きっとまた逢えるから 息子リュカとの別れの日、フレイアはゆっくりと彼に服を着せた。最愛の息子に触れられる時間が、ほんの少しでも長くあってほしかったのだ。今この手で触れているすべてのものが、数分後には遠く離れていってしまう。もう二度と会うことも叶わないかもしれない。そう思うと、心は引き裂かれんばかりに苦しく、気を抜けば涙で視界が覆われてしまうことはわかっていた。
リュカの細く小さな手を袖に通す時も、上着のくるみボタンを留める時も、今この瞬間を忘れぬよう、ひとつひとつ丁寧に扱った。まるで壊れやすい大切な宝物に触れるかのように、彼女は指先に神経を集中させる。リュカは同年代の子供よりも華奢で小柄であった。この環境下では彼に十分な栄養を与えられなかったのだ。もう5歳になるのに身長も100cmにも満たなかった。フレイアはそれを憂いていた。
そうして、ゆっくりと撫でるように彼の身支度を整えると、彼女はリュカの髪に触れた。フレイアに似て月のように輝く金の髪は、軽くカールした細くて柔らかい毛質をしている。指で梳いてやるとリュカは擽ったそうに肩をすくめた。彼女は今日の門出の為に、息子の髪を少し切ってやったのだ。
「お母様、僕かっこいい?」
「えぇ、とても。今までで1番素敵よ。さぁ、可愛いリュカ、目に焼き付けたいの。お母様によく見せてちょうだい。」
この日の為にフレイアはリュカの服を新調した。夜中、彼女は息子の安らかな寝息を感じながら、彼の健康とこの先の幸多からん未来をただ祈って、ひと針ひと針想いを込めた。完成した服は本当によく似合っていた。リュカも気に入ったのか、大きな瞳をきらきらと輝かせて、くるりと回って見せる。微笑む母の顔にリュカはふふっと嬉しそうに笑うと、少し気恥しそうに目を伏せながら、フレイアの白く細い手を取りぎゅっぎゅと握った。息子のその様子に彼女は愛しげに目を細める。
フレイアはリュカをどれほど愛していただろう。彼が生まれたその日から彼女は母親として全ての世話をした。リュカは混血故に体調を崩す事も多かった。その度に夜通し看病をしては、早く良くなるようにと願い、代われるのならば代わりたいとその小さな体を撫で続けた。
リュカは愛した人との子でも、望んで生まれた子でもなかった。だが、15歳の少女にはその小さな命はあまりにも大きかった。人生に絶望したフレイアに光を与えたのは紛れもなくリュカだったのだ。
そうして、フレイアは息子と過ごした5年間に思いを馳せながら、蜂蜜色の目をしっかりと見つめると彼に告げた。
「リュカ、いいですか、よくお聞きなさい。あちらのお家では礼儀正しく、素直な良い子でいるのですよ。あなたは悪戯の度が過ぎることがあるのだから、何かする前に良く考えて行動してちょうだい。それから、旦那様と奥方様を本当のご両親として敬いなさい。お二人ともお優しい方だと聞いているから、きっと良くしてくださるはずよ。それと…それとね、お母様はとてもあなたのことを愛しているわ。あなたが産まれた日からお母様の人生はあたたかい日々だった。あの日は雪の降るとても寒い日だったのにね、太陽のような子が産まれたのだから私は幸せものね。…リュカ、お母様は離れていてもずっとあなたを見守っているわ。」
母の言葉はあまりに優しかった。前日まで外の世界を楽しみにしていたリュカも、とうとう母との別れの時間が近づき、本当に離れ離れになってしまうことを実感した。途端に彼女にしがみついたその小さな肩は悲しみで震え、頬は涙でグチャグチャになっていた。
「いやだ、やっぱり行きたくないっ。お母様、僕はお母様と一緒にいたいっ!」
「それは…できないのよ」
「どうしてっおねがい、お母様、僕を連れていかせないで。おねがいっ」
定刻になっても嫌だ嫌だと必死に母の胸にしがみつき、泣きわめく息子の小さな体を、フレイアは身を切るような思いで引き剥がした。彼女はそれが母の務めだと笑顔を絶やさず声をかける。
「きっと新しいお家は楽しいわ。広いお庭があるって聞いたもの。ほら、素敵なことを考えるのよ、リュカ。」
「そんなのいらないっ…お母様、ほんとうは僕が悪い子だからお外へやるのっ?」
「あぁっ、リュカ、そんなことないわ!お母様はただ、あなたの幸せを願って、」
そうしている間にも、迎えに来た従者が馬車を待たせているからと彼女を急かした。もう時間が無いのだ。フレイアは従者にリュカの少ない荷物とぬいぐるみ、それから綺麗にまとめた本のようなものを差し出す。
「この日記を奥方様にお渡し下さい。この子についての些細なこともしたためてあります。それから伝言をお願いできますか。」
フレイアは従者が頷くと、心配で堪らないといった様子で2、3言伝を頼む。
「最近は夢見の悪い日があるので、その時はミルクを一杯あげてください。安心してよく眠りますから。それから、この子の好きな絵本も荷物に一緒に入れてあります。寝る前に読んでやってください。…最後に、どうかこの子を頼むと、この子の母からの切実な願いだとお二人にお伝えください。」
新しい環境に少しでも早く慣れますように。寂しい思いをする我が子に、せめて出来ることは全てしてやりたいとフレイアは思った。
「リュカ…いつも、いつもあなたを想うわ。」
フレイアの頬にも耐え切れず溢れた涙が伝っていく。彼女は最後に彼の小さな体を抱きしめ、額に口付けると従者に託した。
「さぁ、もうお行きなさい。」
その言葉を聞くとリュカは最後の抵抗と、激しく泣き叫びながら足をばたつかせ暴れる。そんな彼を従者は抑え込むように担ぎ、少々荒々しく部屋を後にする。
「ママッ」
「っ…リュカきっとまた逢えるわっ…!」
最後まで必死に母の手を掴もうと伸ばされた小さな手を、フレイアは振り払った。それでもリュカの手は扉の外に消えるまで母を求めることをやめなかった。
本当はずっと一緒にいたかった。彼の成長をこの目で見届けたかったのだ。だが、この狭い部屋の世界だけでは、彼が光の溢れる人生を歩むことはできないだろう。彼女の足に食む銀の鎖は、この城に縫い付ける呪縛として、決して彼女を逃がすことを許しはしないのだ。
その夜、フレイアは一睡もしないで泣き続けていた。押し殺した嗚咽が扉の外まで漏れていたが、広大なキャメロット城の奥に閉ざされたこの部屋では、行き場を失ったかのように静かに響くだけであった。