その初夏の夜は少し暑くて、百貴は悪夢にうなされた。目覚めたあと、寝返りをうったが再び寝入ることはあたわず、水を飲もうと起きあがる。
内廊下を伝って台所へ向かう。
途中、縁側を通りがかったとき、板敷の床に光のかけらが落ちていた。
辺りを見回すと雨戸がわずかに開いていた。不審に思い、そっと隙間を覗く。
青々と広がる庭にひとつの人影が躍っていた。影は見覚えのある輪郭をしていた。艶めく長い黒髪。透けた白いネグリジェ。裸足の飛鳥井木記が御影石の連なりを手放しで渡っていた。風はそよとも吹いていないのに髪や裾がなびき、ひらめいている。
彼女はとても機嫌が良さそうだった。至極穏やかな表情をしており、百貴は何故か安堵する。
雲間から月光がさし、白磁の素肌に落ちる。自在に夜と戯れる彼女は、夢幻世界で息づく生き物のようだった。一ミリグラムの重量も感じさせない軽やかさは、まるで彼女の周囲のみ重力を忘れたようだった。
庭のところどころに紫色の紫陽花が咲いている。彼女が足蹴にする地面の下には、かつて白骨死体が埋まっていた。けれどそれは、地球にとっての人間の一生と同様、「かの生き物」にとって些末な事象なのではないだろうか。もし「生きているカエル」がいるとしたらこのような様相か。
百貴は戸のとくぼみに指をかける。横に引いて、
「飛鳥井さん」
と、なるべく朗々と彼女の記号を口にする。
別世界の生き物がこちらへ振りむく。名を負った途端に生き物は、質量と業をまとい、地に落とされる。百貴は、竹取物語の翁がかぐや姫を縛ろうとした気持ちを少し理解してしまう。
飛鳥井がふわりと芝生に降りたち、
「百貴さん」
と駆け寄ってくる。
嬉しそうであり、ばつが悪そうでもある目元は、すっかり「飛鳥井木記」のそれだ。
「どうしました」
百貴が問うと、飛鳥井が、
「うまく眠れなくて」
と答える。
「百貴さんはどうされたんです」
「俺もです。寝つけないので気分転換をしようかと」
首を傾げる飛鳥井。須臾して得心がいったという風にうなずく。
「よくない夢を見ましたか」
「……そうですね」
「どんな夢です」
「最悪でした。内容にまつわる記憶は薄れてきましたが、苦い感触だけが残っています」
飛鳥井が百貴の手をとる。
「つめたい」
「お恥ずかしい」
「悪夢は現実の嫌なことを整理したり処理するために見ます」
「聞いたことがあります。悪い夢でも大切な役割があるということですね」
「でも見ないに越したことがないと思います」
飛鳥井の言葉に百貴はつい綻ぶ。
「たしかに」
青白く細い指が、百貴の両手をきゅっと握る。
「ちゃんと帰って、あったかいお風呂に入って、まっさらなお布団で寝てください」
「え?」
「あなたの世界が居心地良くてはしゃいだ私が、いえた義理ではありませんが」
そこで百貴は合点がいく。
「此処なら飛鳥井さんは、温かな湯船に浸かって、清潔な寝具で横になれますか」
「もしかして頻繁にこようとしてますか」
「はい」
「だめです。今日の私はたまたま深く眠れなくて、たまたま侵食した先が近くにいた百貴さんだったんです。だめですよ、絶対。お家に帰ってください」
慌てて怒る飛鳥井。百貴はひとまわり以上年下の彼女に叱られたことがおかしくて、
「分かりました」
と早々に折れる。
「では眠るまで、俺もその辺に座ってていいですか」
「ご自由に。そしてどうか、目覚めたあなたが全て忘れていますように」
百貴は縁側の縁に腰をかけ、柱にもたれる。飛鳥井木記は芝生に寝そべり、ひたむきに月を仰いでいる。肌寒そうだ、毛布をかけてあげたい、とよぎったものの、百貴は抗いがたい睡魔におそわれる。
蔵の仮眠室のベッドで目蓋を開けたとき、百貴は久方ぶりによく眠れた気がした。けれど今夜は、仕事が終わったら早く帰宅しようと決意する。理由は覚えていないが、そうした方がいい気がした。