恋に気づけば 冨岡が髪を切った。
あの黒々として豊かな髪を、あっけなくバッサリと。
そりゃああいつは別に女でもなんでもないし、髪を切ることに思うことも未練があるわけでもないだろう。ましてやあの性格だ。伸ばしっぱなしになっていのだってきっと、散髪が面倒だったからというに決まっている。そもそも櫛で梳かすくらいのことをしていたら、あんなざんばら頭になんかなっていないのだから。
そんなことを考えて、不死川が小さく舌打ちをする。
……べつに冨岡が髪を切ったからってなんだって言うんだ。
理由なんて別に知りたくもねぇし、実際のところ「結べなくなった」というのが正解だろう。
不死川は、冨岡がなれない左腕で苦労している姿を思い出し、今度こそ大きく舌打ちをした。
結ぶくらいなら、俺がいつでもしてやったのに。
なんなら毎日櫛で梳かしてやっても良い。洗髪や散髪だって弟たちのことを思えばなんてことはないし、大家族の長男だった不死川は誰かの世話を焼くことに慣れている。
あんなに短く切っちまうことなんてなかったんだ。
実にさっぱりとした顔で会いに来た冨岡の顔を思い出し、不死川はむうっと不機嫌に眉を寄せる。
冨岡が髪を切ろうと切るまいと不死川には関係ない話だ。
くちだしする権利もねぇし、勝手にすればいい。
だけど、なんとも言えないこのモヤモヤとした感情が、ずっと胸に絡みついてはなれないのはどういうことだ。
つまるところ、不死川はただちょっと、ほんとちょっとだけれど、(惜しいな)と思ってしまったのだ。
不死川は眉間にシワを寄せ、活気あふれる繁華街をぶらぶらと練り歩きながらふと大店の前で足を止めた。
暖簾をくぐって出てくる人はみな、洒落た着物に身をつつみ、美しく包装された商品を大事そうに抱えている。よほど人気のある店なのだろう。
別に何が欲しいってわけじゃねェ。
見てみるだけだ。
「いらっしゃいませ」
店の暖簾をくぐった不死川の姿を、店員がすばやく一瞥し、すぐに取り繕ったような愛想笑いで声をかけてきた。
白髪で傷だらけの顔に、欠けた指。着物こそきっちり着付けてはいるが、カタギにはとうてい見えない風貌だ。そんな視線に慣れっこになっている不死川は、気にすることなく棚の上や机に陳列されている品物をゆっくりとみやった。
半襟やブローチなどの小物に簪。どれも細工が細やかで、手が込んだものばかりだった。
「贈り物でしょうか」
「あぁ、まぁ」
店員が笑顔を張り付けながら商品を取り出す。
「どなたに?」
「同い年の……、」
男に、と言いかけて言葉を飲む。
「まぁ良いじゃねェか」
不死川はとっさに言葉を濁した。こういった客には慣れているのだろう。店員は承知したとばかりに頷いて、棚の中から数種類の商品を机の上に並べた。
「これは、舶来のレースで作った半襟でして、こちらのブローチは翡翠を使っております」
「そっちの簪を見せてもらえますか?」
興味深く見つめる不死川に、もちろんですと頷いた店員が手際よく数種類の簪を並べる。不死川は端から端まで熱心に視線を通した。
花の飾りをあしらったもの、宝石が埋め込まれたもの、特に花の透かし彫りを施した簪が目を引いた。
あれならば、あいつの黒髪にも映える―――べっ甲なら控えめで品も良いだろう。きっと似合うにきまって……。
いや、待て。
何が簪だ。胡蝶の妹たちや竈門妹へ贈るならともかく、男に簪を贈ろうなんざどうかしている。
いったい俺は何を考えてんだ。
やめだ、やめ。
踵を返そうとした不死川に、店員が微笑んでお伺いをたててきた。
「贈り物は恋人にでしょうか?」
「はァ!? んなわけッ!! その……し、知り合いにだ……ですっ」
不死川はつっかえながらも慌てて否定した。知らず耳が赤くなる。
店員が驚いたように目をパチパチと瞬かせ、すぐに片恋の相手への贈り物だとでも察したのか、にっこりと微笑んだ。
当たらずとも遠からずだということに気づいていない不死川は、心中でぐるぐるとしばらく否定したあと、手近にあった透かし彫りの簪を手にとった。
「綺麗だな」
高級品ばかりを扱う店らしく、細工も見事だが値段もそれなりにする。しかし元は鬼殺隊の柱であった男だ。懐が寒いわけでもない。
「他にも見せてもらえますか?」
「おまちください」
店員は、とっくに眼の前の不器用そうでガラの悪い男の恋を全力で応援する気になっていた。もちろん、この細工の簪を見ても怯まぬ様子が気に入った。店員は気合を入れて簪を見繕っては不死川の手に取らせ、どこが見事なのか、どれだけの価値があるのかを説いてみせた。
「こちらはべっ甲に玉飾りがついたもので、扇形のものには蒔絵が施されています。このつまみ細工の簪も若い方に人気がございますよ」
不死川は、店員の説明をふむふむと聞きながら、簪を挿した冨岡を想像した。どれもこれもなんとも言えない無表情な顔だったが、結い上げた豊かな黒髪に、簪はとても良く似合っているように思えた。
「……目移りしちまうな」
「そうでしょう。お顔立ちのはっきりした方なら、大柄のものでもよくお似合いですし、逆に小柄な方ですと、小ぶりの簪がまた可愛らしく。どんなことでもおっしゃっていただければお選びいたしますよ」
店員がにこにこと微笑みながら頷く。そこにはもうあの値踏みするような視線は見当たらなかった。
「顔立ちか」
「えぇ」
「そうだな。肌は白くて、睫毛が濃くて、瞳の色が波を重ねた水みてェに蒼くてよォ」
思い出しているのか、強面がふわりと和らぐ。店員は愛想よく相槌を打った。
「たいそうお綺麗な方でございますね」
「あ――まぁ、そうだなァ」
「それならば瞳と同じ色の簪にされてはいかがでしょう? こちらの流水紋など涼しげでよろしいかと」
店員が棚から取り出した簪に、不死川は一瞬にして目を奪われた。流れるような紋が描かれた蒔絵の簪は、水の柱であった冨岡の流麗な技を彷彿とさせた。
「こいつは……」
「見事な細工でしょう」
「ああ、気に入った」
それを、と言いかけて、はたと我に返った。
簪なんて買ってどうしろと言うんだ。
あんなに短い髪では簪を挿すこともできねぇし、そもそもあいつは男だし。
身の程も知らずにも高級店の暖簾をくぐり、美しい簪を挿した冨岡を想像して浮かれていた己が恥ずかしくなる。
「いや、やっぱり簪はやめておく」
「どうかなさいましたか?」
「せっかく選んで貰ったのにすみません」
不死川は、その大柄な風貌にふさわしくない蚊の鳴くような声で謝罪した。
「お客様?」
「その、髪を切っちまいやがって」
「…………そうでしたか」
店員はたっぷりと間をとって頷いた。女が髪を切るということの意味を想像でもしたのか。そんな間だったが、商売人である店員はひかなかった。みるみるうちに消沈した不死川の言葉が、ただ断りのためだけの嘘だとは思えなかったからだ。
「同じ意匠の櫛がございます」
「えっ」
「こちらならば髪が短かろうが長かろうが問題ないかと。もちろん、髪が伸びれば簪もお使いになられるのではないでしょうか」
商魂たくましい店員に、これならどうだとばかりに勧められ。
櫛ならば使ってくれるだろうかとうっかり頷いた不死川は、恭しく差し出された包を受け取って店をあとにしたのだ。
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結論から言うと、櫛を贈られた冨岡は、不死川が思っていたよりもずっと喜んだ。
あの日想像の中で、なんともいえない表情をしていた冨岡だったが、実際には花も恥じらうような笑みを浮かべ、手にとって眺めては「見事な細工だ」「趣味が良い。さすが不死川だ」と言って、おぼつかない手付きで髪を梳かした。
そればかりではない。
大事そうに懐へ仕舞い、どこかへ出かけて行っては「不死川からもらったんだ」と言って見せびらかし、弟弟子達や友人へ自慢してまわった。
その度に不死川は、まわりのなんとも生ぬるい笑顔や視線を面映ゆく受け止め、「そろそろいいんじゃねェか?」なんていって、冨岡を押し止めなくてはならなかった。
その後、どうしてもお返しがしたいと言い張る冨岡について行ったあの店で、件の店員に
「これはまた瞳が魅力的な……さぞお似合いになられたことでしょう」
などと、意味深に語りかけられることになる。
不死川は気恥ずかしさを誤魔化すために大げさに咳払いをした。
「あのときは世話になりました」
「こちらこそ、お手伝いさせていただきありがとうございます。喜ばれましたか?」
「あぁ、吃驚するほどなァ」
不死川がうなずくと、店員は自らの仕事を誇るように満足そうな微笑みを浮かべた。
それから、きらびやかな店内を見渡し、どれにしようかと悩む様子の冨岡に流れるような動作で品物を並べて見せながら、不死川にこっそりと耳打ちした。
「しかし、わたくしはてっきり結婚の申し込みでもなさるのかと思っていました」
「はッ!? け、結婚!?」
「櫛や簪を贈るということは、「一生を添い遂げたい」という意味もございますので……いえ、こちらの勘違いでございましたか」
茶目っ気たっぷりに片目をつぶってみせた店員に、不死川はしどろもどろになって狼狽えた。
そして、唐突に自覚したのだ。
なぜ冨岡が髪を切ったことを惜しんだのか。なぜあれほど胸がざわついたのかも。
つまり不死川は、かつてあれほどいけ好かないと思っていた冨岡に、いつの間にか――好意を――抱いていたのだ、と。
「不死川?」
みるみるうちに頬を紅潮させた不死川の視線の先で、冨岡が不思議そうに小首をかしげてみせる。
その姿を眩しく見つめながら、昔なじみの生ぬるい笑顔の理由に思い当たり、その場に崩れ落ちそうになった。