【サイナルモノ】孤狼と兎たち~「彼」の始まり~ 焼けつくような痛みに全身を苛まれながら、「彼」は意識を取り戻した。
とはいえ、指一本動かすどころか、目も開けられず声すら出せない。そして、ひどく喉が渇いていた。
どうやら自分は酷い怪我をしているらしい、と「彼」は悟った。
「……これは助からないかもしれないな」
「野垂れ死によりはマシだろう」
枕元で、数人の人間が話し合っている様子だ。聞き取ることはできるものの随分と訛りが強い──そう思いつつ、「彼」は、では自分はどこの誰なのかと考えて、何も思い出せないことに気付いた。
もちろん、どうして自分がこのような状態に陥っているのかも分からなかった。
ただ、周囲の者たちが言うように、自分は死ぬのだろう、と「彼」は思った。当たり前のように、仕方のないことなのだ、という諦念があった。
その時、口元に何か湿り気のある感触のものが当てがわれた。それは水を含ませた布だった。布から滴る水が、「彼」の渇いた喉に沁み込んでいく。考えるより先に、「彼」は更に水を求めて布を吸った。意識は生きることを諦めていても、身体は生きようとしているのだ。
と、「彼」は自分の右手を誰かが握っていることに気付いた。温かく柔らかい、だが「彼」のそれよりも、ずっと小さな手だった。その温もりは、「彼」に僅かだが不思議な安堵感をもたらした。
どれほどの時間が流れたのか──「彼」は朦朧とする意識の中で、複数の人間が代わる代わる自分の傷を手当てし、また粥のような食べ物を口に運んでくれるのを感じていた。
混濁していた意識が、薄紙を剥がす如く次第に明瞭になっていき、やがて目を開けた「彼」の前にあったのは、幼い少女の顔だった。
少女の、白く長い髪に映える、深い青色の瞳が「彼」を見つめていた。目が合った瞬間、彼女のウサギを思わせる長い耳が、一瞬ぴくりと立ち上がった。
「彼」は、思わず手を伸ばして少女の頬に触れた。小さく可憐な少女の姿は、「彼」にとって、あまりに現実感のないものに思えたのだ。しかし、その柔らかく滑らかな肌の温もりは、少女が幻覚などではなく現実の存在であることを示していた。
「彼」に触れられても、少女は嫌がるそぶりも見せず、嬉しそうに微笑んだ。
「目が覚めたんだね!お父さんを呼んでくるね!」
少女は、そう言い残して、小走りに部屋から出て行った。「彼」は、待て、と言おうとしたが声にならなかった。全身の痛みに耐えながら布団の上で身を起こしてみたものの、長時間寝ていた為か、ひどい眩暈を感じた。
「彼」は改めて周囲を見回してみた。ここは民家の一室のようだった。生活用品は贅沢なものではなかったが、きちんと整頓されている。当然だが、全く見覚えの無い場所だ。
ふと、部屋の壁に立てかけられた鏡が「彼」の目に入った。そこに映っているのは、乱れた長い黒髪に赤い瞳を持つ、精悍な顔つきの男だった。左目の下には大きな十字の傷がある。自分の姿の筈なのに、まるで見知らぬ他人を見るようだと「彼」は思った。また、その耳は先刻の少女とは異なり、狼に似たものだった。少なくとも、「彼」と少女とは別の種族なのだろう。
不意に部屋の扉が開いて、さっきの少女と共に、一人の男が入ってきた。少女と同じく長い耳を持つところを見ると、彼女が「お父さん」と呼んでいた人物と思われた。男は決して大柄な体格ではなかったが、どこか多くの者をまとめる人物としての威厳のようなものを感じさせた。
「彼」が起き上がっているのを見た少女は、慌てて駆け寄った。
「まだ、起きちゃ駄目だよ」
少女に促されるまま、「彼」は再び身体を横たえた。
「もう、起き上がれるとは。大した回復力だな」
言って、男は「彼」の枕元に腰を下ろした。少女も、父親に倣って隣に座った。
「……ここは、どこだ」
「彼」は、ずっと頭にあった疑問を口にした。
「ここは、我々ヤライカナ族の集落だ。私は、族長を務めている」
男が答えた。ヤライカナ族──やはり「彼」にとっては聞き覚えのない名だった。そもそも、「彼」は自分の種族さえ分からないのだが。
族長は隣りに座っている少女に目をやってから言った。
「テテラカナが……私の娘が、森の中で倒れている其方を見付けて、我々に知らせたのだ。其方は、何者だ?どこから来た?」
「……分からない」
「彼」は、そう答える他なかった。
「自分が何処の誰なのか……何故このような状態になったのかも覚えていない」
「彼」は途切れ途切れに語った。
「そうか……頭を強く打ったり、心に何か大きな負担がかかったのが原因で、記憶を失った者の話も聞いたことはある」
族長は頷いた。
森で発見された際に着ていた異国の戦装束と、手にしていた一振りの刀から考えると、「彼」は戦いを生業とする者なのかもしれない──族長が自身の推測を語った。それを聞いても「彼」の中に何かが思い浮かぶことは無かった。
「いずれにせよ、その身体ではどこにも行けないだろう。動けるようになるまで、ここで養生すればいい。失った記憶も、時が経てば戻るかもしれぬ」
族長が言うと、隣に座っていた少女も笑顔で頷いた。
「……そうさせてもらう」
「彼」は、ぼそりと答えた。実際、それしかないと思った。だが、更に一つの疑問が浮かんだ。
「何故、俺を助けるのだ。自分が誰かすら分からない、俺のような余所者を助けたところで、お前たちに何か利益があるとも思えないが」
心底、「彼」には分からなかった。意識朦朧とした状態の自分を世話してきた者たちの手間も相当なものだった筈だ。
「傷ついている人や困っている人を助けるのは、当たり前のことだよ。ね、お父さん」
テテラカナと呼ばれた少女が言って、同意を求めるように父親の顔を見ると、族長は頷いた。
顔を見合わせて微笑みあう親子の姿を見ながら、「彼」は胸の中が何だか温かくなるのを感じていた。