ただの痛み 越前とキスをしたのは、まだ幼かった日のことだった。そんなことしたのはただの好奇心のせいだ。なんだか、いま考えると信じられない気持ちになるけど。
その時のことを何度か、幸村は正確に思い出そうとした。でも、あんまりはっきりしていない。キスの瞬間だけぼやかされたように記憶が曖昧だ。唇を合わせた前後のことは、鮮明に覚えているのに。興味はあったけれど、相手に惚れてはいなかったからだろうか。
とても晴れた日だった。ふたりは話すでもなく、近くに座ってただけだ。コートぎわの木陰のベンチは、休憩にうってつけだった。テンテンテンと、テニスボールが硬く弾んで転がる音が聞こえる。下を向いた瞬間、なにかの気配が髪を揺らした。隣りを向くと、唇を押し付けられた。傷口をガーゼで優しく押さえるような仕草だった。キスを受け入れたのはなぜなのか、覚えてない。驚きすぎたせいか、ここの記憶はすこし飛んでる。
「は、」
「……してみたいと思ったから」
まるで子どもの言い訳みたいな。それが越前の言い分だった。彼の方だって、幸村に惚れてるわけではなかったはずだ。なぜこんなことするんだろう。良く分からないなと思った。
「アンタもしてよ。もう一回」
越前がなにを考えてたのかは知らない。でも、もう一度触れたいという好奇心が勝った。だからキスを返した。
それは思っていたより、なんでもないことだった。キスというよりは、ただ触れただけだという方が正確。他人に言えるような話ではないな、と思った。相手が相手だし、面白くもない話。柄にもなく緊張したというのと、顔を近づけた時に勝気な瞳と視線がぶつかったというのと。だけど全部が確かな記憶ではなくて、詳しい部分はかき消えている。
かき消えた記憶を二度と思い出すことはないだろう。少しもったいないとは思う。でも、覚えていない。唇の感触も、なにも。
むしろ覚えているのは、その時の感情だ。 言葉にしたらその瞬間に滅びてしまうような淡い気持ちを、生まれてはじめて他人に抱いた。ボウヤ、だなんて、普段なら歳下扱いしていた相手を、やさしく抱きしめてみたかった。抱きしめたのかどうかは忘れた。そしてそのまま、三度目は無かった。
時々あれは幻だったんじゃないかと思う時がある。何事もなかったようにふたりは、そのあともずっと他校のライバルでいたのだから。
うそみたいな出来事だけど、うそではなかった。胸の奥に、ただの痛みだけが残り続けて、これが夢でも幻でもないことを幸村に教えていた。唇を重ねてしまったという事実だけでは、因縁も運命も変わらないようだった。幻の方がまだ良かった。あんなのはなんでもないことだったと、もし思われているのなら傷つく気がしたから。
でも、物事というのはちょっとしたきっかけで動くこともある。本当にちょっとしたことで。
ちょうど大人と子どもの境目の不安定な年頃を超えた頃だった。数年前、冬の終わり。幸村が見知らぬ街を歩いていたときのこと。その街で、越前と視線がぶつかった。曇り空は水たまりに似た濁った緑色で、ふたりの足元には枯葉混じりの風がまとわりついていた。ボウヤ、と、幸村は思わず声を上げる。こうして出くわすのはかなり久しぶりだった、試合だとか合宿だとかを除くなら。幸村は素直に、嬉しいと思った。見知らぬ街で知ってる顔を見つけるなんて、なんだかラッキーだから。
「なんだ、アンタか」
そう返されて、幸村はグッと声を呑んだ。街の大きな看板や流行りの店みたいな、つまんないものと同じにされたような気分になった。越前は相変わらず生意気だ。不愉快な気持ちは、分かりやすく幸村の声に出た。
「……そういう言い方はないんじゃないの」
「なに? 傷ついた?」
越前の声は反転して、なんだかうれしそうに弾んだ。幸村はその時に気づいた。越前にとってもこの遭遇は、ラッキーと呼べるような良い出来事だったのだろうと。
同時に恐ろしくもなった。これまで避けてきたことが、ついに始まってしまうんだなと思ったから。
「ね、」
その声に、視線を返す。見つめた途端、不敵な笑みがひらめく。まさかその笑顔を愛しく思う日が来るとは、このころは思ってなかった。
「ちょっと歩こうよ」
そう言って、越前はぐっと一歩近づく。彼はいつも、いとも簡単にそうする。知らないうちに近寄って触って、あの日唇を奪ったように。
思えば誰かと特別深い仲になるということを、幸村はそれとなく回避してきたのかもしれない。
親密になること、心を許すということ、普段見えない部分を見せていくこと。上下関係とか友達付き合いとかコートの中でペアを組むこととか、そういうものに比べて面倒で大変なことだ。ずっとそうだった。そのはずだったのに。
再会の副作用は、激しい恋だった。目が合った瞬間に予感したことだったけど。これが運命だったのだと言われたとしても、信じてしまいそうな。
ふたりでいることはなにかに似てる。例えば、続くラリー。デュース。絶対に落とせないラストポイント。いつまでも続くような、長い長い戦い。
……最近はそういうことを考えてる。
「ねえ、なにしてんの」
「え」
幸村はちいさく声をあげる。声を掛けられて、ふっと思考が途切れた。隣りに座る越前に、持っていた雑誌を奪われる。考えごとに気を取られていたから、別に真剣に読んでたわけではないけど。
「これ、ちょっと見せて」
言いながら越前は、雑誌を利き手で開いていく。さっき幸村が開いてたページは、積み重なっていく紙に吹き飛ばされてどこか遠くへ行方不明になった。
「……なに?」
幸村が見つめると、越前は静かに手を止めて言う。
「読ませてよ」
「良いよ」
越前は開いたページを適当に眺める。唇を尖らせて、ふーん、つまんないね、という表情をする。幸村はその指を優しく退けて、雑誌をきちんとめくりなおす。面白いと思った記事や、美しい風景の写真を指差してやる。越前はそれに目を向け、それなりに心を惹かれたという顔をする。
でも結局、越前は雑誌を乱暴にたたむ。そのまま唇を押し付けてくる。張り合おうとしてる姿がかわいらしいと、思いもするし張り合われることが重荷だとも思う。入り込んでかき回して好きなようにした後、唇はすこしだけ離れる。
「せっかくの休暇なんだからさ」
んむ、と、声にならない声が洩れる。返事の前に、また短くキスをされたせいだ。誰かが肌に触れるのは、どうしてこんなにあたたかいのだろう。血の通った身体の感触がする。はじめはなんとなく触れてただけの唇が、湿った音を立ててやさしく重なる。
「……全部の時間、ちょうだいよ。そんなもの読むより」
「敵わないなあ」
幸村は笑う。目の前の相手は、不敵な目をしてる。会話をしていても、張り詰めたものが常にある。神経の休まらない休暇。高揚ならある。速球をずっと打ち合ってるみたいな。終わった後には、心地よい疲労とただの痛みが残る。でも、そこに安らぎは、ない。
ふたたび身体に触れてキスをした日、ずいぶん前とは違うなと思った。それはそうなのだろう、互いに大人になったのだから。あれは越前にとってもおそらく初めてのキスだった。子どもだった昔と比べるのは失礼なんだろう。でも、はじめてキスした相手の元に彼がなぜ戻ってきてしまったのか、幸村にはよく分からない。特別な思い出ってわけじゃないと思うのに。
とにかく裸で抱き合うのは、ひどく心地よかった。肌が合わさる感触が妙にしっとりしていて、なんだかめまいがした。越前に、これまであったことを聞きたいような、永遠に封じ込めておいて欲しいような。そんな気持ちがシーソーして、それがずっと続いている。
抱きしめられている時、見つめる表情がひどく幼く見えることがある。挑戦的に見える日もある。時にはなんだか辛そうな瞳で、睨むようにされることだってある。なにを考えてるのかは、よく分からない。ただ、どうしようもなくてそんな表情に惹かれていた。
その手に触れられている、どんな瞬間も心地良いけれど、自分だけが気持ちいいのはなんだかダメな気がして、分け合いたいと思う。ちゃんと同じように。この気持ちが誰かを好きになるということだと、今やっと分かる。
深い仲になるのは、こわい。自分がどれほど好きでも、心を許していても越前はきっとすり抜けて行ってしまう。そのままかどこかへ消えてしまわないでくれと、祈るほかできなくなる。そこには穏やかさも安心もなくて、魔法にかけられたみたいな興奮がある。丁寧にされても乱暴に扱われても、たまらなくてぐちゃぐちゃになっていく。それならそれで、ずっとこのままでいたいのに、魔法の効き目はとても短い。のめり込むのが怖くて、やさしく呼ばれるのを嫌った。唇を塞いで、呼ぼうとするその声を止める。空砲みたいに、その響きは消える。
こんな気持ち、正確に伝えることなんてできない。だからいつでも、諦めてしまう。
「好き」
それだけを告げる。とても短く、一言で。
なんだかすごく、残酷だよなと思う。抱きしめている最中に溺れちゃいそうになること、きっと越前には無いのだろう。
越前と過ごすようになって、また時間が経っていた。バランスの悪い気持ちを抱えながらそばにいる。今だって。
昨日は考えごとをしたまま、真夜中をひとりで起きていた。その後張り詰めた糸が切れるように、ベッドに突っ伏して眠った。そして、目覚めたのが日の出のすこし前。昨夜は気持ちが乱れていたから、深く眠りすぎたのだろう。意識を取り戻した瞬間、自分が誰なのか、いまの季節がいつなのかでさえ分からなくて戸惑ってしまった。
大きな窓を開ける。白っぽく霞んだ空と、頬を撫でるような風。前髪がそよいだ。ああ、春なんだなと思う。ベランダには越前がいる。しゃがんでなにかをしている。休日のルーティンが越前にはあって、それを彼はきっちりと守る。
「あ、起きたんだ。おはよ」
「おはよう」
アンタ起きるの遅いよ、と文句を言われる。いや、君が早すぎるんだよ。そう思いはする。でも幸村はまた、グッと声を抑える。
「なにしてんの? 来なよ」
窓越しに、左手を引かれる。その時反射した銀色の眩しさが、強かに目を射る。朝の光りだ、と思った。夜をケーキみたいにふたりで切り分けて食べて、朝はふたりとも別々に迎えて、それでいまこの指に、分かりやすい証がある。昨日、抱擁の終りに乱暴に嵌められた銀の指輪。
「アンタがこういうの嫌なのは知ってるけど」
越前はそう言った。
「渡してないと、俺のだって分からなくなるでしょ」
そして、越前は背中に腕を回す。抱きしめられて、呼吸が乱れる。目を閉じて息継ぎのような呼吸をする。深く。
深みに沈むのが怖かった。好きになってしまえば、望むような安らぎはない。だってそういう相手だから。
抱き合ってしまえば、穏やかさも安心も薄れていく。そして最後に、ただの痛みが残る。それでもその感覚は、嫌いではない。
……とにかく、そういうことを最近はよく考えている。行儀悪く窓を乗り越え、ベランダに出る。ふたりの肩が並ぶ。その身体を見つめて、ああ大人になったのだと、うっすら考える。そうだった。ふたりは大人になっていた。帽子を脱いだきれいなつむじを見下ろすことは、もう二度とない。
越前リョーマは幸村より歳下で、いつだって勝ち気で、きっちりと完璧に強いひとだった。
ずっとそういう恋人だった。