闇堕ちカイトネタ(おまけ)「…………」
懐かしい匂いがして目が覚めた。
耳元にじわりと濡れた感覚。目尻からこぼれた涙が、次々とこめかみを伝っていく。
「……大丈夫か」
心配そうに覗き込んでくるカイトの顔を見て、私はようやく今いる場所を把握した。起き上がると涙を拭い、頬を叩く。
「怖い夢でも見たか?」
「……うん」
――そうだ。とても怖くて、憎くて――けれどどこか愛おしい、そんな彼の夢。
カイトは、ため息をつく私の頭をぽんと叩くと、ベッドから立ち上がる。
「安心しろ、ここは現実だ。そろそろメシできるぞ」
「え、今日は私の番……」
「そういう気分でな。たまにはいいだろ」
「……ありがと」
よく寝たはずなのにどうも頭が重い。のろのろと起き出すと洗面所へ向かい、顔を洗って歯を磨いた。……ひどい顔だ。
――オレスト渓谷の奥地にある小さな廃屋。私はある日突然そこに監禁されて、最初は悔しさや憎しみしかなくて、それでもだんだん彼のことがわかってきて。そんなある日、今度は突然彼を失った。これでようやく解放されたというのに、胸にぽっかりと穴があいてしまったようだった。
「できたぞ」
落ち着かないまま着替えていると、トースターの音がして、リビングから彼の呼ぶ声が聞こえる。
――ああ、そうだった。彼はこんな風に、いつもおいしいご飯を作ってくれた。狭いながらも整った部屋で、ふかふかの、ベッドで――
「――――」
また涙が溢れ出す。どうして、ただの夢だというのに、どうして……こんなにも胸が苦しいのだろう。
「アデル……?」
「ふ……うっ……」
様子がおかしいことに気付いたカイトがこちらに来る。彼は私を見ると小さく息をついて、
「……俺も見た、すげぇリアルな感覚が残ってる。…………ひでぇ夢だった」
「…………」
「その様子じゃ……もしかしたら、同じ夢の中にいたのかもしれねえ。
こういうのは信じちゃいなかったが、いわゆる前世とか、別の世界の俺たちの記憶とか、そんなとこかもしれねぇな」
後者は、いわゆるパラレルワールドというものだろう。そこに別の世界の記憶がリンクするなどという話は聞いたことがないが、絶対にないとは言えない。実際、カイトと私は全く同じ内容の夢を、それぞれの立場で見ていたらしい。
彼は、とりあえず食おうぜ、と私の手を引き、テーブルの席に座らせると、自らもエプロンを脱いで席についた。サラダとベーコンの添えられた目玉焼きにピザトースト、クルトンの入ったコーンポタージュ。馴染みのある、けれどとても懐かしいメニュー。
「……お前が教えてくれたやつさ、あっちでな」
彼が何か言うたびに、次々と記憶が蘇る。そういえば一度、久しぶりに食べたいと言ったことがあった。
卵とケチャップはなんとかなったが、なんせ乳製品がなかった。チーズは似たようなものを調達して作ってみたら見るも無残、語るも無残なモノになって、パンも自作の小麦粉に水を混ぜて焼くことしかできず、ホットケーキもどきになった。スープもただのとうもろこしのおかゆで、唯一まともだったのはカイトの用意したベーコンだけ。彼は心底嫌そうな顔をして、死にてぇ奴にはちょうどいいかもな、などと言い捨てた。
「ひでぇもんだったなぁ、あれは」
「うっ……」
ケラケラと笑う彼に、自分が作ったわけでもないのにダメージを受ける私。……それでも、確か彼は全部――
「さ、食おうぜ。こいつはとびきり美味いはずだ」
「うん」
鹿肉のベーコンにとろりと蕩け出す半熟卵。彼は同じ目玉焼きでも、添え物によって絶妙に火加減を変えるのだ。ベーコンエッグにする時は、切りやすいようにあらかじめ刻んだベーコンを敷いてくれたりする。こう見えて意外とマメだ。
そしてメインは、ピーマンと玉ねぎとベーコンの残り、多めのチーズが乗ったほかほかのピザトースト。蜂蜜をかけて一気にかぶりつく。
「んん〜! おいっしい……!」
いつもはすごい勢いで平らげてしまうが、今日ばかりはじっくりと味わって食べる。そんな私を嬉しそうに見ながら、彼は独り言のように話し始めた。
「……俺は鮮明に覚えてる。お前にひでぇことしちまったし、一瞬とはいえ本気で殺意を抱いた。
だが、そこからは穏やかなもんさ。初めてお前にメシを作った時、お前はためらいもせず食い始めて、こっちが驚いた。それから毎日嬉しそうに食って、服を作ったり風呂やベッドを用意したりするたびに大げさに喜んで。……だから、仕事もなんもねぇ毎日でも、それだけで充実してた」
彼はまるで、自分が体験してきたかのように話す。本当に全てを覚えているらしい。
「だから……この当たり前の朝食メニューが食いてぇって言われた時、今更のように罪悪感に襲われたのさ。ああ、俺は本当に、お前から全てを奪っちまったんだなって。それこそが俺の狙いだったはずなのにな」
「…………」
「自分が満たされるためにしたこと全てが、逆に自分の首を締めることになっちまった。そして死ぬ直前まで、それが何を意味するのかってことに気付けなかった。バカだよな、本当」
まるで懺悔のように語ると、目を伏せる。
仮にこの記憶が、本当に別の世界の私たちものだとすると、その世界にいる私は……まだ生きているはずの私は、どうしているのだろう。村に帰って、今まで通りの生活に戻っているだろうか。それとも――深い傷となって、あの場所を離れられずにいるだろうか。私が知るのは、彼が息絶えたあの瞬間まで。その後のことは、今ここにいる私には想像もつかないことだ。
――いや。私のことだ、きっとなんとかやっていくに違いない。それよりも――
「……カイトは、救われたのかな」
「……!」
「随分遠回しだったけど、私には……助けてほしがってるように見えた」
「……そうだ。ひとりで背負いきれなくて壊れた結果、お前をあんな目に遭わせちまった」
「カイト、大丈夫。あなたは彼じゃない」
「……わかってるさ」
――確かに、あの時私に助けを求めていれば、違う結末が待っていたかもしれない。でも――
「カイト、私ね。あなたのことは怖かったし、憎かったし、苦手だったけど……嫌いじゃなかったし、その……」
ナイフとフォークをお皿に置く。これは――絶対に、言えなかったことなのだが。
「へ……部屋に来るのが、ちょっと楽しみだったの」
「………………な」
「だ、だって……普段すっごく怖い彼の目が、あの時だけはちょっと優しくなったんだもの。
最初はそうじゃなかったけど。あと、なんだか途中から目を合わせてくれなくなったけど」
「っ……!? ゲホ……ッ!」
スープを喉に詰まらせてむせるカイト。それこそ自分のことではないのに、非常に気まずい空気が流れる。
彼はひとしきりむせた後、水を流し込んで一息つき、思い出したように食事を再開した。……が、時々頭を抱えては、振り払うように首を振る。
「ほ、ほらカイト、だからあなたのことじゃないって」
「あ、ああ」
一体彼の中で何があったのかを詳しく知りたいところだが、聞かない方が良さそうだ。……まあ、彼のわかりやすい態度からして、だいたい察しはつくが。
「って、もうこんな時間! そろそろ行かなきゃ、ごちそうさま」
時計を見ると、待ち合わせの30分前。水を飲み干すと席を立った。今日はフォルクとレーナと一緒に、依頼人と打ち合わせる日だ。
「ああ、片付けはいい。俺はまだ少し時間があるからな」
食器をシンクに運ぶ私をカイトが制する。ひとまず自分の分だけ置きに行くと、ぱちんと手を合わせて、
「ごめん! じゃあ洗い物はお願い。行ってくるわね」
バッグを手にして肩に掛けた。持ち物は前日に準備してあったので問題ない。
あとは待ち合わせ場所――ギュリアムのキャラバンポストへ行くだけだ。そこから依頼人の街へ向かう。
「……アデル」
ふとカイトが、ドアを開けようとした私を呼び止める。
「なに?」
「俺は……幸せだよ」
それはきっと――彼の言葉を、彼として言ったのだろう。
「……ん」
微笑みで返すと、外へ一歩踏み出す。あの日と同じ生憎の雨。
けれど……雨が上がったら、きっと。空には、大きな大きな虹が架かっていることだろう。