから、本当は興味なんかないのだろう。それでも、兵隊を集めて士気を高めておくために、そうしているのだ。賢い男だから、それで間違いはないだろう。では、イヌピーをそばに置く理由は。在籍が長い、それなりに喧嘩が強い。でも、この数ヶ月で、ボスを除けば彼が一番強いというわけでもないことがわかった。彼程度に強い男は数人いる。ただ、その中で見た目がいいのがイヌピーだけ、ということになると、ちょっとオレにも考えてしまうところがあった。
ボスが仲間を集めて鼓舞する場面で、イヌピーは必ずと言っていいほどボスの隣に黙って立っている。特攻隊長、という役職のようなものをもらっているのはオレを除けば彼だけのようだから、特別なのだろう。ボスが何かを語る横にいても、彼自身はいつも何も言わなかった。でも、それが妙に絵になるのだ。きっと、大寿が立たせているのに違いない。大寿自身、上背が高くてガタイもよく、顔の作りも整っていて、おとなしくしている分には十分好男子と言える。その、男を具現化したようなボスのそばには、この場にそぐわぬほどに線の細い美少年。
「……まるでトロフィーだな」
オレの独り言に、隣にいただけの男が反応した。
「……なんすか、トロフィーって」
「……いや。なんでもねえよ」
オレはそう答えて、大寿の横にいるイヌピーを眺めている。適当にセットしただけの髪、ろくに手入れしているわけでもなさそうな肌はそれでも滑らかで色が白い。表情が暗いことと、左目を覆う妙なあざさえなければ、完璧に近い男だと思う。ついでに、背も高い。
見た目のいい、強い男を隣に置く。オレがボスでも、きっとそうする。彼の見た目は役に立つ。
実際、オレより後に黒龍に参加した者のほとんどが、イヌピーを見ると驚いた顔をしたし、中にはあからさまに取り入ろうとする者もいた。女を連れてきて彼に紹介する男、自分が親しくなろうとする男、イヌピーはその誰にも興味を示さず、付かず離れずオレのそばにいるのに、そのオレ自身も彼とはろくに会話を持ったことがなかった。その様子も人を惹きつけるのだろう。彼を遠目に眺めて憧れる男の多さには驚かされる。
その彼の視線がいつでも大寿から外れないことにも、多少の効果が感じられた。
「マジで、キレる男だなあ」
オレは大寿を見てそう呟き踵を返す。一足先に黙って輪を離れて帰宅しようとしていた。皆と違ってオレはバイクがないから、集会に参加するときも解散するときも基本大寿と一緒だが、今日はなんだかそんな気にもならない。
そっと歩き出すと、足音が近づいてくる。腕を取られて振り返ると、先ほどまで大寿の横にいたはずのイヌピーがオレを捕まえていた。
「なんだよ、もう解散だろ?」
「帰んのか?」
「ああ。何か用でもあんのか?」
「送る。次から迎えもオレが行く。家を教えろ」
「は?」
「ボス直々にお出迎えなんて特別待遇がいつまでも続くわけねえだろ」
彼は大寿を振り返った。視線が交錯する。彼は無表情にそれを受け止めて、オレの手を引いて自分の愛車にまたがらせた。
「しっかりつかまっとけ」
「乱暴な運転にゃ慣れてる。大寿のバイクに乗ってたんだぜ?」
オレが半笑いで言うのに、彼はやはり無表情だ。
「ボスと呼べ」
「はいはい」
バイクが走り出す。風に煽られる金髪からは、シャンプーだの石鹸だのとは違ういい匂いがした。
***
オレが黒龍に参加するようになって数ヶ月が経過した初夏の頃、ひどい喧嘩の結果、イヌピーが入院を余儀なくされた。救急車のけたたましい音が耳にこびりついて離れない。オレはやめろと言った。絡んできた相手は高校生で、イヌピーよりよほどガタイもよかったし、無視して逃げるか、オレも助太刀すればよかっただけなのに、イヌピーがそれを許さなかった。初めから分が悪かったわけじゃない。オレをかばいながら喧嘩だなんてそもそも無理だったことと、イヌピーがオレをかばうことに気づいた相手が、ターゲットをオレに絞ったことが敗因の全てだ。相手は容赦なかった。オレが知らなかっただけで、イヌピーはこの界隈では随分名の知れた不良で、いつでもその寝首をかくことを狙われているような存在だったのだ。
気を失っても殴り蹴り続けようとする奴らから、どうしてオレ一人でイヌピーを守りきれる。そもそもそのとき、イヌピーはオレを庇ってオレの上に馬乗りになっていた。彼の腕に囲まれて下からは出せないまま、流れる真っ赤な血液を全身で受け止めたオレは、やめろ、と叫ぶことしかできなかった。
大寿がオレに喧嘩をさせない理由は様々だろうが、オレ自身、喧嘩慣れしているというほど喧嘩ばかりをして過ごしてきたわけじゃない。身体を使うよりも頭を使う方面で暗躍していて、表立った争いが起こらないようにしてきたからこそ、ここでオレが立ち上がったところで、二人とも良くて病院送りで、このままじゃ殺されるんじゃないかと思ったくらいだった。救急車を呼んだのは見かねた通行人のようだ。警察もやってきたようだが、オレはその間のことをほとんど覚えていない。二人とも病院に運ばれたが、オレはほとんど無傷だった。血まみれなのに怪我はなく、強いショックで起き上がれないだけ、というみっともない結末を迎えることとなった。
翌日、先に家に帰されていたオレは、イヌピーの病室を訪ねた。ベッドに横たわった彼は、頭をぐるぐるに包帯で巻かれた姿で目を閉じていた。
スツールを引き寄せてベッドのそばに腰を下ろす。直前に誰か見舞いがきたのだろうか。サイドボードにはきれいな花が飾られていた。
「……イヌピー」
思えば、これだけそばにいたのに、呼びかけたことは数回しかない。彼自身が少しもオレを見ていないからの結果で、不仲になるほども接したことのない相手だ。
何度か呼びかけて、目を覚まさなければ帰ろうと思っていた。だが、二度目の呼びかけで彼が薄く目を開いた。
片手をそっと持ち上げて痛みでもあるのか眉をひそめた。
「動くな。ひどい怪我だ」
オレが言うのに、イヌピーは少しも気にしていないようで、起き上がろうとする。仕方なく背中を支えてやって、ベッドの上で上体を起こさせてやると、あまり持ち上がらない腕がオレに伸ばされたので、その手を取った。
「怪我はねえか」
傷だらけの男が聞く。
「ねえよ」
「そうか。ならいい。帰れ」
彼がオレの手を振り払う。
「なんだそれ」
「オマエに怪我がねえなら、オレはテメエの仕事をやり遂げたってことだ。何の問題もねえ」
「オレは止めたぞ。複数人は相手にすんな」
「こっちが喧嘩ふっかけたわけじゃねえだろ? あっちがほっとかなかっただけだ」
「逃げるって選択肢もあったろ」
「……あの場で逃げて、オマエが一人のときに狙われたらどうする。あっちはオレに恨みがある。昔、タイマンで一人ずつ全員ぶちのめしたことがあるからな。オレの弱みになるって思えばオマエを狙う。二十四時間一緒にいれるわけじゃねえんだ。オマエが一人のときまでオレはボスの命令に従いきれねえ」
「……何バカなこと……大寿の命令なんか無視しろよ」
オレが本気で言うと、イヌピーがギロリとオレをにらんでから、痛みに顔を歪めた。
「ボスの命令は絶対だ。オマエもそこだけはちゃんとしねえと許さねえ。まず、大寿なんて呼び捨てにすんな」
ここまでくると、彼のその思いがただの忠誠なのかなんなのかすらわからなくなる。退院まで一週間以上かかるらしい。命令のためにオレを守ってこんな怪我を負ってもなお、ボスは絶対なのか。
「オマエ、ボスに惚れてんのか?」
惚れる、と言う言葉にはいろんな意味が含まれている。それが伝わるかどうかはわからなかったが、オレは自然とそう聞いていた。イヌピーが口を閉ざす。この日から数年後、イヌピーの親友となったオレになら、このときの彼の沈黙を勘違いなんかしないだろう。でも、このころのオレは彼をよく知らなかった。黙って視線を落としたイヌピーを見て、それを肯定の返事と捉えてしまった。
「……なんだ。だったらそう言えよ。オレのために無理すんな。大寿にはオレから言っとく」
そう告げてから、やばい、と思った。彼が心底大寿に惚れていてそばにいるというのなら、この発言はよくないものに聞こえるだろう。
「……余計なことすんな」
「わかった。オレは帰る。安静にしとけよ」
オレはそう言って病室を出た。本当なら、明日も訪ねようと思っていた。欲しいものはないか、傷は痛まないか、聞きたいこともいろいろあった。でも、彼の視線がオレを見ない理由を知ってしまって、その全てがすっぽり抜け落ちてしまった。