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    sekihara332

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    sekihara332

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    フォロワーさんの設定をお借りしたダブル土尾家の歳百。
    試される大地で何某かを試される歳さんの話。

    #土尾
    endOfAEarthlyBody

    仔猫の寝床ビジネスホテルのシンプルなベッドの端にちょこんと座る子供と目が合った時、歳三の頭に浮かんだのは「なるほどこれがストレスによる幻覚というやつか、初めて見たな」という嫌に冷静な思考だった。
    頬を撫でた暖房の温風にまだ雪よけのフェルトハットを被ったままであることを思い出し、歳三は頭へ手をやった。
    黒のフェルトに太いボルドーのリボンが巻かれたハットを身につけるようになってもう五年ほどは経つだろうか。今では恒例となった北の大地への長期出張を初めて命じられた年に購入したものだ。
    “帽子を買え”と言ったのは、歳三に出張を命じた大叔父その人だった。
    関東者に彼の地は寒いぞ、くれぐれも舐めるなよ。大叔父がにやにやと小馬鹿にするような笑みを浮かべながらそんなことを宣ったので歳三は嫌な気持ちになったものだ。無理矢理に命じたくせにいけしゃあしゃあと言いやがる、と思ったのである。
    なるほど、勧めた大叔父当人は仕事だろうがプライベートだろうが外出には帽子(中折れやらハウチングやら時にはニットやキャップまで様々だ)まできっちり身につけて玄関の戸を潜るのが常であったし、それをまぁどれを取っても洒脱に着こなすものだから、そのことが大叔父の威厳や威信に一役買っているのは歳三も理解していた。しかし当時三十路を迎えたばかりだった歳三にとっては、職場への行き来に手袋やマフラーならばともかく帽子まで身につけるのは歳に見合わず、少々気取りすぎのことのような気がしていた。
    そんな歳三を大叔父馴染みの専門店へ連れ出し、勝手にあれこれと取っ替え引っ替えした挙句に黒いフェルトハットを歳三の頭に乗せ、「いいじゃん、これにしろよ」と言ったのは、その頃大学を卒業したばかりの義弟だった。
    「かっこいいぜトシさん。爺さんそっくりで」
    義弟にとっては最上級の褒め言葉だろうが、同時にその言葉を決して喜ばぬ義兄を揶揄い弄る意図がわかりやすく滲んだ声に歳三はげんなりとして、購買意欲はますます削がれた。
    もう知らん、爺の言うことなんて知るか絶対買わん帽子なんぞ、とまで思った。
    そのハットがこうして歳三の手の中にあるのは、ニヤつく義弟の後ろからふいに顔を覗かせた子供がハットを頭に引っ掛けた歳三をまじまじと見つめ、
    「かっこいいね、としぞうさん」
    小さな声でそう言かと思うと、ぽぽぽっ、と頬を赤らめたからだった。

    その子供の幻覚を今、遥か遠い北の大地で見ている。
    歳三は無言のまま手の中のハットをラックにかけた。続いてコートを脱ぎかけると、幻覚がベッドマットを揺らしてぴょんと立ち上がり、ぱたぱたと駆け寄ってきた。
    「おかえり、歳三さん」
    「うん」
    幻覚が嬉しそうにいってこちらに手を伸ばしてきたので頷いて脱いだコートをその手に渡す。幻覚はそれを大事そうに一瞬そっと抱きしめたあと、いそいそとラックのハンガーへとかけてくれた。そして歳三に向き直り、照れたように笑う。白い顔の中で頬と鼻の頭が少しだけ赤くなっていた。
    それに五年前の帽子屋で真っ赤になった子供の姿が重なって、あの頃よりずっと目線が合うようになったなと芒とした頭で思った。
    芒としたまま忘れていた手袋を脱ぎ、置き場所に迷って横の壁にかけられたコートのポケットに捩じ込んだ。するとすぐさま白い手が伸びてきて、覆うもののなくなった歳三の手のひらをきゅっと握りしめる。
    「わ、冷たい。手袋してたのに」
    「ああ。雪で濡れちまったからな」
    ちょっと待ってろ、手を洗ってくるから。そう言った歳三に慌てたように白い手が離れていった。ごめんなさいと焦って言う声に笑って首を振る。触っちまったからお前ももう一度洗えよと言うと幻覚は素直に頷く。その時にはもう歳三も現実を受け入れていた。
    「いつこっちに来たんだ、百」
    ユニットバスの狭い洗面所に二人並んで手を洗ったあと、綺麗になった百の手を引かれて歳三はベットルームに戻ってきた。ダブルのベッドに腰掛けると、百が当然のように隣に腰を下ろした。うふふと小さく声を漏らした百は、目を細めて歳三を嬉しそうに見つめた。
    「俺もさっききたばっかり。午後の便で来たから」
    「そうか」
    歳三は頷いた。道理で百の鼻と頬がまだ赤いわけだ。北の地に独り降り立ち、凍える寒さに首をすくめ全身を震わせた百の姿を想像して歳三は胸がぎゅうと締め付けられた。
    「寒かったろう」
    思わず百の赤い頬に触れる。子供の頃から変わらない白い肌は繊細で、厚さにも寒さにも敏感だ。
    百と出会ったばかりの頃。幼子らしいふっくりした頬が寒さで真っ赤に染まる様子は可愛らしくはあるものの、つめたい、いたいと泣くのが不憫で、歳三はよく百の頬を左右の手に挟んで温めてやった。とたんに機嫌を直し、つめたくないね、あったかいねとはしゃぐのがかわいかった。
    「ううん。……うん、寒かった」
    そう返した百が頬を撫でる歳三の手に自分のそれを重ね、更に歳三の腕にその身をすり寄せてきた。暖房の風とは違う芯を持った温もりがシャツ越しに肌に触れ、ほのかに甘い香りが歳三の鼻腔をくすぐる。黒く大きな瞳に上目に見つめられ、歳三は咄嗟にまずい、と思った。
    再記するが、歳三はいるはずのない百の姿をこのベッドの上に見た時、“ストレスによる幻覚だ”と思ったのだ。
    幾分は慣れたといえど、ホームグラウンドから遥か離れた寒さ厳しい地に独り、ただひたすらに労働にのみ邁進する日々。その内容だって、馴染みの後輩に言わせれば「うわ、今時それは流石に僕でも引きますよ土方さん。社畜って言葉知ってます?え?好きでやってる?仕事が楽しくて仕方ないから少しも苦じゃない?わー、余計タチ悪いですねー」と半笑いで呆れられるほどの激務であるらしい。(俺の歳の奴なんてどいつも大抵そんなもんだろ?と言うと尚更呆れられた)そんな後輩の言葉を思い出して、なるほど自覚はなかったが無意識のうちに愛し子を幻覚に求める程疲労していたようだと納得もした。
    歳三も最初のうちこそ無理に押し付けられた処遇に腹を立てたのは事実だが、今では意義も遣り甲斐も見出している。年毎に己には実力がつき、その甲斐あって今では小規模ながら現場の差配を任されている。取り巻く環境を自分の思うままに動かせる楽しさを強く感じている。それこそ仕事以外は食って寝るだけのような生活であってもそれが苦だとは少しも思わなかった。
    それが今。わずかに百の体温を感じその肌の匂いを鼻に嗅ぎ、そして黒い瞳に見つめられた瞬間、ドッと心臓が大きく脈打った。
    心臓が急激に過剰な量の血液を全身に送り出したのがわかる。その血流の音が頭にどっどっどっとうるさく響いている。こめかみが痛い。
    勃然と。隣で無邪気に微笑む存在に起因して。歳三は全身を駆け巡る濁流のような情欲に襲われていた。
    最後に処理したのは、いつだっけ。
    熱く滾った頭にぽんと浮かんだのは、またしても嫌に冷静な思考だった。
    身体の熱さと乖離した思考が記憶を辿る。最後の記憶の風景は少なくともこの部屋ではない。(それこそここはただ寝るだけの箱と化している。)
    ではこちらにくる直前か。いや、準備だ引き継ぎだで半月はバタバタとして、そんなゆとりはなかったはずだ。そう思い至って歳三は愕然とした。
    てことはなんだ、とっくに二ヶ月以上になるじゃねぇか。このどうしようもない衝動はその反動、いや、それともあれか、疲れ魔羅なのか。なるほど、そりゃ納得だ。いや、呑気に納得してる場合じゃねぇな。
    そうだ、そんな場合ではない。なにしろ隣の子供はまだほんの子供で、この間やっと十八になったばかりで、
    「成人、したんだよなぁ」
    「え?」
    きょとんとする百になんでもないと首を振って見せ、歳三はぎゅんむと目を瞑った。
    馬鹿な、何を考えている。昨今改正された民法上で成人したからなんだ。百はまだ被扶養者で被保護者だ(悔しいことに法律上は歳三は扶養者でも保護者でもない)。この春から大学に行く、ぴかぴかの一年生じゃないか。そういえば入学式用のスーツを選びに行くと言っていた。俺も一緒に選びたい……!
    「歳三さん。やっぱり、怒ってる?」
    しゅんとした声がして歳三は我に返った。はっとして隣を見ると、ぴたりと寄り添っていた歳三の腕から百がおずおずと身を離すところだった。大きな黒い瞳に不安げに見つめられ、歳三は慌てて百に向き直った。
    「怒る?なんのことだ」
    「約束もしないで、勝手に来たから。歳三さん、仕事忙しいのに……」
    やっぱり迷惑だよな、と俯き縮こまった肩の薄さに胸を締め付けられ、歳三はたまらず百を抱きしめた。
    「そんなわけあるかよ。嬉しいよ、百に会えて。すごく会いたかった」
    言いながら百を閉じ込めた両腕にぎゅうと力を込める。ぐっと近づいた頬がまだ赤いのが目の端に見え、歳三はまたたまらなくなって百の髪に顔を埋めた。
    大学デビューしてみろよと嗾けられ半年前から伸ばし始めた百の髪は意外と柔い髪質で、見た目よりふわりとしている。濡れると癖が出やすいのが本人は気に入らないらしいが、歳三は猫のようなこの髪が好きだった。息を吸い込めば、濃い百の香りがする。
    あ、ヤバい墓穴掘ったかもしれん。アホなのか俺は。
    「……良かった。へへ」
    はにかんだ声がしてまた我に返った。百が身体に回された歳三の腕に手を重ね頬を寄せた。
    歳三さんずっと黙ってるから怒ってるのかと思った。部屋に入ってきた時なんか、すごい怖い顔してるしさ。
    「俺も、ずっと歳三さんに会いたかった」
    「百」
    はにかみ微笑みかけてくる愛し子に、もう、いいか、と歳三の中の何かが大きく傾きかけたその時。
    くぅ、と何かかわいらしい音が二人の間で響いた。
    ぱちくりと同じタイミングで瞬いた瞳が見つめ合う。そしてやがて百の顔全部ががみるみると真っ赤に染まっていくのを歳三はぽかんとして見つめた。
    「腹、減ってるか。百」
    百はりんごのように赤くなった顔を俯けて黙っていたが、しばらくしてこくんと頷いた。
    「飛行機、酔うかもしれないと思って。空港でカフェオレ飲んだだけだった」
    「お前、百!早く言えよそういうことは!」
    歳三はがばと百から飛び退いた。気まずそうな百の赤い顔がそれを追ってくる。
    「飯にしよう。どうする、寿司にするか?それとも普通の飯屋のがいいか。そうだ、ホッケ食うか、百。こっちのホッケはうまいぞ」
    助かった、危ない所だった。何とは言わないが、俺の色々なものが守られた。良かった、本当に良かった。その安堵感で歳三は饒舌に捲し立てた。気が逸って脱いだばかりのコートを取ろうと歳三が立ち上がった時、百が驚いたようにあっ、と声を上げた。
    「そっか、普通外に食べに行くのか。全然考えてなかった……」
    言った百の目線がちらとベッドの向かいに備え付けられたドレッサーに向けられた。釣られてそちらを見ると、今まで気づかなかったコンビニの白いポリ袋が目に入った。隣でベッドからそろと立ち上がった百がドレッサーに近づいていく。
    「途中にコンビニあったから飲み物買おうと思って寄ったんだ。そしたらあったかい弁当売ってたから」
    歳三さん、食べるかなって思って買っちまった。袋の中からパックを二、三取り出しながら、百がもごもごと言った。
    「でも店行った方が良いよな。これはまた明日食べれば良いし、冷蔵庫入れとく」
    「いや待て、待てって!食おう、それ食おう」
    どうしてこの子の気遣いを無碍にできようか。歳三は必死で百を止めた。それが食いたい、百が買ってくれたのがいい、早く食おう。食いつくように言い募る歳三の勢いに百がぽかんとして二度三度瞬いた後、ふはっと吹き出した。
    「歳三さんも、腹減ってんの」
    「ああ。空いてる、空いてる」
    こくこくと頷いた歳三の目に、グレーのモックネックから伸びる百の白い首筋が妙にちらちら光っている。それに目を取られながら、飯買ってあったならそれ食ってれば良かったのにと何気なく歳三が呟くと、百はまたはにかみながら久しぶりだから歳三さんと一緒に食べたかったなどと言う。
    「ああ、でもやっぱちょっと冷めちゃってるな。冷え切っちゃいないけど、あっためて来ようか。確かフロントのとこにレンジあったよね」
    歳三さんは待っててと言う百に歳三はもどかしく首を振った。こんな健気でいたいけな生き物をおいそれと一人で歩かせられるものかと思った。
    「いい、いい。冷たくないだけで十分だ。早く食おう」
    「そう?あ、でもちょっと待って、ケトルは部屋にあるよな」
    言った百はドレッサーの引き出しを探り間も無く目当てのものを引っ張り出した。それを抱えて洗面所に駆けて行ったかと思うとまたすぐに帰ってきていそいそとセットし、放ってあったバックパックからごそごそと何かを取り出した。
    「インスタントだけど、味噌汁持ってきたんだ。百之助が持ってけって」
    「ふうん、アイツが?」
    「『トシさん、どうせ飯らしい飯なんて食ってないだろうから』ってさ。そしたら歳三さん、ホントにケトルなんて一回も使ってなさそうなんだもんな、百之助の言うとおりだ」
    「……」
    歳三の顔いっぱいの渋面に、くすくす機嫌良く笑う百は気づかなかったようだ。やがてコポコポと音のし出したケトルから湯気を立てたお湯がカップに注がれる。
    「おお……」
    やがて狭いドレッサーの上に並べられた二人分の即席飯を見て、歳三は思わず感嘆を漏らした。
    丼様の器二つにはそれぞれ卵で閉じたカツと、甘辛そうなタレがたっぷり絡んだ豚肉がどでんと乗っている。ほのかに香る肉と油の匂いに湯気を立てた味噌汁の出汁の香りが重なった。間にちょこんと置かれた小さなトレーの上の玉焼きの黄色が鮮やかだ。
    そういえば、温かい飯などいつぶりだろう。歳三はぼんやりと考えた。
    職場では食べるに座る間どころか手を洗う手間すら惜しく、誰か部下が用意してくれるパンか握り飯を半分パッケージが被ったまま口に詰め込むのが良いところで、ここ最近はパウチのゼリーか何かで済ませていた気がする。いや、それですらもう、前にしたのがいつだったのかはっきり思い出せない。
    久方ぶりの“食事の匂い”を胸に吸い込んで、歳三はごくりと喉を鳴らした。忘却の彼方に乱暴に放り捨ててあった食欲が、俄に膨らみ襲いかかってきた様だった。
    「うまそうだ」
    呟く歳三の声に百がくすりと笑う。ドレッサーの椅子に座らせた百がいただきますと行儀よく手を合わせたのに釣られて、ベッド脇から引っ張ってきたスツールに座り込んだ歳三もいただきますと小さく呟いた。
    「おいしい」
    「ああ。うまいな」
    途中で丼を交換しながら分け合って食べた飯は、舌に染みる様にうまかった。

    籠っていた浴室からのっそりと這い出した歳三は、ベッドの中央にこんもりとした膨らみを見つけて、そっと照明を落とした。ベッドの脇まで近寄って上掛けをそろそろと捲る。
    カーテンを引き忘れた窓から差し込む街灯の光にぼんやりと照らし出されたそこには、猫の様に体を丸めた百がくうくうと健やかな寝息を立てている。
    先に風呂に入れた百に俺は長風呂だから先に寝てろ、待ってなくて良い、いいな、早く寝ろよと散々に言い聞かせた時は不満顔だったが、長い距離を移動し慣れぬ土地を歩いた疲れもあったのだろう。思いの外深く寝入っている。(拠ない事情で)不自然な程に長くなった歳三の風呂にも気づかなかった様だ。歳三はほっと息を吐き出した。
    ひとしきり百の寝顔を眺めた後、歳三は忍び足に入り口のドアまで移動した。手の中の端末から義弟の番号を呼び出す。文句を言ってやるつもりだった。
    呼び出し音は鳴るのにすぐ不自然に途切れる。アイツめ、生意気にも無視しやがるつもりかと歳三も意地になって何度も呼び出し続けた。それが四、五回続いた後観念した様に、異なる着信音がポロロンと響いた。
    『爺さんが寝てるから出れない。なに』
    面倒そうな顔が思い浮かぶ様な無愛想な文字列に歳三はこのやろう、と舌打ちした。
    お前が嗾けたんだろう、どういうつもりだ、なんで一人で来させた、何かあったらどうする、せめて連絡入れろ。
    苛立ちのままにがしがしと打ち込んだ言葉はしかし、義弟の冷静で、その上いちいち尤もな言い分で返される。歳三はぐぎぎと歯噛みした。
    『いつ帰ってくるかもわかんねぇ男を黙って健気に待ってんのが不憫だったんだよ。チビの奴、遠慮して電話もしねぇでよ』
    せめて何か言い返してやろう身構えたところに飛び込んできたその言葉に歳三は胸を突かれた。
    飾り気のない自室のベッドに腰掛け、手のひらの薄い端末をきゅっと握りしめる百の背中が頭に浮かぶ。部屋に入った時、不安げに歳三を見上げた黒い瞳も。
    歳三が黙っている間に、だからよ、と義弟が続けた。
    『俺を見習えって言ってやったんだ。わがまま放題やってる俺は爺さんに捨てられたか?って。遠慮なんぞしても何にもならん。めいわくかけてなん』
    夢想に気を取られていたせいで不自然に途切れた義弟の言葉に気づくのが遅れた。それに気づき不審に思っておい、とか寝たのかとか打ち込んでみるも、それきり返事が返ってくることはなかった。
    しばらく画面を見つめていた歳三は、ふいに嫌な予感がして眉を顰めた。それ以上考えるのはよくない気がしてさっさとアプリを閉じた。
    暗がりをまた忍び足で戻った歳三は変わらずに在るベッドの膨らみを無言で見下ろした。
    歳三の愛しい子供は、この世になんの憂いもないというような安心し切った顔ですやすやと寝息を立てている。歳三は目を細めてそれを見つめた。
    これは猫だ。人は猫に欲情しない。
    歳三は深く長く、ひたすらに長く息を吐く。そして意を決し、子猫が眠りこける布団に潜り込んだ。
    寝床を暴かれた子猫が眠ったまま小さく眉を寄せ、しかし新たな温もりの気配を察してこちらににじり寄って来る。やがて歳三の胸元に辿り着いてそこに顔を埋めると、撫でろと言うように頬を擦り付けた。歳三は奥歯を噛み締め、その背に腕を回しそっと抱き寄せる。
    胸の中で子猫が、くふん、と喉を鳴らした。


    枕元の端末の振動で起こされた歳三は、画面に表示された名前に思い切り眉を寄せた。そのまま放り投げたくなるが、すぐ隣で百が寝ていることを思い出し既の所で思い留まり嫌々緑のアイコンをタップする。端末を耳につけると、聞き慣れた大叔父の低い声が聞こえてきた。
    久方ぶりだな、全く不精な奴め。百はまだ寝ているか。ところでお前、少々根を詰めすぎているそうではないか。そちらの上から愚痴を漏らされたわ。お前が休まんと下の者が休めんだろう、そう言う差配も仕事のうちと知れ。ついては今日から三日間を年次有給休暇とする。これは業務命令と思え。わかったな。百を連れて観光でもしてこい。だがくれぐれも風邪など引かせるなよ。
    言いたいことだけ言うと歳三が返事をする間も与えず、ぶちりと通話が切れた。かと思うとそのあとすぐにまた着信を知らせる画面が表示される。百を起こさぬようそっとベッドを抜け出し部屋の隅で応答すると、今度は職場の上役の声で、急遽休みを取ってもらうことになったからそうしてほしい、と困惑しきった様子で告げられた。歳三はもはや何も言う気になれず、了承の旨だけ伝えて通話を切った。
    その後しばらくして起きてきた百を連れて朝市に繰り出した。色とりどりの海鮮がこれでもかと盛られた丼に、百は上気した頬と黒い瞳を輝かせて飛びついた。十八歳男子の頼もしい食欲にみるみる切り崩されていく海鮮の山を歳三はじっと見つめた。時折こちらを振り返りその度においしいと感嘆を漏らす百に微笑み返しながら、歳三は味の薄い湯漬けを啜る。
    腹ごしらえを済ませた後、百が案内所で貰った観光マップと睨み合っている横で車の手配をしていた歳三の端末がまたも着信を告げた。表示された義弟の名に、歳三は無心でアイコンをタップする。
    トシさんがあんな時間に連絡寄越したせいで、酷い目にあった。アンタのせいだ。どうしてくれる。
    ぶすくれた口調の、妙に掠れた義弟の声がひたすらに歳三を責め立てた。尽きぬ文句を耳に流し込まれながら、歳三は喉の奥で音にならない呻きを漏らす。
    「うるせぇ、知るか馬鹿。ばか」
    そう呟いた己の声は酷く疲れていて、吹き抜ける寒風に紛れてあっという間に消えていった。
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