かぜっぴきのみねお　元気が取り柄の年下の恋人が、どうやら風邪をひいたらしい。
　のんびりとした部署にしてはめずらしくたて続けに急を要する仕事が入り、それをこなしているうちにいつの間にか終業時刻を過ぎていた。今日は峰雄の家に行く日だった、と慌てて携帯電話を開いたのは午後七時をまわった頃。「風邪をひいたので今日は会えそうにありません。申し訳ございません」と妙に他人行儀なＬＥＡＦのメッセージを受信していたのはその四時間前、午後三時のことだった。
「風邪か、めずらしいな……」
　連絡が遅くなったことに対する謝罪と体調を気遣う文面を作りながら、半端に残った缶コーヒーを飲み干した。メッセージを送信し、てきぱきと荷物をまとめて職場を後にする。普段であれば仕事かよっぽどのことがない限り数秒もかからずに既読がつくのだが、しばらく経ってもメッセージ画面に変化はない。これはなかなかの重傷かもな、そう思ってわたしは年下の恋人――榎本峰雄の自宅まで急いだ。


　風邪っぴきの彼が食べられそうなものを何日分か買い込んで、合い鍵を使って峰雄の自宅にお邪魔した。インターホンも鳴らしてはみたのだが、うんともすんとも反応がない。玄関先でパンプスを脱ぎ真っ暗な室内へと踏み込むと、静寂に包まれた彼の部屋がわたしを出迎える。峰雄が静かだなんてどうも慣れない。心の奥底にじわりと焦燥が滲んで、すこしだけ早くなる心臓の鼓動を抑えながらちいさな声で峰雄を呼んだ。
「……峰雄？　大丈夫？」
　なるべく音を立てないようにダイニングテーブルの上に買い物袋を置く。ベッドまで歩みを進めると、こんもりとした黒い布団のかたまりがもぞもぞと動いている様子が暗闇に慣れてきた視界に映る。
「……なんできたんすか」
「そりゃあ、来るでしょうよ」
　蠢く黒い塊から弱々しく掠れた声が聞こえてきた。とりあえず、返事があったことにほっと安堵のため息を落とす。わたしはベッドサイドのあかりを点け、そのままベッドに腰を下ろした。
「おでこあっつ。ご飯は？　あと薬も」
「……まだ、なにも」
「あらら」
　布団に埋まっている彼の顔を覗き込むようにして上体を倒す。掌で触れた彼の額は思っていたよりもずっと熱かった。いつもの快活な彼は鳴りを潜め、今は大人しくわたしの掌を受け入れている。重たそうな瞼の隙間から覗く瞳は水の膜に覆われていて、潤んだそれがわたしの姿をしっかりと捉えていた。
「うつしたくなかったのに……」
「ああ、そういうこと。気にしないでいいのに」
　まるで大型犬にそうするように、わしわしと頭を撫でる。彼はされるがままになりながら顔を顰めて何とも言えない微妙な表情を作った。かわいいなと思って鼻先を擽ると、遊ばないでくださいよお、とちいさな抗議が聞こえてくる。
　彼――榎本峰雄は、元気でお気楽なように見えて実は周囲に気を遣う男の子であることは、わたしもよくわかっている。自分がわたしより年下であることを気にして、いじらしくも大人っぽく振る舞おうとしていることも。……そしてそれが、時に空回りしていることも。
「しんどいときは頼ること、わかった？」
「うう……はい……」
「よし、今日はわたしも連絡に気付けなくてごめんね」
　熱を持った頬を掌で包むと峰雄は少しだけ目を細めた。冷たい掌が気持ちいいのだろう。冷え性のわたしの掌も、こういう時に役に立つのなら少しは存在意義があるというものだ。彼はしばらくわたしの掌を堪能したあと、少しだけ身体を起こしてベッドサイドに腰かけるわたしの腹部に顔を埋めた。

　めずらしく素直に甘えてくる彼の頭を撫でながら、明日はリモートワークに変更して彼の病院に付き添おうと頭のなかでスケジュールを変更した。病院から帰ったあとは、いつもは格好つけたがる彼をめいっぱい甘やかしてあげよう。わたしはそこまで考えて、ふふ、とちいさく笑みを零した。